講書始の儀におけるご進講の内容(平成28年1月12日)


西洋中世修道院の文化史的意義
名古屋大学名誉教授
日本学士院会員
佐藤 彰一

古代ギリシアやローマの哲学や文学の古典は,ソクラテスやプラトン,キケロ,ウェルギリウスの名前を挙げるまでもなく,ヨーロッパ文化の貴重な知的遺産というに止まらず,全人類にとってかけがえのない価値をもつ宝物です。これら人類の知的偉業の高みにある作品が現代まで命脈を保つことができた背景には,西洋中世の修道院において修行の一環として行なわれた筆写活動が大きくあずかって力がありました。

西暦4世紀のローマ帝国で,キリスト教が他の宗教と同じように公認されてから,帝国の各地に修道院が数多く建設されました。そこでは神の真意を理解するため,またキリスト教徒として完全な徳を身につけるために,修道士が日夜禁欲修行に勤しんでおりました。その最初の時期に中心となったのが,エジプトの砂漠地帯と,当時小アジアと称されていた現在のトルコの内陸部にあるカッパドキア地方でした。西ヨーロッパ,わけてもフランスは,当時ガリアと呼びならわされておりましたが,ここでもエジプトの砂漠地帯にそれほど遅れることなく,そしてエジプトからの直接の影響のもとに修道制が開始されました。

概して世界宗教と呼ばれる信仰体系には,宗教上の真理を,形而上学,哲学から照らし出すことができる能力を具えています。この点でキリスト教は,おそらく仏教とおなじほど哲学との親和性を秘めています。聖アウグスティーヌスが,セネカを読むことでマニ教に回心し,さらにプラトンを発見することで,キリスト教に回心したのはその代表的な例です。アウグスティーヌスは,キリスト教の信仰と哲学的な知とが互いに随伴するような思想の地平を歩み続けました。アルル司教カエサリウスのように,哲学者たちの教えは信仰を謬るもとであると,哲学を拒否する者も少なくはありませんでしたが,多くの教会知識人は,アウグスティーヌスと同様に,教義の錬磨のためばかりでなく,初期には絶え間なく生まれた異端の教説に対抗するためには,哲学の深い知識は必要な手段であると考えたのです。

しかし古代末期のこうした伝統は,6世紀中頃にモンテカッシーノ修道院の修道士であったヌルシアのベネディクトゥスが,やがてヨーロッパのほとんど全ての修道院で採用されることになる,ベネディクト戒律を編み出した頃には主流の見方ではもはやなかったのです。ベネディクトゥス自身がどちらかと言えばアルルのカエサリウスのように,古典哲学は異教の思想として,警戒する考えの持ち主でした。7世紀頃から普及したベネディクト戒律でも,書物を筆写する時間として,9時から正午までの3時間が充てられましたが,早い段階で能筆の修道士は専ら書写に専念するのが普通になっていました。カエサリウスが念頭においていたのは専ら旧約,新約の聖書や教会典礼用の書物,アウグスティーヌスやヒエロニュームスなどの古代末期の教会博士たちの著作を筆写することが中心となっていたのです。ギリシア・ローマの文学や詩,哲学の著作を筆写し,研究するという動きははなはだ弱かったと言えましょう。

このような大陸ヨーロッパの修道院を覆う知的状況を転換させる最初の動きは,7世紀にアイルランドとイングランドからもたらされました。わけてもアイルランドでは,5世紀にキリスト教とラテン語が同時に導入されたこともあり,ラテン語を学ぶことは信仰を強め,また教会という組織を運営維持するために欠かせない手段でした。こうしてアイルランドの教会人は,ラテン語文法の基礎を単に習得するだけでなく,その知識をいっそう深めるためにラテン語のみならず,聖書の言語であったギリシア語やヘブライ語の学習と研究にまで乗り出したのです。このために古典文献を幅広く蒐集することが,その理解を深める上で欠かせません。イングランド北部のノーサンブリアに建設されたウエアマス=ジャロウ修道院の院長ベネディクト・ビスコプは生涯に6度,故国とローマを往復しました。その主要な目的は書物を入手することでした。彼は教会関連の書物だけでなく,ラテン語やギリシア語で書かれた文学や哲学の古典の精髄を大量にイングランドにもたらしたのです。同修道院で後進の修道士であったベーダは,寒さでインク壷が凍ってしまい,ペンが使えない時を除いて一心に書写に励んだと後に述懐しています。

