講書始の儀におけるご進講の内容(平成22年1月12日)


ローマ帝国の物流システム
独立行政法人国立美術館 国立西洋美術館長
東京大学名誉教授
日本学士院会員
青柳 正規

古代の地中海世界の人口はギリシア世界にポリスが出現する紀元前8世紀に約3000万人,ローマ帝国初期の紀元1世紀に約5000万と推定されております。当時の地球全体の人口が3億人前後と推計されておりますので地中海世界としてはかなり人口の多い地域でございました。しかし,この地中海世界全体としてであれば稠密な人口を養うだけの食糧生産能力は十分備えておりましたが,問題は食糧が足りない地域と余剰農産物を産出できる地域とが混在していたことであります。恒常的な食糧不足を抱える代表的な地域としてはギリシア本土があり,余剰農産物を産出する代表的な地域としてはエジプトのナイル川デルタ地帯がございました。ほかにも,クレタ島,アナトリア西海岸域の小アジア,現在のチュニジアであるカルタゴ,そしてシチリア島なども穀倉地帯としてよく知られておりました。

地中海世界がいくつもの国々に分かれていた時代,つまり地中海全域でローマの覇権が確立する以前は,余剰農産物をめぐる戦争がしばしば勃発し,また,天候の悪い時は各地で飢饉が起こりました。地中海世界にローマの覇権を確立しようとしたカエサルの構想の中には,地中海全域を支配する領域国家を樹立すれば地域による食料の過不足という課題を解決することができ,戦争を減少させることができるという目的も含まれておりました。そのような構想ゆえにカエサルは偉大な政治家と称されるのであります。また,この構想をローマ帝国という統治体制として実現したのがカエサルの後継者アウグストゥスであり,大量の食糧を過不足なく帝国各地に分配する方策として物流システムを確立したのでございます。

「すべての道はローマに通じる」と後代に評せられるローマの道路網のうち,その主要幹線道路は地表から1メートルほど掘り下げて,砂利や砂を敷きその上にコンクリートを流し込み,石畳で完全舗装した,現在の高速道路のような高規格の道路で総延長約8万キロにもおよびました。我が国の高速道路の総延長が現在9500キロメートルほどであることを考えると,いかに見事な道路網が,当時整備されていたかがわかります。道路網は軍隊の移動,旅行,通信,物資の運搬などに不可欠な社会基盤でしたが,食料などの大量運搬には適しておらず,海や河川を利用する水上輸送に頼らざるを得ませんでした。陸上輸送はコストがかかりすぎたからです。ローマ時代の輸送コストに関する正確な統計はのこっておりませんが,種々のデータから推計すれば,海上輸送を1とした場合,河川での輸送は4.9倍,陸上輸送は28倍ものコストがかかったようでございます。この数値は,18世紀イギリスで蒸気機関が利用される以前の輸送コストが,海上輸送を1とするなら,河川での輸送は4.7倍,陸上輸送は22.6倍だったことと比較してもかなり正確な値といえるのではないかと思われます。

アウグストゥス時代の都ローマの人口は約100万人と推定されておりまして,彼らが食べる小麦の大部分は前述の余剰農産物を産する地域から搬入されました。その消費量は,紀元1世紀の文献によれば年間6000万モディウス(モディウスは小さな樽のようなものの単位)にのぼり,8ヵ月を北アフリカが,4ヵ月をアレクサンドリアが供給したといいます。1モディウスはほぼ8.7リットル,1リットルの脱穀後の小麦は約0.8キログラムであるため6000万モディウスは40万トンに相当します。6000万モディウスという数値がどれほど正確かについてはさまざまな意見がありますが,実際の数値からそれほどかけ離れたものではないと考えられております。ではこの40万トンにものぼる小麦をどのようにして都へ運んだのでしょうか。

