秋篠宮皇嗣妃殿下お誕生日に際し(令和7年)
秋篠宮皇嗣妃殿下のお誕生日に際してのご近影
宮内記者会の質問に対する文書ご回答
令和7年9月11日(木)
- 問1 9月6日に悠仁さまは成年式を迎えられました。成年式を終えられた感想とともに、成年皇族としてどのように歩んでほしいか、期待をお聞かせ下さい。今年4月に筑波大に進学され、母として悠仁さまの成長を具体的にどのような場面で感じられていますか。大学や家庭、成年式の準備など最近のご様子も合わせてご紹介ください。海外留学についてご家族で話し合っていることがあれば、お教え下さい。
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秋篠宮皇嗣妃殿下
庭の樹々の中で成長する高野槇 <成年式を終えて>
先週の9月6日、悠仁の誕生日に成年式がおこなわれました。天皇陛下から賜った冠をお受けするお儀式に始まり、天皇皇后両陛下にご臨席を賜りました「加冠の儀」、宮中三殿での拝礼に臨む「賢所皇霊殿神殿に謁するの儀」、天皇皇后両陛下にご挨拶申し上げる「朝見の儀」をはじめとする一連の儀式が執りおこなわれ、内宴には上皇上皇后両陛下にもご臨席を賜りました。翌日、悠仁は伊勢に向かい、8日に神宮を参拝し、その後に神武天皇山陵を参拝しました。9日には昭和天皇山陵をはじめとする御陵を参拝しました。そして昨日おこなわれた午餐では、出席いただいた三権の長をはじめとする方々にご挨拶しました。
成年式は、古くから宮中でおこなわれてきた儀式です。昭和60(1985)年11月に催された宮さまの成年式から40年経っており、当時のことを知る職員がほとんどいない中、資料を紐解き、有職故実の専門家などのお話を伺い、関係者と準備を進めました。
成年式がおこなわれた9月6日は夏の装束を着る時期で、宮さまの成年式が執りおこなわれた11月は冬の装束の時期であるため、夏冬に違いのない、未成年が着用する黒絹製の一種の額当て「空頂黒幘」と、檜の薄板を重ねた扇子「檜扇」は宮さまがお使いになったものを使い、その他は式がおこなわれる季節に合わせて夏用の装束を新たに調えました。宮さまが40年前に使った空頂黒幘と檜扇、悠仁自身が5歳のときに着袴の儀・深曽木の儀で使った未成年が持つ「横目扇」、そしてこの度新しく調えた装束とを合わせて臨んだ成年式でした。
悠仁は、宮さまや私と一緒に専門家をはじめ関係者と話し合いながら、行事に向けて支度をおこなっていきました。夏頃からは、装束を着たときの所作や笏の持ち方などについて少しずつご助言をいただきました。こうした過程の中で、装束と所作について関心をもって学び、儀式の意義と共に自らの責任と務めを感じたようです。伝統ある宮中の行事を父から子へ伝え、悠仁が今回の行事を大切に務めることにつながったことを感慨深く思っております。
こうして成年式と関連する諸行事を終えることができましたことに安堵しております。また、このように悠仁が一つ一つの務めを果たし、一連の行事が滞りなくおこなわれるように、準備し支えてくださった関係者のご尽力に深く感謝しております。そして、悠仁が誕生してから成長していく日々をお見守りくださり、成年式を迎えたことへ祝意を寄せてくださった多くの方々に心から感謝いたします。
<成年の皇族としてどのように歩んでほしいか、期待していること>
悠仁は昨年9月の誕生日に、18歳の成年を迎えました。そのときは高校生活を送る中で、進路について先生や家族とも話し合いながら、目標に向けて勉学に励んでいました。冬に大学の進学先が決まり、高校を卒業する前に、記者会見がおこなわれ、成年の皇族としての立場や思い、これまでの経験や現在の関心事などをまとめて話す機会がありました。悠仁にとって公の場で自分の考えを伝える貴重な経験になったと思います。
