第5回国連水と災害に関する特別会合における天皇陛下基調講演

令和3年6月25日(金)
オンライン

災害の記憶を伝える
-より強靭で持続可能な社会の構築に向けて-

ハン・スンス議長
グテレス国連事務総長
各国元首
閣僚並びに御列席の皆様 
 

1.はじめに

オンラインで開催される第5回国連水と災害に関する特別会合で基調講演を行う機会を与えていただきましたことをたいへん嬉しく思います。今,世界は新型コロナウイルス感染症によるさまざまな試練と困難に直面しています。多くの命を救うために,日夜献身的に力を尽くされている医療従事者の方々に深い敬意と感謝の意を表します。また,この未曽有の疫病下にあっても,大規模な自然災害は世界各地で発生しています。日本でも,昨年,西日本を中心とした豪雨災害により大きな被害が発生しました。新型コロナウイルス感染症や災害の犠牲となられた多くの方々に心から哀悼の意を表し,被害を受けた方々に心からお見舞いを申し上げます。

人類は新型コロナウイルス感染症に対し,ワクチンという新たな対抗手段を用いて,この疫病の猛威を抑えようとしています。全く予断を許さないものの,私たちは暗く長いトンネルの先に漸く一筋の光明を見出しています。そのような中で,本日の会議の主題である「コロナ後の世界をいかによりよく築いていくか」について語り合うことは,人類の将来にとってたいへん重要なことだと思います。

今年の3月には,我が国で2万人を超す方が亡くなったり行方不明となったりした東日本大震災からちょうど10年が経過しました。この地震の被災地では,いまだに人々が自らの家に帰還できない地域があり,また,復興が進む中にあっても,新しく築かれた地域社会に人と人とのつながりを新たに培っていくうえでの課題も多く,被災者の心のケアも大きな課題となっていると認識しています。震災を過去のこととしてではなく,現在も続いていることとして捉えていく必要があると感じます。本日は,私たちが将来の災害に備え,災害によりよく対処していくために,過去の経験からどのように学び,それを活かしていくべきか,いくつかの事例を紹介しながら考えていきたいと思います。

2.災害の記憶を伝える

2.1 リスボン地震の記憶図1

    「私は神を敬うが,人間の住む地球を私は愛する
    悲惨な災害にたいして人間が吐き出す声は
    思い上がりの声ではなく,痛みを共感する声だ」  (※)

これは,フランスの文学者・思想家であるヴォルテール(François-Marie Arouet Voltaire)が,1755年に地震と津波により,ポルトガルのリスボンを中心に5万人を超える死者が発生したといわれるリスボン地震について詠んだ詩です。この詩にも描かれている災害の困難に直面した人々の姿と,その記憶は,将来の災害に立ち向かう私たちへの貴重な糧ともなります。


2.2 災害の記憶を次の世代に

2011年3月に東日本大震災が発生してから今年で10年が経過しました(図2)。私は,雅子とともに,この震災をはじめ,日本国内で発生した災害の被災地を訪れたり,また現在のコロナ禍にあっては,オンラインで被災者や関係者の方々と言葉を交わしたりして,それぞれ被災から立ち上がり,復興に励む人々の姿に触れ,声を聞くよう努めてきました(図3)。その中で,東日本大震災では,同じ災害でありながらも,地域社会の状況,あるいは被災された方の置かれた状況など,さまざまな要因によって,被災の状況だけでなく,その後の地域の復興・再建への道筋が大きく異なり,その過程における地域の方々の御苦労もさまざまな面に及ぶことを実感しました。こうした災害の記録や,被災者の皆さんの実体験を,次の災害に備えるための社会の共通財産として共有し,「災害の記憶」として時代を越えて継承していくことはとても大事なことだと考えています。

今,日本の各地で災害の記憶を忘れないよう,その経験を後世に伝えていくための活動が行われています。そのいくつかを紹介したいと思います。

(1)災害の語り部の活動(図4

災害の記憶を語り継ぐために,被災した体験を語り部として語ってくれる「災害の語り部」の人たちがいます。私たちは,東日本大震災の発生から10年となる今年の3月に,オンラインで被災地とつながり,語り部として活動されている方々からお話を伺いました。被災した方々が,災害の恐ろしさや,普段からの備えの大切さを,被災地を訪れた人々に直接伝え,多くの人々と共有することはとても貴重なことだと思います。語り部の活動には,子どもの頃に被災した若い人たちも参加しており,頼もしく感じました。

