講書始の儀におけるご進講の内容(平成26年1月10日)


歴史としての印刷文化
東京大学名誉教授
印刷博物館館長
樺山 紘一

近年,各方面で話題となっているとおり,デジタル技術の飛躍的な発展によって,印刷の文化にも劇的な変化がおこっています。これまで,活字や版画によって文字や図像を複製し,書籍や作品として広く頒布・配付してきた印刷や出版などの仕事にとって,従来と同じかたちでの成果をおさめることは,難しくなってきたかにみえます。そうした激動のなかにあって,その方向や意味を正確にとらえ,新たな姿勢を整えるためにも,印刷の歴史やその現在における展開を,改めて全体として見とおすことが,必要となっています。ここでは,それを簡潔に展望したうえで,そこでの重要な問題点にも論じ及びたいと思います。

印刷とは,もとの文字や図像を,正確かつほとんど無限回にわたり,複製することを意味します。そのためには,複製するための仲立ちとしての版,それを写像として表現させるためのインク,そしてそれを実現させるための資材,たとえば紙などが必要です。ここでとりわけ重要なのは,その紙でした。紙は,植物繊維を調製することで生産されますが,これは西暦紀元前後に中国で開発されました。いずれにせよ,これら版やインク,紙などの諸要素が整うのは,まずは中国とその周辺においてです。したがって,印刷の歴史を的確に捉えるための第一の主題は,東アジア世界での展開過程です。

確実な史料上の証拠を得られていませんが,おそらく7世紀までには,中国にあって東アジア固有の印刷方式が,確立されたのではないでしょうか。隋や唐の王朝時代に相当します。このとき,印刷者はまずは木片を平滑な平面として磨きあげ,これに彫刻刀で文字や図像を刻み込みます。漢字を彫刻した人は,それとおなじ方式で図像も刻んだでしょう。漢字は,その形態からいっても,図像と同じ要素からできあがっています。

木片を素材とした版による印刷,つまり木版印刷は,おそらく最初は,仏教の教典を複製するために援用されました。仏典を,多数の関係者にたいして,正確に同一のテクストとして頒布する必要に迫られたからでしょう。紙に墨というインクで印刷された仏典は,残念ながら保存に適さず,確実に8世紀よりもさかのぼる実例は,現在のところ中国では発見されていません。

中国では,残存が期待しにくい初期の印刷物ですが,その東隣の朝鮮半島と日本列島には,幸運にも適切な残存事例があります。朝鮮にあっては,統一新羅王朝期に属する8世紀なかばの印刷文書が確認されています。「無垢浄光大陀羅尼経」とよばれる文書は,韓国の仏国寺の石塔の中から発見されましたが,木版印刷による仏典文書です。同様に,日本においても8世紀には仏教経典の印刷が行われていました。残存する文書としては,770年に木版印刷として製作された「百万塔陀羅尼」が,知られています。これは,孝謙天皇の命によって作成された仏典文書であり,製作時期が特定できるものとしては,世界最古の印刷物です。

奈良時代に開始された木版による仏典印刷は,その後さらに奈良・興福寺で平安後期に継承されます。春日大社に収められたので「春日版」とよばれるものです。くわえて,この伝統は高野山において,また後には京都で仏典の印刷・出版として発展していきます。需要にこたえて,その出版数が激増したことにあわせ,仏典には特有の印刷方式が伴います。しばしば,図像としての仏画をも兼併したことです。これの製作のために,1枚の版木のなかに,文字と図像を同居させることもありました。この方式は,その後の日本の版画印刷の基本をなしたものと考えてよいでしょう。

こうして成立した東アジアの印刷文化は,中国・朝鮮・日本とそれぞれの系譜を引きついで,国民文化の中核をなしていきます。日本の江戸時代における草子や読本などの文芸作品の出版は,それの代表といえます。また,図像の印刷方法は,江戸時代になって独自の発展をとげ,ついには浮世絵版画として成熟していきます。ここでも,注目しておくべきは,文字と図像の印刷はあくまでも同一の方式の延長上にあり,しばしばその両者は同居し,協和していたことです。

