2008年サラゴサ国際博覧会「水の論壇」シンポジウムにおける皇太子殿下特別講演

平成20年7月21日(月)
スペイン・サラゴサ市
水の論壇(ウォーター・トリビューン)パビリオン

水との共存-人々の知恵と工夫-

1 風車と水車

(1)風車のある風景

<ドン・キホーテと風車>

スペインの生んだ偉大な作家セルバンテスによる『ドン・キホーテ』は,日本でも大変人気が高い作品です。とりわけ,従者サンチョ・パンサを引き連れた最初の冒険で,ドン・キホーテが「長い腕を持つ巨人」に勇猛果敢に挑み掛かる場面はよく知られており,いつの時代も子どもたちの好奇心をかき立ててくれます(図1)

でも実際は,この巨人は,サンチョ・パンサが忠告したとおり,風に回されて石臼を動かす風車でした。ドン・キホーテは,やせ馬のロシナンテともども全速力で突撃しますが,一陣の風が翼を激しい勢いで回転させたものですからひとたまりもありません。たちまち翼にさらわれて反対側に放り出され,野原にころがってしまいました。

今回の訪問で,私もラ・マンチャの丘に並ぶ風車を見てきました。もはやかつての役目を終えた白い風車の一群は,強い日差しが照りつける赤土の大地にひっそりと立ち並ぶばかりでしたが,よくよく見ると,その翼は巨人の腕にも思えてくるような気がし,これらの風車が,セルバンテスの生きた時代に活躍する姿が瞼に浮かぶのを感じました。

<オランダの風車>

風車といえば,本日のシンポジウムを共催している国連「水と衛生に関する諮問委員会」の議長であるアレキサンダー皇太子殿下の国オランダも有名です(図2)。オランダでは,風車は人と水との闘いの象徴とも言えるものです。国土の4分の1が海面よりも低いオランダでは,国土の確保や拡大に当たって風車はなくてはならないものでした。網の目のように張り巡らされた運河に干拓地から排水するため,各地で風車が大活躍したのです。

この写真は,ハーグ近郊のライチェンダムにある三連風車です。少し分かりにくいかも知れませんが,よく見ると,水面が土地よりも高くなっているのがお分かりいただけるかと思います。オランダでは,一年を通して北海から風が吹き込みます。人々は,こうした風を利用して水と闘うことにより,国土を築いてきたのです。

(2)水車の役割

<スペインの水車>

スペインでは,風車と同様,水車もまた脱穀や製粉に使われてきました。再び『ドン・キホーテ』に戻りましょう。小船に乗ったドン・キホーテは,今度はエブロ川の粉ひき水車を王妃や騎士たちが監禁された「都市か城か砦」と思い込んでしまい,これまた無謀にも挑みかかっては二度も川底に引き込まれ,居合わせた粉ひきたちに,ぬれ鼠になって陸に引き上げられます(図3)。ここでは,水車の引き寄せる激しい流れの中に今にも巻き込まれようとする小船の様子が生き生きと描かれています。ドン・キホーテの無鉄砲さを笑うと同時に,水の力強さや怖さを改めて実感する場面です。

この写真を御覧ください。これは,以前トレドを訪れた際に写したものです(図4)。ここには直接写っていませんが,中央に見えるアルカサルの崖下,アルカンタラ橋のたもとに,タホ川の水を100メートル上の街までくみ上げるため,幾つもの水車を巧みに組み合わせて造られた巨大な施設の跡が今でも残っています。16世紀にイタリアから来た時計技術者で数学者のフアネロ・トゥリアーノが考案したものと伺いました。その模型は,現在,万博会場内のカスティーリャ・ラ・マンチャ館に展示されています(図5)

トレドの人々は,それまで,必要な水を,雨水を溜めたり,川からロバで運んだりして確保するしかありませんでした。残念ながら,今となっては詳細が分からない部分もあるようですが,ここでも生きていくために水の力を利用しようとする人間の知恵を感じることができるように思われます。