また今年の2月には、京都府北部にある「舞鶴引揚記念館」を一人で訪ね、現地の中学生、高校生、大学生たちに案内していただきました。平成29(2017)年の春に宮さまと私も訪ねた記念館であり、折にふれて話をしていました。これからも、一人で初めて訪ねていく場所もあれば、再訪する場所もあると思います。また今まで私たち家族が訪れたことがない場所などに出かけることもあることでしょう。
今年の春まで高校生活を、そして大学入学後も学生生活中心の日々を送っています。在学中は学業優先になると思いますが、成年式を終え、これから成年の皇族として、宮中の行事や祭祀、公的な仕事に携わるようになります。一つ一つの務めを大切にし、役割をしっかり担って自分の道を歩んでほしいと願っています。
また、公的な仕事や活動に携わる礎を築くうえで、関連する本や資料を読み、多くの方々からお話を伺うことに加えて、大学以外も学びの場として捉え、訪ねた場所で人々と出会い、暮らし・文化や歴史にふれたり、街中や自然の中を歩いたり、交流をしたりすることも大事であると考えています。いまは大学生として学業に取り組む傍ら、多様な経験をしながら視野を広げる機会を積極的に持ってほしいと思います。
<母として悠仁の成長を具体的に感じられた場面>
幼稚園から高校まで通っていた東京都文京区から、今年の春に茨城県つくば市の大学へ通うようになり、早くも半年が経とうとしています。
大学生になってからの生活は、シラバスの確認や履修する講義の登録、課題の提出まで大部分をオンラインで進めることや、広い学内を自転車で移動することなど、初めての経験が多いようです。暮らす場所も東京と茨城(つくば)と組み合わせた形になり、家族と離れて過ごす時間が長くなりました。行動範囲が広がり、自分の予定を組み立てていく機会も増えています。高校生のときは、学校の時間割や年間のスケジュールが決まっていましたが、悠仁が在学する大学では、夏までに時間割(モジュール)が3回変わり、その他の課外活動もあるので、悠仁がどのように過ごしているか想像しにくいと感じるときもありました。そうした中で、悠仁が家族との時間を大切に考えて、私たちの仕事などの予定を確かめながら、一緒にすごす時間をさりげなく作り出そうとしてくれているようで、うれしく思っています。ときにはこちらの畑で育てた野菜を自炊するためにつくばへ持っていくこともあり、東京とつくばでの生活をそれぞれ工夫している姿に成長を感じてもいます。
<海外留学について>
大学でさまざまな講義を受け、この先の学業について具体的に考えていく中で、海外留学も一つの選択肢になるのかもしれません。悠仁が今年の春の記者会見で家族とよく相談して検討したいと話していた気持ちを尊重したいと思っております。
- 問2 この1年間で印象に残った出来事や出会いについてお聞かせ下さい。秋篠宮家の活動は多岐にわたり、紀子さまお一人で公務にも臨まれていますが、現在の体調や今後の抱負についてお教えください。
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秋篠宮皇嗣妃殿下
<この一年間で印象に残った出来事や出会いについて>
この一年の間に、さまざまな印象に残る出来事や出会いがありました。この度は、主に戦後80年にあたってのこと、トルコと日本との長年の交流、大阪・関西万博での出会い、そして金沢市から奥能登、珠洲市を訪ねたことについて、心に残ったことや関連する出来事、出会いをふり返りたいと思います。
戦後80年にあたってのこと
今年は、戦後80年にあたって催された展覧会、映画の上映会、舞台などを訪れ、関係者からお話を伺うと共に、残された写真や映像、遺品、本やアートなどを通して学び、考え、日本のこと、世界のことにより目を向ける糸口になりました。
7月下旬に、宮さまとご一緒に広島市を訪れた折には、広島市の高校3年生が高校生平和大使としてノーベル平和賞授賞式に参列し現地ノルウェーの高校生と交流したことや、被爆された曽祖父母方のことを語ってくれました。また、当時の白黒写真をAIによってカラー化し、戦争を体験した人たちからの聞き取りに基づいて補正し「記憶の色」を蘇らせる活動をしている方や、国際的な平和活動に将来携わるためのプログラムに参加している高校生など若い人たちともお話をすることが出来ました。