島嶼地方,すなわちイングランド,アイルランドでの古典研究の機運を大陸に伝え,そしてこの地で「カロリング・ルネサンス」と称される古典文化の復興に重要な役割を果たしたのはヨーク出身のアルクインでした。彼は781年にヨーク司教アエルベルトに付き従ってローマに赴いたのですが,このときパルマでカール大帝と運命的な出会いをしました。大帝は即座にアルクインの秀でた能力を見てとり,フランク国家の教育面の指導者の役割を託しました。「大帝のうちには教育への激しい渇望と無教養であることへの嫌悪が息づいていた」とある歴史家は述べています。

7世紀頃から,一定規模の修道士を擁するところでは,ベネディクト戒律にしたがって書物を書き写したり,執筆したりする書写室が設置され,聖書や教会知識人の著作の書写や,写字生の訓練が行なわれていました。古典教育の面でアルクインは様々な功績を挙げましたが,とくに重要であったのはラテン語の正字法の教育でした。すでにローマ時代の末期から,ラテン語は話し言葉の影響を受けて,綴字の不正確さが目立っていましたが,これを古典の純正な綴字に復帰させようと尽力しました。彼自身が『正字法について』と題する論文を書き,謬った綴字ではキリストの言葉を正しく伝えることができないとして,その必要性を力説しました。そして純正の書き言葉のラテン語の手本として尊重されたのが,キケロやウェルギリウスの作品であったのです。

アルクインは約15年に及ぶ宮廷での勤務を終えた後に,ロワール川沿いの古都トゥールのサン・マルタン修道院の院長になりますが,この修道院はアルクインが没してから約一世代を経て,西ヨーロッパ随一の美麗な写本を生み出す書写室を持つことになります。アルクインはその基礎を固めました。この書写室の入口には,彼が寸鉄詩の形式を踏襲して書いた次のような言葉が刻まれていたとされています。以下にその一部を引用いたします。「聖なる法の述べるところや,聖なる教父たちの尊き言葉を書き写す者たちは,ここに来て座るがよい。これら写字生たちが,愚にもつかぬ書き込みをせぬよう監督し,願わくは,その手が愚かさゆえの謬りを犯さぬように。彼らが正しいテクストを生み出すために,大いなる熱意をもって励むように……(中略)聖なる書籍を書写するのは素晴らしい仕事であり,写字生は己の果報を喜ぶがよい。葡萄畑を耕すよりも,書物を書くのが好ましいのは,一方は胃袋に奉仕し,他方は魂の糧となるのだから。…」。正しいテクストが,正しい信仰の基礎であるというのが彼の信念でした。専門家は8世紀末から9世紀末までの約一世紀間にヨーロッパの修道院で7,000点あまりの写本が生み出された事実を確認しています。とくにこのカロリング・ルネサンスの時期の活発な書写活動のお陰で,ギリシア・ローマの古典が今日まで生きながらえ,現代人が絶えず回帰しなければならない思考の源泉として絶大な意義を持ち続けることを可能にしたのです。

