講書始の儀におけるご進講の内容(平成31年1月11日)


日本妖怪文化再考
人間文化研究機構国際日本文化研究センター所長
小松 和彦

物理学者であり優れた随筆家でもあった寺田寅彦は,妖怪について,「人間文化の進歩の道程において発明され創作されたいろいろな作品の中でも『化け物』などは最もすぐれた傑作と言わなければなるまい」(「化け物の進化」)と述べており,また,日本民俗学の創始者・柳田國男も,「我々の文化閲歴のうちで,これが近年最も閑却せられた部面であり,従ってある民族が新たに自己反省を企つる場合に,特に意外なる多くの暗示を供与する資源でもある」(「妖怪談義」)と述べています。

ところが,この「人間文化の傑作」,「民族の自己反省の資源」と評された「化け物」すなわち「妖怪」の研究は,日本では長らく低調を極めておりました。その理由の一つは,妖怪は人々を惑わし,健全な生活を妨げる迷信であって,科学的・合理的に説明することによって撲滅すべき対象として,長らく印象づけられてきたことにあるようです。実際,近代における妖怪研究の先駆者とも言える哲学者の井上円了は,妖怪の撲滅に精力を注ぎました。したがって,そのような,撲滅された過去の遺物を研究したところで,現代人に益するところは少ないというわけです。しかし,そうなのでしょうか。

「妖怪」は,曖昧で掴みにくい概念ですが,ここでは差し当たって,人知の範囲を超えたあらゆる次元,すなわち超自然的,神秘的な領域にかかわる存在や現象,と理解しておきたいと思います。また,妖怪は,今日の観点からみれば非科学的なのですが,その時代その時代の人々の生活において,警戒心や恐怖心を引き起こすような不思議な出来事の,当時としては納得でき,かつ,便利な「説明装置」となっていたという側面も忘れるわけにはいかないでしょう。そして,とりわけ強調したいのは,妖怪は,寺田寅彦も柳田國男もしっかり認識していたように,人間の想像力が生み出した「文化」であるということです。

たしかに,近代以降,この「迷信=誤った説明」としての妖怪は,撲滅され続け,その結果,妖怪を信じる時代は,多くの人々にとって遠い昔のことになりました。しかしながら,実生活の領域において,例えば,狐が人に憑くとか川に河童が棲んでいるといった信仰は否定されたとしても,そうした妖怪たちをめぐって生まれた文化は,内容が誠に豊かであり,また私たちの生活文化の領域にも様々な形で影響を与えています。とくにフィクションの領域における妖怪の活躍は目覚ましいものがありますが,これらの妖怪たちは,先人たちの妖怪文化を栄養分として生み出されたものと言えるでしょう。

日本の信仰文化の基層には,あらゆる事物・現象に「霊魂」を見出すアニミズムがあるとされています。日本の妖怪文化も,このアニミズムという土壌から生み出されました。これらの霊魂は擬人化されており,人間と同様に喜怒哀楽の感情を持ち,怒れば人間に災いをもたらし,喜べば幸いをもたらすと考えていました。つまり,あらゆる存在や現象は,時と場合によって妖怪化する可能性を持っているとみなされていたのです。また,妖怪化した霊魂を和ませたり制御したりするためには,祭祀・儀礼が必要でした。

科学的・合理的な考えが発達していなかったため,時代をさかのぼればさかのぼるほど,多くの怪異・妖怪現象が認知され,その原因として妖怪の存在が想像され,また,災厄を予防したり鎮めたりする祭祀・儀礼が頻繁に行われ,さらには,それに対応するような,妖怪をめぐる物語も数多く語られたものと思われます。邪悪な妖怪を追い払う儀礼と妖怪を退治する物語は,密接に結び付いて伝承されてきたのです。

日本の妖怪文化の歴史を簡単に振り返ってみますと,例えば「記紀神話」の中のスサノオノミコトによるヤマタノオロチ退治の話のように,古代でも妖怪のたぐいの記事や物語はたくさん語られていますが,日本の妖怪文化を特徴づけることになる大きな転機は,古代末から中世頃に見られるようになります。その一つは,それまでは通常は見えないとされていた妖怪たちの姿かたちが,絵巻などに描かれるようになったことです。

