講書始の儀におけるご進講の内容(平成24年1月10日)


日本における外来文化受容の一形態-金碧障壁画の意味するもの-
国立文化財機構理事長
京都国立博物館長
佐々木 丞平

本日お話し申し上げますテーマは,日本絵画史の流れの中に,どの様に外来のものが受け入れられてきたかという問題についてでございます。

私どもが日頃日本的と感じている我が国の伝統文化の中には,実は起源を海外にたどることが出来るものが多く含まれております。水墨画は鎌倉時代に中国から入り,室町時代に我が国に定着致しました。我が国は様々な外国のものを受け止め,取り入れて,日本文化の中に展開しております。

こうした中で,多くの人々が我が国の華やかな伝統的絵画のスタイルとして,真っ先に思い浮かべますのが,御用絵師狩野派による,背景一面に金箔を貼り廻らした金碧画ではないかと思います。城郭や大寺院の格式の高い場所は必ずといってよいほど金地極彩色の障壁画に囲まれており,正に狩野派のイメージを決定づける画風となっています。

しかし狩野派は開祖正信,それに続く元信や松栄という後継者達も,その絵の主体は水墨によるモノクロームの表現で,色を使う着色画法の技術は持ってはいるものの,狩野派が画法の主軸としていたのは中国からの強い影響を受けた漢画法としての水墨画であったといえます。

狩野派の絵で色が中心となる着色画の制作が多くなりますのは,なんといっても安土桃山時代に入ってからでありますが,水墨から徐々に色の世界に転換したというより,モノクローム表現からその対極ともいえる金地極彩色表現へと,一気に変化した状況が見て取れます。金碧画の色鮮やかな世界は狩野派第4代永徳の時代になって突然豊かに展開し始めます。

私は金地の表現が,安土桃山時代になって突然現れ,爆発的に流行し始めたことについて,その原因に何かが隠されているのではないかと,長年疑問を持ち続けて参りました。

金碧画の大きな特色は何よりもまず背景を金箔で埋め尽くすという点ですが,そもそも日本画においては,背景は余白であり,漠とした奥行きへの広がりを暗示する空間のことであります。

水墨画では背景の余白は筆を入れないことによって,その絵を見る人の視線も意識も背景に対して薄くなり,遠のかせる効果,奥行きへの表現となるのですが,この本来余白として残すべきところに,最も高価な画材で,しかも目立つ金を用いるという金碧画の発想は,従来の我が国の絵画に対する考え方とは全く逆行するものと言えます。

日本絵画の歴史を追えば,金を絵画表現の中に使用する画法は平安時代以来,大和絵の世界において長く我が国の伝統として成立していました。しかし金を使用するといってもそれは金碧障壁画のような,四角い金箔をべったりと背景に貼り付けるような手法ではなく,金箔を細かく砕いて用いる砂子や,野毛と呼ばれる,あくまでも金の細かな表現で上品な輝きを絵画に与える技法のみでした。

仏像や建築物には金箔がそのまま使用されることはありましたが,それらは保存面での効果も担ったもので,絵画に金箔を四角い,原材料そのままの状態で使用するという考えは日本絵画の発想の中にはなかったといえるでしょう。

このように考えますと,16世紀半ば,狩野派による金碧画の登場はあまりにも唐突といわざるを得ません。

まず,通常,一つの技法が完成に至るには試行錯誤を経た長い時間が必要なものですが,金箔で背景を埋め尽くすために箔を貼り付ける為の「箔あかし」「箔押し」等の,日本画の中でも難しい技術を要する金碧画が,試行錯誤の形跡もなく,16世紀半ばに何故いきなり完成形態で登場したのか,また,狩野派という世襲による伝統画法継承を主体とする流派に,開祖から踏襲した技法ではない金碧画が何故突然現れたのか,はなはだ不可思議と言えます。しかも伝統を重んじるはずの時の権力者が,突然登場したこの画法を,何故こぞって御用絵師に制作を命じたのかという疑問もおこります。