当時地中海を航行していた貨物船は高さ約1メートル,直径約30センチの大型の壺アンフォラをいくつ積めるかで船の大きさを表示していました。我が国江戸時代の貨物船千石船などが米の石数で数えたのと同じような表示の仕方であります。つまり,1万個のアンフォラを積める船はミュリオフォロス,3000個であればトリスキリオフォロス,2000個がディスキリオフォロス,1000個はキリオフォロスと呼びました。南仏マルセイユ沖の沈没船の調査などから,トリスキリオフォロスの船は約積載重量トン数で150トン程度の木造船であったことが判明し,しかももっとも普及していた大きさの貨物船でありました。単純に計算するなら,また40万トンの小麦の3分の1約13万トン強をアレクサンドリアから全てトリスキリオフォロスで都ローマに運んだとするなら,約870航海を必要とすることになります。紀元1世紀前半まで都ローマの主要な外港はナポリの西にあり,プテオリ(現在のポッツオーリ)でありまして,そこからアレクサンドリアまでほぼ1000海里ありましたので800キロメートルぐらいでございます。この間の所要航海日数は様々な説がございますが,博物学者で有名なプリニュウスは6日と記しておりますが,これはあまりにも短すぎると思います。というのは当時の帆船の速度は,だいたい平均4ノット・5ノット,速くても6ノット程度でございました。別の文献資料によれば最短でも15日は必要だったようです。また,少し時代は下がりますけれども都ローマでコンスタンティヌス大帝が即位した時のその報が,エジプトにもたらされるのに25日かかったことが,パピルス文書から判明しております。アレクサンドリアを起点とした場合,行きと帰りで所要日数が大きく異なるのは地中海全体にほぼ時計回りの海流が流れておりまして,そしてまた,季節ごとの風にも左右されたからです。実際の航海日数と小麦の積み込み積み降ろしの日数も加えて,アレクサンドリアとプテオリを往復するのに平均2ヵ月かかったと考えることにいたします。さらに地中海を横断する場合の航海は,海が安定する4月から10月までの6ヵ月間に限られておりました。11月から3月までは地中海は大変荒れます。ですから,沿岸航海は可能ですが,このような大型の船が航海することはかなり難しいので避けていたようでございます。

皇帝トライアヌスは冬にも航海をなるべくして,都の小麦の備蓄をはかるために,もし冬に航海すればその船主は3人の子どもを持っている市民と同じ資格を与えるというような特例を与えて奨励しておりますが,海の厳しさにはかなわなかったようです。6ヵ月間に限られておりましたので,したがって,1隻のトリスキリオフォロスが1年間にプテオリとアレクサンドリアを往復できるのは3回程になります。そうすると約290隻が従事する必要がありました。小麦以外にもアレクサンドリアから都へは,レンズ豆,ナツメヤシの実,麻布,ナイル川上流で採れる花崗岩,東方からの奢侈品などさまざまな物資を運ぶためにさらなる数の輸送船が従事していました。おそらく290隻をはるかに上回る数の輸送船が活躍していたと推定されます。そしてそれらを総称してローマ人はアレクサンドリア船団と呼んでおりました。この他にも例えばリビアのトリポリからとか,あるいはカルタゴからとか様々な穀倉地帯からの船団が形成されて都ローマへ小麦を運んでおりました。

余談になりますが,ローマ帝国3代目の皇帝カリグラは,ローマの現在サンピエトロ大聖堂がある場所に自分のための競馬場を造り,そこにオベリスクを建立しようとします。このためエジプトのヘリオポリスからファラオ時代のオベリスクを運ばせます。幸いにもこのオベリスクは現在もサンピエトロ大聖堂前のサンピエトロ広場の中央に屹立しておりますので,どれぐらいの大きさか,また,重さはどれぐらいかを正確に知ることができます。花崗岩でできた1本石のオベリスクは約300トン,やはりエジプトから運んできたオベリスクを載せるための基壇の部分は約400トンあります。これらを船の甲板に固定して運送するには,船のバランスを取るために船倉にバラストを積む必要がございます。そのためにエジプトでとれるレンズ豆13万モディウスを積んだと当時の文献は記しています。この13万モディウスはほぼ900トンに相当する重さですので,オベリスクなどを合わせるとこの船は積載重量トン数で約1600トンにもおよぶ巨大船であり,おそらく例外的な規模の船だったようです。というのはオベリスクを運んだ後この船はローマの外港であるオスティアの灯台を建設するために石を積んで沈没させられ,灯台の基礎の一部になったということでございます。その意味では現代の土木工法でいうケーソン工法の始まりのようなことが,今からすでに2000年近く前に行われていたということになります。

