講書始の儀におけるご進講の内容(令和4年1月14日)


ボン教研究の新段階
京都大学名誉教授
日本学士院会員
御牧 克己

本日は,私の研究領域の1つであります,チベットの土着宗教と言われております「ボン教」についてお話ししたいと思います。

チベットの宗教には,仏教,ボン教,民間信仰の3つがあります。そのうち,仏教とボン教は神の宗教(lha chos)と分類され,民間信仰は人の宗教(mi chos)と分類されています。神の宗教(lha chos),人の宗教(mi chos)という場合の宗教と訳される chos は仏教がチベットへ入ってからはdharma(法)の訳語として専ら仏教を指すようになりますが,古くは宗教一般を表す用語であり,最初はボン教を,後に仏教を指すようになります。本日のお話ではボン教を中心にお話ししたいと思います。

ボン教とは,仏教がチベットへ入る以前の古代チベットの土着の宗教であり,仏教がチベットへ入ってからは,仏教が主流となり,ボン教は仏教に取って代わられた,ボン教は滅びてしまった,と説明されるのが常でした。しかしながら,実際には,ボン教は仏教と並んで現在まで存続していることが知られています。ただし,現在まで伝わっているボン教は,11世紀に仏教の影響を受けて成立した「新ボン教」とでも言うべきものであり,古代のチベット土着のボン教とはその内容をかなり異にしていることが知られてきており,仏教の一派だという研究者も居るくらいですが,しかし,いくら何でもそれは少し行き過ぎで,仏教とボン教はお互い影響し合いながら発展してきたチベットの2宗教と見る方が穏当です。この「新ボン教」は「永遠不滅のボン」(Everlasting Bon, g-Yun drun bon)と呼ばれたり,「組織化されたボン教」(bon organisé) と呼ばれたりするものも基本的に同じものです。「新ボン教」に対して古代チベットの土着宗教のボン教を「古ボン教」と呼ぶこととします。具体的にはチソンデツェン王 (742―797年) のボン教禁止令 (785年)までのボン教を「古ボン教」,1017年にシェンチェンルーガー(gŚen chen klu dga’ : 996―1035) が『蔵窟』(mDzod phug) を始めとする多くのボン教の埋蔵経典 (gter ma) を発見したことを契機として復興を始めたボン教を「新ボン教」と呼ぶことといたします。

これまで「古ボン教」と「新ボン教」の区別やその他の多くの点が,極めてあいまいに扱われていて,独断と偏見に満ちた諸説が登場しました。しかし,まだまだ解らないことが多くあるものの,ようやくボン教全体についてある程度正確なことが把握できるようになりましたので,独断や偏見や誤解を除いた正確なところを一度まとめて提示したいと思いました。

何故あいまいだったかと言うと,ボン教自身の資料が入手できるようになったのはごく最近で,それまでは18世紀のトゥカン・ロプサンチョキニマ (Thu’u bkwan  Blo bzan Chos kyi ñi ma,1737―1802)作の『宗義の水晶鏡』(Grub mtha’ śel gyi me lon)といった仏教文献の中に紹介されるボン教の思想を取り出して示していたに過ぎないからです。他学派の紹介する他学派の思想の中には当然のことながら多くの誤解が含まれていたからです。

それではボン教自身の同時代的文献に基づいて明らかにされる古ボン教の内容とはどのようなものであるかと言いますと,古ボン教が担った重要な役割の1つが死者と生者との間の仲介者 (medium) としての役割であったことは,フランスの研究者を中心とした敦煌出土チベット文書研究によって確認されています。つまり,古ボン教は,葬送儀礼を通じて死者を無事に「死者の国」へ送り届ける役目を担っていました。そしてその葬送儀礼の執行者がシェン(gśen),ボン(bon)又はボンポ(bon po)と呼ばれていたのです。その際には羊,馬,ヤクといった動物が犠牲獣として捧げられ,これらの動物は死者の道案内をして「喜びと幸せの国」へ導くと考えられていたのです。死者は彼らに導かれて山や岩で遮られた道を多くの峠を越え多くの瀬を渡って「死者の国」を目指すのですが,ではなぜ羊や馬やヤクに導かれる必要があると考えられていたのかと言うと,それはもしこれらの特別の動物に導かれないと死者は「煩悩と悲憂の国」へと迷い込んでしまう恐れがあるからです。かくして彼らに導かれて,死者は,「人がもう死ぬことがない喜びの国」へと到達するのです。そこでは死んだ人は生きており,死んだ動物も生きており,常にみずみずしい草が茂り,おいしい水の泉が湧いている,そういう国なのです。

