講書始の儀におけるご進講の内容(平成25年1月10日)


江戸文化再考
九州大学名誉教授
中野 三敏

1 はじめに

この所,世界史的に物質文明の進展や,急激なグローバル化に伴う“近代”の歪みとも言うべき現象が多くなっているように思います。これは我が国のように明治以来,急速に近代化した国家に於いては,それだけ顕著に指摘され得るように思われてなりません。無論,近代化の齎した本質的恩恵は計り知れませんし,その真只中に生きる私共である事は十分認識した上の事ですが,端的な一例として,たとえばエコロジーの問題や社会生活全般に関わる問題をきっかけとして,いわゆる“江戸ブーム”といった社会現象が認められるように思います。無論,“江戸ブーム”そのものは何度も繰り返し起った表層的なことがらではありますが,今日のそれは,従来とは趣きを異にした,一つの可能性をも含むもののように思いますので,その辺りを明確にする為にも,明治以降の近代日本人の間に生じた対江戸観の諸相を私なりに考えてみました。

2 大勢五転

近代人の江戸観は大きく分けて5度の変転を見ているように思われます。それは概ね年号の移りゆきに伴って考えるのがよろしいかと思います。つまり,明治・大正・昭和・平成の四つになりますが,昭和は20年の終戦という大きな節目がありますので,正確には明治・大正・昭和戦前・昭和戦後・平成という五転となろうかと存じます。

明治は日本近代の始まりであります。大きな社会変革は,まずその直近の前代を否定する所から始まるのは,歴史の必然でもありましょう。即ち江戸は明確な否定の対象となりました。しかもその時,近代へと舵を切った当路の人々,即ち福沢諭吉をはじめ山縣有朋・伊藤博文といった人々も全て天保の生まれであり,全身に江戸の教育を受け,江戸の生活を送った人々であります。その人たちが自身の内なる江戸を否定するということは,謂わば近親憎悪的に強烈なものであったことは,十二分に察せられます。

大正は明治の45年を経過して,45歳以下の人は全て新時代の日本人であります。当時の人口構成からみても,既にかなりの数の近代人が育ちました。自ずからその江戸観にも微妙な変化が生じます。それは,否定的な観点を基本としながらも,地に足のつかない近代化を危ぶみつつ,種々の葛藤の中に懊悩し,江戸を回顧するという知識人が生じてきます。文学者でいえば夏目漱石・森おう外をはじめとして,泉鏡花・永井荷風・谷崎潤一郎など,その具体的な存在でしょう。

昭和戦前,既に60歳以下の人は全て近代人となり,とりも直さず江戸を客観視する立場が獲得されました。この時から江戸は学問の対象となりました。事実,私どもの世界でも,江戸学として通用する成果は,殆どこの時期からの著作類であります。

昭和戦後,近代主義が花盛りの時代となり,江戸観にも極めて大きな変化が生じます。無論,基盤は江戸否定の立場ですが,最早,江戸回帰の気運は完全に無くなったという安心感からか,全否定の対象ではなくなり,かえって江戸の中に近代の萌芽を探し,その部分だけは十分に評価しようという姿勢が生じてきました。象徴的なのは18世紀の洋学流行の評価です。平賀源内・杉田玄白・司馬江漢などがその好例でしょう。続いて文芸の世界では庶民の文学という絶好の言挙げが用意されました。西鶴のリアリズム,近松のヒューマニズム,芭蕉俳諧の地方性といったものが恰好の材料となり,下っては江戸戯作や浮世絵などに見える庶民性が,近代主義の立場に即して称揚され,江戸文化といえばそれに極まるといった扱いが常識となりました。私どもの学生時代はまさしくそのような気運の真只中にあり,それも又,逆らえぬ時代の要請でもありました。ただ,私は嘗てその様相を「ルーペとピンセットによる江戸の中の近代探し」と評したことがあります。一方で,当時の小説・映画・ドラマ等の中の江戸といえば,悪代官と特権町人の悪巧みの前に,可憐な庶民の男女が翻弄されたあげく,悲劇的結末を迎えるというステレオ・タイプや,或いは江戸といえども所詮庶民の生活感情は近代の吾々と一様である筈といった理解が強固な江戸観として君臨し続けました。現在でもこの江戸理解は一般の人々の中には根強く残っているものと思います。要するに江戸文化に対する近代主義的腑分けが徹底して行われ,それに適う部分のみが評価されると共に,適わない部分は終始否定され続けるという作業が絶対的な優位を保ち続けたと言えばよかろうと存じます。