地中海沿岸には,ギリシア時代,フェニキア時代から整備された港湾施設が数多くあり,ローマ帝政期になるとさらに整備がはかられただけでなく新しい港も建設されました。たとえば,紀元1世紀前半まで都ローマの外港として使用されたプテオリの港に代わって,テヴェレ川河口のオスティアには海岸線から陸に掘り込んだ港湾施設が新設され,海上輸送によって増加する物資の集積場としての役割を担いました。属州からのさまざまな物資はこのオスティアの港で川船に積み替えられ,はしかのような川船は役牛によって牽引されテヴェレ川を遡航して都まで運ばれたのであります。

海上輸送,河川輸送という水上輸送を最大限に活用したローマの物流システムは,食料や建築資材などの物資だけでなく様々な地域の住民を遠方に運び,情報や文化の交流にも大きく貢献しました。人類史上最強の国家といわれているローマ帝国のローマの平和パックス・ロマーナが300年にも渡って継続できた理由の一つには以上のような物流システムがあったからであり,また,平和だったからこそ物流システムが機能したとも言えるのではないかと考えます。


政治制度としての「市民の司法参加」
東京大学名誉教授
日本学士院会員
三谷 太一郎

民主制の下で,司法権は誰によって,いかに担われるべきかという問題につきまして,それを今日に通ずる「市民の司法参加」という形で明確に示しましたのは,19世紀ヨーロッパを代表する二人の政治思想家であります。一人は,フランスのアレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville, 1805~1859)であり,もう一人は,イギリスのジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, 1806~1873)であります。彼らが注目いたしましたのは,民主制にふさわしい司法制度として彼らが見た陪審制であります。陪審制は日本においても,昭和3年10月から昭和18年4月までほぼ15年にわたって実施され,今日の裁判員制度を生んだ歴史的母胎となりました。トクヴィルおよびミルの両者は,陪審制を単なる司法制度ではなく,民主制に本質的な「政治制度」として見たのであります。

フランスの若い司法官であったトクヴィルは,1830年に自国の7月革命すなわちフランス大革命後復活した絶対王政を立憲王政に変えた政治的変革を体験した後,その翌年の1831年から32年にかけて,刑務所制度の視察と調査を名目として,アメリカ合衆国に公式出張いたしましたが,その際直接に見聞したアメリカにおける民主制の現実の中に,近い将来の世界を貫く一般的動向を読み取ったのであります。そしてそのような動向を体現している「政治制度」として陪審制を意味づけたのであります。

明治期の啓蒙思想家であり,また教育者,特に女性教育者として著名であった中村正直(敬宇,1832~1891)が明治3年から4年にかけて『西国立志編』という題名で翻訳し出版した書物にイギリスのジャーナリスト出身の著述家サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles, 1812~1904)の『セルフ・ヘルプ(自助論)』があります。『セルフ・ヘルプ』の初版が刊行されましたのは1859年であり,中村正直が翻訳いたしました底本は1867年版であります。原著はイギリスで,翻訳は日本で共に広く読まれたのでありますが,明治6年から7年にかけて,明治天皇への進講において当時の側近たち,具体的に言えば儒学者元田永孚・ドイツ学者加藤弘之・国学者福羽美静らが『西国立志編』をテクストとして使った事実があります。明治7年1月7日に行われた講書始には加藤弘之が『西国立志編』を講じました。その中に,スマイルズの言う「セルフ・ヘルプ」を実践した事例として,トクヴィルが挙げられているのであります。すなわち,1831年から32年にかけてのアメリカ旅行におけるトクヴィルの研鑽・精励ぶりが「セルフ・ヘルプ」の典型として紹介されているのであります。このように『西国立志編』にも取り上げられているアメリカにおける見聞に基づいて書かれたのがトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』(1835=天保6年)という著書であります。『西国立志編』の中にも『アメリカのデモクラシー』の書名が『デモクラシー・イン・アメリカ』として挙げられているのであります。それは今日においても,アメリカおよび民主制についての最高の古典であります。

