講書始の儀におけるご進講の内容(令和6年1月11日)


ことばのステレオタイプ “役割語”について
大阪大学名誉教授
日本学士院会員
金水 敏

○はじめに

人間の音声言語(及びそれを台詞として書き記した書記言語)には、書かれた内容を聞き手に伝達するという機能だけでなく、それを話している人物がどのようなカテゴリーに属する人間であるかということを象徴的に指し示す機能があることが、古くから知られていました。例えば、内容的にはたった一つの事柄を表すと考えられる、次のような台詞を例に取りたいと思います。

1 その秘密、わたくしが存じておりますわ

2 その秘密、おれが知ってるぜ

3 その秘密はわしが知っておるのじゃ

4 その秘密、あたしが知ってるわ

5 その秘密は僕が知ってるのさ

これを現代の日本語の母語話者に聞かせて(あるいは読ませて)、それぞれがどのような性別、年齢、その他の特徴のある人物かということを説明してもらうと、ほとんどぶれなく答えが一致します。あるいは、カルタのように人物の画像を選んでもらうというようなことも私は説明のためにいたします。

念のために答え合わせをしますと、1番「その秘密、わたくしが存じておりますわ」というのは上品な女性の話者、2番「その秘密、おれが知ってるぜ」というのは、労働者やアウトローを思わせる男性、3番の「その秘密はわしが知っておるのじゃ」は老人男性、4番の「その秘密、あたしが知ってるわ」は広く女性話者、5番の「その秘密は僕が知ってるのさ」であれば、2番よりは品が良さそうな男性、あるいは少年、といったところでしょうか。人によって答え方はいろいろでしょうが、性差や年齢について大きくぶれることは少ないと思います。

このように、特定の人物像に対応するような言語の発話スタイルのことを、私は2000年に発表した論文で「役割語」と名付けました。更に2003年以降、関連する論文・図書を引き続いて公刊し、その中には海外で翻訳されたものも数点あります。本日は、この2003年以降の研究の進展を盛り込みながら、役割語の概要についてお話をさせていただきます。

○役割語は日常の言語とどこが違うのか、そしてなぜ役割語はあるのか

先ほどの例の中で、「その秘密はわしが知っておるのじゃ」という例を挙げましたが、このようにしゃべるお爺さんは、童話やアニメの中には出てきそうですが、現実にはあまり存在しそうもありません。まして、私たちは老人になったらこのようにしゃべるようになるというわけでもありません。それでは、役割語は現実の言語と全く異なる架空の言語なのかというとそうではありません。先の例で言えば、「その秘密、あたしが知ってるわ」のようにしゃべる女性は確かに存在するでしょう。役割語は現実の言語と似ているか似ていないかという観点で論じることはできません。そうではなく、その使用の動機によって役割語は日常言語とは区別されます。役割語が主として用いられ、活躍するのは小説、漫画、アニメ、映画等のフィクション作品の中においてです。実はフィクションの作り手と受け手の間には、「このようにしゃべる人物は、これこれの属性を持った人物である」という、話し方(スタイル)と話し手の人物像(キャラクター)の間の関係性が、暗黙の内に共有されているのです。

このような知識の共有が成立しているとすると、これは作り手にとって大変便利なツールとなります。つまり、ある登場人物に「その秘密、わしが知っておるのじゃ」としゃべらせれば、くどくどしい説明なく、「この人物は老人である」という情報が瞬時に受け手に伝わると想定できるからです。つまり、役割語は登場人物の属性(あるいはカテゴリー)についての記号的な説明として機能する、ということに他なりません。ある研究者は、この役割語の機能を「巨視的コミュニケーション」として説明しました。フィクション作品における登場人物同士のコミュニケーションを「微視的コミュニケーション」と呼ぶのに対して、作り手から受け手へのコミュニケーションを「巨視的コミュニケーション」と呼ぶことにします。巨視的コミュニケーションは通常、地の文によってなされると考えられますが、役割語は微視的コミュニケーションに混じり込んで巨視的コミュニケーションの機能の一部を果たすというわけです。このような便利な機能のおかげで、小説であれば字数・行数を減らすことができますし、映画やアニメであれば説明に要する時間を節約することができます。

