講書始の儀におけるご進講の内容(令和2年1月14日)


遣唐使に見る日本の対外交流
奈良大学名誉教授
大阪大学名誉教授
日本学士院会員
東野 治之

日本の歴史が様々な外国の文化を取り入れながら今日に至ったことは,改めて申すまでもない事実ですが,古代の日本において主要な通路となったのは,唐に派遣された外交使節,遣唐使でした。本日はこの遣唐使について私の研究を振り返り,その歴史上の意義を述べさせていただきます。

まず始めに遣唐使の歴史について概略を申し上げますと,大陸との直接的な外交が,約150年ぶりに隋との間で復活した後を受けて,舒明天皇2年(630)に第一回の遣唐使が派遣されました。その後,承和5年(838)に最後の遣唐使が出向くまで,ほぼ200年にわたり前後16回の使節が渡航しています。この200年は,使節の性格によって三つの期間に分けることができます。第一期は7世紀の末までで,日本(当時は倭と称していました)が朝鮮半島を巡って唐や新羅と対立し,遂に日本の敗戦によって使節派遣を取りやめる時期です。この時期の使節は,朝鮮半島を経由する航路をとり,船は2隻,200人ほどの規模でした。

このあと約30年の空白を置いて,大宝2年(702)に派遣が再開され,以前とは違って良好な関係のもと,留学者の派遣や文物の輸入を通じて,唐文化が大きな影響を与えます。航路は東シナ海を横断するように変わり,船も4隻に増え,500人から600人が渡るようになりました。それが8世紀の終わりごろまで続く第二期です。第三期は,それに続く9世紀前半で,短期の留学者が増え,使節の派遣間隔も間遠になり,派遣計画も実行されないまま,遂には断絶状態となってしまいました。こうした経過からは,人の交流を介して唐の文化を受け入れた8世紀までの状況が,次第に物の輸入中心に変化した様子を読み取ることができます。この間,最近も留学生下道しもつみちの真備まきびの書いた墓誌が中国で出て,話題となったように,様々なドラマがあったことでしょう。

このように遣唐使の派遣は国家的な大事業だったわけですが,その研究が盛んであったとはいえません。戦前に木宮泰彦きみややすひこ氏や筑波藤麿つくばふじまろ氏による基礎的な優れた研究が蓄積されたこともありますが,特に戦後は低調な時期が続きました。戦前の業績を利用した森克己氏の通史が出た後は,ほとんどそれが踏襲されたと言ってよいでしょう。

私は研究者となった早い頃から,外国文化の受容の歴史に関心があり,遣唐使の研究も少しずつ進めてきましたが,その過程で,このように重要な研究テーマであるにもかかわらず,なお基礎的な事実が明らかになっていないことに気付きました。既に調べ尽くされたと思われていたためでしょうが,中国や仏教関係の史料など,埋もれているものが少なからずあり,それらを使って新しい事実を掘り起こすことに努めました。今日のように様々な文献検索の手段が整う前であり,大部な書物を目的無くめくってゆく根気強い作業が必要でした。

その結果分かったことを,三つ挙げさせていただきます。その第一は,唐との外交関係が,初期を除いて基本的に日本からの朝貢であったことです。それまでの通説では,一部に異論はあっても,日本は隋や唐に国書を持参せず対等の関係を貫いたとされていました。しかし私は史料を見てゆくうち,『唐決集とうけつしゅう』という書物の中に,9世紀初めの唐の僧侶が,日本からの留学僧に便宜を図ろうとして,唐の地方長官に提出した手紙があるのを見付け,通説の誤りに気付きました。その僧侶は,中国仏教の聖地の一つ,天台山にいた維蠲ゆいけんで,日本の円載えんさいが帰国するに当たり,希望する書物を持ち帰れるよう,その許可を願い出ます。維蠲はその中で,日本は唐の文化を手本にし,20年に一度朝貢する約束を結んでいると述べています。一定の年月を隔てて中国皇帝に挨拶に行く制度を年期制と言いますが,日本と唐の間には,20年に一度朝貢するという年期制が存在したわけです。その始まりは不明ですが,遣唐使の派遣状況を見渡すと,8世紀初め,遣唐使の派遣が30年ぶりに再開されて後は,大体十数年に一度の派遣間隔となっています。おそらく再開後初めての大宝2年の遣唐使が,唐に敵対せず臣下として仕えていくことを明確にするため,こういう取り決めを行ったのでしょう。その結果,第二期以降は,唐と日本との関係が極めて円滑で,当時繁栄した唐の国際色豊かな文化が,日本に流入することとなります。もちろん日本が唐に朝貢したと言っても,実際に唐の政治的な影響が及んだわけではありません。これは唐を中心とする国際秩序に入っていくため必要な方便であり,国内では天皇を皇帝・天子と位置づけていたことからも明らかです。いわば名を捨てて実をとったということです。中国歴代の王朝は,自らを文化の中心とし,周辺の地域や民族を野蛮人とみなして朝貢を求めました。これを認めなければ,唐との円満な外交関係も成り立ちませんでした。