<日本の水車>

日本でも水車は様々な役割を果たして来ました。その歴史は古く,720年に編纂された日本で最初の歴史書,『日本書紀』の推古天皇18年(610年)春3月の条に,「碾磑(みずうす)を造る。蓋し碾磑を造ること,この時に始まれるか」と記載されています(図6)。この「碾磑」は水力を利用した臼のことで,高句麗王から差し遣わされた僧・曇徴がその技術を伝えたと言われています。

また,平安時代の「令義解」(833年)によってその姿が伝えられる「養老令」(718年)の雑令(ぞうりょう)にも「碾磑」の定めが見られます。この定めは灌漑についてのものであり,「碾磑」とは水車を指すものとされています。律令国家をつくるに当たって,唐の制度も取り入れているのですが,動力源としての水車の利用を奨励しようとしたのでしょうか。しかし,この時代にどの程度,水車が実用化されていたのかはよく分かっていません。

時代が下って鎌倉時代の終わり,14世紀初め頃に作成されたと考えられる「石山寺縁起絵巻」には,水車により田に水を引き入れる様子が描かれています(図7)。絵の中の橋は,日本三古橋の一つ,宇治橋とされています。日本最大の湖,琵琶湖から流れ出る川は,初めは瀬田川と呼ばれ,途中で宇治川と名を変えて京都の南部を通り,やがて淀川となって大阪湾に注ぎ込みますが,いずれも古くから歴史に登場する川です。中でも宇治川の水車は,中世以降,様々な絵画や文献に登場します。主に貴族や大社寺によって設置されたものと考えられますが,この時代になると,日本でも相当,水車が普及していたことを裏付けています。

江戸時代の18世紀終わり頃になると,朝倉の水車群(現在の福岡県朝倉市)が動き出しました。これはそのうちの一つ,菱野(ひしの)の三連水車です(図8)。直径5mの木製の水車が三つ連なり,力強く水をくみ上げています。干ばつにあえぐこの地方で新田開発を行うため,当時の灌漑技術を結集して造られたと言われています。200年以上経った今もなお,現役の水車として付近の水田に水を送り続けています。

(3)現代の風力と水力利用

このように,風と水は,蒸気機関が一般化するまでは,貴重なエネルギー源として大きな役割を果たしてきました。では,現代の私たちは,こうした風と水の利用の歴史をどのようにとらえるべきでしょうか。

風力発電は,発電量で見るとまだ少ないものの,その設備容量は世界で年25パーセントを超える率で増加しています。『ドン・キホーテ』に描かれた風車の伝統が現代に生きているのでしょうか,スペインの風力発電は,ドイツなどとともに世界有数の規模を誇り,今でも年30パーセントを超えて増加しています(図9)

一方,水力発電の量は,世界全体で見れば原子力発電の量とほぼ同量となっています。日本の水力発電量は,2006年で約900億キロワットアワーと,全体の10パーセント近くを占めています。歴史と風土によって培われた伝統が現在にも及んでいる例がここにも見られるようです(図10)

エネルギー問題は,世界人口の増加や地球温暖化問題を始めとする様々な問題との関連の中で,「持続可能な開発」を実現するため,人類が一丸となって取り組むべき課題の一つです。もちろん,その答を出すのは,この講演の目的ではありません。これからも長期的な視野に立った総合的な施策を模索していくことが肝要です。しかし,これまで述べたように,風や水という自然のエネルギーを利用するために先人がたどった知恵と工夫の歴史を思い起こしながら,新たな視点で時代に適合した技術を開発していくことは,人類の未来にとって大きな意味があると思われるのです。

2 水に関する様々な情景-ヨーロッパでの思い出-

これまで私は何度かヨーロッパを訪れましたが,その中には水を巡る旅もありました。ここでは,今も心に残るいくつかの情景を紹介したいと思います。

(1)ローマ水道橋(スペイン セゴビア)