いきなり完成した技法が見られると言うことは,それは完成した形で日本に入ってきたことを示していますが,日本の絵画は歴史上,多くの技法を中国から学んでいるものの,背景を総て金地にした金碧画の表現は,意外にも当時の中国の絵画には確認されておりません。

それではどこから流入したかでありますが,いきなり安土桃山時代に爆発的に流行をみせたことを考えれば,当時我が国に起きた何か大きな変化に伴うものと考えざるを得ません。

16世紀の当時,日本での大きな社会的変化と言えば,1543年に種子島に鉄砲が伝えられ,南方経由でやってきた南蛮人と呼ばれた西洋人の貿易商やキリスト教の宣教師達が大挙して日本にやって来たことがあげられます。

私はこのような当時の状況に注目し,金碧画成立の要因は西洋文化との出会いであったと考えるに至りました。

1549年のフランシスコ・ザビエルの来日以降,キリスト教文化がもたらされますが,この西洋文化との遭遇の中で,我が国の金碧画成立の引き金となったのではないかと私が注目したのが,宣教師達が携えてきた小さな「イコン」と呼ばれる「聖像画」でした。それらは金地テンペラという技法によるものでした。

群雄割拠のこの時代,為政者は西洋の進んだ武器や測量術に関心を持ち,世界の知識や情報を広く手に入れようとやっきになっていたため,宣教師達からも様々な情報を収集していました。つまり宣教師達は時の為政者に謁見する機会があり,これらの聖像画も為政者の目に触れることとなったのです。特に海外の動勢に関心の高かった信長や,九州の大名などは早くから金地テンペラ画に関心を持ったようです。

この当時の我が国の西洋画法修得までの状況が,今日では分かりにくくなっていますのは,西洋の植民地政策を知って,秀吉によるバテレン追放が進んだこと,17世紀から日本やアジアの国々は鎖国政策を取って自衛し始めており,我が国でもキリスト教美術に関連するものが完全に破壊され失われてしまう事態となったことによるものと思われます。しかし,本国のイエズス会に残された資料,宣教師の書簡などから,様々な事実を確認することが出来ました。

当時の金地テンペラによる聖像画がどのような状況であったのか,その実態をイエズス会資料から追ってみますと,1549年にザビエルが本国のイエズス会に送った11月5日の書簡によりますと,鹿児島に上陸したザビエルが携えていた聖母の画像を見た薩摩藩主,島津貴久はその美しさを賞賛し,同じものを作りたいと藩の御用絵師に指示したところ,当時は技法が分からず,うまく行かなかったことが述べられています。ザビエルはまた,この鹿児島でキリスト教に入信した一人の老人にミゲルと言う名を与え,小さな聖母の画像を渡しています。

こうして16世紀の日本には徐々にキリシタンが増え,教会堂も作られるようになりました。それに伴いさらなる聖像画が必要とされるようになり,1554年にはインドのゴアを介して聖母の祭壇画が日本に送られてきています。

1561年10月1日の宣教師ダルメイダの書簡では,ポルトガルより額入り聖像画を取り寄せたり,同じくこの年,聖像画を九州の豊後の大友氏の教会堂に送ってくれるよう,本国に依頼したりもしています。

ザビエルが初めて日本に上陸して以降10年ほどの間に,豊後を中心としてこうしたキリスト教聖像画はかなり普及していたものと思われます。当時政治の中心は京都にありましたが,ザビエルは短期間しか滞在出来ず,次に宣教師が訪れるのは1559年になってからで,ガスパル・ビレラと言う人物でした。

京都社会の守りは堅く,布教は困難を極め,ビレラは野宿同然の厳しい状況が続きました。しかし,入京の翌年には将軍足利義輝への謁見が許され,義輝からの庇護を受けて京都に教会堂を建て,祭壇画などが九州の豊後から送られてきます。