東アジア世界にあっては,極めて早くから木版による印刷が行われていましたが,次のことも忘れるわけにはいきません。実は,東アジアにあっても活字による文字の複製・印刷が試みられていました。現存する事例からいえば,朝鮮王朝時代に半島中部の清州でおこなわれた銅活字による印刷が,最古のものとされます。「直指心体要節」とよばれ,1370年代にさかのぼります。くわえて15世紀以降,朝鮮王朝のもとで国家によって管理され,19世紀にいたるまで,官版作成のために50種類におよぶ銅活字鋳造がおこなわれました。木製の活字も含めて,漢字活字による印刷が実施されていたのです。この印刷法は2世紀ほど遅れて日本にも伝達されました。徳川家康の命によって製作された駿河版銅活字です。ただし,漢字世界では文書作成のための活字製作では,文字の種類があまりの多数にのぼるため,当時の技術的条件のもとにあっては,容易に成熟することが難しく,大規模な展開にいたらなかったことは,否定できません。そのことは,並行して行なわれていた木活字による印刷にも言えるでしょう。

さて,東アジアでの独自の発展にくらべて,いまひとつの印刷世界である西ヨーロッパでは,それよりはるかに遅れて,展開がみられることになります。というのも,印刷が成立するための条件として,大事なものが欠けていたからでしょう。つまり,版の調製と印刷資材の調達が,ヨーロッパにあっては,思うにまかせなかったのです。木版は仮にあったとしても,大量の文書に対応しにくく,そしてなによりも印刷資材としての紙は,はるか後の12・3世紀を待つ必要がありました。アジアから伝達された製紙法は,13・4世紀になって西ヨーロッパに定着します。そして,木製版画や金属活字による活版製作は,ようやく15世紀になって,現実のものとなっていきます。

その世紀に,西ヨーロッパ世界では,図像や文字の複製に対する社会的な要請が極端に増大していました。まずは,木版画です。14世紀の末年ころに,低地地方(オランダ)で,木版印刷によるプレイングカードや暦,祈祷用の紙片など,簡易な印刷物が登場しました。しかし版画が本格的な発展をとげるのは,15世紀の後半になってからのことでした。なかでも,ドイツのニュルンベルクからでたデューラーが,ひとおもいに版画を図像芸術としての高みにまで引き上げました。デューラーは油絵画家としても大成するなか,版画の独特の表現力を開発します。とくに重要なことには,木版画に加えて,金属細工技術を応用して銅版による版画製作も開発します。銅版画には,エングレーヴィングやエッチングをはじめとするさまざまな技法がありますが,同時代のライバルとともに,これらに多様な表現力を与えることに成功しました。ドイツやライン川下流地域を中心として発展した版画技術は,やがてルネサンス美術が開花するイタリアをはじめとして,ヨーロッパ各地にセンターをもうけるようになりました。

ヨーロッパでは,図像と文字とはまったく異なった方法で,複製印刷が行われます。文字による表現はアジアの漢字とくらべれば,はるかに簡易です。文字としての固有の複製方法が可能となるでしょう。アルファベットの26種類ほどを基本とする,ごく少数の文字を複製すること。この目的のためには,1文字ごとの鋳造と印字のほうが有効だとみられました。この課題が達成されるのは,15世紀の40年代のことでした。これこそ,ドイツ・マインツの金属職人出身,グーテンベルクの仕事でした。グーテンベルクは,アルファベット文字の印刷にかかわるいくつもの難関を克服して,1450年ころに「聖書」の印刷に成功します。「42行聖書」として知られる美麗な出版物でした。鉛と錫とアンチモンの合金で活字を鋳造し,これをもって1ページごとの版として製作。絵画でもすでに援用されていた油性のインクをこれに塗布したうえで,ブドウ絞り機を改良した機械で圧力を加え,紙などの上に印刷を実現したのです。

こうして,開発された活版印刷技術は,15世紀のヨーロッパで爆発的な普及をみることになります。15世紀末までに製作された印刷本をインクナブラと呼びますが,その点数は2万をこえるといわれます。少数の聖職者だけに限定されていた書物の講読は,市民や知識人に開放され,ヨーロッパの知識や宗教のありかたを根底から変革することになりました。「グーテンベルクの印刷革命」はヨーロッパ世界全体のコミュニケーションや読書の様相を一変させます。