さて,史料を尋ねて分かった第二の点は,遣唐使の唐での行動です。それまでこの方面の研究に主として使われてきたのは,9世紀前半に留学した僧侶,円仁えんにんの日記でした。しかし,11世紀初めに宋で編纂された『冊府元亀さっぷげんき』という書物には,8世紀の遣唐使を巡る唐の朝廷の記録が引用されています。例えば唐に渡った養老元年(717)の使節は,唐で外交を管轄した鴻臚寺こうろじという役所を通し,孔子を祭るびょうや仏教・道教の寺院の見学を申し出ました。外国人が唐の国内を自由に旅行することは禁じられていたからです。朝貢を理由に上京した使節一行は,その点を生かして旅行の許可を得,あわせて都の市場での買物を許されています。このように政府同士の交流でしか認められない文化輸入の道が開かれたのです。

次に従来埋もれていた第三の史料は,音楽関係の留学者に関わるものです。日本の中世にできた雅楽の書物『教訓抄』を見ていて,唐の楽曲や舞を学んで帰った留学生の名前や事績に出会いました。音楽や舞踊こそ実地の研修がぜひとも必要なわけで,遣唐使による留学が利点を発揮したと思います。これらの記事は,『教訓抄』の著作年代からすると,はるか昔のことになりますが,その道の家々に大切な情報として伝えられてきたのでしょう。ある曲を舞とともに学んだものの,唐から帰る途中に舞の手を忘れてしまったというような記事もあります。留学による技能習得の状況が具体的に知られるばかりでなく,留学生の無念さがしのばれて胸を打ちます。

こうした日本と唐との親密な関係を念頭に置きますと,日本という国号の成立事情もよく理解できます。日本国号が定まる前,倭が国号であったことは周知のとおりです。日本国号の成立については,戦前まで多くの研究がありましたが,戦後はそれがほとんど途絶えていました。この問題に関しては,これまであまり注目されてこなかった史料を評価し直す必要があります。それは唐の張守節ちょうしゅせつという人物が著した司馬遷しばせんの『史記』の注釈書,『史記正義』に見える記事です。彼は唐の開元24年(736)にできたその注釈で,則天武后そくてんぶこうが倭の国号を日本に改めさせたと書いています。これは唐から見た表現で,実際には中国の正史にもあるとおり,倭が日本への改号を願い出たのでしょう。朝貢国が国号をどう名乗るかは,後世まで中国皇帝の承認が必要でした。日本への改号は,倭が中国風に好ましい国名を望んだ結果ですが,これは自分たちが中国中心の世界の中で,東の端にあることを認めたことになり,唐を満足させる効果もあったはずです。則天武后は大宝2年(702)の遣唐使と洛陽で会見しています。この国号が承認されたのは,その時だったと判断できます。日本国号が国内の史料で確認できる最初は,大宝元年制定の大宝律令ですから,律令国家の完成に合わせて,この国号が定められたと見るべきでしょう。なお,「日本」という言葉自体は,朝鮮半島や日本列島を指す言葉として,東アジアで少なくとも7世紀末から使われており,それを国号に取り入れたものと考えられます。

