「サンデー毎日」(平成30年7月1日号)の記事について

平成30年7月18日

サンデー毎日7月1日号の「(つよ)き声~美智子さまとその時代」と題する工藤美代子氏の連載(第3回後編)において,東宮妃殿下時代の皇后さまにお仕えした故牧野純子東宮女官長(以下「故女官長」という。)の友人の娘で,97歳になる「香子」という仮名の人物が,自分の母親又は故女官長から直接聞いたという話を基に,皇后さまと故女官長との間の不和を取り上げる記事が掲載されています。

筆者は,「一方的な見解だという批判もあるかもしれない」が,「それは承知の上で,私はオーラルヒストリーとして,純子が香子さんの母親に語った体験談を採集しておきたいと考えた」として,事実の存否やその客観性,正確性の確認なく記述を進めていますが,この談話では,実際になかったことが事実として語られていたり,当時の状況を取り違えて話されているなど,これを放置することは読者に大きな誤解を与えかねず,宮内庁として記事についての事実関係を説明することにします。

まず,ご成婚後の伊勢神宮参拝時の皇后さまのお洋服に関し,「スカートがパーッて広がっていて,針金がぐるぐる入っている・・・宝塚みたいなスカートをお召しになっていらした」とし,故女官長が「こうしたお洋服は伊勢神宮ではお召しにならないから,ちょっと針金を取らせていただくことにした」が,「妃殿下が針金をまた付け直していらしたんですって」との談話が記述されています。

しかし,この時,皇后さまがお召しのご参拝服に針金は入っていません。後年,ご処理の時に「覚え」として職員が残した絵型の付記からも明らかですが,何よりもこのことは,当時,このご参拝服が用意された経緯から言ってもあり得ないことです。

「香子さん」は,「なぜいろいろお洋服のことだって,高松さん(高松宮喜久子妃)とか,あるいは女官長などにお尋ねにならなかったのか。」と語り,当時,皇后さまがお召しものについて誰とも相談なさらなかったと言っています。御婚約内定当時,東宮職には4人の参与がおり,その中の紅一点が,明治,大正と宮中に務め,昭和24年に東宮職参与を拝命した松平信子氏(秩父宮勢津子妃の母上で元外交官夫人)でした。ご婚約中の皇后さまのお支度は,高松宮妃殿下等に一部が委ねられた他は,この東宮職で唯一の女性参与であった松平氏にすべて託され,(くだん)のご参拝服も氏の指名したデザイナーが担当しています。なお,故女官長は,ご成婚直前ともいえる4月1日の拝命で,お支度には携わっていません。当時の皇后さまのお洋服は,その絵型がデザイナーから松平氏の手を経て,当時の香淳皇后付きの2人の女性御用掛(高木多都雄氏,河合りょう子氏)に回付され,このお二人は千代田区三番町の宮内庁分室における皇后さまの仮縫いにも立ち会っています。

このように,当時の皇后さまのお洋服の仕立ては,宮中の服装に関し,当時最も権威あるとされた人々の手を経て行われていたのですから,談話の内容は松平,高木,河合の3氏の責任を問うことになり,また,御結婚後10日に満たない妃殿下が,これから初めて神宮の参拝に臨まれようとする差し迫った時間に,針金を抜き取る云々というということがあったとすれば,それは香子さんが擁護しようとした故女官長の人格を却って傷つけかねないことになります。

また,談話の中に,故女官長の推薦で仕えることになった学習院出身の女官について,「ご注意を受けては,毎日帰ってきて泣いているんですって。見かねたお母様が『もう・・・娘は辞めさせていただきたい』っておば様(故女官長)に願い出たの。そうしたらおば様は,・・・『1年だけは我慢しなさい。何があっても我慢すれば,退職金が出るから』とおっしゃったそうよ」との記述があります。

談話に該当する女官は,ご成婚時に採用された3人の女官の1人ですが,この女官はその後26年,これまでの女官全員の中でも2番目に長い期間(他の2名は12年,17年)勤務し,皇后さまは,その間,2度の外国ご訪問,国内の数多くの式典や地方行啓にこの女官をお連れになっています。

また,「学習院出身の女官の方は他にもずいぶんお辞めになりました」との記述もありますが,故女官長の在職中に拝命したり,退職したりした学習院出身の女官は一人もありません。この女官の次に出仕した学習院出身者は,故女官長の後任の松村淑子,井上和子,濱本松子の3人の女官長で,いずれも務めを全うしています。皇后さまは,宮中生活のほとんどをこれらの学習院出身の女官長の支えを得て送られてきました。

さらに,談話として,当時の浩宮さまご誕生後,宮内庁病院をご退院になるときの様子を「おば様は,『絶対にお窓をお開けになってはいけません』って美智子さまに申し上げたの。大勢のカメラマンがいっせいにフラッシュを焚いたら新生児によくないとわかっていたから。でも,美智子さまはお開けになってしまって,ちょこっとこういうふうに赤ちゃんを見せるようになさったの。だから後から,おば様が窓を開けさせなかったって,すごく悪者に書かれました。」との記述があります。

この事件については,後に八木貞二元東宮侍従が,その頃東宮大夫であった鈴木菊男氏から聞き,記録したメモを基に,文藝春秋に次のような文章を寄稿しています。

「ご退院を巡り,当時宮内記者クラブと担当の黒木従達東宮侍従との間で一つの押し問答があった。ご退院の時に取材があることを前日に申し上げた時に,まだお生まれ早々なので,フラッシュだけはたかないでもらえないだろうか,という妃殿下のご要望がおありであったのである。記者クラブはこれを却下した。戸外ならともかく,車中は無理だというのである。当時のカメラの性能は,今とは随分違った。フラッシュも強く,まだボンというマグネシウムもたかれかねない時代である。・・・そうした中で,このフラッシュについてだけは,重ねてお頼みになり,黒木さんは再び交渉した。クラブの人々は,何とかして新宮様をお抱きの妃殿下のよいお写真を頂きたいし,一方妃殿下は,何とかしてこの強い光の衝撃から新宮様をお守りになりたかったのだろう。結果として,記者クラブから代案が出された。もしフラッシュをたかないのであれば,お車の窓を開け,発進をゆっくりとし,時間をかけて撮影させて頂きたい,というものである。妃殿下はこの代案を受け入れ,窓をお開けになった。窓を開くか,フラッシュをたくか,二つに一つを選ぶ中での選択であった。」

事実が基にあれば,それに対する様々な見方があって構いません。

しかし,今回の記事は,実際にあった事実を基にするのではなく,母親を介し,又は自らが伝聞したという「香子」さんの記憶だけを採録し,それを事実として筆者自身の「見方」を述べたものです。宮内庁としては,ご譲位を来年に控え,ご高齢のお体で最後のお務めを果たされている両陛下について,今更のように第三者の語る当時の噂話が十分な検証や当時の状況説明もなく世間に流布されることは放置すべきでないと考え,宮内庁ホームページで改めて当時の事実関係を説明すると共に,筆者及び出版社にこの内容を通知することにしました。

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