役割語がこのような機能を果たすことができるのも、それが「ステレオタイプ」と呼ばれる知識の一部であるからと考えられます。ステレオタイプとは、人の社会的カテゴリーによって特定の属性が連動するものとあらかじめ人々が思い込んでいる知識のセットのことです。例えば「私は今日一人の脳外科医と会った。」という文を聞いたとき、私たちはこの脳外科医が男性であるとまず決めてかかるのではないでしょうか。すなわち、私たちは特定の職業とジェンダーを結び付けて考える傾向があります。これもステレオタイプの一種です。ステレオタイプにはこのような性差に関わるもののほか、人種・国籍に関わるもの、職業に関わるもの、血液型に関わるもの等のほか多数が知られており、しばしば社会的な問題にもなっています。役割語の場合も、特定の話し方(スタイル)が話し手の身体的、社会的属性(更に時に心的属性)を聞き手に連想させるという点で、ステレオタイプの一種なのです。

日本語に役割語が何種類くらいあるかということは、数え方によって左右されるところがあるので正確には言えませんが、私が編集した役割語に関する辞典の中では、50種類ほどの役割語のラベルを使いました。また、役割語を話すキャラクターを「性」「年」「品」「格」という四つの観点によって分類することを提案した研究もあります。「性」とは〈男ことば〉〈女ことば〉等、ジェンダーに関わるキャラクターで、「年」とは〈老人語〉や〈幼児語〉のような、年齢・世代に関わるキャラクターとして現れます。また「品」とは上品、下品のような品位・美しさに関わる観点で、「格」とは権力の有無による分類で、主に丁寧語のような敬語の使用に特徴が現れます。

○外国語の役割語と翻訳

さて、日本語には多種多様な役割語が見られると述べましたが、他の言語ではどうなのでしょうか。例えば先ほどの5種類の台詞の述べ方を英語で訳し分けようとしてもそれは無理で、すべて “I know the secret.”としか言えないでしょう。それでは、英語には役割語は存在しないのかというとそうとは言えず、例えば、ある研究によりますと、AAVE(African American Vernacular English)すなわちいわゆる “黒人英語”を基にした役割語が存在しますし、方言に基づく役割語、外国人訛りに基づく役割語等も指摘されています。しかし概してこれらの役割語は “規範的な英語を話すことができない人々の特殊な英語”とみなされ、価値の低い言語変種としての扱いがなされがちであり、その分、標準的な英語がカバーする領域がはるかに広いのです。ドイツ語、フランス語、スペイン語等他のヨーロッパの言語でも事情はよく似ています。一方でアジアに目を転じると、近代中国語もまた標準的な言語のカバー率が高いのですが、研究の進展によって少しずつ役割語としての言語変種の存在が見いだされるようになりました。韓国語は文法的に日本語に似ていることもあって、役割語と言える言語変種は見いだせますが、日本語ほどくっきりとした境界が分かれているわけでもないようです。ある研究によりますと、日本語では性差の役割語が非常に重要ですが、韓国語では性差それ自体はあまり鮮明ではなく、むしろ複雑な敬語体系からもたらされる対話者間の年齢・世代の違いが明瞭に現れやすいとされています。日本語に近い役割語が見いだせそうなのはタイ語だとも言われていますが、タイでは日本語ほどポピュラーカルチャーが成長していないので、役割語の発達はまだまだこれからではないかと考えています。

すなわち、日本語では役割語の使用場面が広く、またその変種も豊富であると言えますが、日本語と同等に役割語が発達した言語は見られないというのが当面の見方かと思います。日本語はなぜこのように役割語が発達したのかというと、役割語を作りやすい文法構造を持っているという必要条件に加えて、古来、特に江戸時代以降、身分社会を背景とした豊富な言語変種をエンターテインメントの中に取り入れて、言語文化として楽しむ風潮が強かったことが挙げられます。江戸時代では歌舞伎、人形浄瑠璃、落語、戯作等がそのような言語文化を支えてきました。近代になると更に、児童小説、娯楽映画、漫画、アニメ等のポピュラーカルチャーの発展が目覚ましく、特に1970年代ごろからのいわゆるオタク文化は役割語の強化・拡散に大いに力を発揮しました。