最初は,例えば陰陽師や密教の僧などの宗教者が病気なおしの儀礼をする場面を描き込んだ「春日権現験記絵巻」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)や「泣不動縁起絵巻」(清浄華院蔵),「餓鬼草紙絵巻」(東京国立博物館蔵)などに,疫病などの災厄の原因と想像された,異様な姿をした「疫鬼」=「もののけ」が描かれ出しましたが,やがて,「大江山絵詞」(逸翁美術館蔵)や「土蜘蛛草紙絵巻」(東京国立博物館蔵)のような,人々を悩ます鬼や土蜘蛛の妖怪などを武将たちが退治する絵物語も描かれるようになりました。

恐らく,当時はまだ絵巻の作者やそれを主に享受した貴族たちは,山や夜の闇の奥の「異界」からやってくる妖怪を,なお怖れていたはずです。しかし,その一方では,絵の中の妖怪の姿かたちを見て楽しんでもいたのです。さらに言えば,見えなかった妖怪を造形化することで,妖怪への恐怖を少しでも克服し,人間の優位性を示そうとしていたとも言えるでしょう。

中世ではまた,日本の妖怪文化を特徴づける,もう一つの変化が見られるようになります。「百鬼夜行絵巻」などと題されている絵巻に,後に「つくも神」と呼ばれるようになる,古道具の妖怪たちがたくさん描かれるようになったことです。自然界に存在する動物や植物,山や川,石,雷などの事物・現象は人間が作り出したものではないため,勝手に増やしたり減らしたりすることができません。しかし,道具類は人間が作り出したものであり,次々に新しいものを作り出すことができます。ということは,つくも神もまたそれに合わせて増殖していく可能性が拓かれたということでもあります。つまり,つくも神の登場によって,妖怪の種類は飛躍的に増加したのです。

さらに言えば,そうした妖怪の造形は,恐怖心を煽るためには巨大化したり異形性を強調したりすればよいと思われるのですが,しだいに等身大もしくは小さく描かれ,異形ではあるものの,滑稽さを伴った,親しみさえも感じるような姿かたちのものが多くなってきました。これは,妖怪絵巻を見て楽しむという娯楽的側面がさらに強調されたことを示していると言えるでしょう。

日本の妖怪文化におけるもう一つの画期は,近世になって起こりました。当時もまだ,人々は妖怪の信仰的側面を完全に断ち切ったわけではありませんでしたが,妖怪の物語や絵画を楽しむという傾向は一層強くなり,「百物語」と称する怪談を楽しむ会が催されたり,化け物が登場する大衆的な小説や絵本が編まれたり,浮世絵師・鳥山石燕の「画図百鬼夜行」のような妖怪図鑑も作られるようになり,しかも,そのなかには,絵師自身が想像し造形したと思われるような妖怪も描き込まれるようになりました。つまり,人間が新種の妖怪を作り出すことができるようにもなった,言いかえれば,その種の妖怪は超自然的な存在ではなく,絵師や物語作者たちの作品世界の中の創造物,現代風に言えばキャラクターとなったのでした。そして,こうした妖怪図鑑や一枚物の妖怪絵,妖怪小説類は,木版技術の向上を背景に,大量に刷られて江戸などの都市の住民を中心に広く浸透していきました。近世は信仰としての妖怪の衰退とは裏腹に,娯楽としての妖怪が大いにもてはやされた時代でした。

日本の妖怪文化のもう一つの特徴は,妖怪種目(種類)の多さです。これは民間のレベルで生じていた怪異現象の「名付け」に起因しています。例えば,畳を叩くような怪異現象があるとそれを「畳叩き」と名付け,小豆を洗っているような怪異現象があれば「小豆洗い」と名付けるといったように,全国各地で怪異現象の名付けがなされ,そのような妖怪種目名は数え切れないほどです。こうした数多くの,名付けられた,民俗的な怪異現象としての妖怪種目も,近世以降,絵師たちの想像力によって絵画化されていきました。例えば,上述の鳥山石燕などはその先駆者と言えますが,現代でも,マンガ家の水木しげるが,晩年に,そのような民俗的妖怪の造形・絵画化に精力的に取り組み,多くの妖怪画を残したことは,周知のことと思います。