以上にくわえて,図像印刷との結合などの技術改革や,書物流通体制の整備など,周辺の活動との結びつきも軽視するわけにはいきません。こうして,ルネサンス時代以降,18世紀にいたる数世紀のうちに,ヨーロッパ世界は科学や芸術の充実と普及によって,世界の文化的リーダーに成長していきます。印刷文化は,まさしくヨーロッパの世界的地位を高めていったのです。

さて,以上にみてきたとおり,世界の歴史では,はっきりと2つの印刷文化が別個に存在し,ほとんど独立に発展を続けていきました。東アジアと西ヨーロッパのそれです。2つしかありません。ほかの多くの文明にあっては,印刷文化は誕生しませんでした。そして,この2つは,すくなくとも16世紀ころまでは,まったく相互の接触や交流を体験しませんでした。使用する文字の質が大きく異なること,あるいは紙やインク,機器がことなった材質によっていることなど,その理由を挙げることができます。

しかし,16世紀の大航海時代以降,両者の間には互いの交流がみられるようになります。ことに,キリスト教会の宣教師たちが世界に進出すると,ヨーロッパの印刷技術は次第にアジアの諸地域などにも伝達されるようになります。日本にあっても,16世紀末にはキリシタン版という名のヨーロッパ・スタイルの印刷・出版が導入されます。しかし,これが広く重要な結果をもたらすようになるためには,いまひとつの大きな転換が必要でした。それは,産業革命による印刷技術の改変です。

グーテンベルクによる活版印刷の開発が行われて以後,3世紀あまりにわたり,技術上の改革は,ほとんど行われませんでした。それほどに,グーテンベルクの技術体系が完結していたともいえるでしょう。しかし,ようやく18世紀末になって,産業技術全般が大きな改編をうけたときに,印刷にも急速な変革がやってきます。印刷機械は効率化を実現します。機械体系の改編,人力から蒸気力への転換など,さまざまな側面での改革が,印刷の効率や種類を増大させます。産業革命とよばれる大転換でした。そればかりか,ヨーロッパ世界における改変により,ついに東アジアにおける印刷体系が凌駕され,これに代替されはじめました。ヨーロッパから導入された体系が,全世界に定着しはじめます。このことは,日本も例外ではありませんでした。明治維新ののち,日本は積極的にヨーロッパ型の印刷文化を導入します。金属活字の開発による新聞や書籍の出版などは,その一環です。こうして近代化された印刷産業が大規模な展開を実現しました。

ここまで印刷文化の歴史を展望してきたわたしたちは,ここで次のことを確認しておくことにしたいと考えます。第一に,これらの展望はいずれも従来の研究蓄積を前提にし,それを私的な見解に則して,整理したものです。全体と部分のさまざまな点について,異なった意見がありうることは,むろん承知のうえです。これらについては,これからも納得のできる結論をめざして,研鑽を続けていく所存です。そこでは,なによりも次の点が重要でしょう。印刷文化の歴史的な理解は,これまでややもすれば,個別の国や地域の事実の解明に努力がむけられ,その結果として,このグローバルな世界を展望できるような広い視野を欠落させてきました。しかし,現在の時代となっては,そうした見方はあまりに狭いものといわざるをえません。世界には大小,多様な歴史的個体が実在し,それらは自前の存在理由をもつと同時に,相互に関係と向き合いを経過していきました。その様相をみるためには,交流と比較という2つの視点を忘れるわけにはいかないでしょう。印刷文化についていえば,かの2つの主要な文化主体,つまり東アジアと西ヨーロッパの2つの文化のあいだの交流関係を解明するとともに,両者を並置しながら,そのあいだの比較を適切な方法でこころみること。そのことを,忘れることなく研究作業をつみ重ねていきたいと念じています。