このように、日本語は役割語が “濃い”言語であると言えますが、これに対して英語、中国語等はおおむね役割語が “薄い”言語であると言えます。ここで、翻訳の問題が浮かび上がってきます。役割語が “濃い”言語(すなわち日本語)から他の “薄い”言語に翻訳する場合と、逆に役割語が “薄い”言語から “濃い”言語(日本語)に翻訳する場合で、違った問題が生じます。前者のケースでは、日本語で役割語が使い分けられている場合でも、ターゲット言語においては例外的なケースを除き、その違いが無視されて標準的なスタイルに置き換えられることが多数であると言えます。例えば日本語の特定の方言的な役割語を、英語などにおける特定の方言のスタイルに置き換えるというようなことは、むしろすべきでないと考える翻訳者や編集者が多数を占めるでしょう。

逆に、英語などから日本語に翻訳する場合は、ソース言語であまりスタイルに大きな差がないセリフでも、日本語の特定の役割語に訳出するケースが多数見られます。ある研究によりますと、ソース言語における若い女性の台詞は基本的に〈女ことば〉で、若い男性の台詞は〈 “翻訳版”きさくな男ことば〉で翻訳される伝統があることを指摘しています。前者は「そうだわ」「知ってるの」「素敵ね」などのように「わ」「の」及び「だ」の脱落という形式に代表されます。後者は、「やあ、元気かい」「何をしてるんだい」「ぼくは生粋のアメリカ人さ」のように、「やあ」「かい」「だい」「さ」のような形式が特徴的なスタイルです。また “wait!”のような英語の命令形を翻訳する場合、男性は「待て!」と命令形で訳されますが、女性の場合は「待って!」と訳されることが圧倒的に多いと言えます。私見では、これは役割語及び翻訳の保守性からもたらされる現象で、例えば「やあ」「かい」「だい」「さ」等は20世紀初頭では東京など広い地域で用いられていましたが、今日では若者がほとんど用いなくなった結果、翻訳特有表現として認識されるに至ったと考えています。

○終わりに

役割語は、今日の日本語の表現において欠くことのできない要素であると認められますが、ステレオタイプであるが故の問題も多く含んでいます。例えば翻訳で色濃く見られる〈女ことば〉の特徴は、女性が日本社会におかれてきた従属的な立場を反映したもので、今日の日本社会にはふさわしくないと考える人も少なくありません。これから日本語の、そして世界の役割語がどのような方向に向かっていくのか、引き続き注意して見守っていきたいと思います。


捜査法の進化と課題
東京大学名誉教授
日本学士院会員
井上 正仁

刑事事件の捜査においては、証拠や情報を収集するために用いられる手段・方法により、被疑者や関係者の権利・利益を侵害することがあり得ます。そこで、事実解明に有用な証拠を確保するという要請と対象者の正当な権利・利益を保護するという要請との間の合理的な調整による適正な限界付けが必要となりますが、そのための法的規律の骨格を成すものとして、我が国の憲法と刑事訴訟法は二つの基本原則を定めています。

その一つは、捜査においては、その目的を達成するために必要な適宜の方法を用いることができるけれども、「強制処分」を行うのは刑事訴訟法にこれを許す特別の規定がある場合に限られる(刑事訴訟法第197条第1項)とするもので、「強制処分法定主義」と呼ばれます。これに加えて、その「強制処分」のうち主要なものについては、原則として事前に裁判官に請求して、その処分が許される要件を充たしていることを確認し処分の対象を特定した令状を発付してもらい、それに基づいて実施することが必要とされており(憲法第33条、第35条)、これが「令状主義」と呼ばれるもう一つの原則です。

このように、「強制処分」とそれ以外の処分(「任意処分」と呼ばれます)とでは、厳格な法規制を受けるかどうかという大きな差異があるわけですが、しかし、肝心の「強制処分」とはいかなるものを言うのかについては、現行法自体には何ら定義が示されていません。