また8月に佳子と広島市を訪ねたときに、姉妹都市であるホノルル市の子どもたちが演じたミュージカルを鑑賞しました。被爆して12歳で白血病で亡くなった佐々木禎子さんの物語を描いたこの舞台は、子どもたちの歌声と踊りで作り上げられ、平和を願う強いメッセージが会場に広がっていくのが感じられました。
このように若い世代の人々が、戦争の記憶や記録を未来に残し、語り継ぐ姿に接したことはとても印象深いものがありました。
私自身、戦争を経験していない世代の人として、佳子と訪ねた広島原爆養護ホーム舟入むつみ園の皆さまとのひとときも忘れ難いものでした。私たちをあたたかく迎えてくださり、戦時中のご経験やいまご関心のあることなどを伺い、平和の願いをこめた折り紙の鳩をいただきました。東京に戻りましてから、早速宮さまと悠仁に折り紙の鳩を見せながら舟入むつみ園での大切な語らいのひとときを伝えました。
戦後の80年を経た今年、改めて気づいたことは、身近な場所に今もなお戦争の記憶をとどめるものがいくつもあるということでした。そのうちの一つである広島市の袋町小学校平和資料館をこの夏に訪ねました。小学校は当時、避難所や救護所として使われ、壁面に被爆者の消息を知らせる「伝言」が残されていました。被爆後の様子を今の私たちに伝えてくれる場所でした。また、被爆した樹木にも会いに行きました。大地に張る根からは80年前とつながる尊い命を感じました。当時のことを思いながら戦争について考え、街の復興に向けて力を合わせていった人々のことも考えました。こうした出会いを通して、戦争の記憶は過去に留まるものではなく、現在につながっているとの思いを強くしました。
大切な命。命どう宝。
私は毎年1回、自分の学生時代のことを大学でお話しする機会があります。今年も大学の恩師である外間守善教授から琉歌を学んだこと、外間先生が沖縄師範学校の生徒として軍に動員されて多くの学友を亡くし、疎開のため乗船した対馬丸の沈没によって妹さんを亡くされたこと、そして外間先生のご友人であり、「踊ることは祈ること」と話される舞踊家の志田房子さんの琉球舞踊についてのお話をしました。大学生の頃の私のように、外間先生の辛いご経験が心に重く残る学生や、恩納なべののびやかな琉歌、琉球舞踊の美しい衣装に心惹かれる学生がいました。戦争を体験した恩師方から私が聞き、学んだこと、そして、沖縄の人々が心のよりどころとして強い意志をもって大切にしてきた文学や芸術をつないできたお気持ちを伝えていくことにより、若い世代がその歴史や文化を知る一つのきっかけになり、共に考えていくことができればと思います。
公式訪問をしたトルコと日本との交流の歴史と絆
昨年12月に、日本とトルコの外交関係樹立100周年にあたり、宮さまとご一緒に初めてトルコを訪問しました。トルコは日本と長年にわたって友好関係を築いてきた国の一つです。125年前に当時のオスマン帝国の使節団を乗せたエルトゥールル号が和歌山県沖で遭難し、串本町民の献身的な救助活動によって69名のトルコ人乗組員が助けられました。40年前のイラン・イラク戦争のときには、テヘランに取り残された日本人が、トルコ政府のはからいでトルコ航空の特別機で出国することができました。2011年の東日本大震災後には、宮城県の被災地でトルコの緊急援助隊が長期間にわたって支援にあたり、2023年に発生したトルコ・シリア地震では、国際緊急援助隊による救助活動や医療支援、復旧・復興の専門家の派遣のほかにも、国際赤十字やNPO団体を通じて募金や物資が送られました。このような助け合いが両国の友好関係を培ってきました。今回の訪問の準備中に、そして訪問中に現地で出会った方々から、両国の強い絆を実感することができました。
文化や芸術、学術研究の分野でも、日本とトルコの間にはさまざまな交流があります。日本では、トルコの歴史や文化を紹介する展覧会が度々開催されて多くの人が足を運び、文化財の保護や修復に関しても協力が続いています。どちらの国も地震が多いことから、防災の研究や防災教育についても関心が共有されています。