御用絵師狩野派の頭領,永徳は義輝の命を受けて1565年に「洛中洛外図」という,金地に金雲を散りばめた華やかな京都の地図的な都市景観図を作成します。実はこの当時,西洋から地図や都市景観図が我が国に入ってきており,永徳は都市景観図を,同時期に入ってきた金地テンペラの技法を用いて仕上げたのです。

その制作過程をみますと,背景を総金地貼りにするというアイディア,その下地層の制作工程,絵の具などの材料,技法全てがキリスト教聖像画の金地テンペラ画と極めて近く,現存する作品を見ても,この洛中洛外図の制作は金地テンペラ画の技法の上に成立していることは間違いありません。

永徳の金碧画技術修得は,まず第一に京都で,義輝を介して,あるいは教会堂で聖像画を見たことが考えられますが,永徳は洛中洛外図を描いた2年前に豊後の大友宗麟に招かれており,その際も豊後地方に多くあったキリスト教の聖画像を見た可能性も極めて高いといえます。

イエズス会の資料によりますと安土には教会に併設して教育機関であるセミナリオが建てられ,1584年の職員録には,ジョバンニ・ニコラオと言う絵画担当の宣教師が,日本人の絵師に絵画技法を教えていたことが記録に残されていますので,こうした絵画教育システムがこの頃には既に完成していたことが確認できます。

こうして金地を用いた絵画表現は我が国に広まって行きます。永徳が「洛中洛外図」を描いた1565年当時のイエズス会の記録には宣教師ダルメイダが高山図書(高山右近の父)の澤城を訪ねた折り,城内にキリスト教の会堂があって,そこで使用されていた祭壇画は日本で模写されたものでありましたが,ヨーロッパで描かれたものと見まごう程のものであったことが記されており,当時既に日本の絵師は金地テンペラ画の技法を完全に習得し,高いレベルでの制作が可能であったことを示しています。

また同年には,松永久秀の奈良多聞城の障壁画が金地で,中国や日本の見事な歴史画が描かれていたことがダルメイダ及びフロイスという二人の宣教師の記録からも確認できます。

このように見て参りますと,少なくとも1565年までには金地極彩色の画法が狩野派のものとして定着していたことが理解されます。

この後,金碧画は一気に広がりを見せ,信長の美濃稲葉山井口城の新宮殿,安土城,そして秀吉の大阪城,聚楽第と金碧画はすさまじい勢いで広まっていったことが記録からも知ることが出来ます。

当初は葉書大ほどの小さな聖像画からであった金地の表現が,安土桃山の勇壮な気風を反映して,屏風へ,そして障壁画の大画面へと,我が国の絵師の力によって展開していったことは実に驚くべきことであります。海外から流入した技法でありながら,御用絵師の用いる最も格の高い,我が国特有の絵画表現として定着させるまでの永徳をはじめとする絵師の努力は並々ならぬものがあったと思われます。

このように日本文化は海外の文化を広く取り入れながら,日本文化としての明確な姿を築きあげて参りました。日本の伝統文化を守り伝える時,実はその中に内包された多くの海外の文化と,それらを我が国に運んできた人々の思いをも未来へと伝えて行くことになるでしょう。

永徳以下,多くの絵師の力によって,最後には金碧画は最早もとの聖像画とは独立した,我が国固有の作風として,確固たる姿を世界に示しております。


『太平記』と『難太平記』
日本学術振興会学術システム研究センター相談役
東京大学名誉教授
日本学士院会員
石井 紫郎

『太平記』という歴史書が,鎌倉時代末からいわゆる南北朝時代にかけての政治的・軍事的争乱の世のありさまを描いたものであることは,よく知られたところです。これに対して,『難太平記』はそもそも一般にはその存在すらほとんど知られていません。その点を説明するには,まず『太平記』の成立事情から述べる必要があります。