私は、昭和45年に大学で初めて刑事訴訟法の授業を受け、その後、研究室に入って同法の研究を始めましたが、当時はどの教科書を見ても、「強制処分」とは主に有形力(実力)を用いるものを言うと説明されていました。確かに、「強制処分」という概念は明治のころから使われており、逮捕などの身体拘束や捜索、差押え、検証などがそれに当たるとされてきました。いずれも、露わな物理的作用を伴うものですし、現行の刑事訴訟法にもそのための厳格な要件・手続を定める規定が置かれており、「強制処分」に当たることは疑いありません。

しかし、研究を進めるうちに私は、「強制処分」とはそれらの現行法で既に認められているものばかりだとすると、強制処分法定主義といった原則をわざわざ掲げる意味はほとんどないのではないか、と疑問に思うようになりました。そして、注目したのが、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」ことを保障する憲法第31条との関係です。その保障は、刑事手続で個人の基本的な権利や自由を奪う処分については、それを許すかどうか自体、国民自身がその代表である国会を通じて、法律の形で意識的かつ明示的に決定すべき事柄であるとの趣旨を含んでおり、強制処分法定主義はまさにこれを受けて、その趣旨を敷衍ふえんするものにほかなりません。令状主義も、そのような処分を許す場合の必須の条件を設定するものと言えます。そして、そうだとすると、むしろ、既存の処分とは異なる新奇な捜査手段が登場したときにこそ、二つの原則はあいまって真価を発揮することになるはずだ、と考えたのです。

特にそのころには、犯罪が巧妙化、組織化、国際化する一方で、科学技術が目覚ましく発展・普及しつつありましたので、それらの科学技術を犯罪対策のために活用し、例えば欧米などで実用化されていたように、組織犯罪への関与が疑われる人の電話等を電子機器を用いて密かに傍受するといった手段を採用することなども視野に入ってきていました。ところが、それらの手段は、対象者のプライヴァシーや通信の秘密などの侵害を伴うものでありながら、住居等への立入りや対象者に対する有形力の行使を伴わないため、旧来の基準では「強制処分」に当たらず、したがって、刑事訴訟法にそれを許す根拠規定がなく、しかも、裁判官の令状を得るなどの厳格な要件・手続によらなくても実施できることになってしまいます。しかし、そのような取扱いが適切だとは思えませんでした。

このような問題意識は次第に広く共有され、旧来の基準に代わる有効な基準の必要が認識されるようになってきた中で、転換点となったのが昭和51年の最高裁判例です。その判例は、酒酔い運転の疑いのある被疑者が警察署に任意同行されて、呼気検査を受けるよう説得されているうちに、突然部屋から出て行こうとしたので、警察官がその片方の手首をつかんで制止しようとしたことを適法と判定したものですが、旧来の基準では、警察官の制止行為は「強制処分」に当たり、違法とされていたはずです。ところが、最高裁はその旧来の基準をしりぞけて、「強制処分」とは、①「個人の意思を制圧」し、②「身体、住居、財産等に制約」を加えるものを言うとの基準を採用し、その基準に照らすと問題の警察官の行為は「強制処分」に当たらず、任意処分として許される範囲のものだと判定したのです。この二つの要因は、「強制処分」か否かを区別する新たな基準として、大筋において妥当なものだと思われました。

もっとも、それぞれの要因が具体的にどこまでのことを意味するものなのかについては、解釈が分かれました。殊に①の「意思の制圧」については、文字どおり、対象者の抵抗を排除するなど反対意思を抑えつけることを必要とする、と解釈する見解も有力でした。しかし、例えば、居住者が不在の住居に無断で立ち入って捜索することを考えてみますと、その場にいない居住者が反対意思を表明することはなく、それを制圧するということもないため、その解釈では「強制処分」ではないことになりますが、これは明らかに当を得ません。その場合、対象者が知らないから反対せず、したがって制圧の必要がない、、、、、というだけのことであって、知れば通常、反対すると考えられるのに、敢えてこれに反して一方的にその権利を奪うのは、現実に表明された対象者の反対意思を制圧して同様のことを行なうのと実質的に変わらないからです。対象者に知られないで行われる電話の傍受などについても、同じことが言えます。そうだとしますと、この①の要因は、そのような合理的に推認される対象者の意思に反する、、、、、、、、、、、、、、、、、、、場合をも含むものとして、より汎用性のある基準とするのが良い。そう考えて提言したところ、次第に賛同が得られるようになりました。