第二にとりあげたいのは,次の点です。わたしたち研究者の理解は,それぞれに合理性をそなえており,見解が異なるときも,理性的な討議によって解明を図ることができるはずです。しかし,それはあくまでも研究者間の同意に立脚した結論ですが,だからといって専門家の関心が,かならずしもすべての人の納得をうるとはかぎりません。印刷文化に関していえば,印刷業務に従事する多数の関係者や,その文化の受容者としての知識人,市民への説得力を保証するものではありません。実は,日本にはこの主題にかかわる専門の博物館も存在しており,たまさかわたしはその責任者を承っています。わたしたち博物館は,研究者の作業に参加し支援するかたわらで,そうした知識人・市民とも,おなじ熱意をもって対話していきたいと願っています。専門家という高みからの啓蒙ではなく,あくまでも水平の関係における対話を実現しつつ,納得できる知の総合をめざしていきたいと考えます。

第三に,最後にですが,次のことが重要です。はじめに申しのべたとおり,印刷という文化や業務は,21世紀のいま,たいへん大きな曲がり角にたっています。ここまでみてきたような,人類史における印刷文化の展望は,さしあたり過去の全歴史を念頭においてのものです。しかし,デジタル革命とよばれる現在,そうした過去の全歴史をも転覆させるような変動が現実化してきています。デジタル技術の展開によって,アナログの体系を前提にしてきた従来の印刷文化システムは,その通用力を削がれつつあるかにもみえます。こうした現状のなかで,はたして印刷文化はそのものとして存続しうるのか。あるいは,ここまで蓄積されてきたアナログの文化体系は,今後も有用性を保持できるのか。その問いへの,有効な回答が必要です。わたしたちは,この急峻な曲がり角に直面して,なおも説得力をもった見解を提示できるよう,全力で努めたいと考えています。


日本的雇用システムと労働法制
東京大学名誉教授
労働政策研究・研修機構理事長
日本学士院会員
菅野 和夫

わが国の労働法制は,終戦(1945)後の改革の中で本格的に成立しました。

労働組合の結成を支援し労使の交渉上の対等性を確保すること,労働関係の原則や基準を法定し労働条件の適正化を図ること,公的な職業紹介と失業者救済の仕組みを整えることなどが基本政策とされ,労働基本権が日本国憲法で宣明されたうえ,労働組合法,労働関係調整法,労働基準法,職業安定法,失業保険法等が制定されました。わが国が戦後の短期間のうちに労働法制の骨格を整えることができたのは,戦前から大学や行政組織における関係者が欧米先進諸国の法制度に関する高水準の研究能力を有し,労働法制についても正確な知識を蓄積していたことが,大きく寄与したと考えられます。

戦後の労働法制を推進した考え方は,煎じ詰めれば,わが国の労働法制を欧米の労働基準や法制度を参考にして近代化することでしたので,労働法学者も,それらの先進的な法制を研究してわが国の法制の立案に役立てること,また,同様の問題が先進諸国で生じた場合の法的解決の内容を探究して,わが国の法解釈の参考にすることに努力しました。1960年代までの労働法制の研究は,総じて,各国における雇用・労使関係の実際の仕組みと労働法制との間の関連性には関心を払わず,法規範や法制度それ自体を先進諸国と比較しつつ,わが国の法制を立案し解釈することに精力を注ぎました。

以上のような労働法制の研究方法は,その後大きく変化しました。

わが国の雇用・労使関係については,アベグレン(1958)やOECD(1972)によっていわゆる終身雇用,年功賃金,企業別組合などの特色が指摘されていましたが,労使関係論,労働経済学,産業社会学等の隣接の社会科学を専門とする内外の諸学者が,わが国の雇用・労使関係の諸特色について,1970年代から国際研究を進展させ,より精密に,長期雇用慣行,内部労働市場,企業別労使関係等の仕組みを明らかにしていきました。そして,これらわが国の雇用・労使関係の仕組みは,国内外の識者の間で「日本的雇用システム」として認識されました。また,各国の労働法学者の間でも,雇用・労使関係の実際と労働法制との関係に関する国際的な比較研究が盛んとなりました。これらの比較研究の成果を活かしますと,わが国の労働法制は,高度経済成長期以降の日本的雇用システムの発展と密接な関係をもって発展し,同システムとの間で興味深い相互作用を営んできたのであり,労働法制の変化や課題は日本的雇用システムの変化や課題との関連においてよりよく理解できることが明らかとなりました。