次に新ボン教についてお話しいたします。先に述べましたように,その中には仏教の教義の影響が多くみられるのですが,用語について見ただけでも,仏教の法身がボン身,法性がボン性,こんごうざんまいまんじざんまい,というように一見して明らかに仏教用語の一部を変えただけの用語が使用されています。仏教を勉強した人が新ボン教の文献を読むと,一見して仏教経典あるいは論書が取り入れられていることが判ります。ただし,全く盲目的に取り入れられている訳ではなく,巧みに改変しつつ取り入れられている点が興味深いところです。どこまでが仏教からの借用であり,どこからがボン教独自の教義であるのかという見極めが重要になるのです。

新ボン教の最も顕著な出発点は,トンパ・シェンラブミボの登場です。トンパは師の意です。彼のボン教における位置は仏教のシャキャムニ仏に匹敵し,ボン教文献中に「仏」とあれば普通シェンラブミボを指します。この伝統では,ボン教の創始者シェンラブミボはオルモルンリンに王子として生まれ,多くの人々をその苦しみから救うためにボン教の教えを説きました。人間ばかりでなく,鳥や動物や龍やニェンなど種々の生類にも教えを説き教化しました。彼の語る言葉は1つのはずなのですが,彼の教えは鳥には鳥の言葉で,動物には動物の言葉で,ある国の人にはその国の言葉で,ある地方の人にはその地方の言葉で理解され,360種の言葉で理解されたと言われています。このようにしていろいろな国にボン教を広めたのです。もちろんチベットへもボン教を伝え,多くの人を教化して82歳で生涯を閉じたと言われています。

新ボン教の教義としては九乗の教範や四門五蔵という興味深い教義があるのですが,残念ながら時間の関係で説明は割愛させていただきます。

[ボン教とシャーマニズム]

研究史の最初の頃にはボン教はシャーマニズムであると考えられる傾向にありましたが,その後この考え方は批判され現在ではボン教をシャーマニズムと考えるのは誤りであるという意見が主流となっています。判定の基準は,シャーマニズムの元祖であるシベリアのシャーマンを念頭に置き,シャーマンの憑依の現象がボン教には見られないという点にあります。ボン教をシャーマニズムと最初に規定したのはドイツの研究者ヘルムート・ホフマン氏(Helmut Hoffman)です。ボン教はシャーマニズムでないという意見を最初に主張した研究者はフランスのロルフ・アルフレッド・スタン氏(Rolf Alfred Stein)であり,敦煌文書PT‐239の古ボン教の葬送儀礼を研究した論文の中で,ホフマン説を批判して葬送儀礼者シェンの行動にはシャーマンの要素は無いことを論証しています。ノルウェーのペル・クベルネ氏(Per Kvaerne)は新ボン教徒の集落で実際に行われた葬送儀礼を報告した著書の中で,その葬送儀礼の過程の中にはシャーマニズムの要素は全くないことを明言しています。つまり,古ボン教の葬送儀礼においてばかりでなく,新ボン教の葬送儀礼にもシャーマニズムの要素が全くないことが論証されたことになります。しかしながら,それでもって,ボン教の中にシャーマニズムの要素は全くないと断定してしまうのは適当ではなく,トゥカンが古ボン教の職能の1つとして挙げていた「神降ろし」(lha bka’)という職能が敦煌文書の中で男女のボン教徒に割り当てられていることをスタン氏は注記していますので,「神降ろし」は当然憑依を前提としますので,シャーマニズム的な要素が確認出来ると思います。したがって,この問題に対する結論としては,シベリアのシャーマンの厳密な意味に照らせばボン教をシャーマニズムと呼ぶのは正しくないが,しかし,シャーマニズムの要素がボン教に全く含まれていない訳ではない,というように柔軟に考えておくのが妥当ではないかと思われます。