『太平記』は,当初は後醍醐帝方のために書き始められたものです。実際,後醍醐帝の即位から,鎌倉幕府滅亡を経て,同帝崩御までの部分は,その身近にあった人物の手になるものと考えられています。しかし,後醍醐帝の崩御後のある時点で,その原稿はそっくり足利尊氏の弟・直義の手に帰しました。彼はそれを見て,「誤り」,「そらごと」,「悪しきこと」が多いと指摘し,秘密裏に削除・改訂・追加を行わせました。もちろんそれは,足利方に都合がよいものにするための一種の改ざんです。

ところがこの状況は直義の失脚(1349年)後,しばらくして一変します。変化の第1点は,既存のテキストが扱っていた時代より後の時代,すなわち足利氏の覇権成立後の推移を述べる,第2部ともいうべきものが新たに作成されたことであります。変化の第2点は,直義の下での内容変更が秘密裏に行われたのに対し,第2部の作成に当たってはそうしなかったばかりか,書き入れを望む向きは申し出るよう,積極的に関係者たちに促していることであります。そしてこの書き入れは,かつて直義の手元で改ざんが加えられた,既存部分についても行われたようであります。その結果,『太平記』は,全体として,配下の武将たちの功名手柄譚集成としての性格を強くもつものとなっています。

一方,『難太平記』は,『太平記』がこのような経緯で一応出来上がってから30年ほどのち,15世紀初頭(1402年)に書かれました。著者は,駿河国の守護であり,一時期九州探題をも務めた有力者であって,後の戦国大名今川氏の祖となる今川貞世(出家して,了俊)です。この著作の目的は『太平記』批判です。『難太平記』というタイトルは,著者自身が付けたものでなく,後世に付けられたものでありますが,適切なあだ名と言ってよいでしょう。了俊がこの書で書き連ねていることは,上に述べたような『太平記』に対する「書き入れ」と「書きつぎ」によって,武士たちの手柄話が無数に書き込まれていますが,その「十が八,九はつくり事」であり,逆に「高名漏れた人」が多く,殊に我が父の「隠れ無」き「忠義」が書かれていないので,こうしたことについて種々「太平記に申し入れ」たいという趣旨から出たものであり,要するに,『難太平記』は了俊の父親の事績の詳細な申告書なのです。『難太平記』が世にほとんど知られていないのも,不思議ではありません。

しかし,以上のような経緯と,後に述べる,歴史記録について徳川幕府が採った方法とを通観すると,『太平記』と『難太平記』は,我が国の「正史」ないしそれに類するもののあり方を変える,一つの大きな節目として位置付けられるのではないか,その意味でこれらが担った歴史的意味は決して無視できないのではないか,と私は考えるのです。もちろん,「正史」という言葉を,中国の「正史」概念で理解すると,現存する『太平記』も「正史」の名に値しません。その名に値するのは,『日本書紀』,『続日本紀』,『日本後紀』,『続日本後紀』に,『日本文徳天皇実録』,『日本三代実録』を加えた,いわゆる『六国史』までです。

しかしここで忘れてならないのは,朝廷から然るべき高級官職に任ぜられて政権を行使した勢力が,本来の「正史」とは別に,それ自身の歴史を編纂することが行われ始めたということです。平安時代の『大鏡』が多少その要素を含んではいますが,公式記録的な歴史書としては,鎌倉幕府の『吾妻鏡』を以て嚆矢とすべきでしょう。それは,鎌倉幕府がそれ自身の公式の記録として,基本的には幕府やその幕僚たちが保存していた資料や記録を基に編纂したものであるので,仮にこれを「準正史」と呼んでおきましょう。