わが国の大企業・中堅企業の多くは,その中核的労働力について,若年時から定年時まで長期的に活用する正規の雇用者(80年代に「正社員」の名称が一般化)としてその定着と雇用の安定に意を注ぐとともに,最大限の献身を期待します。そこで,企業は,それら雇用者について,新卒一斉採用を基本として採用し,系統的に人事異動や教育訓練を施し,職業能力の向上に応じて企業内の地位と処遇を向上させます。これは,企業が各種技能者,管理者,役員等の人材を企業内で育成・調達・調整する仕組み(内部労働市場)でもあります。また,このような長期的雇用関係においては,企業は雇用者(正社員)と経営者が当該企業の存続・発展に共通の利益を見出す共同体の様相を呈しますので,労働組合も,企業ごとに正社員を丸ごと組織する形態(企業別組合)をとって,企業の発展のために企業と緊密に協力する関係(企業別労使関係)を営むこととなります。他方,企業は,このような長期的関係にはない雇用形態の労働者(いわゆる非正規労働者)を経済変動等に柔軟に対応するために一定数保有します。

以上のような日本的雇用システムの淵源については隣接諸科学において諸種の学説がありますが,それがモデルとして確立されたのは,日本経済が1950年代半ばより高度成長期へ移行して労働力(特に若年技能労働者)の不足が進行する中で,新卒者を大量に定期採用し定年まで系統的に育成・活用する雇用慣行が普及していったこと,同時期に開始された生産性向上運動が雇用の尊重,労使の協議,成果の公正な分配の三原則を指導原理としたことなどによると考えられます。このような日本的雇用システムの普及に応じて,労働法制も同システムから影響を受け,また同システムに影響を与えるように発展していきました。

戦後の労働法制においては,労働者と使用者間の雇用関係の法的ルールは労働基準法で最低基準を定めるほかは,裁判所が個々の労働民事事件の判断を通して形成する判例法理に委ねられました。そして,裁判所は,長期雇用慣行が高度経済成長期に普及していきますと,「長期雇用慣行の法理」ともいうべき判例法理を次々と形成していきました。例えば,長期雇用慣行においては,解雇は例外的にのみ行われますので,裁判所も,解雇事件の判断の積み重ねの中で,解雇権の濫用を厳しく制限する「解雇権濫用法理」を形成しました。他方,長期雇用慣行においては,使用者は,労働力の長期的な育成・活用・調整のために広範で絶対的な人事権を保有しますので,裁判所は,この人事権を基本的に容認しつつ,その濫用を戒める「配転命令権濫用法理」,「出向命令権濫用法理」などを樹立しました。また,企業は長期的雇用関係における労働条件を制度化し,企業秩序を樹立するために「就業規則」を制定しますが,裁判所は,この就業規則について,労働関係を規律する効力を認めつつ,その内容の合理性を担保するための法理を樹立しました。以上の判例法理の基本的なものが,2007年に至って労働契約法として立法化されました。

次に,1973年の第一次石油危機後は,物価高騰,雇用調整,春闘大幅賃上げなどが進行し,物価上昇と高額賃上げの悪循環によるインフレが懸念されましたが,政府と労使団体の協議によって賃上げ抑制と雇用維持の努力が行われました。その後の第二次石油危機(1979),プラザ合意(1985)などの国際的経済変動においても,日本経済は必要な経済調整を果たし,1980年代までは安定成長を遂げました。このことについては,従業員の雇用を尊重しその長期的な育成・活用・調整を図る長期雇用慣行と,これを基礎とした企業別組合と企業との協力的労使関係が,大きく寄与しました。

この時期にも,日本的雇用システムと労働法制の間には重要な相互作用がなされました。第一次石油危機後の雇用調整においては,各企業の労使が協議して,残業抑制,新規採用抑制,配置転換,一時休業などの手段で雇用量を調整し希望退職や解雇をできるだけ回避する手法がとられ,以後の経済不況毎に踏襲されました。そこで,政府は,1974年の雇用保険法の制定によって,このような企業の雇用維持の努力を支援する助成金の仕組みを創設しました。また,裁判所は,労使が協議して解雇をできるだけ回避する右の手法を,整理解雇の有効性判断の基準として採用し,これも以後踏襲されています。