このように,遣唐使の研究に携わって来て,今さらながら感じますのは,日本が唐の文化を丸ごと摂取するのではなく,自国にとって有用と判断したものを取り入れていることです。遣唐使の時代,世界的な文明大国であった唐の文化は,古代の日本にとって,政治や制度を含め,あらゆる面で学ぶべき存在でしたが,日本はそれを無条件で受け入れたのではありませんでした。例えば宗教や思想の面では,周知のとおり,仏教の受け入れには極めて熱心でしたが,唐で栄えた道教には冷淡で,道教の僧尼(道士・女冠)を備えた道教の寺院,即ち道観は,遂に日本には入りませんでした。取り入れられたのは,道教の一部であった各種のまじないに過ぎません。道教の祖とされた老子は,唐では帝室の祖先とされていました。従って道教を完全な形で受け入れれば,唐の皇帝の祖先崇拝を持ち込むことになりかねません。日本の為政者は,それを心配したのでしょう。

一方,受容した文化要素にも,見逃せない特色があります。例えば中国語も当然受容の対象となりましたが,それは主として書き言葉でした。唐の都の発音は,日本の漢字を読むときの漢音として定着したものの,話し言葉はほとんど受容されていません。遣唐使で渡った人々も,多くは会話ができず,一行の中の通訳がそれに当たりました。筆談をした結果,文章や文字の立派さを称賛された渡航者は少なくありませんが,それは,いわば怪我の功名というべきです。遣唐使の時代は200年も続いたのに,その間,唐やその他の外国から来日した人は,むしろ少数であり,それでは会話能力を必要とする環境は生まれません。延暦18年(799),南方から参河に漂着した異国人があり,その素性が分からないので,在留の中国人に尋ねて,初めて東南アジアの人だと分かったという事件などは象徴的です。

こうして日本は,唐から地理的に隔たっている条件を生かし,留学者が手に入れた情報や,輸入された書物をはじめとする文物を消化することで,極めて効率的に独自の文化を形成しました。中国文化圏の周辺にありながら,朝鮮・韓国やベトナムのように,人名や地名まで中国風にしてしまわなかったのも特徴的です。それどころか,9世紀には周辺民族のどこよりも早く,仮名という独自の表音文字を漢字から生み出しました。しかも人の交流は,日本から出掛ける以外は活発でなかったので,外国人が大規模に移住してくることで起こる文化や宗教上の摩擦は,皆無でした。9世紀の前半以降,唐の品物を載せた貿易船が大陸から頻繁に来航するようになり,文物の輸入に道が開けると,留学の意味が薄れた日本にとって,遣唐使を派遣する必要性は低くなります。寛平6年(894)に企画された派遣計画は,こうした情勢の下,衰えた唐の治安への懸念もあって実行されずに終わりました。このように外国との関係を自由に切り替えられるのは,地理的な条件に恵まれた日本ならではの特色と言わねばなりません。

遣唐使時代に,唐から日本文化の骨格となる要素を吸収した日本は,その後も必要とするものを選び取る姿勢で外国と接し続けました。中国との間には,室町時代の一時期を除き正式な国交がなかったこともあって,大陸を実地に見た君主や公卿 ,将軍はなく,官人や大名もほとんどいません。その必要がなかったのは幸いだったと言えるでしょう。ただ今日,交通や情報通信手段の目覚ましい発展によって,かつてのような地理的条件による有利さは享受できなくなりました。改めて遣唐使の時代を顧みて,日本の対外交流の特徴に思いを致すことは,いわば我々の成育歴を認識する意味で無益ではなかろうと思います。

※掲載の都合上,一部,実際の表記とは異なる


歴史のなかの工業化
一橋大学名誉教授
日本学士院会員
斎藤 修

18世紀の後半に英国で起きた産業革命は工業化を始動させ,後に近代経済成長と呼ばれることになる一世紀以上にわたった変化を引き起こし,私たちの生活をも大きく変えました。19世紀から20世紀は工業化の時代でありました。私の専門は経済史という,歴史学と経済学,両分野にまたがる領域でありますが,この学問自体,工業化という歴史現象が産み出したものでした。その誕生は,英国において始まった経済変化の帰趨が一段落し,他方ではアメリカが英国を追い越し,ドイツや日本,さらに両国の後を追いかける国々が登場した後のことでありました。この後発国で影響力をもっていたのがドイツ歴史学派と呼ばれる経済学でした。このグループは,各国,各文化には独自の個性があり,しかも歴史上の各段階はそれぞれ独自の経済様式を有すると考えましたので,近代をそれ以前の社会と峻別すると同時に,個々の国々の実態を重視する傾向がありました。それゆえ経済史の研究を促す大きな力となったのです。