最後に,ボン教がチベット文化に残した大きな足跡を示す興味深い例を1つ示しておきたいと思います。ヒマラヤの奥の秘境にカイラーサ山という山があり,ボン教徒や仏教徒ばかりでなくヒンドゥー教徒やジャイナ教徒にとっての巡礼の聖地となっています。その山の麓に漢訳で ねつのうと訳されるマナサロワルという湖があります。その湖の四方に,動物の姿をした岩又は山があって,そこから4つの大河が流れ下り,世界の大きな川となっています。『倶舎論』(Abhidharmakośa)や『世間施設』(Lokaprajñapti)などのインド論書や玄裝の『大唐西域記』に記される四河は次のようになります。

[四大河 : インドの伝承 : ]
     象口(金)   ― 東 ―(右曲)― 東海 ― ガンジス河 (Gangā)
     牛口(銀)   ― 南 ―(右曲)― 南海 ― インダス河 (Sindhu)
     馬口(琉璃)  ― 西 ―(右曲)― 西海 ― Vaksu(アムダリア,オクサス)
     獅子口(頗梨) ― 北 ―(右曲)― 北海 ― Sītā(ヤルカンド)

口頭で説明するより表の形で示した方が分かりやすいと思いますので,表も掲げておきますが,象の形をした金の岩又は山から東に流れ下る河がガンジス河です。牛の形をした銀の岩又は山から南に流れ下る河がインダス河です。馬の形をした琉璃の岩又は山から西に流れ下る河が Vaksu河で,現在のアムダリア河に相当し,ギリシャ文献にはオクサス河として知られています。獅子(ライオン)の形をした頗梨の岩又は山から北に流れ下る河がSītā河で,現在のヤルカンド河に当たります。以上がインドの伝承による四大河です。これを実際のチベットの地図に当てはめてみますと,象,馬,獅子といったインドの伝承と同じ名前を持った河はあるのですが,牛の名前を持つ河はなく,代わりに孔雀の名前を持つ「孔雀の口から流れ下る河」(rma bya kha ‘bab) と呼ばれる河が加わっていることが判ります。この「孔雀の口から流れ下る河」はどこから生じたのでしょうか。チベットの仏教文献は,インド仏教の範囲から逸脱することが許されないので,皆インドの伝承の四河を伝えています。一方,新ボン教の文献は,インド仏教の制約に縛られることなく,インド仏教を受け入れながら適当に内容を改変しています。かくして11世紀の『経集』(mDo ‘dus)や12世紀の『語釈』(sGra ‘grel)と言った新ボン教の文献はインドの四河の伝承を受け入れつつ,インド仏教思想をそのまま取り入れるのではなくて少し改変して取り入れた結果,その中に孔雀という新しい動物を生じ,それに基づいてチベットの四河が成立することになったのです。

[四大河 : チベットの伝承 : ]
     師子口 (Sen ge kha ’bab)   ― インダス河 (Indus)
     象口 (Glan chen kha ’bab)  ― サトレヂ河 (Sutlej)[Indusの支流]
     孔雀口 (rMa bya kha ’bab)  ― カルナリ河 (Karnali)[Gangesの支流]
     馬口 (rTa mchog kha ’bab) ― ブラフマプトラ (Brahmaputra)

以上,「ボン教研究の新段階」と題してお話しさせていただきました。他にもお話ししたいことはたくさんあるのですが,時間に制約がありますので,以上とさせていただきます。

※掲載の都合上,一部,実際の表記とは異なる


アジアからアフリカに広がる日本の稲作技術
神戸大学社会システムイノベーションセンター特命教授
日本貿易振興機構アジア経済研究所上席主任調査研究員
日本学士院会員
大塚 啓二郎

1.人口増加と食糧生産の戦い

1798年に出版された『人口論』の中で,トマス・マルサスは,「食糧生産は徐々にしか増加しないが,人口は加速度的に増加するので,やがて人類は食糧不足に直面して多くの餓死者が出る」と主張しました。この憂鬱な主張のおかげで,経済学は「憂鬱の科学」とも呼ばれました。

このマルサスの予言が的中するような事態が,1950年代や60年代に熱帯アジアで起こりました。人口は爆発的に増加し,未開の耕地がなくなる一方で,主食であるコメの生産性は停滞したままでした。このままでは,食糧不足が起こることは目に見えていました。その結果,多くの餓死者が出ることは不可避であると思われていました。1972年には,世界の有識者を集めたローマクラブが『成長の限界』というセンセーショナルな本を出版しましたが,その中でアジアの食糧問題の深刻さが指摘されました。1960年代に駐日アメリカ大使であったライシャワー博士は,日本の若者に向かって,「この困難で重大な問題の解決に立ち向かって欲しい」という文章を残しました。実は私は,高校生の時にこの文章に出会い,博士の呼びかけに応えることを決意したのです。