この人類史上でも稀有な名著には,デモクラシー化(平等化と非差別化)が突きつけた人類の普遍的未来(現在の世界に受け継がれている問題)への具体的で原理的な考察が見られます。その重要な一つが民主制における陪審制の役割についての考察であります。トクヴィルによりますと,陪審制は「民主主義的統治」の一環であり,「人民主権の一形態」であると見られました。したがってトクヴィルは陪審制は個々の訴訟の運命に影響を及ぼす以上に,社会自身の運命に影響を及ぼすものと見たのであります。「それ故陪審制は何よりも政治制度なのである。陪審制は常にこの観点から判断されねばならない。」というのがトクヴィルの洞察でありました。それは陪審制の役割についての画期的発見であったと言っても言い過ぎではないと思われます。

このように陪審制を民主制の本質的部分を体現している「政治制度」として捉えたトクヴィルの認識は,イギリスの同時代人ジョン・スチュアート・ミルによって共有されました。トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』に深く影響されたミルはイギリス古来の陪審制を,トクヴィルを通して,新たに「政治制度」(特に政治教育制度)として再認識したのであります。ミルはトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』が刊行された5年後の1840年(天保11年)にこの著書について長大な書評を書いておりますが,その中で,ミルは,アメリカの「民主的制度」が人民の公共的関心を呼び起こす政治教育的役割を果たしていることにトクヴィルが着目したことの重要性を指摘いたしました。それは,学校教育以外で主要な教育的役割を担う職業生活からも,必ずしも期待できないものでありました。そのような観点から,ミルもまた陪審制に着目したのであります。

ミルは『自由論』(1859=安政6年刊行)において,個々の市民に対する陪審制の教育的意味を強調し次のように述べております。すなわち,ミルは「多くの場合において,民間の個人は平均的には政府の役人ほどには特定の事柄を巧みに行うことはできないかもしれないが,にもかかわらず,それが政府によってよりも,民間の個人によって為される方が,その人自身の精神教育の手段として望ましいのである。それは彼らの主体的な能力を強化し,彼らの判断力を訓練し,彼らの処理に委ねられた課題に対する知識に精通させる方法である。これが陪審裁判・・・・を推奨する唯一ではないが,主要な理由である。」と述べております。ミルは『自由論』の中で古代ギリシャの事例を挙げまして,古代ギリシャにおいて,アテナイ市民の司法参加が市民自身に及ぼした教育的効果を高く評価いたしまして,「平均的なアテナイ市民の知的水準を,古代・近代を問わず,いかなる他の人間集団よりも,はるかに高く引き上げた。」と指摘しております。

ミルの『自由論』は,やはり『西国立志編』の訳者中村正直によって『自由之理』という題名で翻訳され,明治5年=1872年に出版されておりますが,ミルが陪審制を推奨した個所は,中村正直によって「たとひ政府の官僚にて関係する方が各個人民に任ずるより善き事ありと雖も,これを要するに人々自己に任せて為さしむるに若はなし。さるからに審司(裁判官)獄訟(刑事訴訟)を聴く時,12人陪坐して(陪席して)公平に判断するが如き,この道理に合ひ甚だ称誉するに堪へたり(誉め称えるに価する価値がある)。」というふうに訳されております。

元来ミルは代議制をもって最良の政治形態といたしまして,直接民主主義的制度には概して否定的でありました。しかし陪審による市民の司法参加につきましては,1861年(文久元年)に刊行された『代議制統治論』においても,「人民が彼らの代表者を通じてよりも,直接に行為する方がよいという政治における数少ない事例の一つである。」と評価したのであります。ミルによりますと,個々の市民の関心は,通常もっぱら個人と家族に集中し,そのことによってともすれば公共的道徳が衰退するのみならず,それと共に私的道徳,個人的道徳もまた損なわれるとされているのでありますが,そのような傾向に積極的に対抗する手段は,私人としての市民が公共的職務に参与することによって得られる教育的効果,さらに正確に言えば自己教育的効果であり,その理由から,ミルは,陪審制を一つの「公共精神の学校」(school of public spirit)と呼んだのであります。

日本におきましては「市民の司法参加」を主張する第一の波が起こりましたのは,実に19世紀の70年代から80年代,すなわち明治10年代の明治憲法制定期においてであります。この時期には政府の内外で立案された多くの憲法案には陪審制が盛り込まれました。また政府内で起草された今日の刑事訴訟法に相当する治罪法案には陪審制の規定が置かれていたのであります。現実の立法過程においては,陪審制は刑事裁判制度としてほとんどその実現の寸前にまで及んだのであります。しかし,立法の最終段階において政府内部からの強力な反対によって,それは潰え去ったのであります。