しかし,経済史,経済発展論へのアプローチとしては異なる伝統もありました。政治算術学派以来の流れです。社会と経済の構造を数字によって記述・分析をするこの学問は,17世紀英国で生まれ,その立役者の一人ウィリアム・ペティは,当時のイングランドを隣国のオランダやフランスと比較する枠組を考え出しました。現在の国民所得論に対応するもので,それを現実のデータによって推計してみることを始めたのです。ペティの観察や分析は動力機械や工場がまだ存在しない時代になされたものでしたが,特定の時代や国に限定されない一般性を備えていました。この学派から近代の計量的な社会科学が生まれたといえます。しかし,このアプローチを歴史研究に活かす試みは新しく,盛んとなったのは1960年代以降ですが,私はこれまで主としてこの流れのなかで研究を続けてまいりました。

1.ペティの法則

ペティが残した観察に「農業よりも製造業が,また製造業よりも商業のほうが多くの利得がある」という命題がありました。三世紀後コリン・クラークという経済学者が労働力の統計を精力的に収集することにより,このペティの言葉を,経済発展に伴い一国の産業構造の比重が第一次部門より第二次部門へ,さらに第三次部門へ移るという「ペティの法則」として定式化しました。

クラークと同世代のサイモン・クズネッツは,ペティの名前を挙げることはしませんでしたが,労働力と産出高を使い分けた三部門枠組とシステマティックな観察とによってクラークが始めた仕事を完成させ,それによりノーベル経済学賞を受けました。

このペティ以来の伝統には,経済発展によって起きる構造変化への注目がありました。経済発展の基礎には産業レベルにおける生産性の向上があり,それが一国レベルでは一人あたり産出高と所得の増加となります。所得が増加すれば人びとの経済行動が変わり,必需品である農産物への支出が相対的に減少し,衣料品やテーブルウェアなど工業製品への支出が増加します。ペティが述べたように製造業は農業よりも「利得」が多い,生産性が高いとすると,支出面におけるこの変化は工業化を促し,技術革新を誘発します。人びとはさらに豊かとなり,労働力の価格も上昇,賃金の低い農業では働かなくなります。農産物は輸入しても労働資源を製造業へ移したほうがよくなります。この流れがさらに進めば,人びとの消費はやがてモノからサービスへ向かうでしょう。このように,一つの原理とそこから導出できる命題とによって歴史の趨勢を一貫して説明ができるのです。

しかし,現実の国々における経済発展と構造変化の軌跡をみますと,そう単純ではない,そもそものパターンがクラークやクズネッツの考えたのとは少し違うのではないかと思えてきます。私は十年余にわたって英国ケンブリッジ大学の同僚と一緒に人びとの職業データを収集することにより,労働力の面からこの定説を再検討する国際共同研究プロジェクトを主宰してきました。その成果がまとまりつつありますので,その一端をご紹介いたします。

2.労働力からみた工業化

日露戦後の1909年,日本の一人あたり国内総生産は1990年のドル建価格で計算すると1400ドルでした。この水準に対応する農業など第一次部門に就業するひとの割合は約60%,同じ所得水準で近い値のところを探しますとフランスやイタリアがそうでした。約四半世紀後の1935年,日本の一人あたり所得は1.7倍の2400ドルの水準に上昇,それに対応して第一次部門就業者割合も45%に低下しました。この農業従事者比率の低下もフランスやスペインといった西欧諸国でみられたことでありました。1400ドルとか2400ドルという水準に到達した時点はそれぞれ異なり,日本は遅いほうではありましたが,一人あたり所得が1.7倍増加をすると第一次部門の就業割合が15ポイント低下するというのが,当時工業化が進みつつあった国々の間でみられた趨勢であったことがわかります。