当時,食糧を増産してアジアの食糧問題を解決しようとしていた一握りの人々がいました。1つのグループは援助関係者であり,「途上国の農民は浪費的で非合理で,生産性を高める意欲もない。だから,その態度を改めるように指導しつつ,農業技術を普及しよう」と考えました。しかし,彼らの試みは完全に失敗しました。それに反対していたのが,後に私の恩師になったシカゴ大学のセオドア・シュルツ教授でした。教授は,「途上国の農民は合理的で,先進国の農民と同じように豊かになることを望んでいる。生産性が上がらないのは,彼らのために優れた技術が開発されていないからだ」と主張しました。それに呼応したのが,ロックフェラー財団とフォード財団で,1960年にフィリピンに国際稲研究所(通称IRRI)を設立して,新しい技術を開発し,食糧問題を解決しようと試みました。なお両財団は,メキシコにトウモロコシと小麦の研究所も設立しました。稲作の研究については,日本が世界で最も進んでいましたから,IRRIでは日本人研究者が大活躍しました。IRRIは,私の願いを聞き入れてくださった上皇上皇后両陛下が,2016年1月に御訪問されたところでもあります。

1966年,「奇跡のコメ」と呼ばれたIR8が開発されました。IR8は,背が高くてひょろひょろとしていた在来種と異なり,背が低くて茎の太い品種でした。在来種に肥料を与えると,穂が重くなり倒れてしまいます。IR8は,重くなった穂を太い茎がしっかりと支えますから,肥料をあげればあげるほど生産が増えました。IR8やさらに改良を加えられた「高収量品種」が熱帯アジアに普及し,化学肥料の投入の増加と相まって,コメの生産量は2倍以上に増えました。これを「緑の革命」と呼びます。緑の革命は,「種と肥料の革命」と呼ばれることもあります。その結果,アジアの食糧不足の懸念は1980年代には完全に払拭されたのです。


2.「緑の革命」はどこから来たのか

IR8の片方の親は,台湾の背の低い品種でした。この品種を誰が開発したのかは,分かっていません。しかし,背の低い品種を開発し,肥料をたくさん投入して増産を図るというのは,明治期の日本が確立した「明治農法」と呼ばれる稲の栽培方法です。当時の日本では,狭い水田に堆肥を投入し,牛や馬を使って丁寧に耕作を行い,油かすや魚肥などの有機肥料をふんだんにつぎ込んで,面積当たりの収量を高める「集約的栽培方法」が普及しました。日本では,1895年から1915年にかけて,1ヘクタール当たりの収量は2トン強から3トン弱にまで増加しました。これは,「緑の革命」の原型でした。しかしそこから単収の伸びが止まります。そして,マルサスが予言した食糧不足が現実のものになろうとしていました。実際に,1918年にはコメ不足に端を発して米騒動が起こりました。

困った日本政府は,当時植民地であった朝鮮と台湾でコメの増産を図ることにしたのです。特に台湾では,高収量品種である「蓬莱米」が開発され,肥料投入の増加もあって,単収は1.5トンから50%もアップしました。台湾は,1920年代に第2の「緑の革命」に成功したと言うことができます。蓬莱米の多くは日本的な短粒種(ジャポニカ)と台湾にあった長粒種(インディカ)の交配から生まれました。その開発には,日本人の農学者が大きな貢献をしたことは言うまでもありません。そうした稲作研究の中から,IR8の片方の親となったインディカ種が生まれたのだと思います。

IR8は病虫害に弱かったので,やがて病虫害抵抗性のある品種が開発され,フィリピンからインドネシア,バングラデシュ,インド等,アジア中に改良品種が普及することになったのです。これが第3の「緑の革命」です。もちろん,この緑の革命を「第3の」と呼ぶ人はいません。しかしこの「緑の革命」は,戦前の日本から台湾に稲作技術が移転され,それがまたフィリピンに移転され,さらに他のアジアの国々に移転された結果です。ですからアジアの「緑の革命」には,間接的には明治農法が,直接的にはIRRIで日本人研究者が絶大な貢献をしたのです。これは私たちの誇りとするところですが,残念ながら,そのことは日本ではあまり知られていません。