そして、実際にも平成11年に、電話等の電気通信の傍受につき、「強制処分」に当たることを前提に、組織的な犯罪を対象として、令状主義の要請を充たす非常に厳格な要件・手続でこれを行うことを許す立法が成立しました。最高裁も、電話の傍受のほか、宅配便で運送中の梱包物に違法薬物が入っている疑いを抱いた警察官が、荷送人・荷受人いずれの承諾も得ず、エックス線検査にかけて中身を点検したことも「強制処分」に当たるとの判断を示してきました。平成29年には、被疑者等の自動車にGPS(全地球測位システム)端末を密かに取り付けて、半年以上その位置情報を断続的に取得し続けたことを大法廷判決が「強制処分」に当たると判定するにあたって、「合理的に推認される〔対象者の〕意思に反〔する〕」場合も①の「意思の制圧」に含まれることを正面から認めるに至っています。

一方、②の「身体、住居、財産等の制約」については、およそ何らかの権利の侵害・制約があれば、すべて「強制処分」とすべきだという意見もありましたが、ある利益の享受を「権利」と呼ぶかどうかは一義的でないこともありますし、その侵害・制約もごく軽微なものにとどまることがあります。他方、既存の強制処分について現行法上必要とされている要件や手続は相当厳格なものであることを考えますと、それらに匹敵する法定の厳格な要件・手続によって保護する必要のあるほど重要な、、、権利・利益に対する実質的な、、、、侵害を伴うものが「強制処分」に当たる、とするのが妥当ではないかと考えました。

例えば、裁判例によれば、公道上や公共の場所で公然と行動している人を承諾なく写真に撮ることなどは、捜査のため必要が高いときは無令状でも許されるとされています。その場合、対象者は自覚しつつ自らを他人の目にさらしているわけですから、《自分の姿・行動や私事を他人に見られたり知られたりすることはない》という完全なプライヴァシーを期待できる立場にはいません。ただ、《自己の容ぼう等をみだりに撮影されない》という自由までは失っているわけではありませんが、その自由は完全な形のプライヴァシー権に比べると重要性において一段劣るため、その侵害があっても「強制処分」とまでは言えない、ということなのだろうと理解されるのです。

もっとも、侵害が問題となる個々の権利・利益の性質や重要性についての認識や評価は、国や社会により異なりますし、時代によっても変化します。現に、今申したプライヴァシー権も、近時の憲法学説などでは、《私事を他に知られない》という消極的なものにとどまるのではなく、《自己の個人情報を自らがコントロールする》というより、、積極的で、かつ、その取得だけでなく記録や保存、利用にまで及ぶ射程の広いものと考えられるようになっています。それに加えて、デジタル・テクノロジーや人工知能(AI)をはじめとする極めて高度な情報処理・通信技術の発展により、膨大な量の情報を高速で効率的に取得・集積し、解析することが可能となっており、公道上や公共の場所での人の行動の観察や撮影であっても、それらの技術を用いて継続的に実施して、取得される情報を集積し解析すれば、対象者の長期間にわたる一連の行動や営みを相当詳細に把握することが可能です。そのため、そのような場合もプライヴァシー権ないし私生活の自由の侵害、あるいは新たな性質の「脅威」と捉えて、その厳格な法規制の必要を説く見解が、欧米のみならず我が国でも力を得つつあります。先ほどの GPS装置による位置情報の継続的取得はその典型例とされるものであり、それを「強制処分」に当たるとした最高裁大法廷判決は、そのような新たな法規制への先鞭をつけたものと評価する向きもあります。