1980年代には,女性の職場進出,労働力の高齢化,雇用の多様化などの労働市場の構造変化が進展しましたし,国連の女子差別撤廃条約の発効,日本の長時間労働への欧米の批判などの国際的な環境変化も生じました。そこで,同年代半ばから男女雇用機会均等法,高年齢者雇用安定法の制定・改正や,労働基準法(労働時間法制,女性保護法制)の改正などが次々となされるようになりました。これは,長期雇用慣行における男女別雇用管理,定年制,長時間労働などの要素に対して,労働立法が修正を迫る動きであったと捉えることができます。

1990年代になりますと,日本経済はバブル崩壊とグローバル化のなかで経済低迷期に入り,デフレ経済に転じました。雇用・労使関係も1997年の金融危機以降は雇用失業情勢が急激に悪化し,正社員の採用抑制と非正規労働者の増加という大きな変化に見舞われました。特に非正規労働者は,2000年代半ばには全雇用者の3分の1を超え,若年者の就職難,低収入労働者の増加,不安定雇用の増加などの問題が生じ,経済社会の公正さが問われました。そこで,この時期には,労働者派遣事業の規制緩和等により労働市場の需給調整機能を強化するなどの規制改革立法が行われた後,最低賃金の引上げ,雇用保険の適用拡大,同保険の支給を受けない求職者の就職を支援する制度の創設,有期契約労働者や派遣労働者の保護等の社会政策立法が相次いでおります。

以上をまとめますと,わが国の雇用・労使関係においては,長期雇用慣行と企業別労使関係からなる日本的雇用システムが高度経済成長期に普及して,1980年代の安定成長期まで雇用の安定と経営の柔軟性とを両立させ,労働者の福祉と産業の競争力に大きく貢献しました。そこで,この時期の労働法制は日本的雇用システムの長所である企業の雇用維持努力を支援し,男女別雇用管理,労働力の高齢化,長時間労働等の問題点に対処する政策を行ってきました。他方,非正規労働者は,90年代半ばまでは2割程度であり,自発的選択者が多かったので大きな問題となりませんでしたが,1990年代後半からの不況の深化の中で雇用失業情勢が悪化して,非正規労働者が不本意就業者を相当数含んで大きく増加し,社会に大きな問題が生じました。そこで,日本的雇用システムに対しては,まず1990年代末に市場機能の強化のための規制改革立法が行われ,次いで2010年前後に非正規労働者の保護や労働市場のセイフティネットの強化のための社会政策立法が行われました。

最近では,グローバル化,少子高齢化のもとで日本経済の活力を今後長期にわたり維持していくために,「全員参加型社会」に向け円滑な職業能力形成や失業なき労働移動が可能となる労働市場作りが求められており,また格差是正等,社会の公正さの視点からの政策も引き続き必要となります。こうして雇用システムと労働法制の相互作用は,今後もさらに発展していくものと思われます。


粒子と反粒子 -対称性の破れをめぐって-
高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授
日本学術振興会学術システム研究センター所長
日本学士院会員
小林 誠

私たちの身の回りの物質が,原子という単位からできているという考えは,古くギリシャ時代からあったと言われていますが,近代的な原子論は19世紀に発展し,20世紀の初頭に確立しました。それと同時に原子はもはや分割不能なものではなく,内部構造を持つことが明らかになりました。すなわち,中心に重い原子核があり,その周りを電子が回っているという構造を持つことが分かってきました。酸素や炭素といった,原子の種類は周回している電子の数の違いから生じます。

そして,関心は原子核の構造に移り,1930年代の初めに,原子核は陽子と中性子という2種類の素粒子からできていることが分かりました。この陽子や中性子を結びつけて原子核を作る力がどんなものかを考えたのが,湯川秀樹先生であります。湯川先生は,この力が新しい種類の粒子をやり取りすることから生じ,その粒子は電子と陽子の中間の質量を持つことを予言しました。この研究は素粒子物理学の原点のひとつであり,素粒子物理学はこのころに誕生したと言えます。湯川中間子は1947年に実験的に発見され,湯川先生は日本人で最初のノーベル賞受賞者となりました。