以上,簡単に日本の妖怪文化の特徴を述べました。それでは,妖怪文化を研究することの意義はどこにあるのでしょうか。

ここでは,主な意義を三つほど挙げておこうと思います。

一つは,妖怪文化研究は,従来の日本文化史の欠逸部分を補い,一層厚みのあるものにする,という意義です。妖怪文化は一面において宗教・信仰史にかかわり,また他面においては文学や美術,芸能,遊戯などの芸術・娯楽ともかかわっています。

人々に幸いをもたらす神や仏があれば,災厄をもたらす魔物や鬼もあり,双方は「対」の関係・相補的関係となって,信仰世界を成り立たせているのです。神や仏の理解だけでは信仰世界を深く理解できないでしょう。例えば,この方面の研究を進めた柳田國男は,妖怪を神への信仰の衰退と捉えて,前代の信仰の復元に利用しようとしました。

また,能や浄瑠璃,歌舞伎,浮世絵,見世物,遊戯などの芸術・娯楽にも,妖怪は登場します。風俗学・風俗史の研究者の江馬務は,文化史の一部として妖怪を取り上げ,妖怪表象の分類・変遷を概説しましたが,それにとどまり,研究を深めるには至りませんでした。

私どもが進める近年の新しい学際的な妖怪文化研究は,柳田や江馬の仕事を批判的に継承するかたちで生まれてきたと言えるでしょう。

もう一つの意義は,日本文化論や日本人論を組み立てるための重要な素材となる,ということです。妖怪には,その時々の人々の喜怒哀楽が託されていました。それを読み解くことで,作者の思想や心性,人々の自然観や世界観,生活の様子などを明らかにでき,またそれを媒介に,比較文化論や人間論も展開することができると思われます。妖怪は人々の生活・思想を写す鏡となっていたのです。

三番目の意義は,文化資源としての妖怪文化です。日本の妖怪文化は長い歴史をもち,関連する文化物をたくさん蓄積してきました。それらは単なる過去の遺物ではなく,現代においてもそれ自体として楽しむことができるものもたくさんありますが,さらに小説や映画,アニメ,コミック,ゲームなどといった現代の大衆・娯楽文化を生み出す素材ともなっています。妖怪など研究しても現代人に益するところは少ないと評されてきましたが,じつは先人が残した厖大な妖怪文化の遺産を発掘し,分析・研究するという営みは,現代文化の創作者たちの想像力を刺激し,新しい日本文化,大衆・娯楽文化の創造に大いに貢献しております。

日本の妖怪文化は,このように,たいへん豊かな内容をもっており,しかも大衆・娯楽文化においては,今もなお増殖し続けていると言えるでしょう。とりわけ世界の妖怪文化と比較しても,視覚・造形芸術の面で特筆しうるものであると,国内外の研究者から高く評価されています。

しかしながら,新しい観点からの,すなわち学際的・総合的な文化論としての妖怪文化研究は,まだ端緒についたばかりであり,今後一層発展・深化させ,体系化させるとともに,その成果を様々なかたちで広く周知させていく必要を痛感しております。


日本のコーポレート・ガバナンス
東京大学名誉教授
日本学士院会員
江頭 憲治郎

コーポレート・ガバナンス(企業統治)という言葉を新聞等で頻繁に見るようになりましたが,この言葉が使われ始めたのは,米国でも1980年代の前半,日本を含むそれ以外の国では1990年代の前半であり,さほど古いことではありません。

日本では,あいまいな意味に使われることも多いのですが,“コーポレート・ガバナンス”とは,上場会社の経営者に対する監督(規律づけ)の仕組みのことです。“経営者”とは,法律用語では「代表取締役」,「業務執行取締役」等,一般の用語では「社長」,「専務取締役」,「常務取締役」等と呼ばれる役職の人たち,すなわち,常勤で会社の業務執行,つまり,事業戦略の決定,経営目標達成のための計画の立案,経営資源の購入・配分,製品の販売,従業員の管理等の会社の最高意思決定を行っている人たちです。なぜ上場会社の経営者に対する監督が社会の重要問題なのかというと,その人たちの行動または不作為等が経済社会に及ぼす影響は極めて大きいからです。最近の日本企業の競争力の減退は,米国やアジア諸国に比べて優秀な経営者が少ないからともいわれます。米国では,年収が日本円に換算して数十億円という例が稀ではない経営者と一般勤労者との報酬の格差が批判されることが少なくありません。