思えば,「近代的」という言葉は,概念としても実生活に於いても,負の意味として用いられる事は殆どあり得ない状況であったということが,当時の私自身の生活や思想を省みても,全く否定出来ないように思える次第です。

そして今日の平成という時代を迎えます。近代主義の果実の影の負の部分が我々の意識に明瞭に認識され得る時代となりました。今やそれは日本のみならず,世界的に生活理念のあらゆる領域に亘って顕在化しつつあると言えましょう。そのような時,人知の赴く所として,まずは時間軸を遡って,過去に積み上げられた叡智に耳を傾けるというのは,極めて当然の所為というべきであります。江戸時代は近代人にとっての直近の過去でありますと共に,300年の平和はそれ迄の日本文化を成熟させるのに充分な時間を提供出来ました。平成の現在,これ迄最も否定し続けてきたからこそ,その江戸の生活と智恵の中に,急ぎすぎた近代の負の部分をより良い方向へ向ける為の,何らかのヒントを探ろうと図るのは,自然の成り行きでありましょう。昨今の江戸ブームは,その確かな現れの一つであるべきと信じたく思う次第です。

3 江戸に何を求め得るか

昨今の江戸ブームが,何がしかでも前述の要請を受けたものであるとするならば,それは戦後日本のように,江戸の中の近代探しに終始するのではなく,逆に近代が江戸の中に見落し,見忘れてきたものがないかどうかを的確に認識することこそが,最も意義あることになる筈と思います。何はともあれ,江戸を近代の側からだけではなく,ひとまず江戸に即した見方で見渡してみることが最も必要なことでしょう。その場合,江戸は近代とは違うのだという理解をベースにして,その違いを徹底的に求め,その中に近代の歪みを是正するヒントを探るべきと信じます。それは当然,全方位的に行われるべきでしょうが,江戸文化研究のみを事としてきた私などの極めて狭い知見からすれば,江戸に即した文化の総体は,まずは「()」と「俗」の二大範疇に分けるべきかと思います。「雅」の文化とは伝統的な文化領域であり,対する「俗」の文化とは江戸時代に始まった新興の文化領域であります。そしてその総体が江戸時代の現代文化そのものであります。「雅」の文化をハイ・カルチャー,「俗」の文化をサブ・カルチャーと称しても,それほど見当違いとは言えないと思います。そして江戸の文化人の間では「雅」を上位に置き,「俗」を下位に置くことは,300年を通じて全く変わりませんでした。即ち「雅」の文化こそがメイン・カルチャーとして位置づけられていたのです。

「雅」の文化の特質を一言を以てすれば「品格」と言えましょう。「俗」はよい意味での「人間味」とも言えるかもしれません。そして最も江戸的な文化の味わいと言えば,この「雅」と「俗」との互いの特性を活かしつつも,それぞれの領域において渾然と融和した姿を見せるものといえましょう。江戸時代の中にその融和した姿を求めるとすれば,私は18世紀の成果の中にこそ求め得るように思いますが,その説明にはかなりな時間を要しますので,ここではその指摘だけにとどめます。

江戸時代は日本の長い歴史の中でも,珍しく戦いの無い,極めて平和な300年を保つことが出来ました。その結果,芸術と思想の両面に於いて,それ迄の伝統を十分に練り上げ,立派に日本的な文化として育成することが出来ました。一方でその平和と文化は庶民の階層にも十分に浸透して庶民独特の文化を成熟させることにも成功しました。それによって雅俗2層の文化が出来上がったのです。