この幕府の倒壊後は,他ならぬ『太平記』が,元来はおそらくかつての『六国史』を意識しつつ,『後醍醐天皇紀』とでもいうべきものを意図して,文字通り即位に始まり,倒幕の戦い,そして天皇中心の政治体制の復活・再確立の道を公式に記録すべきものとして,書き進められたのでしょう。しかし,志半ばにして政治的実権は再び武家方に帰し,そのテキスト自体も,足利直義の手に渡って後は,足利政権の公式記録,すなわち,『吾妻鏡』の足利版ともいうべきものに変貌させるために,先に述べたように改ざんの対象となりました。ただ,それは秘密裏に行われたものであり,政権の中枢自身による公式記録の編纂という,『吾妻鏡』に見られた特徴は外見的にはなお維持されていたので,これも未だ「準正史」の範畴内にあった,と見ることは不可能ではありません。

ところが,足利直義失脚の後,第2部が書き足されるときに,政権が保有する資料と記録に基づき,その責任で歴史を編纂する,という本来のあり方が崩れたことから,質的な変化が生じました。前述のような,個人的・私的な手柄話の「書き入れ」が満載されていることが,天下に知れ渡った書物は,もはや公式記録としての正当性を主張できなくなったのです。こうなれば,『難太平記』に代表されるような,不満・非難が噴出するのは不可避であります。『太平記』は,配下の武士たちの自己申告に基づく「書き入れ」を行うことによって,「準正史」としての地位を失ってしまったのです。

しかしながら,武士たちにとっては,この「書き入れ」は自分たちの戦功・手柄についての公認記録という意味をもったわけで,このことが,後の我が国における歴史記録の作成に決定的な影響を与えることになったのです。戦乱の世を終わらせた徳川政権は,成立後わずか40年足らずの寛永年間に,『寛永諸家系図伝』を編纂しました。これは実体としては,諸大名・旗本から提出させた家系図の寄せ集めの域を出ないものであり,「書き入れ」どころか,《自己申告書集成》とでもいうべきものであります。幕府はさらに150年後,1812年に『寛政重修諸家譜』(「寛政年間に重ねて編修した諸家の家譜」という意味)の編纂を完成させましたが,これは各家の系図に代々の奉公の事績を詳細に書き込んだもので,『寛永諸家系図伝』に比べて格段に詳しい御奉公記録の《自己申告書集成》であります。一例を挙げれば,細川忠興が徳川方に尽くした事績の記事は実に9千字を超える(A5版活字本で,ほぼ7ページ分)長大なものです。

しかし,ここで指摘したいのは,このような「諸家系図」・「諸家譜」の原形が『難太平記』に見出されるということであります。『難太平記』は,『太平記』を非難すべく,著者了俊の家系,特に父親の功績を書き連ねたものでありますが,徳川幕府が編纂した上述の両書は,全ての大名・旗本にその種のものを提出させ,編集し,武家全体の公式資料集としたというわけであります。

これに対して公式記録ないし「準正史」としては,『徳川実記』の編纂が1809年に始まり,1843年に一応完成しました。「諸家系図伝」や「諸家譜」より遅い時期にようやく作られたという点もさることながら,内容的にも,将軍の起居や儀式等,江戸城内での行事・出来事が主たる記事であり,実質的には,徳川幕府体制の歴史,すなわち「準正史」と言えるような内容のものではありません。

先に,『難太平記』が書かれた経緯と徳川幕府が採った歴史記録編纂方法とを通して見ると,『難太平記』が,我が国の「準正史」のあり方を変える,一つの大きな節目と看做すことができるのではないか,と述べたことを,思い出して頂けたかと思います。このような自己申告に基づく「御奉公の記録」を政権側が公式の文書として作ることの重要性を,徳川幕府の中枢にある人たちは,歴史に照らして知っていたように私には思えます。そのような公式の歴史書を作ることが,翻って更なる「御奉公」の調達に結びつくという循環運動は,彼らにとっては教えられなくても分かっている,当たり前のことであったのではないか,と思われます。