こうした人々の災害経験の中から,共通した教訓も浮かび上がって来るように思います。例えば,多くの語り部が,防災における人と人との絆の大切さを語ってくれます。例えば,日頃から一緒に避難訓練をすることなどを通して,いざという時の行動を皆で確認しておく,津波の襲来を知らせ合う,互いに声をかけあいながら逃げる,避難先で水や食料を分かち合う,暮らしと地域を助け合って立て直すなど,災害の備えから復興に至るまで,世代を越えたコミュニティーの絆を育んでいくことが災害に強い社会の礎を創ることになると実感します(図5)。こうしたメッセージを,さまざまな形で多くの人々に,また,次の世代に語り継いでいくことによって,私たち皆で次の災害に備えることができます。災害の経験と記憶を風化させず,世の中に広く,また後世まで伝えていこうとする一人一人の努力が,次の災害を防ぐ大きな力になると信じています。

(2)震災遺構(図6

これは,東日本大震災の大津波で大きく被災した,象徴的な建物を保存した震災遺構の写真です。私たちは,2016年に,その一つである岩手県宮古市の「たろう観光ホテル」を訪ねました。ここは市の防災学習の拠点となっており,私たちは,津波の恐ろしさや津波被害の甚大さをここで再認識するとともに,地域全体で自然災害に備えることの大切さや,災害の記録や教訓を後世に伝えていく大切さを改めて強く感じました。被災地で震災遺構となっている建物は,学校,交番,ホテルなどさまざまですが,どれも自然災害の脅威を直接伝えてくれるものです(図7)。これらは,その時の経験や教訓を忘れず,いつか必ず来るであろう次の災害に備えようという人々と地域の意志でもあります。

(3)石碑(図8

これは,1380年に建立された,日本最古の地震津波碑といわれる徳島県美波町の康暦碑です。私は4年前に開催された第3回の特別会合で,災害を後世に伝える一つの例として,この康暦碑を紹介しました。

こちらは,康暦碑から約20km南西にある牟岐町に建てられた石碑で,右側は1854年に発生した安政南海地震,左側は1946年に発生した昭和南海地震の石碑です(図9)。碑文には,当時の被害の様子とともに,「油断せずに避難することが大切である」など,後世への教訓とすべき文言が刻まれています。なお,写真でもお分かりのように,二つの石碑の間には昭和南海地震の最高潮位4.52mを示す標識が新たに設置されており,津波への注意を呼びかけています。

同じような試みは現在にも受け継がれていると思います(図10)。これは,東日本大震災で被災した宮城県女川町の「1000年後のいのちを守る石碑」です。死者・行方不明者が800名を超えたこの町で,当時の中学生たちが,100年後,1000年後の女川の人々が2011年の大津波を忘れずに命を守ることができるよう,被災した町内21の浜すべてに,東日本大震災の大津波の到達点より高い場所に石碑を建て,万が一津波が発生した場合には石碑より高い場所まで避難するよう呼びかけました(図11)。石碑には,低い場所に移されることがないよう「この石碑は絶対に動かさないでください」といった文言が刻まれています。加えて,石碑には東日本大震災の記憶が継承されるよう,中学生たちが当時の思いを詠んだ俳句も刻まれています。中学生たちは,成人した今でも地域との繋がりを深め,避難をしやすい街をつくり,災害の記憶と教訓を継承する活動に取り組んでいます(図12)。

石碑は,過去の災害を知るうえで役立つだけではなく,未来の人々の命を守るため,災害の記憶と教訓を未来へと繋いでいく「記憶の(たすき)」でもあるのです。

3.災害の記憶を将来に活かす-明和の大津波から学ぶ-

次に,後世に伝えられた災害の記憶が現代に活かされている事例を紹介したいと思います。これは,「大波之時各村之形行書」(おおなみのときかくむらのなりゆきしょ) と呼ばれる,明和の大津波についての詳細が記された古文書です (図13)。 明和の大津波とは,冒頭に触れたリスボン地震の16年後,ちょうど250年前の1771年4月24日午前8時頃,日本の南西部に位置する沖縄県の八重山列島及び宮古列島を襲った地震・大津波です。この大津波により,地域の人口の実に3分の1にあたる約1万2千人の死者・行方不明者が出たといわれています。