1930年に国際学士院連合のプロジェクトとして開始された国際的な共同企画があります。それは第二次世界大戦を挟み,40年の歳月をかけて1971年に完成した『古ラテン書冊総覧Codices Latini Antiquiores』と名付けられたプロジェクトでした。この計画は全世界の図書館,文書館,博物館に,ばらばらに収蔵されているカロリング・ルネサンスが始まる前の時期,すなわち西暦800年以前に書かれたすべての写本の「戸籍」を作ることでした。一点一点を精査し,書体とその年代,制作地,断片の場合はその作品名などを特定するという,気の遠くなるような根気と緻密さ,そして博大な古典の知識が求められる作業です。その結果,総数で1,811点が,完本あるいは断片の形でこの地球上に残されていることが分かりました。このなかで西ローマ帝国が崩壊した476年以前から伝わっている写本の数は,断片を含めてわずか240点を数えるのみなのです。これはパーセンテージにして,13パーセントほどでしかありません。このなかで圧倒的に多いのは古代ローマの国民作家と言っても言い過ぎでないウェルギリウスです。ほかには『ローマ建国史』を著したリーウィウスやキケロ,セネカ,サッルスティウス,ルーカーヌス,プリーニウスなどをはじめとする限られた人々の,限られた作品しかないのです。逆を申せば,カロリング・ルネサンスがもしなかったとしたら,今日より遥かに貧しい古典しか,私どもは手にしていなかったであろうということであります。4世紀のアンミアヌス・マルケリーヌスの『歴史』や,タキトゥスの『ゲルマーニア』は,9世紀にドイツのフルダ修道院で書写された写本1点で,今日までかろうじて生き長らえたのです。後の時代から振り返って見れば,個々の作品がいかに細い一筋の糸で現代まで繋がっているかが実感されます。

もっともこの文芸復興があったとしても,すでに古代から中世への転換期に現在残っている以上の数の作品が永遠に失われてしまっているという悲しい事実はあるのですが,それでもカロリング・ルネサンスの輝かしい栄光を貶めることにはなりません。

16世紀の宗教改革によって,中世以来の修道院がその数を大きく減らすまで,ヨーロッパ全土には延べにして約2万6千の修道院が存在したことが明らかにされています。この数字は延べ数でありますから,常時これだけの夥しい数の修道院が存在したわけではありません。初発の段階でその数は少なく,逆に最盛期の12,3世紀には先の2万6千にかなり近い数字を示したと推測されます。修道院の規模は,わずか数人が共同生活を送る草庵のようなものから,数百人が祈りの共同体を組織する大規模なものまで千差万別でした。そして,ほぼ7世紀頃から,一定規模の修道士を擁するところでは,書物を書き写したり,執筆したりする書写室がおかれたのです。こうした中世の修道院書写室の活動により,どれだけの量の写本が生み出されたか,その総数についての正確な情報は,残念ながらありません。先ほど挙げたカロリング・ルネサンス以前に作られた写本に関する統計で,バチカン図書館に収蔵されている5世紀以前,つまり古代の写本は24点でした。しかし,この図書館でカロリング・ルネサンス以後に書写された写本の数は,古典の写本に限っても約3,000点にのぼっているのです。およそ125倍という著しい増加ぶりです。おそらくヨーロッパの他の国の図書館でも事情は同じであろうと思います。

ここに中世修道院が古典文化の保護と,現代までの継承の面で果たした大きな役割が端的に示されていると言えるのです。古い写本を手で書き写すことによって,作品の数を増やし,そのことによって結果的に作品そのものが完全にこの世から消滅するという悲劇的事態を回避する,極めて単純で素朴なリスク・コントロールの在り方は,電子媒体の時代に生きる現代の私どもの文明が抱えているリスクに思いを馳せるよう促していると言えましょう。


技術と労働と生産性の関係について
大阪大学名誉教授
国際日本文化研究センター名誉教授
青山学院大学特任教授
猪木 武徳

1.「発明」という概念の曖昧さ

科学上の発見や発明が,ただちにそれを具体化した生産設備を生み出し,商業ベースでのイノベーションをもたらすとわれわれは考えがちですが,科学技術と経済的生産性は,必ずしもすぐさま直接結びつくわけではありません。科学的原理の発見,それを生かした生産設備の発明や建設,市場に向けた商業ベースでの生産は,それぞれ別個の現象で,相互に数十年,あるいは数百年もの隔たりがあることもめずらしくありません。歴史上の事例からも,これらの関係の複雑さを見てとることができます。