古代ローマ時代,ヨーロッパ各地では,近代的な水道に引けを取らない水道施設が整備されました。スペインでも各地にその遺構が残されています。中でも,1世紀後半から2世紀初めに造られたと言われるセゴビアの水道橋は日本でも知られています(図11)。私がここを訪れたのは1985年の夏のことでした。街中にそびえ立つ偉容に,当時のローマ人が水に対して抱いた思いの強さを肌で感じるとともに,安定した水の供給を長期的視野に立って実現させたローマ人の構想力の大きさに感銘を覚えたのを記憶しています。

古代ローマでは各都市に公衆浴場が造られ,水道施設から“流れる水”が大量に配られました。兵士や庶民など様々な人々がこの浴場に集って水を楽しむ姿は,ローマの市民生活を端的に物語るものと言えるのではないでしょうか。ふんだんに流れる水は,また,下水道を十分に機能させ,都市全体の衛生を保つ上でも大きな役割を果たしたようです。

(2)水の宮殿(スペイン アルハンブラ宮殿)

もう30年以上前のことになりますが,高校生の時にアルハンブラ宮殿を訪れたことがあります。グラナダの街を見下ろす丘に築かれた宮殿の華麗な姿も印象的でしたが(図12),私が何よりもそこで感じたのは,イスラム文明の水に対する強い思いです。離宮ヘネラリーフェでは,周囲に水が十分にあるとは思えない中にありながら,天国を想定した水の庭園が目の前に次々と展開し,深い感銘を覚えました(図13)。そして,夜の帳に包まれ,静寂の訪れた王宮のライオンのパティオ(獅子の中庭)の泉からしたたり落ちる水の音は今でも耳に残っています。

厳しい乾燥地域で生み出されたイスラム文明とキリスト文明,それが渾然と溶け合ったアルハンブラ宮殿で耳にした水の音は,人と水との精神的な結びつきを改めて考えさせてくれるように思えてなりません。

(3)下水道の不思議な球体(フランス パリ)

パリでは巨大な下水道管の中に設けられた下水道博物館を訪ねました。そこで不思議な球体を目にしたのです(図14)。尋ねてみると,セーヌ川の下をくぐって渡る大口径の管路を掃除するためのボールだとのことでした。木製で,管路の直径より少しだけ小さく造られています。それを管路に流し込むと,サイフォンの水圧でボールは壁面を摺りながら流れ,ボールと壁面の隙間からは水流が噴出します。この水が管路に溜まった土砂や汚物を洗い流してくれると言うのです。

訪問記念に頂いたその球体の模型を,私は長い間部屋に飾っておきました。眺めるたびに,古くから都市の衛生を保つため不可欠な社会資本として下水道網を築き上げ,それを大切に維持してきたパリの人々の知恵と努力を思い返しました。

3 日本人と水-日本における「治水」-

私たち日本人の祖先も,日本という国をつくり上げる中で,常に水と共にありました。現代の日本語で「治水」と言えば,洪水や土砂災害から人々の生命や財産を守るために行う,水の持つ危険性の制御といった意味合いが強いのですが,元来は,水を資源として利用するための工夫も含まれているように思えます。日本人もまた,この「治水」に努力し続けた結果,はじめて国の基礎を築くことができたのです。

日本では,水に関する事業の多くは,地方の有力者を始め,地域に暮らす人々によって行われてきました。だからこそ,地域の人々に慈しまれ,大切に保全されたりしながら,今なお現役で働いている施設が多く見られるのです。

もうお出でになった方もおられると思いますが,今回の博覧会の日本館は,今から約200年前の江戸(現在の東京)を再現する船旅から始まります。そこで,次に,江戸時代を中心に,日本人と水とのかかわりについてお話してみたいと思います。

(1)地域開発のための「治水」(佐賀県 石井樋)