またトルコには古代遺跡が数多くあることから、考古学の分野でも交流が深く、多くの日本人研究者がトルコでの調査研究に携わっています。その一つであるカマンカレホユック遺跡は、三笠宮崇仁親王殿下のご発意により本格的な調査が始まり、地域の住民の協力も得て、40年にわたり研究と調査が続けられています。昨年12月の公式訪問のときに、この遺跡を宮さまと訪れ、プロジェクトの初期から従事してこられた大村幸弘アナトリア考古学研究所名誉所長が、約4000年前の地層から人工の鉄が発掘されたことなど遺跡調査について熱心に説明してくださいました。研究所に併設された出土品を展示する博物館には子どもたちも多く訪れ、木々の緑と滝が美しい日本庭園は結婚の記念写真を撮影する場所としても人気があり、地元の人たちの憩いの場になっているというお話を伺いました。その大村さんが今年の5月下旬にトルコで急逝され、深い悲しみを覚えております。学術研究から発掘調査の作業に携わるトルコの人々への思いまで、常に真摯にお気持ちを語ってくださった姿が心に残っています。
これまで二国間の交流に尽力されてきた日本とトルコ両国の皆さまのおかげで、今日の友好関係があることに改めて感謝いたします。今後も両国の絆が発展していくことを願っています。
トルコの縁飾り「オヤ」
トルコ訪問前に刺繍糸を手編みしたカモミールの花
大阪・関西万博での出会い
今年の4月12日、55年ぶりに大阪を舞台とする2025年日本国際博覧会(大阪・関西万博)が開幕しました。宮さまとご一緒に開会式に出席し、その後、一人で5月23日のオーストリアのナショナルデーに、また、宮さまと二人で7月3日のジャパンデーに会場を訪れる機会がありました。
万博会場を見渡すことができる大屋根リングには、開催前の3月と、4月の開会式前に上りました。リングでは、世界の人々が集い、交流し、さまざまな出会いが生まれるだろうと感じ取ることができる時間でした。
万博を訪れた人々が、これまでなじみのなかった国や地域、そしてパビリオンが伝えるそれぞれのメッセージに出会い、会場ではさまざまな交流が盛んにおこなわれているような印象を受けています。こうしたことが、地球規模でものごとを考えるきっかけになると思いました。私自身も、会場を訪問し、関係者のお話をうかがったり、イベントに参加したりすることによって、新たな視点を持ち、多くの学びを得ることができました。
訪ねたパビリオンの数は限られていましたが、同じ会場内で、最新のデジタル技術や映像を体験できる場所と、人と人とが対話する場所、伝統的な文化にふれる場所とが隣り合う万博ならではの経験をすることができたように思います。
5月に出席したオーストリアのナショナルデーの行事の折に一人で訪れたスイスやオーストリア、そして7月に宮さまとご一緒した次期開催国サウジアラビアのパビリオンでは、それぞれの国の文化や歴史がAIなどの先端技術を駆使して紹介されていました。リサイクル可能な素材で作られたスイス館、楽譜のような外観で音楽にあふれていたオーストリア館、石造りのサウジアラビア館、それぞれデザインが印象的でした。
7月に宮さまとご一緒に訪ねた廃校となった木造の小学校を移築して再利用した日本のシグネチャーパビリオンも印象に残っています。また5月に一人で訪ねた「国際赤十字・赤新月運動館」では、世界の紛争地域や東日本大震災の被災地などで救護活動に従事する人々の実際を知り、尊い使命感を持って現場で活躍する医療関係者の方々のことを考えました。来館者が言葉を寄せるメッセージウォールに一言を、と主催者からその場で勧められ、ゆっくり考えながら
「大切な命
できることをおこなっていきたい」
と書きました。