しかしながら、他方で、捜査官による継続的監視や尾行などの方法による被疑者等の動静の把握は、従来から任意処分として無令状でも許されてきました。昨今では更に、各所に設置された防犯カメラ等の監視カメラで撮影された映像をチェックして被疑者の特定や行動把握につなげるのが、諸外国でも我が国でも捜査の常道となっています。高度の科学技術的手法はただ、人的な労力に大きく依存してきたそれらの作業を合理化・省力化・効率化し、実効性を飛躍的に高めるものであり、むしろ積極的に活用すべきものとも言えます。それなのに、既存の手法については必要とされてこなかった格別の厳格な法規制の対象とすべきであるというのは、それに伴う対象者の権利・利益の侵害という点あるいは他の何らかの点で著しい差異があるからこそのはずです。ところが、その点については、様々な説明が試みられているものの、なお明確な共通理解が得られるには至っていません。先ほどの最高裁大法廷判決の趣旨についても、前述のような見方ばかりではなく、解釈が大きく幾様かに分かれているのが現状です。

それらの点についてどのような考え方を採るかで、既存の手法を含めて、他の捜査手段への波及の有無や範囲も異なり得ますので、拙速は避けなければなりませんが、とどまることを知らない科学技術の進歩を前に、私ども法律関係者も立ち止まっていることは許されず、一層意識的かつ建設的に議論の集中度を高め、適切な問題解決に結実させていくことが緊要だと考えております。


ゆらぎで探る物質の構造
千葉大学名誉教授
西川 惠子

『ゆらぎ』は平均からのズレを表す概念です。物質やエネルギーの空間的分布のズレ(静的ゆらぎ)や時間的変動(動的ゆらぎ)は、対象とする系の構造・物性を決め、その後の時間発展の駆動力となります。

例えば、宇宙におけるエネルギー分布の不均一さは、その後の星の誕生などと結びついているとのことです。また、生命現象においては、それぞれの生体物質の不均一分布が自己組織化につながり種々の機能が発現することが知られています。物質科学においても、ゆらぎが重要なキーワードとなることがあります。この場合、分子やイオンの分布がテーマとなります。

私は物質科学でゆらぎが顕在化するいくつかの現象を調べ、従来には無い観点から物質の構造と物性を観測・解析することによって、新たな物質観を提案しました。ゆらぎは『乱れ』とも言い換えることができます。乱れを乱れとしてあるがままに認識する重要性を指摘し、静的な乱れの程度を定量化する実験方法を確立しました。この手法をいくつかの系に適用し、乱れから生じる物性と機能を関連付けることに成功しました。また、静的ゆらぎの時間発展を動的ゆらぎと位置付け、相変化に着目しています。

本日は、静的ゆらぎとして超臨界流体の構造と溶液の混ざり具合について、そして、動的ゆらぎとして相転移を例にとってお話しします。

物質は置かれている状態、具体的には温度と圧力により三つの異なる状態を取ります。いわゆる「物質の三態」で、気体・液体・結晶です。

結晶は、規則的に分子やイオンが並んだ状態です。気体状態では密度が低く、分子は室温付近で数百m/秒 程度の速度で自由に空間を飛び回っています。液体は、密度の面からは結晶と大きな差異はありませんが、動きの自由度を持ち、分子の並び方は乱れています。これに、第4の相として超臨界流体を加えたいと思います。超臨界流体とは臨界点を超えた状態にある流体で、気体と液体の中間状態と言われています。温度と圧力を縦軸と横軸に気体・液体・結晶の三つの相の存在する領域を描くと、三相の間には、はっきりした境界線が存在しますが、超臨界流体を気体や液体と区別する境界線はありません。液体と気体を分ける気液曲線は、臨界点で途切れています。

最初に、一つの成分からなり、ゆらぎが顕著な例として超臨界流体を取り上げます。超臨界状態における分子の分布状態のスナップ写真が撮れたとすると、気体のような分子分布が粗の領域と、分子が集合体を作り液体のように密な部分からなる不均一な混合状態です。今までですと「液体と気体の入り混じった不均一な状態」と表現するしか無かったのですが、その不均一さを『密度ゆらぎ』という量で定量化して求める実験法や解析法を開発しました。そして、多くの物質の超臨界状態に適用し、物質に依存しない超臨界流体に特有な普遍的な性質を見いだしました。