たとえば,活字印刷の技術はグーテンベルクが発明したと教科書には書かれています。しかし,活字印刷の素朴な方法はすでに,紀元前1700年頃にミノア・クレタ島で用いられていたと史家は指摘しています。古代中国の職人たちも,印刷技術の発明者として自己の独創性を主張するでしょう。しかし,現代のわれわれの目から見ると,活版印刷が大量の情報を,経済計算に見合う形で効率的に社会に散布できる体制を可能にしたのは,グーテンベルクであったと言えるのです。彼が発明者としての栄誉を獲得できたのには,いくつかの理由がありました。中国の漢字のように数万にも及ぶ文字の活字を作り操作する必要がなく,30字余りのアルファベットと数字の活字のみで表記できる文化がヨーロッパにはあったこと,冶金技術だけでなく,耐久性のある紙と油性インクが発達していたこと,そして聖書を読むことへの強い社会的需要があったことが挙げられます。

また,蒸気の原理と蒸気機関の関係についても,発見,発明,商業的技術革新とのあいだに大きな時間的な隔たりが認められます。古代ローマの貴族は蒸気の力を利用した玩具を用いて楽しんだと言われます。すでに紀元1世紀にアレクサンドリアのヘロンが,蒸気の力をエネルギーとして用いる着想を得ていたのです。18世紀のイギリスの産業革命で主役を演じた蒸気機関が,実際の生産活動や輸送の現場に登場するまでには1700年以上もの長い年月を必要としたのです。蒸気機関ほどではなかったにしても,内燃機関エンジンの発明とそれを搭載した自動車の登場の間にも多くの技術的な改善が必要とされました。一つの新しい技術を用いた製品が市場に登場するまでには,数多くの周辺的な技術が必要なだけでなく,社会的な需要が前提となるのです。

「必要は発明の母」という言葉があるように,何かが求められ続けてはじめて発明が生まれるという場合もありますが,他方,技術史家が指摘するように,先にまず,偶然の産物としての発見や発明があり,後になってその有用性が見出される,つまり「発明は必要の母」というケースも意外に多く観察されるのです。音を保存したいというエジソンの蓄音機の発明が,当初の目的と異なる用途,すなわち音楽を楽しむための機械として用いられるようになったことなどもそのひとつの例でしょう。

2.技術革新と生産性の関係

長期的に見た場合,たしかに技術革新は生産性の上昇を可能にしてきました。しかしその可能性を現実のものとするために,その技術と関わる人間の労働がいかに重要な役割を果たしているかということは強調してもし過ぎることはありません。技術を生かすのは人間の力量,つまり技能次第と言うことができます。それは楽器と演奏者の関係にたとえることができましょう。名器とされる楽器が,素晴らしい音楽を生み出すには優れた演奏者を必要とするということと同じなのです。

この点について,わたくしは,1980年代の半ば,日本,タイ,マレーシアの3国を対象に,同じ生産物を製造している工場に滞在し,その設備装置の性格,工場労働力の編成,教育と訓練のシステム,昇進と給与の体系等を共同研究の一環として調べたことがありました。装置産業,機械加工型産業,組み立て型産業,銀行業などの調査を,これら3国それぞれの企業の協力を得て行うことができたわけです。

たとえばセメント製造業の場合,当時一番古い設備で操業していたのが日本の工場,自動化の最も進んだ最新鋭の装置を用いていたのがマレーシア,そしてその中間に位置するのがタイの工場でした。これら三つのプラントの年間生産量を従業員数で割った「労働の生産性」,つまり何名の従業員が年間何百万トンのセメントを生産しているのかを測定したところ,一番自動化の程度の低い装置で生産している日本の工場の労働生産性が最も高く,マレーシアの工場の実に3倍近くにも及ぶという調査結果を得ました。資本設備では劣る日本が,なぜかくも高い生産性を発揮しているのかを詳しく調べますと,従業員の技能を高める教育・訓練の方式,やりがいを生みだす評価と報酬の制度や昇進のルールなど,日本と他の2国との間に大きな違いがあることがわかりました。