上場会社の経営者に対する監督は,既に20世紀の前半から大きな社会問題であると認識され,“経営者支配”の問題と呼ばれてきました。経営者支配とは,経営者は取締役会で選定され,取締役は株主総会で選任されることから,制度的には,経営者は株主の意向に沿って選任されているはずのところ,上場会社では大株主が消滅し,株式所有が分散したため,株主が株主総会においてその意思を集約することが困難となり,事実上,経営者が指名する者を取締役に選任するほかない状況,すなわち,経営者が自分で自分の人事を決めている状態をいいます。こうした形で経営者に対する監督は実質的に失われているという認識が米国では1930年代に支配的になり,日本については,戦前は財閥企業等もあったことから,上場会社に経営者支配が浸透していたか否かについて学説上争いもあるのですが,戦後の日本の上場会社には強固な経営者支配が行われていると認識されてきました。

コーポレート・ガバナンスという言葉が米国に現れた1980年代前半は,こうした経営者支配に転機が訪れた時期,すなわち,強固な経営者支配が崩れ,「上場会社の経営に対して株主の意思を反映させることは,容易ではないにせよ,必ずしも不可能ではない」という状況が米国に出現した時期に当たります。

状況を変化させた第一の要因は,機関投資家の持株比率の増加です。機関投資家とは,投資信託,年金基金,保険会社など,公衆の小口資金を集めて証券市場で運用している機関です。米国では,1950年頃まで上場会社の株式時価総額の90パーセントは個人投資家に保有されていましたが,その後機関投資家の持株比率が着実に増加し,2000年代には内外の機関投資家が63パーセントを保有するに至りました。すなわち,上場会社には大株主がいない状況ではなくなったのです。もっとも,大株主であれば直ちに経営者を監督する意欲を持つわけではありません。会社の経営に不満がある株主にとって,経営者に物申すより,株式を売却して株主でなくなる方が簡単だからです。

1980年前後の米国で大株主が経営者を監督する意欲を持ち始めた要因は,二つあります。一つは,1970年代に出現した投資ファンドです。投資ファンドとは,少数の富裕な個人または法人から委託された資金を証券市場で運用する機関で,この時期に金融技術の革新によって生まれました。投資ファンドには,会社を買収し,経営を改善した後に株式を売却することを目的とする“バイアウト・ファンド”と,5パーセント程度の株式を取得した上で経営者に要求や助言を行う“ヘッジ・ファンド”とがありますが,いずれも,経営改善によって株価が上昇することが期待される会社の株式を,当初から経営に介入する意図で取得する大株主である点が,伝統的な機関投資家と異なります。バイアウト・ファンドが採る最も極端な手法が,“敵対的企業買収”と呼ばれるものです。

もう一つは,機関投資家の一つである従業員退職年金基金の運用者の監督権限を持つ米国労働省が,1988年に,株主総会における議決権行使等においても年金基金は年金受給者の利益を図らねばならないとしたことです。これによって年金基金をはじめとする機関投資家は,経営者が提案する株主総会の議案にたやすく賛成することは許されなくなり,そこで議決権行使助言会社と契約して,その助言に基づいて議決権を行使する形をとり始めました。その結果,米国の株主総会では,大手の議決権行使助言会社の助言に従った機関投資家が一斉に経営者の提案に反対する議決権行使を行う事態が稀ではなくなりました

以上が1980年代の米国の動きですが,戦後の日本の上場会社については,1990年代初頭のバブル経済の崩壊に至るまで,米国以上に強固な経営者支配が存在すると見られていました。その理由は,個人大株主の消滅に加えて,日本には,取引先企業が株式を所有する“株式持合い”と呼ばれる慣行が存在したことです。取引先企業は,取引関係を維持するためにも現職経営者を支持する必要があり,したがって,株式持合いは,経営者支配を強固にします。株式持合いの持株比率がどの程度であったかは,統計上明確にするには難しい点があるのですが,私の計算では,1990年代半ばまで,上場会社の株式時価総額の50パーセント超を占めていました。

