9 主な展示資料
(1)日光山絵図(「幸啓録5明治9年」のうち)
明治天皇は明治9年(1876)の東北・北海道巡幸で、初めて栃木県を訪問された。本資料は日光山の絵図で、行幸啓に関する公文書である「幸啓録」に収められている。明治天皇の巡幸では同年6月7日に日光山内の東照宮や二荒山神社を巡覧されたのち、翌日には華厳滝(けごんのたき)をご覧になった。(宮内公文書館蔵)
(2)明治天皇御写真(「千葉県我孫子行在所御産所写真他」のうち)
明治42年(1909)11月6日、栃木県那須郡那須村高久(現那須町)における御統監のご様子。この地は昭和9年(1934)に文部省によって「明治天皇高久御野立所」として史蹟に指定され(昭和23年指定解除)、現在は「聖蹟愛宕山公園」として整備されている。(宮内公文書館蔵)
(3)日光御旅館運動の図
日本画家村田香谷(こうこく)画。明治天皇の皇女常宮(つねのみや)昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)・周宮(かねのみや)房子内親王(後の北白川宮成久王妃)が朝陽館(ちょうようかん)へお成りになった様子が描かれている。朝陽館は東照宮別当寺大楽院の建物を移築したもので、日光御用邸の前身である。(栃木県立博物館蔵)
(4)日光朝陽館敷地建物及隣地御買上の件裁可書(「経済会議録明治25~26年」のうち)
御用邸設置のため、日光の朝陽館敷地・建物を買い上げることについての裁可文書。明治26年(1893)に設置された日光御用邸は、常宮昌子内親王(後の竹田宮恒久王妃)・周宮房子内親王(後の北白川宮成久王妃)の避暑地とされたほか、明治29年には皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)がご滞在になっている。(宮内公文書館蔵)
(5)日光田母沢御用邸御庭之図/明治34年
明治32年(1899)、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の避暑を目的とした日光田母沢御用邸が竣工した。田母沢御用邸の敷地は、小林年保(こばやしねんぽ)の所有していた別荘庭園「田母澤園」が中心であり、建物には赤坂離宮から移築された三階家があった。図面は、その庭園を描いたもの。左の田母沢川や下の大谷川に沿って庭園が広がっていることがわかる。(宮内公文書館蔵)
(6)日光田母澤小林別邸図 二世五姓田芳柳
小林年保は、日光奉行所同心の子として日光で生まれ、維新後に官吏から実業界へ転身すると銀行経営などにより成功を収めた。年保は病気療養が必要な母のために生家近くの田母沢に別邸を建てた。本資料は、別邸を訪れた二世五姓田芳柳(にせいごせだほうりゅう)が描いた石版画である。この後に別邸は周辺の民家とともに宮内省の買い上げとなり、明治32年(1899)赤坂離宮より建物を移築、田母沢御用邸となった。(栃木県立博物館蔵)
(7)外賓接待写真(「外賓接待録⑥大正11年」のうち)
大正11年(1922)4月12日に来日したジョージ5世の長男、英国皇太子エドワード・アルバート(後の英国国王エドワード8世、写真中央)が日光に滞在した際の様子。写真後部に映るのは、日光東照宮陽明門。風光明媚な日光は、外国人からの人気も高く、明治期以来、数多くの外賓が訪れた。(宮内公文書館蔵)
(8)塩原御用邸俯瞰写真(「塩原御用邸、埼玉鴨場、新浜鴨場(写真帳)/大正・昭和」のうち)
塩原御用邸は、栃木県令を務めた三島通庸(みしまみちつね)の別荘を明治37年(1904)に宮内省が買い上げ、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)のための御用邸としたものである。御用邸内には温泉が引かれている点が特徴である。写真は塩原御用邸を俯瞰して写したもの。明治40年代に増築された母屋は、入母屋造りで屋根が連なっている様子がわかる。(宮内公文書館蔵)
(9)那須御用邸正面写真(「那須御用邸(写真帳)/大正・昭和」)
那須御用邸は、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)の御用邸として大正15年(1926)に建設された。同地は、明治23年(1890)に設置された御料地内に設けられている。御用邸内には温泉が引かれており、昭和10年(1935)には附属邸が建設されている。写真は本邸の車寄せを写したもの。同地は現在も皇室の方々がご使用になっている。(宮内公文書館蔵)
(10)ナスノユカワザサ(コガシザサ)標本
昭和38年(1963)年に昭和天皇が那須町小深堀で採集された標本。昭和天皇は大正15年(1926)年ごろから那須の変形菌や植物にご関心をお持ちになり、那須御用邸を中心として那須の原野で植物採集や探索をされた。この標本はタケ・ササ類を専門とする植物学者鈴木貞雄が同定し、ラベルの採集者名には「裕仁」と記載されている。(栃木県立博物館蔵)
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