17世紀初頭に始まる江戸時代は,その前の戦国時代にも増して,江戸幕府や地域の行政単位である藩の奨励による新田開発が盛んに行われた時代でした。

これは,日本の南部にある九州の佐賀平野です(図15)。佐賀平野は,背後に急峻な山地を抱えているため,大雨が降るたびに洪水が襲い,日照りが続くと水不足に悩まされるという極めて厳しい水環境の下にありました。この事態を改善するため,今から約400年前に佐賀藩家老・成富兵庫茂安(なりどみひょうごしげやす)が築造したのが石井樋です。この石井樋によって,嘉瀬川から多布施川へ水を分流して,佐賀の城下へ農業用水と生活用水を供給できるようにしたのです(図16)

石井樋にも様々な工夫が凝らされています。まずは嘉瀬川の流れを弱め(図17),更には緩やかに逆流させながら多布施川に引き込めるよう,嘉瀬川に大井手戸立(堰)を設けるとともに,石造りの島や「水制」(これは,河岸から川の中央に向かって突き出した構造物を意味する言葉ですが,)を絶妙な形で配置しています。その結果,川の水に含まれる土砂は沈殿し,きれいな水だけが佐賀城下に導水されるようになりました。このため,佐賀の人達は明治時代になっても川の水をそのまま飲むことができたのです。

川の中に島や水制を設置すると洪水時の水の流下を妨げてしまいます。この問題を解決するため,堤防を二重にし,その間を遊水池にする知恵も働かせています。更には,遊水池に竹を植えて,洪水の勢いを弱めたり,石や流木が流れて行くのをくい止めるといった工夫もしています。一般に,治水と利水を両立させることは容易ではないのですが,ここではこの二つの機能を同時に高めるという難しい課題を見事に解決しています。

この石井樋は,1960年に新たな取水施設ができるまでの約350年間,水害や水不足から佐賀平野を守ってきました。現在日本に残っている取水堰としては古いもので,歴史的な価値も高いため,詳細な発掘調査を行った上で3年前に復元されました。その結果,石井樋の本来の姿が明らかになったわけです。当時は河川工学という言葉こそありませんでしたが,地域の特性を踏まえた人々の知恵と技術が存分に発揮されていたのです。

(2)空を渡るサイフォン(熊本県 通潤橋)

こちらは,嘉永7年(1854年)に造られた通潤橋です(図18)。長さ75メートル,高さ20メートル,一日当たりの通水量が1万5,000立方メートルの石造りの水路橋で,今も約120ヘクタールの農地を潤す現役の農業利水施設です。

九州・熊本にある白糸台地は,標高400メートルから600メートルの丘陵地帯で,人々は昔から干ばつに苦しんできました。水といえば雨水を集めたため池か湧き水を利用するしかなかったのです。そこで,この地域の惣庄屋であった布田保之助(ふだやすのすけ)が中心となって,農業用水を引くための水路を造ることとしたのです。6キロほど離れた笹原川で取水し,約12キロメートルの水路で途中の台地を越えて水を送ることにより,既存の農地を灌漑するとともに,新たな農地を開発しようとする大計画でした(図19)

途中に横たわる五老ヶ滝川が刻んだ深い渓谷に水路を渡しているのが,この通潤橋です。この橋の築造に当たっては,地元熊本の石工技術が生かされ,多数の近隣農民が作業に参加するなど,現代の私たちも学ぶところの多いプロジェクトでありました。その甲斐もあって,着工からわずか1年8ヵ月で完成を見たのです。

この橋にも数々の工夫が凝らされています。これをご覧ください。橋の上に人がたくさん乗っていますが,決して観光だけのために放水しているのではありません(図20)。もちろん漏水しているのでもありません。管路に溜まった土砂を激しい水流を利用して取り除いているのです。

この水路橋を造るには,深さ30メートルの谷をまたぐ必要がありました。しかし,当時の石積み技術では河床から20メートルのところに橋を架けるのが限界でした。そこで,橋は河床から20メートルのところに架け,不足する10メートル分についてはサイフォンで水を圧送しているのです。通潤橋は水路橋とサイフォンが一体となった特異な構造物なのです(図21)。サイフォンとなっていることから,水路橋の管路には大きな水圧がかかっています。この水圧を使って管路の掃除をすることにしたのです。その結果がこの見事な放物線を描く放水です(図22)。長く使うための維持管理に必要な仕掛けを当初から組み込んでいたのです。