日本でコーポレート・ガバナンスという言葉が使われ始めたのは,1990年代の前半,バブル経済の崩壊及び経済のグローバル化の進展によって,上場会社の経営者に対する株主の視線が厳しくなったのと軌を一にします。バブル経済の崩壊によって不良資産を抱えた金融機関及び事業会社の経営者の責任を株主が追及する“株主代表訴訟”がこの時期に頻発しました。また,90年代には,上場会社の株式所有に大きな変化が起きました。株式持合いの中核的存在で,最盛期には上場会社の株式時価総額の13パーセント超を有した取引先金融機関の持株比率が1997年のバーゼル規制の施行後急速に減少し,2017年度末には3パーセント台まで減少しました。それに代わって大きな存在となったのが外国法人等(外国機関投資家・投資ファンド)であり,2017年度末の持株比率は30パーセント超となりました。それによって,日本でも,議決権行使助言会社の影響力が無視できなくなりました。なお,日本の株式市場における内外の機関投資家・投資ファンド等の上場株式の持株比率は,2017年度末には,ほぼ50パーセントです。

ここ4年ほど,日本では,“コーポレート・ガバナンス”がこれまで以上に大きな注目を集めています。その理由は,コーポレート・ガバナンス改革が政府の“成長戦略”の一環と位置づけられ,政府が制度改革に乗り出したからです。2014年には,「日本再興戦略」という閣議決定に基づき,金融庁は,機関投資家を名宛人とする“スチュワードシップ・コード”を公表し,続いて,「日本再興戦略・改訂2014」に基づき2015年には,金融庁及び東京証券取引所が上場会社を名宛人とする“コーポレートガバナンス・コード”を公表し,後者は,証券取引所の規則に取り入れられました。また,2014年には,会社法の改正も成立しました。この一連の改革によって取られた措置の特徴は,その名宛人である上場会社や機関投資家に対して一定の行為を命ずるのではなく,各名宛人に,それぞれの事情に応じて「コンプライ・オア・エクスプレイン」,すなわち,ある行為を実施するか,実施しない場合にはその理由を説明するかを求めるという柔軟な手法を採用していることです。こうした手法は,1990年代の英国で始まったものです。英国がそのような手法を開発したのは,それが“シティ”と呼ばれる英国金融界の自主規制であったことに由来するのですが,今まで述べてきたように,世界的にコーポレート・ガバナンスには,米英の影響力が極めて強いことは否定できません。

政府主導で脚光を浴びているここ4年ほどの制度改革の中には,取締役会の中にあって経営者を十分監督することが期待される「独立社外取締役」を選任する上場会社が激増したことをはじめ,目に見える影響を及ぼしつつある事項もあります。しかし,多くの事項については,まだ改革の影響は明確ではありませんし,独立社外取締役の選任がどれほどの効果をあげるかも今後の課題です。細かい事項について述べる時間的余裕はありませんので,以下では,最近の動きの中で,大きな視点から見た場合に日本の特色として興味深い点を二点述べたいと思います。

第一に,政府は「攻めのガバナンス」という言葉を使うのですが,政府は,コーポレート・ガバナンスの強化が「会社の持続的な成長」につながると考えている点です。これは,政府自身も認めているようにかなり特殊な認識であって,これまでの通常の認識は,コーポレート・ガバナンスすなわち経営者に対する監督の強化は,「株主・投資家の信頼の獲得」に役立つというものです。「会社の持続的な成長」は,会社の売上高とか利益の増加,すなわち企業価値算定の算式における分子の増加であり,一方,「株主・投資家の信頼の獲得」は同じ算式の分母の減少なので,いずれも会社の企業価値の増加(言い換えれば株価の上昇)に寄与するものではあるのですが,寄与の仕方は同じではありません。