明らかにした普遍的な性質は次のとおりです。超臨界領域の密度ゆらぎの等高線を相図上に描くと、密度ゆらぎの極大値の連なりとして尾根線が形成されます。尾根線近辺は分子分布の最も不均一な領域で静的ゆらぎの大きい領域です。尾根線の始点である臨界点で、密度ゆらぎは無限大に発散します。気液曲線は、臨界点で途切れていましたが、実際は名残の境界線が存在し、それが尾根線です。従来、臨界点を越えた領域は混沌とした状態と考えられていましたが、尾根線は『より気体的領域』と『より液体的領域』に分ける境界線であることを見いだしました。

また、尾根線はギブス・エネルギーの二次の微分量(比熱や部分モル量など)のすべてが極値をとる特異点の連なりでもあります。超臨界流体を溶媒として他の物質を溶かすと、その溶解度は尾根線を境にして大きく異なります。すなわち、『より液体的領域』が溶解能力の大きな領域であり、『より気体的領域』が溶解能力の小さな領域となります。また、超臨界流体中での化学反応の特異点は尾根線上に在ることが多いことも分かりました。

ただいま申し上げたことは物質によらず同様に成り立ち、臨界温度や臨界密度あるいは臨界圧力で規格化した量を軸としてグラフを描くと、すべての物質の尾根線は重なります。その後、この尾根線は『西川ライン』と名付けられました。

このように、私は気液曲線の延長上にゆらぎの大きい尾根線が存在し、その近辺は超臨界流体の特異性が最も顕著な領域であり超臨界流体の活性場であることを示してきました。言い換えれば、ゆらぎが超臨界流体の物性を決めている最も重要な因子であることを明らかにしたと言えます。

次の静的なゆらぎとして、2種類の成分からなる溶液を例に挙げます。見た目では一様に混ざっている溶液でも原子・分子のスケールで眺めてみると様々な混ざり具合が考えられます。これらの混合状態は、分子間に働く相互作用エネルギー、分子の形、そして分子の持っている運動エネルギーで決まります。完全に混ざり合っている状態、同種分子がクラスターと呼ばれる塊を作っている不均一な混合、水と油が分離するような相分離など様々な混合状態が考えられます。私はこの混ざり具合の違いを『濃度ゆらぎ』という物理量で表し、その量を定量的に得る方法を確立しました。

卑近な例を挙げてみます。お酒は、大まかに言ってエチルアルコールと水の混合物です。私は試したことは無いのですが、単にエチルアルコールを水に混ぜただけでは、舌を刺激するきつさが有ると言われています。美味しいお酒は、様々な微量成分も効いていると思いますが、エチルアルコールと水の混ざり具合がまろやかさの一つの要因として挙げられるそうです。混ざり具合からみると、エチルアルコールが塊を作っている状態ではきつい味わいになり、水と分子レベルでよく混ざりあった状態がまろやかな状態とされています。私は、助手時代、学習院大学の理学部に在職しておりました。学習院大学の1番奥まった理学部の建物の一室で、このお酒の熟成効果が検知できるかの実験を行ったことがあります。大まかな濃度ゆらぎは検知できたのですが、残念ながら、熟成効果を証明するには至りませんでした。試料として、ある洋酒メイカーから仕込み年度の異なる、すなわち熟成度の異なる、ブランデーを提供していただいたのですが、樽からにじみ出すリグニンという微量成分の影響が大きく、エチルアルコールと水の混ざり具合の違いを検知するには至りませんでした。残念ながら、お酒の熟成効果を実験的に捉えることは失敗に終わりました。

成功した例として、アセトニトリルと水の混合物と、メチルアルコールと水の混合物の混ざり具合のお話をします。アセトニトリル分子はメチル基(CH₃基)に直線的にシアノ基(CN基)が付いた簡単な構造をしております。シアノ基の代わりに水酸基(OH基)に置き換えたのがメチルアルコールです。メチルアルコールは、あらゆる温度と濃度で水とほぼ完全に均一に混ざりますが、アセトニトリルと水の系では、モル分率0.38、温度マイナス1度で相分離します。アセトニトリルもメチルアルコールも小さな極性分子で、お互いによく似た分子構造をしております。水との相互作用がこれほど違うのは驚くべきことでした。それぞれの水溶液系で、濃度と温度を変えて、濃度ゆらぎの地図を作りました。その結果、メチルアルコール水溶液では、水分子の作る水素結合のネットワークに無理なくメチルアルコールが入り込めるのに対し、アセトニトリルではそれができずに、混ざり方に不均一さが生じることが分かりました。温度と濃度を変えた地図上で、混ざり具合にどのように不均一さが生じ、やがて相分離に至るかの過程が手に取るように分かりました。