従来の近代主義的江戸理解,特に昭和戦後のそれは,右に述べた「俗」の文化領域だけを専ら取り出して,それのみを江戸文化として評価した結果であったことは,言う迄もありません。

それは,近代の精神が,果実を求めることのみに急ぎすぎた結果として,バランスを失い,「俗」即ち庶民性のみに最大の価値を見出そうとしたからに他なりません。その近代に大きな歪みが意識され始めた今日,メイン・カルチャーの存在様態を真剣に再考することの必要性は極めて大きいのではないでしょうか。「雅」の文化は何時の時代でも倫理性を中心に置くことによって,それだけで存在することも出来ましょうが,「俗」の文化はそのような「雅」の文化を基本とし,それに裏打ちされてこそ成り立つものと思います。江戸の文化はその見極めをしっかりと見定めることによって成り立っていました。近代文化の真の成熟を図るには,その視点を持つことこそ,第一に考えられるべきでありましょう。

4 その為の最大の問題点

私は近年,大きな危惧を抱いております。

近代以前は音声メディアも映像メディアもなく,文字及び画像メディアしかありませんでした。即ち江戸を江戸に即してみる為には,その大部分を書物と絵画に依るしかないのです。その点,江戸は当時に於いて,恐らく世界一の書物文化を形成しておりました。支配層から被支配層に及んで,形而上から形而下までのあらゆるものが書物に定着しました。そしてその基本は言う迄もなく草書体の漢字と変体仮名と称する,所謂〝くずし字〟を以て表現されています。これは明治33年の小学校令施行規則の第一号表において,仮名文字が現在行われているような一音一字に限定されるまで続きました。ということは,それ迄の全ての書物は〝くずし字〟を主体として表現されているのです。その〝くずし字〟を読む能力の保有者が,今や恐らく江戸文化研究者や古典研究者を中心として,僅か3千人から5千人という現状に立ち至っているのです。これはとりも直さず,日本人の9割9分9厘までが,明治33年以前の文献には直接遡り得ないということを意味します。無論,1音1字の法令のもたらしたメリットは図り知れぬほどのものがありましょう。しかしその結果,今日では殆どの日本人が明治33年以前の古文献を読むためには,活字に頼るしかないようになったのです。では,その活字化はどれほど進んだのでしょうか。管見の限り,明治以前の古文献の数は大凡100万点から150万点(「国書総目録」による推計)と考えられ,その大半は江戸期のものと思われますが,活字化はこれまたある種の選択による大凡1万点から2万点の間かと思います。つまり現代日本の知識人は,近代の歪みを是正する為に必要な筈の先人の叡智を,僅か1%から2%ほどしか利用出来ない所まできてしまっているのです。これほど勿体ないことを私は他に思いつきません。

明治以来,我が国の学問は,人文・社会・自然の全てにおいて,欧米学を基本とする型にシフトされました。当然その基礎言語は欧米諸言語となり,その限りにおいて,くずし字の読解力は無用の物と考えられるようになりました。今後ますますグローバル化が進捗する状況のもと,この傾向は猶一層の拍車がかかるものと思われます。無論,欧米化やグローバル化によるメリットや,その必然性は十二分に承知する所ではありますが,やはり文化の継承と成熟は時間軸上と空間上との二方向に支えられてこそ,その正しい姿が期待出来るように思います。現状は空間上の進展(それはまさしく所謂グローバル化の結果でありましょう)には十分な結果も見出だせましょうが,時間軸上のそれは,殆どの日本人にとって,このままでは残念ながら明治33年以前には及び得ません。右の二方向のバランスこそが,真の国際人の育成には,何より大切なことかと存じます。

5 おわりに

しかし,その是正は,今ならまだ簡単なことではないでしょうか。明治33年のベクトルを逆に向けて,手始めに初等教育の段階で,くずし字と,それを用いた「和本」の存在に気付かせておくだけで十分であろうと思います。無論,教える教師側には,その素養は要求されて当然でありましょう。以後はその中の何割かが,日本の古典の存在意義に目覚めるきっかけを与えられ続けることによって,そうした社会環境が整えられ続ければ,30年後には立派に国際人としても通用する日本人が育つことでしょう。30年の歳月は,その為の時間と考えれば決して長すぎることはないものと確信致します次第です。