日本の工場の場合,学歴よりも,「仕事をすることそれ自体が訓練になる」という認識のもとに,できる限り広く,幅を持った技能を身に付ける機会を従業員に与えながら,その技能を公正に評価し昇進につなげるという「生産現場での実力主義」が,1980年代まで徹底していたことがわかりました。経済発展を考える場合,単なる技術と機械設備の高度化ではなくて,企業内や社会全体の労働力を長期的にどう育成するかが,最終的に生産性を規定する最も重要な要素であるということを意味します。

もちろん,同一機械設備を用い,生産工程自体に何ら見るべき技術変化がない場合でも,「学習効果」によって職場の労働生産性が上昇していくという例は,多くの国の職場で観察されてきました。この現象は19世紀のスウェーデンの製鉄所の名にちなんで「ホーンダール効果」と名づけられたものです。航空機の機体組み立てに関しても,工作機械・造船・綿織業などの生産現場においても検出された現象です。

しかし,こうした「学習効果」だけでなく,労働の生産性を規定する要因として,従業員の技能をいかに育成していくか,その技能を誰がどのような仕方で評価するのか,そしてその評価を賃金や昇進にどのように結びつけるのかという人材育成の方式が極めて重要であることが,われわれの調査研究で明らかになったわけです。

たとえば,ひとつの仕事だけを経験して技能を身に付けるのではなく,ある程度の幅を持って隣接分野の技能を修得できるように,異動と昇進のキャリアパスを組む方式は,職場で発生する様々な異常や変化に対応できる力を高めます。

ある機械システムが故障し,生産がストップしてしまうことの経済コストは極めて大きいものです。したがって,どの故障がどれほどの頻度で起こり,その原因にはどのようなものが考えられるのか,それにどう対処すればよいのか,あるいは機械設備自体の寿命はそもそもどれほどの長さなのかという知識が,ある程度職場内に蓄積されなければ工場全体の安定的なオペレーションは確保できません。故障を予防するためのメンテナンスが経常的になされ,故障やトラブルが発生したときどう解決するか,という体制が工場や企業の中で確立されてはじめて,安定的でかつ高い生産性が達成できるのです。そうした生産現場で起きる異常に対処する能力を持った高度熟練者は,いくつかの隣接分野の仕事を経験することによって生み出されるのです。

生産性は人間の労働によって規定される部分が大きく,技術を生かすのは人間の労働であり,労働力の質が経済競争の帰趨を決めると言えるのです。

3.パテントは技術開発を促進するか

こうした技術と人間,そして経済生産性との関係については,先端技術の分野でも類似の現象が観察されます。技術は決して人間の労働と独立したものではありません。新しい知識や技術がどのような環境で生まれるのかは,人間の知的活動の自由が,いかに経済社会の繁栄を規定しているのかという問題と密接に関係しているのです。その例をひとつ示したいと思います。

1970年代のアメリカのコンピュータ産業は,マサチューセッツ工科大学と米国東部ボストン近郊のルート128を本拠地とするベンチャー資本との共同研究によって切り拓かれていました。しかしその後,米国西海岸のスタンフォード大学に近いシリコンバレーの追い上げに会い,ルート128は衰退します。その原因のひとつは双方のエンジニアの労働市場の構造の違いによるといくつかの研究は指摘しています。シリコンバレーではエンジニアが地域内で企業の間を移動し,競争企業同士がアイディアを自由に交換するという文化がありました。エンジニアが企業を移動しても,元の企業で使われたアイディアを活かす自由が許されているのです。この点で,ルート128地域の企業の間の「ルール」は根本的に異なっていました。技術に関する秘密主義が徹底しており,エンジニアは転職する際,1,2年の間はライバル企業に就業することが禁止されていたのです。このような,企業間での知識の流出・流入を避け,知識の共有化を妨げる体制が,シリコンバレーのような自由な体制に敗れたという事実は,発明者が新しい技術知識を一定期間独占することを認めるパテント制度にひとつの大きな問題を投げかけたと言えましょう。