後に「世界の工場」と呼ばれるようになった英国の場合はどうだったのでしょうか。1400ドル水準に達したのは17世紀末だったと考えられています。1710年については推計があり,一人あたり所得1600ドル,第一次部門就業者割合が39%,第二次部門就業者割合は45%前後であったというのが最新推計です。産業革命以前に,鉱工業や建設業,商業サービスに従事する人びとのほうが農業従事者を上回っていたのが英国でした。つまり,英国の発展は平均的径路から大きく外れていて,それが産業革命の遂行と無関係ではなかったことを示唆しています。近代以前から職人や家内工業のかたちをとった工業化があり,それが労働使用的であったために第二次部門就業者比率が上昇したと同時に,一人あたりの平均所得もゆるやかに増加をしました。その延長上に18世紀末の生産技術・生産組織上の革新,産業革命が生じたとみることができます。

19世紀初めに英国の一人あたり所得は2000ドルとなり,世紀末には4000ドルに達しました。それぞれの水準に対応する第二次部門就業者比率は45%,49%でした。働く国民のほぼ半数が鉱工業と建設業に従事するようになったわけですから,たしかに世界の工場というのにふさわしい数字です。この4000ドル水準にあった国々をみましょう。英国に近似した例としてはベルギーがあり,45%。一方アメリカは21%でしかありませんでした。一人あたり所得の水準では19世紀後半に英国を追い上げ,抜きさったアメリカですが,経済構造は意外と工業的ではなかったのです。日本がこの4000ドルに到達したのは1960年頃,そのときの第二次部門就業者比率は28%でしたので,英国,ベルギーよりはアメリカに近い水準にありました。これら二グループの中間,35%前後にフランスやオランダが位置していました。

限られた事例ですが,ここからは,特定の所得水準に対応する第二次部門就業者比率の幅が大きく,第二次部門の場合,経済成長との関係が明瞭でなかったことがみてとれます。しかも,所得倍増にもかかわらず第二次部門就業者比率のほうはわずかしか上昇しなかったところが多いのです。英国とアメリカは2-3ポイント,日本で8ポイントの上昇でした。工業化の局面は,それに先立つ農業の比重低下や,後に生ずる経済のサービス化局面とは異なり,ペティの法則が想定していたのとは異なった要因も重要だったとみなければなりません。

製造業は最終的には消費財をつくる産業です。しかし,現実の製造業の多くは他の生産者のための生産に特化をしています。鋼材やボルトやナット,綿糸や絹糸などです。このような製品は同じものを大量につくることができるために,生産が拡大すればするほど単位あたり労働投入は少なくてすむ傾向にあり,雇用が生産の伸びに比例して増えるわけではありません。産業革命のように労働節約的機械が導入されればなおさらです。工業化が進んでいたにもかかわらず第二次部門就業者比率が伸び悩んだのは,このような理由からとみることができます。

一方,製造業でも完成品の組立や消費財の生産は相対的に労働使用的です。その製品を消費者のところに届ける運輸業や商業はもっと人手のかかる業種です。鉱石や石炭の採掘もそうです。したがって,成長産業では雇用が生産の伸びほど増えず,成長産業の拡大とともに雇用が伸びたのはそれを取りまく様々な業種だったといえるでしょう。

これを国際的にみると,完全な国際分業が存在すれば,先進諸国では最先端の技術に依拠した労働節約傾向が支配的となるのに対して,後発国では労働集約的な産業に特化すると予想できます。しかし,ここでも現実は複雑で,後発国であっても先進国に追いつくために無理をしてでも労働節約的な技術の導入を行うところがあるでしょう。そのときは,先進国並みの近代部門と旧態依然とした伝統部門とが截然と区別された二重構造的な経済となります。他方,工業化自体を断念し,農産物の輸出に特化をして,そのための商業・運輸サービスの充実を目指すところもあるかもしれません。このように,工業化の時代は実は多様な径路がありえたのです。経済発展の程度からみたとき,第二次部門就業者比率が様々な値をとったのも工業化路線の多様性の反映でありました。

わが国の高度成長までの工業化はといえば,労働集約的な路線と二重構造的な径路の混合でありました。1920年頃までは前者が支配的,それ以降は後者に重点が移り,しかも国家誘導の1930-40年代と民間主導となった戦後とに区分できます。