まさにこのような心性こそが,主従関係の絆が緊密であり,しかも世代を越えて継続する,という我が国の封建制の特徴を支えてきたものであります。しかしまた逆に,そうした主従関係のあり方こそが,「御奉公の記録」としての「歴史」を作らせた,と言えるのではないでしょうか。文字通り無数にある過去の出来事の中から,何を「歴史」として拾い出すか,そしてそれをどうような形で「歴史」として編纂するかは,それぞれの社会や国の人間関係・社会関係に依存する事柄であり,その意味で,「歴史」叙述のスタイルはそれぞれの文化を背負ったものであります。我々は常にこの点に留意しながら,「歴史」に向き合い,そして「歴史」を書き続けて行かなければなりません。


半導体エレクトロニクスの進歩と電子の量子的な制御
豊田工業大学長
東京大学名誉教授
榊 裕之

携帯電話やインターネットなどの電子技術が人の暮らしを大きく変えていますが,その背景にはトランジスタやレーザなど半導体部品の著しい進歩があります。本日は,半導体の発展の経緯と研究開発の最前線を紹介します。特に,半導体の中を走り回る電子に着目し,電子の数や動きを制御し,エレクトロニクスに活かす試みについて述べます。

さて,アルミなどの金属では,多くの電子が自由に動き,電流を流すことができるため,電線として広く使われています。こうした自由な電子は,電気伝導を担うため,伝導電子と呼ばれます。他方,金属は,昔から,鏡としても使われています。これは,光を当てた時,金属内の伝導電子が一斉に動き,光の侵入を阻み,反射させる現象を用いたものです。

他方,ガラスなどの透明な物質では,光を反射させるに十分な数の伝導電子が存在しないことが推測されます。実際,透明な物質の多くは,電流を流すには不向きです。さて,これらの透明な物質には,電子が全く存在しないのでしょうか。透明なサファイアの場合,アルミと酸素とが結合してできた物質ですから,電子がいないわけではありません。実は,サファイアでは,酸素の原子核が電子に対し強い引力を働かせ,伝導電子を束縛するために,電流を流すことができなくなっています。

このように,物質の中には,自由に走り回る伝導電子と,原子核の引力で束縛された電子が存在します。この伝導電子を,仮に,地上を自由に動く人間に例えるのであれば,金属は,歩行者で混雑する繁華街に例えることができます。他方,伝導電子の存在しない絶縁物は,地表に人影が全くない山地に例えられます。しかし,この山地にも,秋吉台の鍾乳洞や神岡の地下実験室のように,地下には広い通路があり,この通路を多くの人が,即ち電子が,満たしているため,身動きできない状況にあります。さらに,地下2階や3階に相当する箇所にも部屋があり,そこに電子が閉じ込められています。専門用語では,電子が自由に動ける地上の通路を「伝導帯または伝導バンド」と呼び,地下1階の通路を「価電子帯またはバレンス・バンド」と呼んでいます。

さて,シリコンなどの半導体は,繁華街でもなく,高い山でもなく,歩行者の数が少ない高原や丘陵地に例えることができます。純粋なシリコンでは,伝導電子の密度は,金属内より遥かに少なく,1兆分の1ほどのレベルにあり,優れた絶縁性を示します。但し,半導体では,種々の手法によって,伝導電子の数を増やすことができます。その最も簡単な方法は,半導体を温めることです。半導体には,地下の通路,即ち「バレンス・バンド」があり,電子で満たされています。半導体を温めると,地下にある電子の一部が熱エネルギーを受けとり,地上の伝導バンドに移り,自由に動き始めるため,電流が流れやすくなります。この性質はマイケル・ファラデーが1833年に発見したもので,電子温度計に今も使われています。

さて,伝導電子を増やす第2の方法は,ドナーと呼ぶ不純物をいれる方法です。純粋なシリコン半導体に燐の原子を入れると,燐は,プラスの電気を帯びるため,丘陵の高さが下がり,燐原子と同じ数の伝導電子が発生します。つまり,燐をいれた地域だけが,盆地となり,人や電子の密度が高まり,町のようになります。このように伝導電子の数を多くした半導体を,N型半導体と呼びます。