セゴビアの水道橋とは大きさでは比べようもありませんが,ここにも地域の人々の地に足の着いた構想力を見ることができ,その知恵と工夫には洋の東西を越えた共通性を感じます。

(3)循環型社会・江戸

今度は,当時,世界でも有数の大都市であった江戸の社会を見てみましょう。

江戸では独特の優れたし尿処理システムが構築されていました。各戸から出たし尿は,街に張り巡らされた水路網を使って集められ,近郊の農村には主として河川や運河を使って運ばれました(図23)。運搬には専用の「汚穢船」が使われ,「金肥」(金銭を支払って買う肥料)として一滴も漏らさないよう注意深く扱われていました(図24)。農地では,し尿を「肥だめ」に貯蔵して発酵させ,その熱で寄生虫や雑菌を駆除した上で貴重な肥料として再利用していました。

こうして育てられた米や野菜は,今度は逆に運河を下って江戸に運ばれました。大都市・江戸と近郊農村とを結んだ見事な循環型の資源再利用システムが機能していたことになります。海外から江戸を訪れた人々が“世界一清潔な街”と驚嘆したのも頷けます。

今年は,「国際衛生年」です。これまで,ともすれば等閑視されてきた,いやタブーとさえされてきた衛生(トイレ)の問題は人間の尊厳にかかわる重要な問題です。その解決に向けていかなる取組を進めていくのか,人類の叡智が問われているのではないでしょうか。江戸で見られたし尿処理のシステムは,現代社会で直ちに適用できるものではないかもしれません。しかし,このような社会が歴史上実際に存在したということは,現在衛生問題に苦しむ多くの地域で,その特性に応じた循環型社会を構築できる可能性を示唆してくれているのではないでしょうか。

(4)大都市東京の水循環

それでは,現代における日本人と水とのかかわりはどうでしょうか。現代社会は,大量生産・大量消費・大量廃棄の資源浪費型社会と言われています。これは水についても当てはまります。私たち日本人も,普段の生活の中で,ともすれば水が貴重な資源であることを忘れ,つい無駄に水を使ってしまいがちです。しかし,水供給や下水処理にかかわる現場では,古くから地道な努力が続けられてきたことを忘れてはならないと思います。

<水の安定供給を目指す東京の水道>

こうした目で東京の水供給の現場を見てみましょう。

東京の水道は,ダムなどの水源施設を始め,浄水場,給水所,更には約2万6,000キロメートルに及ぶ管路網など膨大で多様な施設を有しています。この図をご覧ください。赤い線は,口径400ミリメートル以上の管路です。このように,幹線だけを見ても,血管のように張り巡らされているのがお分かりいただけると思います(図25)。しかし,漏水率は,2007年度は約3.3パーセントと,世界の主要都市の漏水率が30パーセント台であることが珍しくないことを考えると,その低さは驚異的です。発見が難しい地中の漏水は,人々が寝静まった深夜に,電子式の漏水発見器を使って水の漏れる音を注意深く聞き分けていくことにより見つけていきます(図26)。私も体験してみましたが,随分骨の折れる作業です。こうした地道な努力を通じて漏水率が徐々に改善されてきたのです。また,このような技術が海外へも伝えられていると聞き,うれしく思いました。

水源を豊かに保つ努力も忘れることはできません。東京を代表する川,多摩川の水源を保全するため,東京都は,100年以上も前から水道水源林の保全・育成に力を注いできました。現在では東京23区の35パーセントに相当する約2万1,600ヘクタールの森林を保有し(図27),水源の涵養や水質の浄化といった機能が十分に発揮されるよう,良好な維持管理に努めています。針葉樹の単層林から,ミズナラやカエデなどの混じった複層林へと徐々に切り替える試みも続けられています。複層林は,より豊かで多様な生物相をはぐくみ,水源の涵養や水質の浄化に優れた土壌を生み出すとされるからです。