3.工業化を超えて

歴史のなかでは工業化の時代は一つの局面にすぎません。ペティが予測したように,いまでは多くの国々で製造業が比重を低下させ,それに伴ってサービス業に携わるひとが増えています。日本においても,2015年の国勢調査によれば第二次部門は4分の1以下,いまや就業者の3分の2がサービス関連の仕事をしているのが実情です。日本では1990年以来,経済成長率が鈍化し,「失われた20年」といわれたりしております。ときには,それを製造業の問題と捉える論調すらみられます。しかし,製造業シェアの縮小自体は豊かな社会が産み出したもので,その流れを止めることはできません。問題は別のところにあります。

製造業は本質的に収穫逓増的な営みと申しました。それとの対比でいうと,多くのサービス業は本来的に労働使用的です。ただ,そのなかにきわめて付加価値の高いサービスを生み出す業種が登場することがあります。英国のロンドン金融センター,アメリカのIT産業,イタリアの歴史的遺産を活かした観光業などがその例です。とくに前二者は多くの就業者を吸収しただけではなく,経済成長のエンジンともなりました。現在の日本において欠けているのはこのようなサービス業種です。それがないかぎり,脱工業化によって生じた余剰労働力の受け皿でしかないサービス産業化が続くことになります。従来とは違ったタイプの革新が求められている,それが歴史から学べることではないでしょうか。


沈み込み帯の地震の発生メカニズムと火山の成因
東北大学名誉教授
長谷川 昭

地震は地球上の至る所で発生するわけではなく,地震帯と呼ばれる細長い帯状の領域に密集して発生しています。太平洋の周囲に細長く伸びる環太平洋地震帯は典型的な例で,そのような帯状の地震帯が何本か地球を取り巻くように分布しています。何故地震が地震帯に沿って起こるのか,その原因を明快に説明したのが1960年代に登場し地球科学に革命を起こしたプレートテクトニクスでした。プレートテクトニクスによれば,地球表面は十数枚のプレートと呼ばれる固い岩板で覆われ,プレート同士は地球表面に沿って相対的に動いています。地球内部の熱を地表面まで運びそこから宇宙空間に放出するために地球内部に対流が生じますが,この対流運動の一翼を担って,地球表面でプレート同士が相対的に運動しているのです。プレートの相対運動には,プレート同士が,互いに近付く,離れる,擦れ違う,の三種があり,この三種の相対運動に応じて,プレートが互いに接する境界,すなわちプレート境界にも,収束型,発散型,平行移動型の三種があります。地震活動,火山活動,造山運動,地殻変動など,地球表面で生じる主要な変動は,プレート境界での相互作用が原因で起こる,これがプレートテクトニクスの基本的な考え方です。つまり,地球を取り巻くように細長く伸びる地震帯は,実はプレート境界に沿って分布しているのです。

収束型プレート境界,すなわちプレート同士が互いに近付くプレート境界では,プレート同士がせめぎあって上下に重なります。海のプレートと陸のプレートが近付く場合,冷たい海のプレートの方が重いので,海溝から陸のプレートの下に沈み込みます。その場所が,日本列島のようなプレートの「沈み込み帯」です。日本列島では地震や火山活動が極めて活発ですが,それは沈み込み帯に位置しているからです。

沈み込み帯で発生する地震には,主として三種類あります。沈み込む海のプレートとその上の陸のプレートとの境界で発生する「プレート境界地震」,上盤側の陸のプレート浅部で発生する「内陸地震」,沈み込んだ海のプレートの内部で発生する深い地震です。陸のプレートの下に沈み込んだ海のプレートをスラブと呼ぶので,三番目の深い地震は「スラブ内地震」と呼ばれます。さらに,沈み込み帯では,沈み込んだ海のプレート直上のマントル内でマグマが生成され,それが地表に噴出して火山を形成します。