次に,伝導電子を増やす第3の方法を紹介します。まず半導体の上に絶縁膜を置き,さらにその上に金属板を置いて,3枚の層からなるサンドイッチ構造を用いる方法です。上においた金属と半導体の間にプラスの電圧を加えると,金属にはプラスの電荷が溜まり,半導体側にはほぼ同数の伝導電子が溜まります。つまり,金属にプラスの電圧を加えた時に限り,丘陵地に盆地が生れ,町となり,歩行者,つまり伝導電子が増え,電気の流れが容易になるのです。

こうして半導体内部に作られた盆地状の町の両端に,入り口と出口の電極を設けると,一種のトランジスタとなります。この素子を,エム・オー・エス型のトランジスタと呼びますが,金属と絶縁膜と半導体の三つの層を表す英語のMetal,Oxide,Semiconductorの頭文字から来ています。この素子の金属板は,電子の数を増減させる役割を果たすので,ゲート(門)と呼ばれます。半導体のチップの上にこのトランジスタを多数作りこみ,金属の線で相互に接続したものが集積回路です。多くの盆地型の町を道路でつなぎ,夫々の町に関所を設け,人の流れを制御するのに似た役割を果たしています。

集積回路のチップの典型的な寸法は,約1センチ四方です。この上に載るトランジスタの数は,1970年には約1000個でしたが,15年後には1000倍の100万個となり,30年後の2000年には,さらに1000倍の10億個に達し,パソコンの心臓部などで活躍しています。こうした集積回路の発展には,トランジスタの小型化が重要でした。トランジスタ,即ち盆地の町,の入り口から出口までの距離は,1985年には1μmでしたが,2000年に0.1μmとなり,2010年には0.04μmに達しました。1μmの1000分の一は1ナノメートル(nm)ですから,40nmとなります。この小型化で,集積される素子の数が増えただけでなく,各素子を電子が通過する時間も短縮され,計算機や通信システムの応答速度の向上に大きく貢献しています。しかし,この小型化も限界に近づいており,今後は飛躍的な発想が必要になっています。

さて,エム・オー・エス型のトランジスタは,電子工学に必須ですが,物理学にとっても極めて重要です。それは,この素子の中で,伝導電子が量子力学的な波としての性質を示すからです。前に述べたように,エム・オー・エス構造では,半導体側に溜まる伝導電子と金属側に溜まるプラスの電荷とが,絶縁物を介し,互いに引きあっています。半導体側に溜まった電子は,表面から数nmの薄い領域に閉じ込められます。このため,表面に沿う2方向にのみ自由に動ける状態になります。こうした電子を2次元電子と呼びます。面と垂直方向には,電子は数nmの膜に閉じ込められるため,量子力学に従って,波の性質を示します。電子は,バイオリンの弦のように,膜の厚みに対応した特定の形で振動し,波として振舞います。このような膜に閉じ込められた2次元電子は,3次元の空間を自由に動く電子にない様々な新しい性質を示すため,重要な発見の舞台となっており,2010年度も含めて3件のノーベル物理学賞が授与されています。

さて,2次元電子は,氷の上のスケート選手に似た2次元運動をしますが,電子の自由度を減らすには,リュージュのように,細いコースを作り,運動を1次元に限ることが有効です。そうした構造を,量子ワイヤと呼び,そこを走る電子を1次元電子と呼びます。この量子ワイヤの中の伝導電子の数をゲートの作用で増減させれば,トランジスタの作用を示します。この量子ワイヤを用いたトランジスタの概念は,私どもが30年前に提唱したものです。当初,研究が難航しましたが,製作法の発展により研究が活発化しています。飯島澄男博士が発見したカーボンナノチューブもその一例です。最近,シリコンの量子ワイヤも作られ,将来はLSIの重要部品になることも期待されています。