当時注目すべき提言として,明治10年の西南戦争に際して,福沢諭吉が主張した陪審裁判による戦争裁判の提言があります。戦争の結果が明らかになりはじめた段階で,福沢諭吉は戦争の原因を明らかにするために,西郷隆盛をはじめとする薩軍関係者に十分に弁明の機会を与える臨時裁判所の開設を政府に対して要請いたしました。「西郷隆盛の処分に関する建白書」がそれであります。その中で福沢諭吉は戦争裁判を公平に行うために,陪審による裁判を提言したのであります。すなわち皇族,役職についていない華族,各府県士族および平民の中から陪審員を選んで裁判を行わせるべきであると提言したのであります。もちろんこの提言は当時の政府のいれるところとはなりませんでした。

また「市民の司法参加」の第二の波が起こりましたのは,20世紀初頭の明治40年代から大正期にかけてのいわゆる「大正デモクラシー」期においてであります。衆議院に議席を有する政治家が近代日本史上はじめて首相となった内閣の下で,陪審制の立法化が着手されたのであります。そしてそれは遂に大正12年の陪審法の成立に至るのであります。それが5年間の準備期間を経て昭和3年2月20日に行われた男子普通選挙に引き続いて,10月1日に実施されたのであります。この日東京地方裁判所で開設された陪審法廷には,昭和天皇の行幸がありました。陪審法が実施された10月1日はその翌年(昭和4年)以降は司法記念日とされ,昭和35年以降は「法の日」と呼ばれております。

それに続いて,新しい形の「市民の司法参加」に向かう第三の波を起こしたのが,冷戦後の様々の制度改革の一環として,21世紀初頭,すなわち平成10年代前半に着手された司法制度改革でありました。現在進行中の裁判員の参加する刑事裁判の背景には,以上に述べたような近代日本において推し進められてきた「市民の司法参加」の伝統があり,さらにその根底には古代ギリシャ以来の人類全体の巨大な歴史的経験の蓄積があるということができると考えます。


ナノサイエンスとナノテクノロジー
名城大学教授
独立行政法人産業技術総合研究所ナノチューブ応用研究センター長
日本電気株式会社特別主席研究員
飯島 澄男

はじめに

自然科学は宇宙の創生から分子・原子さらに素粒子まで,限りなく大きな世界から,限りなく小さな世界を,興味の対象としています。近代科学が始まった20世紀の自然科学における偉大な発見は,DNAとトランジスタであることは広く受け入れられています。トランジスタによる電子・情報化社会の出現,またDNAによる遺伝子治療の実現など,われわれの社会生活に大きな貢献をし,同時に,自然科学・基礎研究の重要性を証明しています。

ナノサイエンスは,20世紀の終わる1980年代から台頭してきた新しい自然科学分野の一つで,文字通りナノメートル領域に関わる諸々の現象を研究対象とし,物理学,化学,物質科学,生物・医学などに関する学際領域の学問体系を指しています。ナノサイエンスの遂行に必要とする技術,またその工業的応用をナノテクノロジーと呼んでいます。ナノテクノロジーの発展とともに,ナノサイエンスの研究と理解が進み,両者は一体となって相乗的に発展しています。ナノサイエンスの研究から得られる成果や知見を基に,新しい産業創生が期待されるに至っています。この動きは日本のみならず世界規模の潮流になっています。

物質を構成する最小単位は,通常,原子ですが,原子を構成する究極の単位を追及していくと素粒子に至ります。素粒子物理学の理論研究では,小林・益川両教授が世界をリードする先駆的研究をされ,2008年のノーベル物理学賞に輝いたことは記憶に新しいところです。