プレート境界では,海のプレートの沈み込みに伴ってその上の陸のプレートとの間に固着が生じ,やがて強度の限界に達して固着がはがれ急激に滑るのがプレート境界地震と考えれば,何故プレート境界地震が沈み込み帯で発生するのかは容易に理解できます。しかし,プレート境界地震以外は必ずしもそう容易には理解できません。例えば,沈み込んだ海のプレート(スラブ)内では深いため非常に高い圧力になりますが,そのような深さで何故地震という破壊現象が生じるのか。内陸地震は,海溝から陸側に数百㎞までの範囲の上盤プレート浅部で発生しますが,何故そこだけで地震が発生するのか。冷たい海のプレートが沈み込む場所(沈み込み帯)で何故高温のマグマが噴出するのか。これらは必ずしも自明のことではありませんでした。プレートテクトニクスの登場により理解が格段に進展したとは言え,すぐに全てが理解できたというわけではなく,これらの問題は謎として残されていたのです。

最近になって,地球内部の構造をかなり詳しく見ることができるようになり,これらの謎が次第に明らかになってきました。それには,近年の地震観測網の整備と地震波トモグラフィの解像度の向上が大きく貢献しています。地震波トモグラフィは,医学のCTスキャンと同じ原理でX線の代わりに地震波を使って地球内部の構造を三次元的に求める手法で,1977年に当時MITの教授であった安芸敬一博士らによって開発されました。その後,多くの研究者により手法の改良が加えられ,また地震観測網も整備されてきたことにより,当時と比べ,現在では解像度が格段に向上し,地球内部の構造が詳しく見えるようになりました。その結果,私たちが研究してきた東北日本を始めとして,沈み込み帯で発生する地震や火山現象には水が深く関わっていることが見えてきました。

海のプレートは,大洋の中央部にある発散型プレート境界である中央海嶺で生成されます。その後,地球表面を水平に移動し,やがて沈み込み帯に達すると海溝から陸のプレートの下に沈み込みますが,それまで長期間にわたって海の下にあります。その間,様々な原因で海のプレート内部に海水が浸入します。浸入した水は,結晶構造の中に水を取り込んだ含水鉱物としてプレート内に固定されます。つまり,沈み込む前の海のプレートには,相当程度の水が含まれているのです。海のプレートが沈み込むと深さとともに温度と圧力が上昇するので,やがて海のプレート内の含水鉱物の一部は脱水して分解し高圧側の結晶構造の鉱物に変化します。つまり,海のプレートが水を吐き出します。沈み込み帯では,このようにして海のプレートが水を地球内部に運びますが,その一部は,含水鉱物が分解することによりプレート沈み込みの途中で吐き出されます。吐き出された水は浮力でそこから上昇しますが,その水が沈み込み帯で発生する地震や火山現象に重要な役割を果たしていることが見えてきたのです。

なお,スラブ内の含水鉱物の一部はスラブによってマントル中をさらに深部まで運ばれていくので,沈み込み帯では海水が地球内部に吸い込まれることになります。その量は世界中の火山活動で地表に吐き出される量よりも多いと推定され,したがって,海水は少しずつマントルに吸い込まれているのです。

さて,陸のプレートの下に沈み込むスラブの中では次第に圧力が高くなり,そのため地震を起こす断層はその破壊強度が非常に高くなります。したがって,断層の強度を低下させる何か特別なメカニズムが働かなければスラブ内地震は発生しないはずです。これまで幾つかの仮説が提案されてきましたが,その一つに,スラブ内の含水鉱物の分解により吐き出された水が断層面に入り込み水圧で断層の強度を低下させ地震が発生するという説があります。そうであれば,スラブ内地震はスラブ内で含水鉱物の分解により吐き出された水が存在している場所だけで発生するはずです。

1995年兵庫県南部地震後に日本列島に構築された地震観測網は従来にない高密度・高精度のデータを提供し,その結果,地震波トモグラフィなどでスラブ内の地震波速度構造を求めることができるようになりました。海のプレートは,上から海洋地殻と海洋マントルの二層で構成されます。海洋地殻内の含水鉱物は,ある特定の温度と圧力で分解し水を吐き出し高圧側の鉱物に変化します。それに伴い地震波速度が変化します。この温度と圧力及び地震波速度の関係は室内実験などで推定されていますので,沈み込んだ海洋地殻内の地震波速度の分布が分かれば,どこで水を吐き出したかが推定できます。日本列島の地震観測網データを用いた地震波トモグラフィは,太平洋プレートの海洋地殻内で,確かに吐き出された水が存在していると推定される場所でスラブ内地震が集中して発生していることを明らかにしました。さらに,海洋マントルでも,地震波速度が低速度で水が存在すると推定される場所で地震が集中して発生していることも明らかになりました。これらの結果は上記の説を裏付けるもので,沈み込む前にプレートに固定された含水鉱物が沈み込んだ後に脱水分解しそれにより生じた水がスラブ内地震の発生に重要な役割を果たしていることを示しています。