高収量品種は背が低いために深水地帯には不向きで,干ばつにも弱いので,アジアでの普及率は70%程度にとどまっています。現在IRRIは,普及率を高めるために冠水抵抗性や干ばつ抵抗性のある品種の開発に取り組んでいます。


3.なぜアフリカでは「緑の革命」が起こらないのか

IR8が開発され,アジアの「緑の革命」が始まったのが半世紀以上も前の1966年です。他方,アフリカ(特にサハラ砂漠以南のアフリカ)では今,マルサスが予言したような食糧不足が懸念されています。しかし,「緑の革命」は起こっていません。確かに,コメはアフリカの主食ではありません。しかし現在,平均的なアフリカ人は1年間で25キロのコメを食べています。日本人は50キロ強です。しかも日本ではコメの消費が減っているのに,アフリカでは30年間で一人当たりの消費量が倍増しています。アフリカの田舎のレストランでも,ライスをメニューにいれていないところはないくらい,アフリカの人々はコメが大好きです。ではなぜ,アフリカではコメの「緑の革命」が起こらないのでしょうか。私はこの問題について,2008年ごろからJICA(国際協力機構)の協力を得て,数名の研究者仲間とモザンビーク,タンザニア,ケニア,ウガンダ,ガーナ,コートジボワール,セネガルで稲作農家の調査を行い,研究を続けてきました。

アフリカで稲作の「緑の革命」が起こらない理由の1つは,アジアとアフリカの風土の違いかもしれません。しかしながら,温帯に位置する日本から熱帯アジアに稲作技術を移転するのは困難であったと思いますが,熱帯に位置するアジアから同じく熱帯に位置するアフリカに,技術を移転することがそんなに難しいこととは思えません。実際問題として,IRRIが開発した品種や,IRRIの品種と地元の品種を掛け合わせた品種が,アフリカの各地で高収量を記録しています。したがって,風土の違いはアフリカで「緑の革命」が起こらない原因ではありません。

次に考えられるのは,アフリカでは土地が余っているので,汗水をたくさん流さなければならないような,日本的・アジア的栽培方法は不向きであるという理由です。確かにアフリカの多くの国々では,つい最近まで未開の土地があり,人口が増えるとともに木を切って畑を造成してトウモロコシを栽培したりしていました。そこでは,焼畑耕作のような粗放な栽培方法が採用されていました。ところが,人口が増え続けたために,そうした未開の土地は少なくなっており,アフリカの農家の経営面積は減り続け,今では1960年代のアジアのそれに近付いています。ですから,もはや粗放な栽培を続ける余裕はありません。

アフリカには,多くの湿地帯があります。しかしアフリカの農民は,つい最近まで湿地帯には見向きもせず,丘のほうの土地を開墾していました。ところが,こうした湿地帯が水稲の栽培に適していることに農民たちがようやく気付き始めました。1995年頃にウガンダを旅行した時,背の高い葦が生い茂る湿地をたくさん見ましたが,2010年頃に旅行した時には,ほとんどの湿地が水田に生まれ変わっていました。こうした湿地帯は肥沃度が高く,湿り気があって,水稲栽培に適しています。私の印象では,アジアよりアフリカのほうが稲作の適地が多いように思われます。

それを見込んで,私は2007年にJICAにアフリカで稲作振興プロジェクトを実施することを進言しました。そこでJICAは,2008年にCARD(アフリカ稲作振興のための共同体)を立ち上げ,10年間でアフリカのコメ生産倍増という目標を掲げました。そして2018年,見事に生産倍増を実現しました。その間,単収は1.6トンから2.2トンぐらいに増えました。アジアの単収は4トンを超えていますから,2.2トンは低い水準ですが,局所的には「緑の革命」が起きつつあります。その背後には,多くの日本人の専門家がアフリカの各地で,日本的稲作技術を熱心に指導していることが挙げられます。

私たちの調査の結果によれば,アフリカで水稲の「緑の革命」が起こっていない最大の理由は,国際機関等に所属する援助の専門家が,「緑の革命」を「種と肥料の革命」と同一視していることです。単収を上げるためには,高収量品種を採用し,肥料を投入するばかりでなく,水田を平らに,すなわち均平化して水が均等にいきわたるようにし,畔を作って水を溜める等の,「栽培技術」が重要なのです。残念なことに,それに気付いていない専門家が余りにも多く,適切な稲作支援が行われていないのです。


