昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について

平成25年4月3日

    最近の週刊誌においては,昭和時代(戦後)における昭和天皇・香淳皇后の御活動状況について,「地方行幸啓などに御夫妻で出席される形は,両陛下が御成婚後に築かれたものであり,昭和天皇のお出ましに香淳皇后がお供もしていたということはあまりない。」としている。

    このことに関しては,平成21年12月に宮内庁ホームページで事実関係を詳しく説明したところであるが,なお同様の記述が引き続き見られるので,改めて,昭和天皇と香淳皇后の戦後の御活動状況について,「戦災復興状況御視察」(御巡幸)と,恒例の行事である「秋季国体」及び「植樹祭」を例にしてみると,次のとおりである。(御巡幸,秋季国体,及び植樹祭に関し,各年の主催県,開催の日取り,行幸啓か行幸のみか等については別表参照)

  •             (戦災復興状況御視察(御巡幸)について)
    •     昭和21年から昭和29年までにわたる46都道府県(この時点では沖縄県はまだ返還されていなかった。)の御巡幸については,昭和天皇がほぼすべてをお一方でなさっておられ,最終回の北海道御巡幸に際しては,第9回国体が北海道で開催されたこともあり,国体御臨席を兼ねて,昭和天皇と香淳皇后のお二方でお出ましになった。
  •             (秋季国体について)
    •     戦後間もない昭和21年秋に京阪神地区で第1回国体が開催され,翌22年には昭和天皇は,お一方で御巡幸を兼ねて福井,石川,富山の三県に赴かれた際に,石川県で開催された第2回国体に初めて御臨席になった。
    •     そして,翌々年の昭和24年に東京都で開催された第4回国体以降は,昭和51年の第31回国体(佐賀県にて開催)までのほぼ30年間にわたり,毎年秋,昭和天皇は香淳皇后とご一緒に国体に御臨席になった。その後,昭和52年7月に香淳皇后が那須御用邸内で転倒され腰を痛められたので,同年秋,翌53年秋そして昭和54年秋の国体には,昭和天皇お一方で御臨席になったが,昭和55年及び昭和56年の秋季国体には,昭和天皇は,再び香淳皇后とご一緒にお出ましになった。
    •     しかしながら,昭和57年秋以降は,香淳皇后のご体調がすぐれず,お出ましが困難となったため,昭和天皇は同年秋の第37回国体以降,昭和61年の第41回国体まで,毎年お一方で国体に御臨席になった。ちなみに,昭和62年の第42回国体(沖縄県にて開催)には当時の皇太子同妃両殿下が御名代として御臨席になった。
  •             (植樹祭について)
    •     昭和25年4月山梨県で開催された第1回植樹祭以来,昭和52年の第28回植樹祭(和歌山県にて開催)までのほぼ30年間にわたって,十勝沖地震のため御臨席を取りやめた昭和43年の第19回植樹祭を除いて毎年春,昭和天皇は,香淳皇后とご一緒に植樹祭に御臨席になった。その後,昭和53年の第29回植樹祭に際しては,上記の通り香淳皇后のご体調が万全ではなかったため,昭和天皇はお一方で植樹祭に御臨席になったが,昭和54年から同57年まで4回にわたる植樹祭に際しては,昭和天皇は,再び香淳皇后とご一緒に御臨席になった。しかしながら昭和58年以降の植樹祭については,香淳皇后のご体調がすぐれず,お出ましが困難になったため,昭和天皇は昭和62年の第38回植樹祭まで,毎年お一人で御臨席になった。ちなみに,昭和63年の第39回植樹祭(香川県にて開催)には当時の皇太子同妃両殿下が御名代として御臨席になった。
  • 以上を要するに,終戦直後の昭和21年に開始された全国各地の戦災復興状況を御視察するための御巡幸については,当時香淳皇后をお迎えできるような宿泊施設等も整っていなかったことなどもあり,最後の御巡幸であり,かつ秋季国体御臨席を兼ねていた昭和29年の北海道御訪問を除き,すべて昭和天皇がお一方でお出ましになった。しかしながら,戦後に開始された毎年の重要行事である国体及び植樹祭については,当初から,昭和天皇と香淳皇后が必ずお揃いで御臨席になっており,昭和天皇がお一方でこの両行事に御臨席になったのは,香淳皇后がご体調を崩されて,次第に御臨席が困難となられた昭和50年代に入って以降のことである。

    「地方行幸啓などに御夫妻で出席される形は,両陛下が御成婚後に築かれたものであり,昭和天皇のお出ましに香淳皇后がお供もしていたということはあまりない。」という認識は,以上の歴史的な事実を無視するものであるので,注意喚起する次第である。