ナノマテリアル

一般に,研究者の研究戦略として「極端な世界・環境」を想定することがしばしば検討されます。例えば,ある物体が,極限の超低温度,超高圧力,あるいは超高磁場下に置かれたとき,その物質の状態がどのように変わるか,などの研究です。同様に,通常の大きさの物体,例えば「金塊」を切り刻んで限りなく小さくすると,究極の大きさは金原子1個になります。そこに至る少し手前で,切り刻むことを止めますと,100個,1000個,10000個からなる金原子集団が得られます。これらの物体は大きさに換算すると「ナノメートル・サイズ」に相当します。ナノサイエンスでは,研究対象とする物体の大きさがナノメートル・サイズであることが特徴です。通常の物体の概念は,「肉眼で見る」ことができる大きさを指し,これを我々は「バルク」と呼んでいます。バルク物体は「数えきれない」ほどの原子から構成されている,といえます。エレクトロニクス・デバイスに使われる「ICチップ」は,その中には数百万個のトランジスタが組み込まれています。これらのトランジスタは肉眼で見ることができない大きさです。この「見えない」一つ一つのトランジスタでも,おそらく10の10乗個の原子からできております。ところが,ナノメートル・サイズの物体では,10の2~4乗個の原子集団ですから,ナノメートル・サイズの物体は,如何に小さな世界であるか想像できます。

物体がこの程度の大きさになると,バルクの物体では生じない特異な物理・化学現象が発現します。これを量子サイズ効果と呼んでいます。

1962年,久保亮五はナノメートル・サイズを有する物体は,バルクのものに比べ,電子エネルギー構造が,離散的になることを理論的に予測し,極微小物体(ナノクラスター)研究の面白さを紹介しました。その後,1980年代に入ると,ナノクラスター生成方法やナノメートル・サイズの「微細加工技術」が進歩し,いわゆる,量子細線や量子ドットを用いた,量子サイズ効果の実験検証がなされるようになりました。今日,この分野は,凝縮系物理学における興味ある研究対象とされ,ナノサイエンスの中心的研究課題となっています。


ナノマテリアルの観測手段―電子顕微鏡

さて,ナノサイエンスで課題となるナノクラスターを研究するためには,まず,それらのナノクラスターを作らなければなりません。その生成は微小になるほど難しくなり,物体によって作成方法を開発する必要があります。これに成功すればその研究の70%は終わった,と言っても過言ではありません。ちなみに,夜空を彩る「花火」の後に発生する煙は,主に金属酸化物ナノクラスターですが,その大きさは二桁近く大きいものです。ナノクラスターの生成に成功した後は,それらのナノクラスター構造体の「原子構造」,すなわち,原子や分子がどのようにつながっているか,を調べる必要があります。物質の特性を調べるためには,原子配列構造を正確に知ることが研究の第一歩です。DNAの分子構造解明にはX線回折法が用いられました。電子顕微鏡も物質構造を調べる有力な手段になっています。

電子顕微鏡は1932年にドイツのルスカによって発明されましたが,当初の電子顕微鏡の分解能は光学顕微鏡と大差はありませんでした。しかしながら,1970年代になると分解能が向上し,結晶物体を構成する個々の原子が直接捉えられるようになり,いわゆる「高分解能電子顕微鏡法」が確立します。実は,進講者の飯島は,この分野のパイオニアの一人でございまして,1970年に米国のアリゾナ州立大学に渡り,その開発で世界を先導してきた経歴をもっています。ナノクラスターの原子構造を調べるにはX線回折法は不十分で電子顕微鏡が唯一の研究手段ということになります。次に紹介する「カーボンナノチューブの発見」は電子顕微鏡の助け無しには得られませんでした。

最新の電子顕微鏡はさらに進化し,軽元素である炭素やボロン原子を見ることが可能になってきました。更に,個々の原子を識別する新しい元素分析技術も開発されています。


カーボンナノチューブ -新しい物質の創出

これまで,ナノサイエンスとナノクラスターについて概観してきました。

ここでは,現在,世界的に話題になっているカーボンナノチューブ(CNT)についてご紹介いたします。結論から申し上げますと,CNTは,1991年,当時,つくば市にある「NEC基礎研究所」で,高分解能電子顕微鏡を用いて材料科学の研究に従事していた飯島によって発見されました。このCNTは,現在,ナノサイエンスの研究で主役を演じており,世界中に大きなインパクトを与えています。また,これが引き金となって,更に新しいナノ物質が次々生み出されています。

炭素材料には,ダイヤモンド,炭,グラファイト(石墨)の3種類があります。いずれも天然に存在する物質です。CNTの基本構造はグラファイトで,炭素原子が「蜂の巣状」に配列したシートが,積み重なった結晶構造をもちます。その蜂の巣状シートを1枚だけ用意し,これを繋ぎ目がないように丸めて円筒形にしたものがCNTです。ただし,この直径は,細いものでは1ナノメートル前後になります。長さはいろいろですが数ミリメートルに達するものもあります。