第二に,日本のコーポレート・ガバナンスについては,従業員の雇用システムが極めて大きな影響を有する点です。例えば,独立社外取締役の設置によって優秀な経営者が多く選抜されることになれば,たしかに「会社の持続的な成長」が実現されるわけですが,従業員の中から経営者が選抜されるという日本のこれまでの経営者選抜システムを前提にすると,独立社外取締役にその判断能力があるのかという問題があります。つまり,独立社外取締役は社外の人材に関する情報に通じているので,他社で業績をあげた人材を経営者に招聘するという米国型の経営者選抜システムにおいては力を発揮するとしても,日本ではどうかという点です。また,日本のシステムは,従業員が入社後約30年の長い昇進競争を経て経営者に選抜されるという「遅い昇進方式」を特色としており,外国人にはそのシステムが理解されないため,優秀な若い外国人が採用できず,国際的な人材獲得競争に後れをとる等の懸念も指摘されています。それから,米国では投資ファンドがコーポレート・ガバナンスに大きな役割を果たしたわけですが,日本は,国際比較で見ると,バイアウト・ファンドの活動が極めて低調な国であり,また,経営者に物申す外資系ヘッジ・ファンドを追い出してしまった特殊な国でもあるのです。特にバイアウト・ファンドの活動が低調な理由は,ファンドに買収されると従業員の人員削減が行われるという不安から,それを歓迎されざるものと見る風潮が社会一般にあるからであると思われます。終身雇用制が原則である日本では,「買収直後には一般企業と比べて雇用の削減率が高くなるとしても,長期的には,削減した分を上回る雇用を生み出している」という,バイアウト・ファンドの主張が通用しないのです。従業員の雇用システムは,日本社会に深く根付いたものであり,簡単に変わるものではありませんが,それだけに,日本のコーポレート・ガバナンス改革に特殊な制約があることも事実です。


免疫の力でがんを治せる時代
京都大学高等研究院特別教授
京都大学大学院医学研究科特任教授
日本学士院会員
本庶 佑

近年の医学の進歩によってヒトの平均寿命は著しく伸び,日本人女性は87歳,男性は81歳と報告されています。このような長寿社会を迎え,従来からの課題である「どのように幸福に生きるか」だけではなく,今や「どのようにして幸福な死を迎えるか」ということが重要な課題となっております。私も含めて大多数の人が病にかからず自然死を迎えたいと願っていると思いますが,残念ながら,大部分の人が病で亡くなります。我が国では病死の中でもがんは30%を占め,毎年100万人が新たにがんと診断され,40万人が亡くなっています。また,人口の高齢化と共にがんの発症者数と死亡者数は年々増加しております。

がんの治療法も徐々に進歩を遂げており,乳がん患者では5年以上生存する率は91%で10年以上生存する人も珍しくありません。しかし,中には膵臓がんや肺がんのように5年生存率が10%未満から40%程度と治療成績の低いがんもあります。これまでのがん治療法は,外科的手術,放射線照射及び抗がん剤投与が主流です。これら三つの治療法を,がんの種類や進行度によって組み合わせて治療します。不幸にして治療が成功せず,末期がんとなった患者の苦しみを見聞きすることによって,がんは最も恐ろしい病だと多くの人が考えています。

ところが,2011年から2014年にかけて自分が持つ免疫力を高めることによる新しいがん治療法が実用化されました。新しいがん免疫療法は従来のがん治療法が成し得なかった,次の三つの大きな福音をもたらしました。第一に従来の方法では全く望みがなかった末期がん患者のうち20から30%が救われたこと,第二はその効果は一旦効き始めると薬の投与を止めたあとも数年以上持続すること,第三に副作用が他の治療法に比べてはるかに軽く,十分な注意をすれば重い副作用で苦しむことが稀になったということです。

この革新的がん治療を可能にした免疫の力とは侵入して来る外敵,すなわち細菌やウイルスのような病原体を見つけて攻撃し,排除する力です。このために免疫細胞すなわちリンパ球は自分の体の細胞成分と外敵とのわずかの違いも区別し,監視し排除できる異物センサーを備えています。また,免疫は一度出会った病原体を記憶しており,次に出会った時には短時間で強力な攻撃力を持つ異物センサー,すなわち抗体を作ります。天然痘の予防などにワクチンが効果があるのはこのような抗原記憶を誘導することができるからです。ヒトやマウスなどの動物が持つ異物センサーの種類は非常に多く,まるで無限のようです。例えば,人工的に作った化学物質をタンパク質と結合させて抗原としてマウスに注入すると,これまで動物が進化の過程でも一度も出会ったことがないと思われる化学物質に結合する抗体を作り,また,記憶できます。限られた遺伝子を持つマウスなどの動物がまるで無限の異物センサーを作る能力を持つかのような現象は,20世紀後半の生物学における大きな謎でした。