万博では、期間限定の展示やイベントもおこなわれています。5月に会場を訪れたときにおこなわれていた希少・難治性疾患の当事者団体のイベントでは、難病の患者が「病とともに生きる」ことに寄り添い、患者とその家族を支えていくことの大切さを学びました。このときのご縁で、東京で開催された視神経脊髄炎患者とそのご家族を支援するチャリティーコンサートに行きました。万博会場での出会いが、新たな出会いにつながりました。
また、万博の会場と運営を支えている関係者が働く場所を訪ねたことも、心に残っています。天候や気温が変わる状況下で、会場で体調を崩した人の救護に取り組む人や、多くの人が移動するときに混乱が生じないように駐車場などで来場者を誘導する人、万博のパビリオンや数多くのイベントについて来場者に的確に分かりやすく案内する人、気持ちよく会場で過ごしてもらえるように清掃に励む人など、万博を日々支え、来場者が安心して安全に万博を体験できるよう尽力されている関係者に頭が下がる思いでした。
「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマとする博覧会も、閉幕まであと1ヶ月になりますが、多くの人々がこの会場に集い、つながり、パビリオンや会期中に実施されるイベントやパフォーマンスを通して得た経験によって、さまざまな「いのち」を大切に思い、未来に思いを馳せ、世界共通の課題についても理解を深めていくことを願っています。
オーストリアのナショナルデー
手刺繍した国花エーデルワイス
金沢市から奥能登へ、珠洲市を訪ねて
この一年間をふり返ったとき、次のような大切な出会いもありました。昨年9月の誕生日の数日後に訪ねた金沢市と奥能登の珠洲市、そして今年の3月と5月に訪ねた珠洲市での出来事や出会いです。
珠洲市を訪ねた直接のきっかけは、自治体の集団検診でした。私が総裁を務める結核予防会の全国の支部では、事業の一つとして、住民向けの集団検診を市町村から委託されておこなっています。昨年元日に起きた能登半島地震で、奥能登地方は大きな被害に見舞われ、結核予防会石川県支部を兼ねる石川県成人病予防センターが春におこなう予定だった検診が延期になりました。その後、9月から輪島市、珠洲市、穴水町、能登町で検診が順次実施されるとの連絡を受けて、公的な日程との関係で都合がつく珠洲市の検診会場に行くことにしました。
検診会場の珠洲市健康増進センターには、雨漏りや廊下にできた段差など、震災の影響が残り、検診に携わる医療関係者の中には、ご自身も被災しながら避難所で住民の支援にあたってきた方もいました。被災した方々が不安や心配を抱えつつも、互いに助け合い支えあっていることに胸が熱くなりました。
また全国のボーイスカウトが被災地支援のために集めた募金を活用し、ボーイスカウト石川県支部が中心になって市役所前の広場でおこなっていたイベントに参加しました。つきたてのお餅で作ったお大福を手渡していたときに、地元の人たちがいろいろな思いを率直に話してくださったことも心に残っています。
東京に戻ってから数日後、奥能登地域が豪雨に見舞われ、地震からの復旧・復興に向かっていた矢先に再び被災した現地の人たちのことを案じていました。なにかできることがないかと思いながら、次に訪ねる時期を考えました。
奥能登の海岸沿いに桜の花が咲いていた今年3月に、再び珠洲市の健康増進センターへ、お母さんと子ども、保健師の皆さんに会いに行きました。その中には、昨年4月、出産をひかえて奥能登から避難していた金沢市の施設でお会いした当時妊婦だった方々もいらして、その後生まれた子どもと一緒に遊んでおられ、また出産を控えているお母さんもいらして、皆でしばらくお話をしたり、絵本を読んだりしました。センター長に誘われて、上の階に上がると20名近くの食生活改善推進協議会の皆さんが賑やかに話し合われ、その中には昨年9月の広場でのイベントに参加された方々もいました。協議会の説明とともに珠洲の郷土料理、ふるさとの味を紹介してくださいました。その後訪れた地元の人たちの交流スペースでは、被災後の生活や地震と津波で被害を受けた「キリコ」(祭礼で担がれる大きな切子灯籠)のお話、お祭りに向けての想いや願いも語ってくださいました。お目にかかった方々の語る言葉から、ふるさとを思う強い気持ちが伝わってきました。