こうした江戸文化全般の在り方を,現代の吾々との関係の上で考えるというテーマは,残念ながらこれまで,表立った所で論じられる機会は殆どなかったのが実情であったように思いますので,こうした機会をお与え頂いたことは,何よりも有り難いことと存じます。


制度の設計と実装-制度を変数とする経済学の誕生と発展-
早稲田大学政治経済学術院特任教授
一橋大学名誉教授
日本学士院会員
鈴村 興太郎

多数の経済主体が構成する複雑な社会では,稀少資源を配分する経済的な選択や,国民の意思を集約する政治的な選択は,特定の手続き的ルールを表現する制度に基づいて遂行されています。例えば自由な市場社会では,財・サービスの生産と分配に関する経済的な選択は競争市場で形成される価格シグナルに誘導されて,分権的に実行されています。競争市場に機能障害が発生しなければ,この制度が実現する資源配分は,誰かの満足を改善すれば,他の誰かの満足を改悪する他はないという意味で,効率的な帰結に導きます。また,民主的な政治的選択は,単純多数決原理に根差す投票制度によって実行されるのが通則です。フランス革命時代の思想家・数学者コンドルセが発見した投票の逆説が発生して,単純多数決原理が最善の選択肢を決定できない事態が発生しなければ,この制度による政治的選択は人々を差別なく処遇して,社会的選択肢も中立的に取り扱うなど,優れた性能を示す手続きであり,民主的な政治的手続きの理念型として広く認知されています。これに対して,経済的選択でも政治的選択でも,特権を持つ少数者が社会的決定を支配する制度とか,人々の意思とは独立に伝統や慣習に決定が委ねられる制度など,国民の民主的処遇や個人的権利の尊重の観点から問題含みの制度が現存したことも事実です。

それぞれの経済社会には,それに固有の制度が備わっています。そのため,異質的な社会が競争的に共存する状況とは,社会的選択の制度間競争が行われる状況に他ならないと考えられます。この理解方法によれば,社会的選択の手続き的ルールを具体化する制度は異質的な社会の有効な競争手段に他ならず,新たな設計の対象となるとか,異なる社会の成功から学習して移植すべき変数であるという認識が,自然に浮上してきます。この発想を自覚的に追求する経済学の研究分野こそ,社会的選択の理論なのです。

制度を変数とする経済学の誕生は,1917年に勃発したロシア革命が社会主義的な計画経済制度を歴史上初めて登場させて,市場制度に代替的選択肢を提供したという事実と,密接に関連しています。また,1929年にニューヨーク証券取引所で発生した株価暴落に発端する世界大不況により,競争市場の効率的な機能への信頼感が大きく揺らいだことも,制度は一定不変な存在ではなく,設計と選択の対象とされる変数であるという認識を普及させる役割を果たしました。この新たな経済学の誕生を象徴する論争こそ,1930年代にフリードリッヒ・ハイエクとオスカー・ランゲを両陣営の代表的論客として戦われた経済計画論争でした。

振り返ってみると,自覚的な設計や改革の対象として制度を考えるという観点は,プラトンの『国家』を嚆矢として,ユートピア社会主義者達が立脚してきたものでありまして,制度を変数とする経済学の歴史的な起源は経済計画論争よりはるかに古いことは確実です。しかし,この論争に参加した経済学者達は,現存する制度の代替的な選択肢として社会主義的な計画経済制度の設計図を明示的に描いて,その作動可能性を論理的に追究する枠組を発展させるという重要な足跡を残しました。この論争の到達点として,生産手段の社会的所有に基づく計画経済制度では合理的な経済計算は不可能であると主張したハイエクは,制度を変数とする経済学の関心と論理を簡潔に素描した先駆者として,経済学史に大きな足跡を残しています。

経済計画論争の先駆的な貢献を踏まえて,制度を変数とする現代経済学の基礎を構築する作業は,1950年代初頭から1970年代に到って展開されたケネス・アローとアマルティア・センの研究,1960年代初頭から1980年代にわたるレオニード・ハーヴィッツとエリック・マスキンの研究によって,本格的に推進されました。

アロー=センの研究は,社会を構成する個人が社会状態の善し悪しに関して表明する選好判断に基づいて,社会的な選好判断を形成する手続き的ルールを設計する可能性を尋ねるものでした。また,社会的選択の実装理論と称されるハーヴィッツ=マスキンの研究は,社会を構成する人々の選好のような私的情報が分散して所有され,集中管理が可能な形では誰も把握していない状況で,社会全体の目標を達成するために分散した私的情報を活用する制度を設計して,実装する可能性を尋ねるものでした。これら2つのアプローチを両翼に持つ社会的選択理論は,ハイエク=ランゲの経済計画論争を継承して制度の経済分析の現代的基礎を提供しています。

アロー=センの場合もハーヴィッツ=マスキンの場合も,彼らが追究した問題に正確に答えるためには設計対象となるルールに最小限度の要請を課す必要があります。設計される手続き的ルールがこれらの要請を満足する場合,そしてその場合にのみ,ルールを社会的な選択対象として検討する資格が認められることになるのです。アロー=センとハーヴィッツ=マスキンは,彼らが導入した最小限度の要請を満足するルールは論理的にあり得ないことを論証して,制度を変数とする経済学の進路を阻む障壁を白日の下に晒したのです。

例えばアロー=センは,個人的選好判断のプロファイルを社会的選好判断に集約する手続き的ルールに対して,4つの基本的な要請を課しました。第一の要請は,論理的に整合的であるかぎり,どんな選好判断でも表明する権利が,個人に対して認められることです。第二の要請は,全個人が一致して表明する選好判断は,そのまま社会的な選好判断に反映されることです。第三の要請は,個人的な選好判断を社会的な選好判断に集約するルールは,集約過程で必要とされる情報を最大限度に節約するという意味で,効率性を持つべきだということです。第四の公理は,ある個人の選好判断が社会的な選好判断となる独裁的なルールは,正統性を持つ手続きとは認めないということです。アロー=センは,個々には説得的な4つの要請を,全部満足するルールは論理的に存在しないことを証明しました。そのうえ彼らは,この罠を脱出する可能性を発見する作業に踏み込んで,重要な功績を挙げました。私自身が推進してきた研究の第一の焦点は,アロー=セン定理の構造を突き詰めて,可能性と不可能性の分岐点を論理的に明らかにすることに絞られています。詳細に関しては,余りに専門性が高いため,この場では割愛させていただきます。

アロー=センおよびハーヴィッツ=マスキンが樹立した定理は,表面的には否定的・消極的に響きます。しかし,踏み込むことが不可能な領域が明示化されたからこそ,危険な泥沼を回避して,実り多い手続きを設計する余地を発見する建設的な課題が,自然に浮上してくるのです。この課題に応える過程では,社会的手続きを実装する制度が的確に機能する条件が精密に解明されて,制度の実装可能性とその実践的な限界への理解が大きく改善されました。しかも,求める前提条件は理論家の空想の産物ではなく,人々を結ぶ共感の絆,ひとが選択を行う《機会》の豊かさ,選択を行う《手続き》の衡平性など,直観的に理解可能な要因と関わっていることが,徐々に明らかにされつつあります。私が推進した研究の第二の焦点は,アロー=セン理論の情報的な枠組みを拡張して,不可能性を可能性に転換する方法を発見する試みに絞られています。

近年の社会的選択理論は,経済計画論争以来の壮大な制度設計の構想を克服して,周波数のオークション,病院と研修医とのマッチング,公立学校における学校選択制度など,具体的で部分的な制度設計の問題にも応用され,その適用範囲は大きな広がりを持ち始めました。