企業ないしは企業群の衰退には多くの要因があり得るため,さらに多角的な検証が必要とされています。しかし次のことは確かであろうというのが現段階での暫定的な結論です。パテント制度によって発明者を公権力が一定期間保護すべきか否か。おそらくこの難問の解は,新しいアイディアが生まれるような刺激(つまり発明者への報酬)を与えることと,そのアイディア自体を社会全体が共有し,多くの人が利用できるようにすることの中間にあると推察できます。この中間に存在する「最適な点」を選びだすことが必要なのであって,いずれの「極端」もベストの解にはならないのです。

以上のように,科学知識,技術的な発明,商業ベースのイノベーションは,何れの段階を取りましても,労働と深く結びついており,技術と労働は相補い,かつ競争的な関係にあると言えます。それゆえ,経済的な生産性を上げるためにも,あるいは厳しい国際競争に伍して行くためにも,技術革新を奨励するだけではなく,技術を生かすための技能形成,教育・訓練のシステムを同時に開発する必要があること,そして良質な労働力を長期的な視野に立って育て上げることが,経済的な発展への不可欠の条件であることは,これからも変わることはないと考える次第です。

宇宙はどのように始まったのか?―現代物理学が描く創世記―
大学共同利用機関法人自然科学研究機構長
東京大学カブリ数物連携宇宙研究機構客員上級科学研究員
日本学士院会員
佐藤 勝彦

「私たちの住むこの世界には,始まりがあったのだろうか? もしあったのなら,世界はどのように始まったのだろうか?」この疑問は人類の歴史が始まった頃から,神話や哲学の課題として問われてきたものです。例えば,キリスト教の聖書,創世記では「神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」と神による創世を記しております。

宇宙の創生をはじめとする宇宙全体を科学的に研究できるようになったのは,1915年,アインシュタインによって時間や空間の物理学,相対性理論が完成してからです。それ以前においては,ニュートンのプリンキピアで,「時間とはその本質において物質の有り無しとは何ら関係することなく,一様に流れこれを持続と呼ぶことのできるもの」と,また空間を「その本質においていかなる物質の存在とも関係なく常に均質であり揺らがないもの」と規定されております。しかし,アインシュタインの相対性理論では,物質の存在によって空間が大きく曲がってしまうこと,時間の進み方も物質の存在によって速くなったり遅くなったりすることが明らかになりました。これによりはじめて,時間,空間,そして物質を一体として議論することが可能となり,宇宙全体を科学的に研究することができるようになりました。

1922年,ロシアのフリードマンは相対性理論の方程式を解くことによって,宇宙全体が膨張することを計算により示しました。つまり,宇宙全体を風船の表面にたとえるならば,あたかも風船が膨らむように宇宙は膨張することを予言したのです。一方その7年後の1929年,アメリカの天文学者,ハッブルは,より遠くにある銀河ほどより速い速度で私達から遠ざかっていることを見つけ,実際に宇宙が膨張していることを発見しました。宇宙では,私たちの住む天の川銀河と同じようにおよそ1,000億個の星の集まりである銀河が,光で何百億年もかかるような遠方まで無数に存在し,広がっていることが知られています。ハッブルの発見は,ノーベル賞を束にして出しても良いような大発見でした。なぜなら,今宇宙が風船のように膨らんでいるなら,過去に遡って行くならば宇宙は一点に帰るかも知れないこと,すなわち宇宙には始まりがあったにちがいないことを発見したことになるからです。