そして今年5月の下旬、一日を珠洲市民図書館で過ごしました。地震のために図書館の建物の外周には段差ができましたが、書架から落下した本を収め直し、安全を確保しながら地震の8日後に開館したそうです。館内には、中高生がおしゃべりをしたり、勉強をしたりできる部屋もあり、仮設住宅に住む市民も含めて珠洲の人々の憩いの場所として利用されていると伺いました。また、図書館が市民の待ち合わせ場所にもなっており、落ち着く、安心できる大切な場であることを感じました。
またその図書館では、東日本大震災の後に子どもの心のケアとして、キャンプや子育てイベントの活動を福島県などでおこなってきた仲間たちと「おもちゃ あそびのひろば」を開催しました。子どもたちやご家族とおもちゃを作ったり、絵本を読んだりするイベントです。私は装飾と絵本の係の一人だったので、図書館に到着後すぐに、図書館の関係者とも相談して、白い壁に茶色のフェルトを切って作った大きな木の枝に色紙の花を咲かせ、蝶や青虫、カエルなどの生き物が暮らす「ひろば」を作りました。昨年9月に珠洲を訪ねて以来親しくなった知人も一緒に手伝ってくださいました。広場に集まってきた園児や小学生の子どもたちに絵本を読んだり、子どもが手に取った本を見ながら一緒に話を作ったり、絵本を読みながら内容に合わせて身体を動かしたりと、本の世界を子どもたちと思う存分楽しみました。会場で、子どもたちに民話や昔話の読み聞かせをしている珠洲の「どんぐりの会」の方々にお会いできたことも、心に残る出来事でした。
皆で飾りつけをした「ひろば」
このように、一つ一つの出会いや出来事が互いに関わり合い、新たな出会いにつながっていくということを幾度も経験した一年でした。
今年は例年よりも気温が高くなるのが早く、夏は高温の日が多く、残暑が続いています。記録的な大雨が降った地域もあれば、水不足の地域もありました。「命に関わる暑さ」「体温より高い気温」という言葉も度々耳にしました。このような極端な気象によって、生活や健康に影響を受けた人々のこと、植物などの生き物のことも案じています。
最後に、家族のこと、子どもたちについてふれます。今年の春に悠仁が高校を卒業し大学へ進学したこと、眞子の子ども、つまり宮さまと私にとって初めての孫が誕生したことがとても嬉しく、6月に佳子が一人でブラジルを公式訪問したことも、それぞれ私にとりまして大きな出来事でした。そして、先日、悠仁が19歳の誕生日に成年式をおこなったことは、家族にとっても大きな節目の一つであると思います。大人になった子どもたちの姿を見ると、ここまでの年月を宮さまとともに過ごしてきたことをありがたく思います。
<現在の体調>
今年の6月に、結婚35周年を迎えました。お互いに体調を気づかい合うことも増えてきました。宮さまは公的なお仕事が続くこともありますので、お身体をお休めになる時間をお取りいただけるように心がけております。
初夏に喉の調子がすぐれないことがありました。これがきっかけで、体調を維持できるように、以前よりも室内の気温や湿度にも気をつけるようになりました。そのような中で、宮さまや子どもたちの優しい思いや言葉、周囲の人々の心遣いによって、体が楽になっていくようです。
<今後の抱負>
これまで、さまざまな公的な仕事に携わり、その中での出会いや学びがあり、仕事を進めていく上で、多くの方々に支えられ、お力をいただいていることに感謝しております。今後も公的な仕事を大事に務めてまいりたいと思います。
総裁をしている結核予防会や母子愛育会の仕事に携わる中で、人々の心身の健康が守られることを願ってきました。これからも人々の命と暮らしを守るために尽力する関係者と共に、私の立場でできることに取り組んでいきたいと思います。