厚生経済学の創始者アーサー・ピグーは,経済学のこの分野は経済制度の機能に理解の《光》をあてるのみならず,人間生活の改善の道具を鍛えるという《果実》の期待にも応える任務を持つと言いました。社会的選択理論は,制度を変数とする経済学に理解の光をあてるに留まらず,社会が実装可能な制度の選択肢を充実させ,人間生活を改善する果実の期待に積極的に応えることにも貢献を開始しています。2012年のノーベル経済学賞はアルヴィン・ロスとロイド・シャプレーの両教授に授与されていますが,その授賞理由はマッチング理論およびマーケット・デザインの理論の展開でした。遡っていえば,創設期の社会的選択理論の創造と展開に貢献したハイエク,アロー,セン,ハーヴィッツ,マスキンもノーベル経済学賞の受賞者なのであります。

経済制度を変数と考える経済学は,近代日本の経済発展の歴史とも,決して無縁ではありません。明治維新直後の近代日本の出発点において,また第二次大戦直後の戦後経済改革の時代にも,その当時にアクセス可能だった選択肢のなかで賢明な経済制度を選択して実装する工夫を凝らして,近代日本は経済発展の創造的な軌道を敷いてきました。ただ,明治維新と戦後経済改革の時代には挫折した制度を置き換えるための選択肢は,欧米の経済社会の現実のうちに,その雛形がありました。現代日本が直面する制度設計の問題では,単に欧米モデルの模倣と移植で事足りるようには思われないことこそ,新鮮な挑戦となっているのです。

現代日本の経済制度には,現在さまざまな揺らぎと亀裂が露呈されています。それだけに,制度を変数とする経済学が蓄積してきた学術の知を有効に活用しつつ,現代日本が直面する複合危機の克服に貢献できる経済制度の新たな設計と実装に取り組むことは,まさに焦眉の急であるというべきです。


植物が多様な性質の子孫を作る仕組み-自家不和合性-
奈良先端科学技術大学院大学長
磯貝 彰

生き物が種として生き続けていくためには,子孫を残し続けていくことが必要であります。動物では遙かギリシャの昔から,オスとメスとの間の受精によって,つまり有性生殖によって子孫をつくることが知られておりました。しかし,植物で,雄しべや雌しべが生殖器官であり,動物と同じように,それらが受精することによって子孫をつくる有性生殖を行っていることが知られるようになったのは,実は,17世紀の末から18世紀にかけてのことであります。こうした雄しべや雌しべの機能の発見は,生物の系統的分類法を考案したリンネの若い時代に大きな影響を及ぼしたといわれています。

さて,有性生殖の意義については色々な議論があるところですが,その結果として,遺伝的に多様な性質を持つ子孫を作り,種全体としての環境適応性を高めて,種の繁栄に貢献してきたと考えられています。しかし,こうした有性生殖の効用を実現するためには,両親の遺伝子型が異なったものであることが必要です。動物では雄の個体と雌の個体が分離しているということで,両親の遺伝子型が異なることが保障されています。一方,植物で見てみますと,雄株と雌株があるものや雄花と雌花があるというものもあります。しかしこうした植物の種類は数が少なく,高等植物の多くは,1つの花の中に雄しべと雌しべの両方がある両性花と呼ばれるものとなっています。この花の場合には,自分の花の花粉と雌しべの間で受精しやすく思われます。ところが,もし自家受精をしてしまいますと,両親の遺伝子型は同じであることから,多様な性質の子孫は生まれてこない,ということになってしまいます。しかし,両性花を持つ植物の多くは,自分の花粉では受精できずに,他の個体の花粉が雌しべについたときに,初めて受精が成立して種子が出来るという性質を持っています。この性質を自家不和合性と呼び,それによって,子孫の遺伝的多様性が生み出されています。本日は,こうした植物のもつ不思議な能力とその研究の歴史についてお話ししたいと思います。