この図は,死者約8,400人を出した石垣島に関して書かれた,「形行書」の一部の情報を図示したもの (図14) ですが,村ごとの男女別の死者数をはじめ,田畑の被災面積や位置,津波の襲来方向や,またその数字の正確性には議論があるものの,各地の津波の打ち上げ高に至るまで詳細に記録されており,これだけで現在の災害報告に匹敵します。さらにこの文書から多様な災害の実態が浮かび上がります。一例をあげますと,石垣島では女性の死者数が男性より約29%多かったことや (図15), 特に激しい被害を受けた島内の7村では,人口に占める女性の割合が,津波前は約53%であったのが被災後には約29%まで低下するなど,被害が激しい所ほど女性が犠牲になりやすかったことが明らかになっています (図16)。 このような詳しい記録が残された背景には,人々にとって取り立ての厳しかった人頭税の存在があるといわれています。当時この地域では,税徴収のために各村の人口調査が詳しく行われており,男女別の内訳も記録されていたと考えられます。さらに「形行書」には,被害に関する数字だけでなく,津波直後の悲惨な様子や,被災者の救助などを行った関係者の奮闘,さらに災害後数年にわたっての村々の復旧・復興の状況など,現在及び将来に活用できる具体的な記録も掲載されています。

この「形行書」を含む書物の他に,明和の大津波の猛威を示す岩も残されています。これは,石垣島東岸にある大きな岩塊です (図17)。 形に特徴があり,「安良大かね」(やすらうふかね)と「高こるせ石」と呼ばれていますが,「形行書」には,これらの巨岩が津波によって運ばれ,大きく位置を変えたことが記述されており,その位置,形状,大きさなどを実際に測定してみると,その数値は「形行書」の記述と一致しているといわれます (図18)。 これらの岩塊は,津波によって海底から陸上に引き上げられたという意味から「津波石」と呼ばれています。

「津波石」の存在は,1968年に当時石垣市の職員であった牧野清氏が,職務の傍ら現場に赴き,石垣島に残る津波石と推定された岩塊の分布を克明に調べ,古文書を読み解き,さらに地域の伝承を広く聞き取って,『八重山の明和大津波』という一冊の本にまとめたことによって,広く知られることとなりました (図19)。 「形行書」をはじめとした災害についての歴史の記録と「津波石」という物的証拠などを繋いで過去の自然災害の実態を明らかにしようとした試みは当時あまり例がなく,災害を「歴史から学ぶ」先駆となった事例といえましょう。

その後,「形行書」などの歴史的な文書に基づく津波の実態把握,地層調査に基づく津波堆積物の特定 (図20),津波石の年代測定による移動年代の推定(図21),津波推定遡上高などを基にした津波伝播シミュレーションなど,地震学,津波工学,歴史学,考古学などの諸分野からの学際的なアプローチによって明和の大津波の実態に迫ろうとする研究と議論が深まり,その結果は地域の防災計画にも活かされることとなりました(図22)。 明和の大津波の事例は,過去の災害を歴史と科学から学び,将来に役立てる総合的な試みといえます。今後も研究と議論が進展し,地域の防災対策が充実していくことが期待されます。

4.おわりに

災害の記憶から学ぶこと,災害の記憶を後世に伝えることの意義についていくつかの事例を基にお話ししてきました。一人で立ち向かうことは困難な自然の猛威に対しても,私たちは互いに助け合い,気遣い合うことにより,社会全体で立ち向かってきたのです。

現在,私たちは新型コロナウイルス感染症の只中にあり,世界のいたるところでこの脅威を克服するための努力が続けられています。科学技術の英知を傾け,人々の絆を強め,連帯を深めることで人類はこの未曽有の困難を乗り越えることができると信じています。

人々は災害の経験から学び,記録を残すことによって,その教訓を記憶に留め,将来に備えようという努力を重ねてきました。現在の新型コロナウイルス感染症についても,その対応の仕方,そして感染拡大が収束した後の社会のあり方を考えるうえでも,100年程前のスペイン風邪などの過去の疫病の経験をよりよく知る必要があると感じます。

過去,現在,未来に渡り,一つ一つの災害や疫病について,その時社会で起こったこと,人々が行った努力や工夫,さまざまな経験や教訓についての記録を継承し,次の世代に伝えていくことが大切です。こうした努力は,より強靭でしなやかな世界を築き上げ,持続可能な開発目標(SDGs)の達成に向けた取り組みを再び軌道に乗せ,進展させるためにも不可欠でしょう。

災害や疫病の記憶を後世に伝えつつ,その教訓を活かすべく次の災害や疫病に備えながら,誰一人取り残されることなく健康で幸せな毎日を享受できるような社会の構築に向けて,私も皆さんと一緒に努力を続けていきたいと思います。

ありがとうございました。


(※)日本語訳は,『カンディード』(ヴォルテール著,斉藤悦則訳,光文社古典新訳文庫) による。