このサイズになると,通常のグラファイトとは異なる物性を発現するようになります。例えば,グラファイトは電気をよく通し,「金属的」に振る舞いますが,CNTになると,シリコンのようにある条件のもとでは電気を通す「半導体」になります。その条件は,チューブの「太さ」と「らせん」構造の有無によって変わります。したがって,半導体のCNTを用いてトランジスタを作ることができ,その性能はシリコンより優れていることもすでに実証されています。

CNTは「しなやかな」材料であることも,その特徴の一つです。180度折り曲げても電気的特性にはほとんど変化が見られません。機械的強度,特に引っ張り強度が鋼鉄の10倍も優れていることもCNTの特徴です。半導体としなやかさを組み合わせると,「くしゃくしゃに折り曲げられる」フレッキシブル・エレクトロニクス・デバイスを作ることが可能になり,新しいエレクトロニクス・デバイスとして,世界中の企業で活発な研究開発が進められています。CNTは,他にもいろいろ優れた特性をもち,極めてユニークな材料であることがわかってきました。

同じ炭素材料でも,構造や形態の違いにより,特性が変わることが発見されたのは,CNTが初めてです。こうした特性の変化は,従来の物質科学に,全く新しい概念をもたらしたという点で,画期的な発見ということになります。


新発想による新物質創出

ここで,ナノサイエンスが注目されるようになった原因について考えてみます。物体をナノメートル・サイズにまで小さくすると,いろいろ面白い現象が現れることは,理論的に予測されていました。この予測を実験的に実証することが,大きな課題となっていました。例えば,シリコン産業で開発された「微細加工技術」をさらに推し進め,ナノメートル・サイズの構造体を作る試みが盛んに行われました。ところが,数々の本質的な技術の限界に遭遇し,なかなか突破することはできませんでした。 

この限界を超えて,ナノ構造体生成に成功したのがCNTということになります。CNTの作成では,「微細加工技術」を全く使わずに,比較的容易にナノ構造体を作ることに成功してしまいました。最初の方法はアーク放電法です。2本の炭素電極の間でアーク放電を起こし,炭素を蒸発させて,再凝縮させる生成プロセスを調整して,CNTを生成するものです。炭素原子が「自ら」チューブ状に並ぶ,ということが新しい手法です。その後,レーザ蒸発法や炭化水素ガスの熱分解による方法などが開発されています。

微細加工技術による方法はトップダウン方式,われわれのCNT生成法はボトムアップ方式と呼んでいます。トップダウン方式の限界を乗り越える方法が,ボトムアップ方式ということになり,現在,ボトムアップ方式は,ナノサイエンスの研究には欠かせない技術となっています。

ナノ構造体では,構成原子の数が少ないので,全ての原子配列(原子の位置)を知ることができます。このことは,構造体のモデリングが容易になります。すなわち,凝縮系物理の最新理論とそのコンピュータシミュレーションにより,CNTの電気的特性やその他の物性を正確に予測することができるようになりました。理論と実験との対比から,ナノ構造体の理解が進み,同時に,理論自身の限界や精度についても議論が深まっています。理論と実験が相補的に発展し,結果として,凝縮系物理学に大きな発展があった,ということになります。新しい学問発展の一つの好例ということになります。


終わりに

カーボンナノチューブという新しい物質が発見され,いろいろな分野にインパクトを与えてきました。まず基礎科学の発展に大きな貢献がありました。物質構造の超微細化と新構造の創出による新しい物性の発現は,既存の物質科学に,全く新しい概念をもたらしました。ナノチューブの発見による新物質(ナノ構造物質)概念は,炭素物質に限らず他の物質においても多数発見され,ナノサイエンスの研究領域は益々拡大しています。

カーボンナノチューブの魅力は,基礎科学の分野に留まらずナノテクノロジーとして,フレッキシブル・エレクトロニクス,スーパー・キャパシター,バイオ・テクノロジーの分野ではDDS(薬物搬送体)など多岐に渡り,21世紀の新産業として大きな期待が寄せられています。