自家不和合性という現象はすでに,250年ほど前に発見されていましたが,この現象を有名にしたのが,進化論で有名なチャールス・ダーウィンでした。ダーウィンは自家不和合性について2冊の本を出版していますが,最初の本ではサクラソウの自家不和合性について紹介し,「(雌しべが自分の花粉を見分けるという)この現象は私がかつて観察した中でもっとも驚くべき事実である」と述べています。そしてさらに,11年にわたって数十種の植物について交配実験を行い,その結果を「植物界における他家受精及び自家受精の効果」という1876年に発行した著書で報告しています。その中でダーウィンは「最初のもっとも重要な結論は,一般に他家受精は有益であり,自家受精は有害であるということだ」と述べています。

では,自家不和合性の植物はどのようにして自家受精を避けているのでしょうか。そこには雄しべと雌しべとの間で自分がわかるという機構があるはずです。このテーマはたいへん興味深いこととして,ダーウィン後も多くの生物学者が採り上げてきました。そして,メンデルの遺伝の法則が再発見された以降,多くの遺伝学的な研究が行われました。その結果,花粉と雌しべが互いに遺伝学的には自分同士であることは,染色体上のS遺伝子座という場所にある遺伝子群によって決定されていることが分かってきました。そして,それらの遺伝子群は花粉と雌しべの因子であって,それら2つの因子の相互作用によって自他識別反応が起きると考えられました。このS遺伝子座には複数のいわゆる対立遺伝子があって,それらはS1,S2というように番号で区別されています。そして花粉と雌しべでそのS遺伝子座の番号が同じであると,それぞれが互いに自分同士であるとして受精できないと理解されてきました。しかし,この自分が分かるという機構に関わる花粉や雌しべの因子の化学的実体が,一体どんなものなのかは長い間の謎でした。

こうしたことにアブラナを使って日本で最初に挑戦したのが,東北大学農学部の日向康吉教授でした。日向先生は,まず,雌しべで,それぞれのS遺伝子型に特異的に存在する蛋白質を見つけようとしました。そして先生は,1970年代の終わりに,電気泳動という実験手法で,このS遺伝子の産物と考えられる蛋白質を見つけ,これをS糖蛋白質と名づけました。当時,植物の遺伝子やゲノムはまだその実体は見えないものでしたが,日向先生は,それを電気泳動上のバンドとして見えるものに変換することに成功したわけで,画期的な成果であったと思っています。

私は,当時東京大学農学部で生理活性物質の化学的研究をしておりましたが,縁あって日向先生と1980年代半ばから共同研究をすることになりました。

S糖蛋白質の構造を明らかにするためには,まず,アブラナの雌しべを大量に集めることが必要でした。毎年春先,アブラナを大量に育て,毎日花を集め,そこから雌しべを取り出すという作業を一月もしたことを憶えています。そうして集めた数万個の雌しべから,このS糖蛋白質を精製して構造を明らかにしました。1987年のことでした。この研究が重要な手がかりとなって,アメリカのグループが,S糖蛋白質と良く似た蛋白質をアンテナとして持つような受容体蛋白質を見つけ,それをS受容体キナーゼ(SRK)と名づけて1991年に報告しました。しかし,当時まだ,この蛋白質が雌しべの因子そのものであることを直接証明することは大変難しい問題でした。そうした中,私たちは,この遺伝子をアブラナに入れて働かせることに永年かかって成功し,この蛋白質が雌しべの因子の本体であることを証明することが出来ました。2000年の頃のことです。ここまで,日向先生が初めてS糖蛋白質の報告をされてから20年もかかりました。ダーウィンの頃から見れば120年もたっています。

雌しべの因子に続いての課題は,花粉の因子を見つけることでした。私が奈良先端科学技術大学院大学に移ったのはその頃のことで,そこで私たちは分子生物学や生化学の色々な手法を使った実験を広範囲に行い,花粉因子の候補としてSP11という小型の蛋白質を見つけました。そして自分の花粉の場合にだけ,SP11が雌しべの受容体であるSRKのアンテナ部分と,鍵と鍵穴のような関係で結合することで,雌しべはその花粉を自分だと認識して,その発芽を抑制するということを明らかにしました。これでようやく,アブラナの自家不和合性の自他識別機構の本質が理解されたわけであります。2001年のことでした。