4.アフリカの「緑の革命」を目指す

私は,「緑の革命」が起こり始めた1960年代後半のアジアの水田を見たことはありません。しかし,年輩の専門家の方々に伺うと1960年代のアジアでは,水田は完全とは言えないまでも平らで,畔は立派とは言えないまでも作られていたということです。そこに高収量品種が登場し,肥料の投入が増えて「緑の革命」が実現したのだと思います。ところがアフリカでは,畔のない水田がたくさんあるのです。畔がないと,水田に水が溜まらないので雑草が繁茂します。平らになっている水田はほとんどないので,水田の一部には水が溜まり,他の部分は乾ききっています。これでは,均等に丈夫な稲が育つはずがありません。

私たちの研究で,日本人の稲作の専門家が,栽培技術を含めて技術指導を行うと,飛躍的に単収が増加することが分かってきました。しかも,その効果は持続します。それに加えて,農家から農家へと技術的知識が伝わっていくので,時間とともに技術指導の効果が増幅されていくことも分かってきました。ですから私は,こうした技術指導を続けていけば,アフリカでも稲作の「緑の革命」が起こると確信しています。

そのためには,日本人の専門家が正しい「稲作技術」をアフリカの人々に伝えていく必要があります。それと同時に,私たちのような経済学者が,現地で農家調査を重ね,栽培技術を含めた「日本的稲作技術」の重要性を,学術研究を通じて世界に広めることが必要とされていると考えています。


人工知能
カーネギーメロン大学ワイタカー記念全学教授
京都大学高等研究院招聘特別教授
日本学士院会員
金出 武雄

今日,人工知能という言葉を耳にしない日はないと言っていいほどです。


人工知能,アーティフィシャル・インテリジェンス,略してAIは,画像に写っている景色や物体を認識する,言語を理解する,数学の問題を解く,チェスや碁といった知的ゲームをするなど,一般に「知能」と呼ばれる能力を人工的に,現在では主にコンピュータによって実現しようとする科学工学の分野です。


いくつかの領域ではすでに,人と同様,時には人以上の能力を持つものが現れました。例えば,古来最も難しいゲームとされる碁において,数年前現役世界最強とされる棋士を破ったアルファGOのニュースは世界を驚かせました。顔の認識においてはコンピュータの方が一般の人よりも高い認識率を示すのはもちろん,古いあるいは鮮明でない写真の人物特定をするという極めて難しい問題において特に優秀なトップ100人の犯罪捜査官と比較しても上位2~3%に入るという結果が報告されています。さらに,最近では,GPT-3と名付けられた自然言語ツールは,人が書いたものと判別がつかないレベルの英語文を作成するほどです。


コンピュータによって知能を実現することができるはずだということは,コンピュータの極めて初期の頃から認識されていました。「計算するとは何か」ということに対する根本的理論を示した英国の数学者アラン・チューリングと,情報の単位として今日我々が使うビットという用語を導入し情報理論を確立した米国のクロード・シャノンは,それぞれ1940年代後半には人工知能の可能性に言及していました。そのシャノンの提唱により1956年,米国ダートマス大学での勉強会において,「アーティフィシャル・インテリジェンス」の名称が提案され,研究が本格的に始まりました。


私自身の人工知能という言葉との出会いは京都大学の学生であった1965年の頃,「情報工学」という当時は極めて新しい科目であった講義でのことでした。なぜか強い興味を覚え,チューリングによる書き物を読むなどし,人工知能の可能性を強く確信したことを記憶しております。以来,日本と米国において,主に視覚に関する人工知能とロボットの研究者として様々な研究に従事する機会を得ました。なかでも,人の顔を認識する問題に関し,1970年代初め博士論文の研究において,画像の取込みから,顔の特徴抽出,判定までを初めてコンピュータで一貫してできることを示したこと,また,1980年代半ばからカメラ画像を使った自動運転の研究を開始し,1995年には「No Hands Across America(手を放してアメリカ横断)」と称し,米国東部ピッツバーグ市から西海岸サンディエゴ市まで約4800キロメートルの98.2%を自動運転で走破したことなどが思い起こされます。これら50年,25年前のシステムの能力は限られたものでしたが,今日,顔の自動認識は入出国ゲートを始め,日常的にも様々な所で使われておりますし,自動運転についても車線逸脱警報など運転支援機能は多くの車に搭載され,さらには人が全く関与しない高度な完全自動運転も視野に入っている状況を見ますと隔世の感があります。