1970年代以降の分子生物学の発展により,この謎がほぼ解明されました。まず,骨髄細胞からリンパ球が生まれる時に遺伝子の編集が起こり,リンパ球ごとに異なった異物センサーを持つようになります。この結果,一人一人の体内で多種多様な異物センサーのレパートリーを作る原理が利根川博士により発見されました。後に米国のグループがこれを司る酵素としてRAG-1とRAG-2を発見しました。一方,先程述べたように天然痘ワクチンなどの投与によって抗原記憶を生む仕組みは全く別です。私たちは2000年に抗原刺激によってAIDという酵素が発現し,異物センサーすなわち抗体の遺伝子に新たな変化を刻み込み異物センサーの機能を高めることを発見しました。これほど精緻で無限とも思える遺伝子を変化させて作る異物センサーの仕組みは,約5億年前に誕生した原始脊椎動物が,進化の過程で獲得したものです。脊椎動物の原始型として現存しているヤツメウナギはAIDの祖先型の酵素の働きでリンパ球でのレパートリー形成にも関わります。RAG-1とRAG-2は硬骨魚類へ進化の段階で獲得された酵素です。ヒトや動物の免疫系はRAG-1,RAG-2とAIDの二群の酵素の働きで異物センサー遺伝子のレパートリーを作りさらに変化させ,膨大なアンテナを張り巡らせて侵入する外敵を監視し排除することができます。

しかし,このしくみは両刃の剣です。もし,このようなセンサーが自分の細胞を間違って敵と認識したり過剰な反応をした場合には重大な病気を引き起こし,死に至ることがあります。したがって,免疫系が正しく働くためには,自動車のように,アクセルとブレーキが必要です。アクセル役をする分子はセンサーが異物を捕まえた時に同調して働き,免疫細胞は活性化されます。一方,過剰な免疫反応を抑えるために,二種類のブレーキ役の分子が存在します。これは自動車に例えるならば,駐車場におけるパーキングブレーキに相当するCTLA4と道路走行中に使うペダルブレーキに相当するPD-1と呼ばれる分子です。PD-1は私たちが1992年に発見し,6年かけてこれが免疫反応のブレーキであることを明らかにしました。

免疫系の監視システムはがん細胞も捕らえ排除できるはずだと予想されていましたが,多くの研究者の永年の努力にもかかわらず,免疫系を使ってがんを治すという試みは成功しませんでした。その理由としては,研究者は免疫のアクセルを踏むことによるがん治療に集中してきたのですが,実はがん細胞は免疫にブレーキを入れてその攻撃を逃れることで大きな腫瘍になっていたのです。逆に考えると,大部分のがん細胞は生まれても大きな腫瘍になる前に免疫の力で殺されていたのです。事実,臓器移植を受け長期に免疫抑制剤を服用した人ではがんの発症率が数倍から10倍以上高くなります。そこで発想を変えてアクセルを踏み込むのではなくブレーキを外してやることによって免疫力を強化し,がんを治療するという試みがAllison博士によって1996年に報告されました。彼は,CTLA4に結合して駐車ブレーキを効かなくする抗体を使ってがん治療が可能なことをマウスで証明しました。しかし,CTLA4という駐車ブレーキを破壊したマウスは免疫力が暴走し,極めて強い全身性の自己免疫症状を起こすので,生後4週間か5週間で死んでしまいます。一方,PD-1ブレーキを破壊したマウスでは道路においてのエンジンブレーキ等の自動制動作用が働くかのように自己免疫症状はゆっくりと,しかも局所に現れます。これらのことからCTLA4を抑えると強い副作用が起こりヒトには使えない可能性があると考えて,私たちは2002年にPD-1ブレーキを効かなくする抗体を使ってがんの治療ができることをマウスで証明しました。