また,私たちはこの研究の過程で,メンデルの優劣の法則について新しい例を示すことが出来ました。メンデルの3つの遺伝の法則のうち,分離の法則や独立の法則は,遺伝子というものの実態が明らかになった以降,分子レベルで説明することが出来るようになりました。しかし,優劣の法則についてのこれまでの多くの例は,遺伝子から作られる蛋白質の機能の違いによる優劣性で,他の2つの法則に比べると,その分子基盤は曖昧なまま残されていました。こうしたなか,私たちはアブラナの自家不和合性で,花粉因子に優劣性があることを発見し,その機構として,優性の遺伝子が劣性の遺伝子の読み出しを,DNAのメチル化という方法で抑制しているという,新たな優劣性の仕組みを発見しました。植物の育種の世界では,雑種強勢という,子が両親のどちらよりも優れた性質を持つという重要な現象が知られていますが,今回見つけた優劣性の機構は,この雑種強勢という性質の解明につながるかもしれないと期待されています。

実は,自家不和合性の機構は1つではなく,いくつかのタイプがあることが永年の研究から分かってきています。アブラナと並んで良く知られているもうひとつの例として,バラ科やナス科の植物に見られる自家不和合性の現象があります。春先,リンゴやナシの果樹園で,花に花粉をかけている風景が良く報道されます。こうしたリンゴやナシなどのバラ科の果樹も自家不和合性の植物で,接ぎ木や挿し木で増やされています。そのため,同一品種の果樹は遺伝学的にはすべてクローンつまり自分であり,みな同じS遺伝子を持っていて,その品種単独の果樹園では決して実はなりません。そこで農家は別の品種の木から花粉を集めて花にかけているわけです。そのために,20世紀のナシの実の中にある種を蒔いても,20世紀のナシの木は育ってこないということになります。

こうしたバラ科やナス科の植物の場合には,雌しべの因子はS-RNaseと呼ばれるRNA(リボ核酸)を分解する酵素であることが,1990年代の始めに,オーストラリアのグループと大阪大学蛋白質研究所の崎山文夫教授との共同研究によって明らかになりました。RNaseというのは細胞が,侵入してくる外来の生物のRNAを分解して自分の身を守るためのものですが,自家不和合性の現象では,雌しべのS-RNaseが自分の花粉のRNAを分解することで,自家受精を避けているということが分かってきました。そして,花粉の因子については,10年ほど前に,いくつかのグループによってSLFと呼ばれる小さな蛋白質であることが明らかにされました。しかし,他家受粉の場合に,花粉のRNAがなぜ雌しべのS-RNaseによって分解されず,受精が成立するのかは謎のままでした。最近,私たちは,この型の自家不和合性では,花粉は数種類のSLF蛋白質を持っており,他家受粉の場合には,それらのSLFが協力しあい自分以外の全ての雌しべのS-RNaseを分解してしまうことによって,その花粉のRNAは分解されずに受精が成立するという事を明らかにしました。こうしてようやく,バラ科やナス科の自家不和合性での自他識別機構の本質が明らかになりました。なお,この例に見られるように植物が外部からの異物に対する防御システムとして複数の蛋白質を用意するというのは,動物の抗体に近い概念であるとも考えられ,比較生物学の立場から興味深い点であります。

本日は植物が多様な遺伝子型の子孫を作る仕組みとして,アブラナと,バラ科やナス科の植物の自家不和合性についてお話ししてきました。

こうした自家不和合性という性質以外にも,植物には昔から知られている興味深く,かつ,私たちにとっても重要な現象が沢山あります。地球のいのちが植物のみどりによって支えられていることを考えると,植物の生き方の理解は今後ますます必要になってくると思われます。日本の植物科学研究者はこれまで,植物の持つこうした不思議な力の解明に大きく貢献してきました。これからも後に続く研究者たちが,駅伝のようにたすきをつなぎながら研究をすすめていってくれることを期待しています。そしてその延長上に,きっと,地球や人類の未来を守るために,植物の力をいっそう生かしていく方法が見つかってくるものと思っています。