湯川理論と並んで,素粒子物理学の原点の1つと言えるものに,イギリスのディラックが唱えた,反粒子の存在の予言があります。1920年代の中ごろ量子力学が完成して,原子の中の電子のふるまいを説明できるようになりました。しかしこの段階では,量子力学はまだ相対性理論と両立するものではありませんでした。そのため,例えば光の速度に近い高速で運動する電子のふるまいは記述できなかったのです。そこでディラックは,量子力学の基礎方程式を相対性理論と矛盾しない形に書き換えることを試み,今日,ディラック方程式と呼ばれているものを導くことに成功したのですが,この方程式から全く予期せぬ結論に導かれました。それは,電子に対応して,電子と同じ質量を持ち,プラスの電荷を持つ粒子が存在するはずだというものでした。

ディラックの予言から数年後に,この電子の反粒子,陽電子と呼びますが,これが実際に宇宙線による反応の中に発見されました。その後の研究から,基本的にどの素粒子にも,元の素粒子と同じ質量を持ち,電荷の符号が反対である反粒子が存在することが分かっております。発見の経緯からわかりますように,反粒子は近代物理学の2本の柱であります量子力学と相対性理論の共同の産物ということができます。

反粒子の存在は,当時の人々にとって大変,不思議なものでありました。反粒子は対応する粒子とそっくりな存在であります。ただ電荷の符号が反対であるだけです。従って,通常の物質が陽子や中性子や電子から作られるのと同じ仕組みで,それらの反粒子だけから作られた世界があってもよいことになります。そうだとすると,なぜ私たちの住む世界は,反粒子ではなく粒子からできているのかという疑問がわきます。この問題は,ディラックが反粒子の存在を提唱した直後には,ディラックへの反論の根拠の一つとして議論されたようであります。しかし,その後,長い間,科学的な研究の対象としては研究者の関心をひかなかったのでありますが,現在では重要な研究課題として活発な研究がおこなわれるようになっています。

さて,反粒子は対応する粒子と出会うと対消滅という現象を起こします。たとえば電子の反粒子である陽電子は,電子と出会うと対消滅して,光の粒子である光子になってしまいます。また逆に,大きなエネルギーでの素粒子同士の衝突の際に電子と陽電子が対生成されることがあります。電子のように物質を構成する素粒子が作られたり,消えたりすることは,当時の常識では考えられないことであり,物質観を大きく変えることになりました。もちろん,天然に大量の反粒子が存在するわけではありませんので,我々自身の体や,身の回りの物質の安定性が脅かされるということではありません。

反粒子の登場は,当時の人々にとって大きな驚きであったわけですが,現在でも,反粒子が日常生活の中に現れることはほとんどありません。唯一例外ともいえるものが,陽電子放射断層写真と呼ばれるものであります。これは通常,PETと呼んでいる装置でありまして,がんなどの診断や脳の研究に使われております。その原理は概ね以下のようになります。陽電子を放射する特殊な原子核を人工的に作って,栄養物質とともに体内に注射しますと,これが代謝の活発なところに運ばれます。そこで放射された陽電子が,周囲にたくさんある電子と対消滅を起こします。その際出てくる光子は透過力が大きいので体の外に出てきます。これを測定することによって,代謝の活発な場所を特定することができるというものであります。まさに対消滅という性質を利用しているのであります。

さて,粒子と対応する反粒子は,電荷の符号が違うことを除けば,そっくりな存在ですが,このことをCP対称であると言います。反粒子の発見以来長い間,このCP対称性は厳密に成り立つと信じられていました。ところが,1964年になって,中性K中間子と呼ばれる素粒子の現象の中に,ごくわずか,この対称性を破るものがあることが発見されました。このことの持つ意味は重大でした。一般に,対称性は自然の基本法則を考えるとき重要な役割を果たします。現象は無数にありますが,その中にほんのわずかでも対称性を破るものがあると,基本法則においてもその対称性が破れていなければならないからです。いまの場合も,基本法則のどこかでCP対称性が破れているはずです。

