明治天皇は,明治14年(1881)2月に初めて神奈川県南多摩郡連光寺村(現東京都多摩市内)へ行幸されて以来,4度にわたって同地へお出ましになり兎狩や鮎漁などをご覧になり楽しまれました。現在,多摩市内にある「聖蹟桜ヶ丘」という駅名は,明治天皇の行幸があったことに由来します。
明治15年5月,連光寺村を中心とする地域が「御遊猟場」として指定されました。翌16年7月に「連光寺村御猟場」という名称が正式に定められ,同御猟場は,大正6年(1917)まで存続しました。連光寺村御猟場の運営にあたっては,連光寺村の旧名主である富澤政恕らが職員に任命され,富澤らは,御猟場区域内の見回りや動物の生息状況の調査などを行い,行幸・行啓に備えました。明治天皇の行幸以降も大正2年(1913)まで,英照皇太后や昭憲皇太后,皇太子嘉仁親王(大正天皇),皇太子裕仁親王(昭和天皇)が行啓され,鮎漁や栗・茸拾いを楽しまれるなどこの地は皇室との関わりが深い地域でした。
連光寺村御猟場廃止後には,富澤政賢(政恕の子)らによって明治天皇の「御遺蹟」保存運動が行われ,自然公園設置の計画などが進められていました。こうした運動に,元宮内大臣田中光顕が加わり,昭和5年(1930)11月,行幸を記念する施設である多摩聖蹟記念館が開館しました。同記念館(現在の旧多摩聖蹟記念館(都立桜ヶ丘公園内))には,明治天皇ゆかりの品々や明治天皇騎馬像などが収蔵・展示され多くの人々が訪れています。
本展示会では,宮内公文書館が所蔵する行幸・行啓などに関する公文書と富澤政恕が作成した文書などの地域資料によって,多摩地域と明治天皇を始めとする皇室の方々との歴史的なつながりを紹介します。
本展示会が,地域と皇室の歴史についての理解を深める機会となれば幸いです。
(1)連光寺村御猟場全図(宮内公文書館所蔵)
連光寺村御猟場の全図。中央に連光寺村と見える。
(2)明治天皇聖蹟写真(宮内公文書館所蔵)
写真左遠景には,明治天皇行幸時の黒松山御野立所(現多摩市連光寺5丁目)の場所を示す石碑が写る。
(3)連光寺村への行幸記事(宮内公文書館所蔵)
明治14年(1881)2月20日,明治天皇が兎狩天覧のため連光寺村を初めて行幸された際の記事。庶務課「幸啓録」のうち。
(4)明治13年改正明治天皇御服図(宮内公文書館所蔵)
明治天皇が,明治14年(1881)に連光寺村へ行幸された際にお召しになっていたと考えられる御軍衣の絵図。庶務課「例規録」のうち。
(5)明治天皇御料馬写真(宮内公文書館所蔵)
明治天皇が,明治14年(1881)に連光寺村へ行幸された際に御乗馬になった金華山号。
(6)連光寺村御猟場廃止の御裁可文書(宮内公文書館所蔵)
大正6年(1917),連光寺村御猟場が廃止された際の御裁可文書で,御裁可を示す「可」印が捺されている。大臣官房調査課「省達録」のうち。
(7)明治天皇御製(宮内公文書館所蔵)
明治天皇が明治17年(1884)に連光寺村へ行幸された際の御製(右丁中央)。
「春ふかき山のはやしにきこゆなりけふをまちけむうぐひすのこゑ」。
(8)昭憲皇太后御歌(宮内公文書館所蔵)
明治天皇が明治17年(1884)に連光寺村へ行幸された際に,昭憲皇太后が詠まれた御歌2首(右丁)。
「兎とる網にも雪のかゝる日にぬれしみけしを思ひこそやれ」,
「春もまだ寒きみやまの鴬はみゆきまちてや鳴きはじめけむ」。
(9)御猟場日記(富澤家文書・多摩市教育委員会保管)
連光寺村御猟場の現地責任者が記した事務日誌。明治17年(1884)より明治41年(1908)(明治38年欠)が残る。
(10)連光寺村御猟場事務所木札(富澤家文書・多摩市教育委員会保管)
連光寺村御猟場では,地元の人々が職員に任命され,区域内の見回りや動物の生息状況の調査などを行った。
この木札は,事務所内で使用されていたものと思われる。