さらに,1946年,ロシア生まれのアメリカ人,ガモフは物質が一点に集中した超高密度の状態から宇宙が始まったというだけでなく,温度も無限に高い火の玉として始まったのにちがいない,つまりビッグバンとして始まったのだと言う仮説を提唱しました。私たちの体,地球,太陽,星,銀河などこの宇宙の物質は,化学元素から作られています。元素の種類はもっとも軽い水素から身近な炭素,酸素,窒素,そして非常に重いウラニウムまでありますが,ガモフはこれらの元素はすべて宇宙が誕生した頃に合成されたのではないかと考えました。もし宇宙が熱い火の玉として始まったなら,核融合反応によって一挙に合成されるのだという仮説を提唱したのです。そして1965年,宇宙が火の玉で始まった証拠が発見されました。宇宙が超高温の火の玉で始まったとすると,聖書の創世記に「光あれ」と記されているように,高温の宇宙には光が満ちていたはずです。宇宙が膨れるに従って温度も下がり,光の波長も宇宙の膨張に比例して長くなります。ガモフと共同研究者は,火の玉の名残の光は宇宙の膨張に伴って波長が長くなり,マイクロ波電波として現在の宇宙に充満しているはずだと予言したのです。アメリカ,ベル研究所のペンジャスとウィルソンはこの火の玉の名残であるマイクロ波宇宙背景放射を発見しノーベル賞を受賞しました。このようにして宇宙が火の玉として生まれたというビッグバン理論は科学的に揺るぎのないものとなりました。今日,ビッグバン理論は天文学的な観測ともよく一致し,科学的な宇宙の標準理論となっています。

しかし,ガモフによって提唱されたビッグバン理論には,未解決な重大な問題も多く残されておりました。その中の二つばかりを紹介いたします。まず第一は,なぜ宇宙は熱い火の玉として生まれたのかという問題です。ガモフは宇宙にある化学元素の起源を説明する仮説としてビッグバン理論を提唱しましたが,なぜ火の玉として生まれるのかは説明できませんでした。第二は宇宙の大きな構造の起源を説明することができないことです。宇宙の基本的な構成要素は星ですが,星が集まった銀河,銀河が集まった銀河団,銀河団がさらに集まった超銀河団,さらに超銀河団は互いに繋がって,あたかも蜂の巣のようなネットワークを構成します。銀河は蜂の巣のセルの部分に密集していますがセルの内部には銀河はほとんどありません。これらの構造は宇宙が高温の火の玉であったころに何らかの物理過程で作られた物質密度の高い部分,つまり凸の領域が重力によって凝集し作られたと考えられています。しかしどのようなプロセスで,後に銀河や銀河団に成長する密度の高い部分が宇宙の始めに作られたのか未解明のままでした。

これらの問題を解決するため,1980年代はじめ,私,佐藤やアメリカのグース,ロシアのスタロビンスキーやリンデ等は,誕生直後の宇宙は急激な膨張を起こし,この急激な膨張が終わったとき大量の熱が発生し,宇宙は火の玉になるという理論を提唱しました。今日この理論はインフレーション理論と呼ばれております。またこの急激な膨張のことは宇宙のインフレーションと呼ばれております。この理論は物質のもっともミクロな構造である素粒子の理論とアインシュタインの相対性理論を組み合わせた理論ですが,宇宙が急激に膨張している段階で,後に銀河団,超銀河団,そして宇宙の蜂の巣構造に成長する物質密度の凸凹も仕込むことができます。インフレーション理論は提唱後,多くの研究によって発展し,今日宇宙初期のパラダイム,標準理論となっております。しかし,インフレーション理論は,それ自身で完結する宇宙創生の理論とはなっていません。それは,インフレーションを起こすミクロの空間,いわば宇宙の“種”の起源については何も説明していないからです。インフレーション理論の成功を受け,ウクライナ生まれのアメリカ人,ビレンケンは,ミクロの世界を支配している物理法則である量子論と相対性理論を組み合わせ,宇宙は「無」の状態から生まれるのだという「無からの宇宙創生論」を唱えました。「無」の状態とは「時間も空間も物質もない状態」で,単に物質がないだけでなく時間や空間もない状態のことです。やや遅れて車椅子にのった天才とも言われているケンブリッジ大学のホーキングも同じような理論を提唱しております。しかし「無からの宇宙創生論」は,本質をとらえた理論であると思われますが,未完の理論であり,今後の発展を待たなければならないものであります。