- 問3 ご家族について伺います。佳子さまのブラジル公式訪問などのご活動や家庭でのご様子をどうご覧になっていますか。佳子さまの結婚や将来についてご家族で話し合われていることがあればお聞かせ下さい。秋篠宮さま、悠仁さまを含め、最近のご家族のエピソードをお聞かせ下さい。現在米国で生活する小室眞子さんの第1子出産についてお慶び申し上げます。ご夫妻にとって初孫が誕生したことについての感想や親子の様子を可能な範囲でお聞かせ下さい。
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秋篠宮皇嗣妃殿下
<佳子のブラジル公式訪問などの活動>
この一年も佳子は、国内そして海外でもさまざまな公的な活動がありました。これまで以上に、それぞれの務めに心を尽くして取り組んでいるように感じられ、心強く思っております。
ご質問いただいた、ブラジルの公式訪問についてですが、ブラジルであたたかくお迎えいただいたことにとても感謝していました。帰国後、佳子は訪問先での出来事やお会いした方々のことを話してくれました。佳子がお会いした方の中には、宮さまと私が10年前に日ブラジル外交関係樹立120周年の機会に訪問したときお目にかかった方や、以前にブラジル日本語センター主催の「ふれあい日本の旅」に参加して宮邸を訪ねてくださった方々もいらっしゃったそうです。交流の絆がつながっていくことを大変うれしく思いました。
佳子がブラジルを訪問していた期間に開催された「産経児童出版文化賞授賞式」には、私が代わりに出席しました。7年ぶりのことでした。式典に出席するにあたり、佳子は以前の受賞作品のことをいろいろと話してくれました。今回、写真絵本の作品で大賞を受けられた大西暢夫さんは、以前に私が式典に出席した平成23(2011)年にも大賞を受けられ、久しぶりにお目にかかる機会になりました。長く審査員を務められている方々にも再会し、児童出版に関わる方々の変わらぬ熱い思いを伺うことができました。
<佳子の結婚や将来について>
これまで国内外で重ねてきた経験を活かして、務めに励んでもらいたいと思います。そして彼女らしい生き方、幸せを心から願っています。
<家族のエピソード>
宮さまと、仕事を終えた夕方の時間などに二人で美術の展覧会に出かけることがあります。ゆっくり作品を鑑賞し、ミュージアムショップに立ち寄って絵葉書やクリアファイルをそれぞれ選んで求め、感想を話し合いながら帰るのが一つの楽しみです。クリアファイルはすぐに書類を入れて使ったり、しばらく手元に置いたり、クリアファイルは二人の小さなブームになっています。
佳子が彼女らしい言葉を家族にかけてくれることが度々あります。たとえば、3月に悠仁が成年にあたっての初めて記者会見に臨む前には、自分の経験を思い出しながらアドバイスをしていました。親としてほほえましく、うれしく感じました。
悠仁は今年の春に運転免許証を取得しました。その後、宮さまが大学時代から愛用されてきた山吹色のビートルを時々運転しています。この車は家族のさまざまな思い出を乗せてきました。今では宮さまが助手席に乗ることもあり、二人で御用地内をドライブして楽しんでいることもあります。
<初孫が誕生したことについての感想・親子の様子>
今年の春に孫が誕生したことを、家族そろって大変うれしく思っています。自分がそのような年齢になったのかと不思議な気持ちになりました。どのような名前で呼んでもらおうかしらと考えたり、子どもたちが小さかったときに読んでいた絵本を取り出して、膝の上にのせて絵本を一緒に読んでいたときのことを思い出したり、ぬいぐるみやおもちゃで遊んだことを懐かしんだりしています。
眞子たちは、遠く離れて海外に暮らしています。孫が少しずつ遠出できるようになり、旅行をすることに慣れてから、よいタイミングで日本を訪れてくれたらと思っています。そしていつか、木香薔薇のアーチがある庭を一緒にゆっくりと歩いたり、ピクニックをしたりするのはどうかしらと思いをめぐらしています。
2人が初めての子どもを慈しみ育てているようでほほえましく感じています。家族3人の穏やかな日々と幸せを心から願っています。