人工知能研究の歴史を最も端的に言えば,ある知能的問題が与えられたとき,その問題を解くための必要な知識は何か,それを使う手順は何かを見付け,コンピュータ上にどう実現するかの歴史であると言えます。初期の頃にはこれらは全て研究者である人によって行われました。例えば,顔認識問題では,「口,鼻,目の大きさ」,「それらの間の距離や角度」,「額の皺のあるなし」と言ったいわゆる顔の特徴が重要な役割を担っているに違いないと考え,それらを画像から抽出するプログラムと抽出された値を統計学の手法を使って判定するプログラムを書くことで実現されたのです。私の博士論文のコンピュータによる顔認識はまさにこの一連の考察と仕事を私が実行することでなされました。問題の解決のための知識をコンピュータの中に記号とルールによって表現するという意味で知識の記述的表現と言います。1980年代に成功をおさめた専門家の知識をルールとして抽出して使ったエキスパートシステムと呼ばれた方式はこのアプローチの代表であり,現在においてもその考えの基本は重要なものです。


人工知能のためのいくつかの基本的手法も開発されてきました。その代表は組合わせ問題を解く「探索」という手法です。「宣教師3人とライオン3頭が川の渡しにやってきた。2人乗りボートが1艘だけある。どちらかの岸で宣教師の数がライオンより少ない状況が起きるとライオンに食べられてしまう。どう行き来すれば全員無事に渡れるか」というクイズがあります。思いのほか難しいものですが,「まずは,①宣教師2人,②宣教師1人とライオン1頭,③ライオン2頭が乗る,という3つの選択肢がある。このうち①を選ぶと…」というように可能性を展開し,順に調べていくと自然と正解にたどり着きます。碁や将棋といったゲームはもちろん,飛行機や列車の運行表を作る,商品の配送計画を作るなど世の中の多くの興味ある実用的問題はこの組合わせ探索問題です。その解決のため様々な方法が考案され,AIの重要な道具となっています。と同時に組合わせ問題には根本的な難しさがあります。「道路でつながれたいくつかの都市がある。それらの都市を順に1回だけ訪問するのに最も短い順路を決めよ」という巡回セールスマン問題を解こうとすると,都市の数が少ない時はいいのですが,都市の数が多くなると驚くことに30位でも順路の可能性の数が多すぎて,どんなに速いコンピュータを使っても天文学的な時間がかかってしまいます。探索空間の爆発と呼ばれる,組合わせの数が倍倍倍と鼠算的に増加する難しさです。実は,ほとんどの組合わせ問題は論理的に巡回セールスマン問題に帰着することが分かっており,知能の計算理論的難しさの1つです。現在世界中で研究が進められている量子コンピュータにはこれら組合わせ問題を現実的な時間で解ける可能性があることがその重要性の1つであります。


近年,人工知能が大きく進展した理由は一般メディアでも再々取り上げられるディープラーニング,深層学習と呼ばれる方法の発明です。その代表的手法である畳み込みニューラルネットワーク,略してCNNの基本的な考えを詳しく述べたいと思います。例えば,与えられた画像が動物の猫かどうかという画像認識問題は結局のところ,画像中に例えば緑色の丸い領域,白い細い線といった小さな特徴があるか,あるとするとさらにそれら丸は2つ目のように並んで現われているか,線は細く長くひげのように伸びているか,さらにそれらは,というようにだんだんと猫らしさという上位概念にまとめられ認識に至る過程と考えられます。人の視覚を司る脳の視覚野の神経回路網もそのような構造を持っているとされています。CNNはこれらを参考に,フィルタと呼ばれる特徴抽出の機能とその出力をまとめるプーリングと呼ばれる機能の2つをワンセットとして,それらを何重にも何重にも,時には百層にも重ねた膨大な数のフィルタの巨大なネットワークと呼ぶべき仕組みです。


そんな仕組みのCNNが我々の望む特定の働き,例えば与えられた画像が猫であればYes,そうでなければNoとの答えを出すようにするにはどうするのでしょうか。CNNの働きは結局,その中に含まれる何百何万というフィルタがそれぞれ画像のどこを見て,どういう特徴を取り出し,どう組み合わせるかによります。それらフィルタの働きを決めるのは「重み」と呼ばれる数値で,典型的なCNNではその総数は何百万にも及びます。そんな膨大な数の設定を人が適切に決めることは不可能です。CNNはこれを学習というプロセスによって自動的に行います。