さて,これまで理論的研究の紹介をしてまいりましたが,科学の研究においては,理論は観測や実験によって検証されなければなりません。しかし,宇宙開闢の理論などが観測によって検証されることなど可能なのでしょうか? 宇宙は138億年前に誕生したと現在考えられていますが,原理的には138億年昔の宇宙を観測し,写真に撮ることができます。なぜならば,宇宙では遠方を見ることは,過去の宇宙を観測することになるからです。光などの電磁波は光速で伝わりますが,いかに速い速度とはいえ有限の速度であり地球に到達するのに時間がかかるからです。現在観測可能なもっとも昔の時刻は,火の玉宇宙の温度が下がり宇宙が透明になった時刻,宇宙開闢から38万年の時刻,つまり今から137億9962万年前です。1992年,米国航空宇宙局,NASAの宇宙マイクロ波背景放射観測衛星,COBEは宇宙開闢から38万年しか経っていないころの宇宙の姿を描き出しました。わずか10万分の1というマイクロ波電波の強弱,揺らぎですが,インフレーション理論の予言する物質密度の凸凹の予言と見事に一致したのです。この観測チームのリーダー,スムートはこの発見により2006年のノーベル物理学賞を受賞しました。この発見によってインフレーション理論は観測から大きな支持を受けることになったのです。さらに米国航空宇宙局や欧州宇宙機関はそれぞれ観測衛星を打ち上げ,より精密な観測を行いインフレーション理論と観測は完璧に一致することを示し,この理論を強く裏付けました。

インフレーション理論を直接的に証明する方法はインフレーションが起こったときに放出される重力波を観測することです。重力波はアインシュタインの相対性理論から予言されている波で,時空の歪みが波となって光の速さで伝わるものです。インフレーションによって物質密度の凸凹,密度の揺らぎが生じ,それが後に超銀河団や銀河団など大きな構造の種になることはすでに述べましたが,同時に時空をかき乱すために重力波も生じます。

現在,間接的な方法ですが,南極やチリの標高5,000メーターのアタカマ砂漠などに設置したマイクロ波望遠鏡で,アメリカや日本の研究者がインフレーション起源の重力波の痕跡を探し求めております。さらに人工衛星を用いてインフレーション起源の重力波が地球にやってくるのを直接観測しようとする計画も立てられています。しかし高度な技術と,膨大な費用がかかることから,まだ計画は認められておりません。しかし,今世紀末までには,宇宙誕生の瞬間も重力波観測によって,直接描き出されるに違いないと思っております。

宇宙論の研究は,いますばらしい時代を迎えております。ハイテクを駆使した人工衛星,大型望遠鏡の飛躍的進歩により,宇宙のはじまりの頃まで見ることのできる時代となりました。アインシュタインによって相対性理論が作られてから100年となりますが,今私たちの住む世界,宇宙の成り立ちや,宇宙の誕生から現在に至る進化を知ることができるようになりました。その結果,地球科学,生物学,人類学等との連携によって,宇宙における私たち人間の位置も描き出されてきました。しかしこのような大きな進歩と同時に,宇宙には暗黒物質という未知の物質が普通の物質より多く存在していることも分かりました。さらに正体不明のダークエネルギーが宇宙を満たしていることも発見され,非常に大きな謎も生じてきました。科学は謎を解くことで進みます。新たな謎が生まれたことはたいへん歓迎すべきことです。これを解くことで,新たな,より深い真理に達することができるからです。