さて,この細い量子ワイヤに二つの関門を設け,その間隔を狭めると,関門の間では,電子の運動がすべて禁止されます。この狭い領域を量子箱や量子ドットと呼び,そこに閉じ込められた電子をゼロ次元電子と呼びます。量子ドットでは,特定の振動数を持つ波動的な電子状態しか許されず,座席が一つだけの小部屋に似た状況となります。このように量子ワイヤに二つの関門を設けた素子では,電子が1個ずつ量子ドットを通過するようになります。この素子は,単電子トランジスタと呼ばれますが,電子の動きを1個ずつ制御することを可能としています。

ここまでは,伝導電子の数や流れを制御して,トランジスタに応用する試みを述べました。次に,光が関与する現象を紹介します。半導体に光を当てると,地下のバレンス・バンドを満たしていた電子の幾つかは,光のエネルギーを貰い,地上の伝導バンドに上がります。この電子を放置すれば,光を発するなどして地下空間に戻ります。もし,この光吸収層の右隣にプラスの電荷を持つ不純物を含んだN型領域を設けておけば,光で生じた伝導電子はN型の盆地に流入し,蓄積されます。同様に,この光吸収層の左隣にマイナスの電荷を持つ不純物を含んだP型領域を置くと,地下のバレンス・バンドにできた電子の抜けた孔がP型の領域に流入し,素子の両端には電圧が発生します。これが,次世代のエネルギー源として注目されている太陽電池の基本原理です。この素子構造をPN接合と呼びます。また,電子が抜け,プラスの電荷を帯びた孔を,ホールと呼びます。

このPN接合は様々な機能を持っており,光を発生する素子としても使うことができます。P型領域にプラスの電圧をかけると,N型の盆地に蓄積されていた伝導電子は坂を上り,P型の丘に向けて,坂を上り始めます。同様に,P型領域の地下に蓄積されていた電子の孔,即ちホールは,N型領域に向けて動きます。 N領域とP領域が接する部分では,地上を動く伝導電子と地下を動くホールが出会いますが,両者が結合すると,光が放出されます。これが,発光ダイオードやレーザの原理です。半導体の種類を適切に選ぶことで,赤外線を発するレーザから青色LEDまで様々な発光素子が実現しており,照明や光通信などに広く利用されています。

これらの発光素子では,電圧の作用で流し込んだ伝導電子とホールを用いて,効率よく光を発生できるように,N領域とP領域の間に第3の層を入れたサンドイッチ構造を用います。この第3の層は発光層と呼ばれますが,伝導電子とホールの出会いを容易にするために,数nmの厚さの膜が使われています。このナノ薄膜では量子的な閉じ込めが起きるため,2次元電子と2次元ホールが結合し,効率よく光が発生するのです。最近広く使われているLEDランプの光も,このnm級の膜から出ています。さらに,発光層として,ナノ薄膜ではなく,nmクラスの半導体の粒,即ち,量子ドットを用いると,電子や正孔の運動が禁止されるため,温度環境に依存しない,よりすぐれたレーザの実現が期待できます。量子ドットのレーザへの応用は,私共が着想して,1982年に共同研究者とともに提案したものです。近年は,内外で研究が進み,すぐれた特性が実証され,一部で製品化も始まっています。

量子ドットのレーザへの応用では,多数のドットを発光層に用いますが,埋めこむドットを1個だけにすることも可能です。この場合,1個の電子と1個のホールをドットに流入させることで,光の粒,すなわち光子,を1個ずつ発生させられます。この素子は,単一光子発生器と呼ばれ,次世代光通信システムへの応用が期待されています。

これまで述べたように,日々の暮らしを支えるトランジスタや半導体レーザやLEDでは,ナノメートル級の構造が広範に使われる状況となっており,電子の量子的な側面も大きな役割を果たしています。極限的には,電子や光子を,1個ずつ制御することまで可能となっています。このような半導体技術は,IT分野を越えて,医療計測,環境浄化,エネルギー制御などの分野へと広く発展してきており,今後のさらなる研究を通じて,人類が面する主要な課題の解決や緩和に貢献することを祈るものです。