そこで私はPD-1ブレーキを効かなくする抗体を使ってヒトのがん治療に応用することを考え,製薬企業の協力を求めました。しかし,2002年の段階では免疫力でがんを治す試みが永年失敗の連続だったせいで,「ブレーキを外して免疫力を強化してがんを治す」という新しい発想に開発投資をする企業は当初皆無でした。幸い米国のベンチャー企業が私どもの特許に注目し,共同研究を申し出てくれて,2006年からヒトを対象とした臨床試験が始まりました。まもなく,PD-1抗体は,驚異的な効果を示すことが明らかとなりました。2012年には肺がん,メラノーマという皮膚がん,腎がんの末期患者の20%から30%に有効だという報告が発表されました。さらに,多くのがん専門家を驚かせたのは,この治療を行い有効であった患者への薬剤投与を中止しても,再発がなかったということです。副作用は肺線維症,大腸炎などの自己免疫病が見られましたが,抗がん剤などに比べて極めて軽く,また副作用もステロイドによって治療が可能であります。その後,リンパ腫,頭けい部がん,胃がんなどで次々に臨床試験が行われ,いずれも従来の抗がん剤よりも有効であることが示されました。CTLA4抗体はこれより早く2004年からメラノーマに対して臨床試験で有効性が示され,2011年に治療薬として認可が得られました。PD-1抗体は2014年にやはりメラノーマの治療薬として承認を得られ,現在,肺がん,腎がん,大腸がん,リンパ腫,頭けい部がん,胃がんなど12種類以上に使うことが認められています。一方,CTLA4抗体は予想どおり副作用が強く,単独ではメラノーマのみです。PD-1抗体との併用では肺がん,腎がん,大腸がんへの治療の承認が行われました。

なぜがん細胞が免疫細胞によって異物と認識されるのかという理由は,近年のがん細胞の遺伝子解析の結果からその回答が得られました。すなわち,がん細胞は急速に分裂を繰り返すために1細胞あたり1000個から1万個の様々な遺伝子に傷がつき,その結果自分の細胞とは違う実質的に異物と等しい細胞に変わるので免疫系の異物センサーに捕らえられ,排除されるのです。脊椎動物が病原体との戦いの進化の過程で獲得した精緻な異物センサーシステムががん細胞の排除にも役立つということは想定外のボーナスと言っても良いでしょう。現在,PD-1抗体による治療は,ますますその対象を広げ,ごく最近,遺伝子に高頻度の変化があるがんは全て治療対象にして良いと米国FDAが認可し,ほぼすべてのがんに使える状況となりました。

しかし,PD-1ブレーキを外す治療法ですべてのがん患者が救われるということになった訳ではありません。残念ながら,効くヒトと効かないヒトがあります。また,軽いとは言え,人によっては自己免疫病という副作用を引き起こすこともあります。

現在,多くの研究者がPD-1抗体と各種の治療法との組合せで治療効果をあげようとしています。例えば,少量の抗がん剤や低線量の放射線照射との組み合わせでPD-1抗体の効果を一層高めようと試みています。また,CTLA-4とPD-1以外の弱いブレーキが発見され,これを外すことも試みられています。また,私達も免疫細胞の代謝を活性化させる薬剤とPD-1抗体を組合せることによって一層の治療効果が得られることをマウスの実験で示しました。PD-1と何らかの薬剤との組み合わせによるがん治療の臨床試験中のものは現在1000種類にも及んでいます。

効くヒトと効かないヒトとの識別についても多く研究が行われております。先に述べましたようにがん細胞の中にたくさんの遺伝子変異が蓄積して異物のようになったがん種には良く効きます。もうひとつ重要なことは患者さん自身の免疫力が強いかどうかですが,ヒトの免疫力は千差万別です。例えば,同じインフルエンザウイルスに感染したとしてもくしゃみや鼻水で済む人と,40度近い高熱で場合によっては死に至る人もいます。免疫力に関わる遺伝子は恐らく何百もあり,ヒトのDNAを調べることによってその人の免疫力が強いかどうかを判定することは容易ではありません。そこで,免疫細胞が持つ様々なタンパク質の発現を指標にして,これを解明しようとする努力が私達も含め多数の研究者によって行われておりますが,いまのところ,明確な指標はまだ確立していません。

2016年に”New Scientist”という英国の科学雑誌は,「我々は今,がんにおけるペニシリンの発見ともいうべき時期にいる」と述べています。この記事では,感染症の治療に劇的なインパクトを与えたのはペニシリンだが,ペニシリンによってすべての感染症治療が完成したわけではなく,その後何十年にも及ぶ多くの人の努力によって次々と新しい抗生物質が発見され,前世紀末には感染症がほぼ克服されたことを例として,PD-1抗体によるがん治療の進歩によりがんが征圧され,誰もが安らかな死を迎える日がくるのではないかと示唆しております。この夢が実現することを切に願っております。