そのためには,たくさんの画像(多いほどいいのですが)を集め,猫の画像にはYes,それ以外はNoという正解を割り付けます。こういう画像と正解のペアを学習サンプルと言います。以上の用意をしておいて,学習はまずCNNの中の重みの値を適当に,普通はでたらめに選んだところから出発し,学習サンプルを順に入力しては答え合わせをします。たぶん望ましい答になっているのは多くないでしょう。そこで,CNNはバックプロパゲーションと名付けられた巧妙な技法によって答えが良くなるように重みの値を自動的にそれぞれ少し変えます。その改良されたCNNにまた学習サンプルを与え,その結果からまた少し改良するという操作を何度も何度も典型的には何千回,何万回と繰り返します。すると,最終的には,用意した学習サンプルについて全部とは言わずともほとんどに正解をするようになります。この手順を学習,特に教師あり学習と呼びます。ちょうど,親が子に画像の例を見せては答えさせ,「それは正解,それは違う」と繰り返すことで,子がその能力をもつようになるプロセスと似ています。こうして出来上がった「学習済み」のCNNのプログラムを実用に使うのです。


CNNは猫の認識ができるだけでなく,学習サンプルを変えることで,人の顔の認識にもX線写真の医療診断にも使えます。CNNをはじめとする深層学習を現実の問題に適用するには,その周りに先に述べた探索などさらに必要とする機能を付加します。そうして,自動運転,ドローン飛行,言語翻訳,スマートスピーカーの音声認識といった様々な分野において画期的に性能を高め,人工知能,AIという言葉が一般の人々の目に触れるようになりました。


深層学習が人工知能研究の歴史の中でなぜ重要なのでしょうか。それは,私の1970年代の顔認識プログラムは,人である私がどういう特徴を使うべきかを考え,その抽出や判定のためのプログラムを書いたのに対し,学習サンプルという例題の集まりだけから学習というプロセスによって認識プログラムが出来上がったことです。実際,アルファGOの強さの秘訣は盤面の優劣を評価する能力を学習によって獲得したことにあります。その学習サンプルとしては過去の棋譜だけでなく,自分と自分がコンピュータ同士ですから一局0.07秒という驚異的なスピードで対戦してできた膨大な棋譜も使いました。結果,人間の専門棋士も考えなかった新手も発見されており画期的なことと言えましょう。


さて,人工知能の能力は人のそれを超えるようになるでしょうか。私自身は,知能はチューリング他の言う広い意味での「計算」であること,処理・記憶・通信能力の向上,経験とデータの蓄積,獲得した能力の移転など人間とコンピュータの物理的・空間的制約の差を考えれば,さらなる研究によって人工知能の能力は創造を含め人のそれと同等か超えると考えています。この点については,科学工学的観点以外にも,なってほしくない,なるべきでないという情緒的・倫理的観点も含め諸説あるところで今ここで議論できません。しかし,次のことは明らかと考えます。


先に述べたCNNは学習というプロセスによって何百万もの重みを自分で調整して猫の認識ができるようになったのですから,結果的に「『猫にはひげ有り』という知識」を抽出してどこかに保持しているはずですが,どこかを特定することはできません。その意味で,人の脳に似た知識の分散的表現と言えます。このことは,重みの値を少し変えてもそれほど能力は変わらないという知能の頑強性につながっていますが,同時にある特定の答えをなぜ出したかを自ら説明することが難しいことにつながっています。一方,逆に知識の集約的表現である記号記述は論理的・飛躍的推論がしやすい利点があります。実際,ヒトが他の動物と異なるレベルの知能を持った大きな理由は,記述的表現の代表である言語を推論に使うことにあります。リンゴの落ちる様子の例の集まりだけからは,ロケットを月に到達させる軌道は設計できません。数学という最も正確な記述表現であるニュートンの法則が必要です。より高度な知能実現のためには,記号による記述的表現と深層学習的な分散的表現の統合が必要になるでしょう。それによって,人工知能がBrain Amplifier,つまり人の脳の増幅器とでも呼ぶべき役割をすることは十分にありえ,今後の当面の重要な目標であると私は考えます。