わずかな手掛かりから基本法則の対称性の破れのメカニズムを解明することは難しい問題でしたが,1970年代の初めになって,素粒子の相互作用の理論の枠組みとして,ゲージ理論と呼ばれる理論形式が有効であることが分かってきたことが大きな転機になりました。このころ私は,名古屋大学で大学院を終えて,京都大学の助手に採用されましたが,そこで益川敏英さんと一緒に,この新しいゲージ理論の枠組みの中で,CP対称性の破れを説明することを考えました。

この理論のもとでは,簡単なシステムは自動的にCP対称になってしまいます。CP対称性を破るには,ある程度複雑なシステムを考える必要があります。具体的には基本的な粒子の数がある程度多いことが必要です。このような考察から,CP対称性を破る具体的な可能性の一つとして,6種類のクォークからなるモデルを提案いたしました。クォークは,陽子や中性子よりさらに基本的な,物質の構成要素でありまして,陽子や中性子もクォークから構成されています。当時,クォークは3種類と考えられていましたが,これが6種類あればCP対称性が破れることを指摘したのであります。

その後の実験で,新しいクォークが次々と発見されて,6種類のクォークの存在は実験的に確認されましたが,それだけでは,このメカニズムでCP対称性の破れが起きているという実験的検証にはなりません。この問題に対しては,三田一郎さんらの研究で,B中間子と呼ばれる特別な素粒子の現象において,粒子と反粒子のふるまいの違いを精密に測定すればよいことが分かりました。

これを測定するためには,B中間子を大量に作る,Bファクトリーと呼ばれる特殊な加速器を建設する必要がありました。Bファクトリーという名前は,B中間子を工場のように大量に作る加速器という意味です。この課題に取り組んだのが,つくばの高エネルギー加速器研究機構とアメリカ,カリフォルニアにありますスタンフォード線形加速器センターであります。両研究所はほぼ同時にBファクトリーの建設に着手し,2001年に最初の実験結果を発表いたしました。結果は,私たちの提案したモデルからの予想のとおりであり,モデルが正しいことが確認されました。私はこの間,高エネルギー加速器研究機構に所属しておりましたので,間近に実験の進展を見るという得難い経験をすることができました。今日,6種類のクォークとゲージ理論に基づいて,素粒子の振る舞いの全体を説明する理論を素粒子の標準理論と呼んでいます。一昨年来,話題となっておりますヒッグス粒子の発見は,このBファクトリーの実験とともに,標準模型を最終的に確認した実験ということができます。

ここまでのことから,地上の実験で見られるCP対称性の破れについては,そのメカニズムが解明されたのでありますが,この宇宙はなぜ反粒子ではなく,粒子からできているのかという疑問についてはまだ答えていません。宇宙の成り立ちについては,ビッグバン理論というものが知られています。この理論によると,誕生直後の宇宙は,温度や密度が著しく大きな状態であったと考えられます。こうした高温の状態では,無数の粒子と反粒子が共存しています。やがて宇宙が膨張し,温度が下がると,粒子と反粒子は対消滅を起こし,次第にその数を減らしていきます。このとき,粒子の数と反粒子の数に違いがあると,多い方は対になる相手を見つけることができなくて,取り残されることになりますが,それが現在のこの世界を形作ることになります。現在の宇宙は粒子からできていますから,粒子の方が反粒子より多くあったはずということになります。一方,誕生直後の宇宙には同数の粒子と反粒子があったとする,相当な理由がありますので,宇宙の進化の途中で粒子と反粒子の数に差が生じたことになります。そんなことが可能かといいますと,素粒子レベルの反応で,CP対称性の破れがあれば不可能ではないことが知られております。このように,素粒子の問題と宇宙の問題は密接につながっております。

ここで自然な疑問は,地上の実験を説明した,6種類のクォークから生ずるCP対称性の破れで,宇宙の問題が説明できるかということです。これについては,多くの人が詳しく調べましたが,残念ながらこのメカニズムでは,宇宙がなぜ粒子からできているかを説明することはできないと考えられております。

このことは,宇宙の粒子と反粒子の数の差を生みだすのに寄与するような,未知の素粒子が存在し,それらの反応に未知のCP対称性の破れのメカニズムが存在することを意味しております。最近話題のダークエネルギーやダークマターの問題と併せて,自然法則の最も基本の部分における未解明の問題であります。今後の研究に期待したいと思います。