ここからは、動的ゆらぎとして相転移についてお話しします。今までのお話は、例えてみるのなら、分子分布のスナップ写真を撮り、分子分布の不均一さや混合の不均一さを知ることでした。すなわち、静的なゆらぎで時間変化の情報は入っておりません。時間と共にどのように変わるかを『動的ゆらぎ』と定義し、どのような系で直接観測できるかを模索しました。そこで候補に挙げたのが相転移現象を時々刻々追うことです。

しかし、一般的に相転移は一瞬のうちに起こる現象で、これまでの実験手法では目的を達成できません。そんな中、たまたま研究していたイオン液体と呼ばれる物質群の相転移が、非常にゆっくり起こることを見つけました。イオン液体という物質群は、30年ほど前から、世界中で話題になっているイオンだけからなる物質群です。通常イオン性の物質(塩)は、正電荷と負電荷のイオン結合のため、室温で安定な結晶相として出現します。代表的な塩である食塩(塩化ナトリウム)の融点は801度です。ところが、塩であるのにもかかわらず、室温で液体状態を取る物質群が合成され、イオン液体と名付けられました。いわば、室温で電気を流す液体状態の物質群であり、様々な分野で大きな関心を集めており、現在、イオン液体を対象とした様々な科学や技術が発展しております。私も、このイオン液体の研究を進めたのですが、ある種のイオン液体は、液体と結晶の相転移が非常に遅いことに気が付きました。1~2分かかって相転移するものや、中には1時間かけて相転移をするものもあります。このように遅い相転移を有する試料を見つけたので、二つの方法で、相転移時の動的構造変化(ダイナミクス)を追うことにしました。一つは熱分析です。物質の変化が起こっているときには必ず熱の出入りが観測されます。このため、熱分析は相変化の知見を得る格好の実験方法と言えます。しかし、系全体を平均化したマクロな現象しか見えません。私達は、市販されている熱分析装置の千倍の感度を有する装置を手作りし、イオン液体試料の相変化を観測しました。すると、2~3分周期で結晶と液体を行きつ戻りつしているリズム的現象や、間欠的な結晶化、あるいは表面融解が起こる現象を見つけました。試料のミクロな領域のここかしこで起こっているゆらぎを捉えていることになります。

今一つは、核磁気共鳴による緩和時間測定です。化学や物理の世界では、NMRと呼ばれていますが、医学の分野ではMRI(磁気画像診断)と呼ばれています。このNMRで緩和時間測定を行うと、構成原子の並進や回転運動の変化を捉えることができます。試料によっては、結晶の中でも融点付近では分子やイオンが回転運動を行っていたり、相転移の際に並進運動の形態が大きく変わること、結晶といえども表面や界面で一部が融解して液体のように振る舞っていることなどを捉えています。これら、相転移という一般には一瞬で起こる現象を時々刻々の変化として、追いかけている実験と言えるでしょう。

私の手法を、一つの壁画に例えてみます。スヌーピーの漫画の作者としておなじみのシュルツを記念した美術館入口に日本人がデザインした壁画があります。その壁画は、タイルでできており、近づいてみるとタイル一つ一つがスヌーピーの漫画で構成されており、遠く目を離すとチャーリーブラウンやルーシーがフットボールを楽しんでいる図が浮かび上がってきます。

イオンや分子を構成単位として捉える構造化学では、一般的な研究手法は一つ一つのタイルを詳細かつ正確に研究することに例えられます。本日私がお話しした研究は、メゾスケールで観測できるゆらぎを扱っています。細かい情報は失われるかもしれませんが、全体を大掴みに捉える手法と申せましょう。いわば粗視化という手法です。どちらが優れているというわけではありません。両者の相補的な物の見方や認識の仕方で、より本質を見ていくことができると信じております。