火山の源であるマグマが地下深部のどこで生成され,そこからどのように上昇して地表に達するかは,主として実験岩石学や物質科学,地球化学から研究が進められ,沈み込み帯の火山についても徐々に理解が進展してきました。一方で,火山直下の地殻やその下のマントルでマグマがどのように分布しているか,その三次元構造の情報は極めて不十分でした。

近年の地震波トモグラフィは,この課題を克服してマグマの空間的広がりや三次元構造も明らかにしました。東北日本下のトモグラフィで,沈み込むスラブに引きずられて上盤側のマントルに生じる二次的な対流が,スラブにほぼ平行な上下二層の傾斜した地震波低速度層として検出されました。上下二層はそれぞれ上昇流と下降流に相当し,上昇流は東北日本中央部を縦断する火山フロントと呼ばれる火山の並びに向かって分布し,それが地殻の底まで達すると,そこから地表の火山までさらに地震波低速度域が伸びています。1969年にイギリスのマッケンジーが,沈み込むスラブに引きずられてその上のマントルに二次対流が生じることを予測しましたが,東北日本でそれが実際に観測から確かめられたのです。さらに,上昇流内の流体の量や形態,温度などが推定され,この高温の上昇流にスラブから吐き出された水が付加することで岩石の融点を下げ,そのため上昇流内の岩石が部分的に溶融し,生成されたマグマが地表まで達することにより火山が形成されるというモデルが提唱されました。この二次対流は,冷たい海のプレートが沈み込む場所(沈み込み帯)で,何故高温のマグマが噴出するかの謎に明快な解答を与えるもので,その後,このような上昇流の存在は世界中の沈み込み帯で確認され,その普遍性が明らかになりました。ここでも水が,岩石の融点を下げることでマグマ生成に寄与しています。

水が断層面に入り込み水圧で断層強度を下げ地震発生を促進させているのは,スラブ内地震だけでなく,どうやら,内陸地震やプレート境界地震でも同様ではないかと思われます。陸のプレートの下に沈み込んだスラブから吐き出された水は浮力によって上昇し,やがては地殻の浅部にまで達します。スラブから吐き出された水がどういう経路をたどって地殻浅部にまで達するかも,ある程度推定できるようになり,吐き出された水が上昇してきた場所で内陸地震が集中して発生していることも明らかになりました。観測から得られた断層強度の値も内陸地震の発生に水が関与していることを支持します。内陸地震は,海溝から陸側に数百㎞までの範囲でのみ発生し,それより遠方ではもはや発生しなくなりますが,それは海溝から離れた場所では直下のスラブからの水の供給が途絶えると考えれば容易に理解できます。このように,内陸地震の発生にも水が寄与していると推定されるのです。

海のプレート最上部の堆積層に含まれていた水とスラブから吐き出されそこから上昇しプレート境界に達した水を合わせると,プレート境界には多量に水が存在するはずです。この水がプレート境界地震の発生に重要な役割を果たしていることも見えてきました。2011年東北沖地震では,プレート境界の強度が低いことが観測から示されましたが,これも水が強度を下げたことが原因と考えられます。また,南海トラフ沿いのプレート境界では,将来大地震を起こす固着域の周りでずるずるとゆっくり滑る「ゆっくり地震」が半年~数年の間隔で周期的に発生していることが明らかになり,大地震との関係で注目されていますが,このようなゆっくり地震はプレート境界面で水の圧力が通常の地震の場合よりずっと高いことで生じると推定されます。

以上のように,沈み込み帯で発生する地震や火山現象には,水が極めて重要な役割を果たしていることが見えてきました。そうは言っても,地震を予測するには地震の発生メカニズムについて我々の理解はまだまだ足りません。将来,理解が一段と深まって地震の予測につながることを期待します。