東京都の水道水源林は,隣の山梨県にも広がっています。先日,私も現地を見て参りました。写真は,この地の名峰,大菩薩嶺に向かって水道水源林が広がる様子を写したものです(図28)。大菩薩嶺も水道水源林の区域内にあるのです。かつては荒廃していた場所もあったとのことですが,今では豊かな森林に育っています(図29)。目を閉じて耳を澄ますと,谷を流れるせせらぎの音や鳴き交わす鳥の声が聞こえてきました。東京都では,「水源地ふれあいのみち」を整備し,水源林の働きと自然を守ることの大切さを多くの人々に知らせる取組もしています。私たちの暮らしに必要な水をはぐくむ水道水源林が,多くの関係者の努力で大切に保全されていることを目の当たりにし,身も心も洗われた気持ちで戻ってきました(図30)

東京都では,このような取組を海外にまで広げ,職員の海外派遣や海外からの研修生の受入れ,更には専用ホームページによる水道技術の発信を行っています。今後は,こうした日本の水道技術が,水道の維持管理を直接担当する地方自治体間の協力を通じて,求められる地域に広く伝わっていくことも大事なことだと思います。

<都市の水循環の再構築―下水処理水の再利用―>

では,都市におけるもう一つの重要な水循環システムである下水道はどうでしょうか。ここでは,下水道に関する今日的な問題について触れておきたいと思います。安定した水供給と適切な下水処理は,都市の生命線とも言えるものです。しかし,世界的な人口増加と都市への人口集中は,ただでさえ深刻な都市の水問題をますます厳しいものにしています。また,気候変動により激化が予想される水不足は,都市の持続可能性への新たな脅威となっています。都市の構造をより循環型・自立型へと変えていく必要がありそうです。

その意味では,都市が生み出す下水を再利用する試みは大変重要で,既に日本でも様々な取組が進められています。例えば,東京都では,新宿副都心の近くにある下水処理場(落合水再生センター)で高度処理した再生水を新宿副都心水リサイクルセンターに送り,ビルの水洗トイレ用に1日当たり約3,000立方メートルを再利用しています(図31)。また,都市化によって自己流量が減少し,河川環境が悪化している都市河川に下水処理水を導水し,潤いのある都市環境をよみがえらせる試みが続けられています(図32)

私たち日本人は,同じ水を繰り返し利用してきました。家庭の中でも,炊事に使った水を拭き掃除に使い,その水を今度は庭木の遣り水に使うというように循環・再利用してきたのです。そんな精神が,都市の下水を高度処理してその水質に適した用途に再利用する考え方に引き継がれているとも言えるのではないでしょうか。

4 むすび

地球は水の惑星です。人類は,この地球上で,地域の多様な風土と一体となって生活を営み,独自の歴史や文化をつくり上げてきました。各地の風土に最も適した生存を模索する中で,多様な発展を遂げてきたのです(図33)。その根底には,常に「人と水」とのかかわりがあったと言ってもよいでしょう。むしろ,「人と水」との関係こそが,人類の特色ある歴史や文化創造の原動力であると言うべきかもしれません。

水の問題は,貧困と飢餓,農業と食料,女性の地位の向上や子どもの教育,更には防災など,あらゆる分野にまたがる問題です。人間の安全保障と持続可能な開発の観点からは,国境を越えて取り組んでいく必要があることには疑問の余地がありません。しかし,一方で,これまで見てきたように,人類共通の課題である水問題も,個別の問題としては,それぞれの地域の歴史や文化を踏まえた地域主体の解決策が模索されるべきでしょう。

「水と持続可能な開発」をテーマに,水問題に関する各国,各地域の知恵や技術を結集して開催されているサラゴサ国際博覧会は,水に関する人類の叡智を次の世代に引き継いでいく大切な場です。この博覧会が,人類の一層の発展を実現する礎となることを心から願いながら,私の話を終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました。