主な式典におけるおことば(平成15年)

天皇陛下のおことば

第156回国会開会式
平成15年1月20日(月)(国会議事堂)

(御名代皇太子殿下のご代読)

本日,第156回国会の開会式に当たり,この席に親しく臨めないことを,誠に残念に思います。

国会が,永年にわたり,国民生活の安定と向上,世界の平和と繁栄のため,たゆみない努力を続けていることを,うれしく思います。

国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題に対処するに当たり,その使命を十分に果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。

第5回アジア冬季競技大会青森2003開会式
平成15年2月1日(土)(新青森県総合運動公園「青い森アリーナ」)

(御名代皇太子殿下のご代読)

ここに,青森県において開催される第5回アジア冬季競技大会の開会を宣言します。

社団法人日本化学会創立125周年記念式典
平成15年3月19日(水)(リーガロイヤルホテル東京)

日本化学会創立125周年の記念式典が,学会関係者並びに外国からの来賓を迎え,開催されることを,誠に喜ばしく思います。

日本化学会は,その前身,化学会が明治11年に20数名の東京大学の卒業生と在学生により,外国論文の勉強と意見交換,討論の場として結成されたことに始まります。初代久原会長は23歳という,非常に若々しい人々の集まりでありました。

200年以上にわたる鎖国を解き,諸外国と国交を開いて日も浅い我が国にとって,諸外国に()して,国を発展させていくためには,産業を興し,国の力を上げていくことが急務であり,その基礎となる化学の振興にも多くの努力が払われました。化学会の結成から20年後,工業化学会が榎本会長の下で設立されたのもこのような要請にこたえるものでありました。外国の進んだ化学を,我が国に招請された外国人教師のもとで,あるいは祖国を遠く離れた外国の地で,当時の学生は必死の思いで学んでいたことと思います。

こうした努力が実を結び,19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて,今日もなお人々に記憶されるような化学上の研究業績が,日本人によってあげられるようになりました。その嚆矢(こうし)となるものは,明治18年,長井長義による漢方薬の成分であるエフェドリンの発見でありました。また,それまで東京大学教授など化学教育に携わっていた人々は外国人でありましたが,この頃,それに代わって,留学から帰国した日本人が当たるようになりました。

このようにして過去を振り返るとき,今日とは全く異なった厳しい環境下で高い志を持って研究や教育に励み,我が国の化学の進歩のために道を切り開いた先駆者の苦労が偲ばれます。それと共に,これらの先駆者を,国内であるいは留学先で育てた外国人化学者に対する深い感謝の気持ちを覚えます。

我が国の化学はこれら先達の学問的情熱と産業振興に対する国や社会の要請に支えられて著しく進歩し,世界の化学界の発展に寄与するようになりました。昭和56年には福井謙一博士が我が国で初めてノーベル化学賞を受賞され,また,近年では白川英樹博士,野依良治博士,田中耕一氏の3名の化学者が相次いでノーベル化学賞受賞の栄に輝かれたことは大変うれしいことであります。

先の大戦後の復興とその後の発展に,化学工業の果たした役割は極めて大きく,それによって国民生活は向上し,豊かになりました。しかし,その間に起こった公害問題により人々の健康が損なわれたことは返す返すも残念なことでした。その後化学者の更なる研究により公害問題にも多くの改善が見られるに至っていますが,今日,日本化学会が環境問題に関する様々な取り組みを行っていることは誠に心強いことです。科学技術の進歩は人類に多くの恩恵をもたらしましたが,その結果が常に幸せのみをもたらすものでなかったことも認めねばなりません。ここに今は亡き福井謙一博士がノーベル賞授賞式後の祝宴で「私どもは科学のあらゆる分野が,人間に幸せをもたらし,決して災害をもたらさないことを祈るものです。」と述べられたことに改めて深く思いを致すのであります。

125年の歴史を持つ日本化学会の会員が,今後とも,先人の輝かしい研究業績を受け継ぎ,世界の研究者,学術研究団体との交流と協力を深めつつ,学問の一層の進展と,後進の指導,育成に力を尽くし,我が国と世界の人々の幸せのために貢献していくことを願って,式典に寄せる言葉といたします。

2003年(第19回)日本国際賞授賞式
平成15年4月25日 (金)(国立劇場)

この度の日本国際賞の授賞式に当たり,「複雑さの科学技術」の分野において,ブノワ・B・マンデルブロー博士とジェームズ・A・ヨーク博士が,また,「医学における視覚化技術」の分野において,小川誠二博士が,それぞれ受賞されたことを心からお祝いいたします。

マンデルブロー博士は,複雑な図形に共通する特徴を突きとめ,これをフラクタルと名付け,ヨーク博士は,時間的に変動する複雑な現象に共通する性質を研究して,これをカオスと名付けられました。フラクタルもカオスも複雑な現象に潜んでいる原則であります。これらは科学技術のみでなく経済や社会の問題にまで及んでおります。両博士はその基礎から応用までを含めた研究の発展に力を尽くされました。

小川博士は,血液中の酸素濃度変化を利用して,視覚や聴覚,思考などに関する脳の機能を解明できる磁気共鳴の画像法の基本原理を発見されました。これを応用した医用画像技術は,脳科学や心理学の研究に大きく役立ち,脳神経疾患の診療に応用されております。

三博士の御研究はそれぞれの分野を超えて現在の重要な問題の解決に向けて大きな影響を与えるものであり,異なる分野の研究者の協力の大切さを深く感じます。

科学技術が今後とも国境を越え,専門分野を超え,人々の協力によって発展し,人類の幸せに資することを願い,お祝いの言葉といたします。

第54回全国植樹祭
平成15年5月18日(日)(かずさアカデミアパーク(千葉県))

第54回全国植樹祭に臨み,ここ木更津市「かずさアカデミアパーク」において,全国から参加された皆さんと共に植樹を行うことを誠に喜ばしく思います。

千葉県では,ちょうど50年前,富津岬において,「海岸砂地(さち)造林」をテーマとする第4回植樹行事ならびに国土緑化大会が催されました。富津岬は終戦時まで軍の要塞地帯として使用されており,岬の一帯は荒涼たる砂丘に覆われ,後背地の農耕地や住宅地は,飛砂(ひさ)や潮風の害に悩まされていたところでした。この植樹行事から32年後,第9回全国育樹祭がこの地で催された際,まだ皇太子,皇太子妃であった私どもは,昭和天皇,香淳皇后がお手植えになったクロマツに施肥(せひ)を行いました。もうその一帯には荒涼たる砂丘の面影はなく,立派な海岸林が形成されていたことが深く印象に残っています。飛砂から苗木を守り育ててきた関係者の努力がしのばれました。

我が国の森林は,戦中戦後の木材の需要に応じて行われた過度の伐採のため荒廃し,台風の襲来や大雨はしばしば大きな災害をもたらしましたが,その後,人々の広範な植樹の努力により,今日,木材の利用,災害の防止,水資源の(かん)養など,人々の生活の様々な面に役立つ森林が造成されつつあることは大変心強いことであります。

しかし,一方,近年,山村地域の過疎化や林業に携わる人々の高齢化が進み,森林を十分に手入れし,活力ある状態に保っていくことが厳しい状況になってきています。このような状況下にあって,現在,幅広い国民の参加を得て森林(もり)づくりが進みつつあることは,誠に喜ばしいことであります。

この度の植樹祭が我が国にとって,さらに世界にとって大切な森林についての,また,木を育てることについての,多くの人々の理解を深める契機となることを願い,式典に寄せる言葉といたします。

国賓 大韓民国大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐
平成15年6月6日 (金)(宮殿)

この度,大韓民国大統領盧武鉉閣下が,令夫人と共に,国賓として我が国を御訪問になりましたことに対し,心から歓迎の意を表します。ここに,今夕を共に過ごしますことを誠に喜ばしく思います。

貴国と我が国とは,昨年,ワールドカップ・サッカー大会を共同開催いたしましたが,この大会が,両国の選手の活躍によって両国国民に深い関心を持たれるとともに,両国国民間の友好関係の増進に資する意義深いものとなったことは非常に喜ばしいことでありました。ソウルにおける開会式には,小泉内閣総理大臣と共に,今は亡き高円宮が日本サッカー協会名誉総裁として同妃と共に出席し,貴国国民との友好関係の増進に務めてくれたことが思い起こされます。また,横浜で行われた決勝戦と閉会式には当時の金大中大統領御夫妻が御出席になり,再会の機会を持ったことはうれしいことでありました。

この大会開催の年は,日韓国民交流年と名付けられ,両国において,多彩な文化交流行事が繰り広げられました。皇后と私も,東京の国立劇場で催された,韓国国立国楽院と宮内庁楽部による日韓宮中音楽交流演奏会に出席しましたが,一年間にわたる様々な分野での幅広い交流を通じて,両国国民間の相互理解が一層深められたことと思います。

今年より両国の間で始められた「青少年交流」「スポーツ交流」を目標とする「日韓共同未来プロジェクト」が現在順調に進んでいることは,両国の明るい未来に(つな)がるものとして,喜ばしいことであります。

日韓両国の友好関係がこのように発展してきた陰には,多くの人々の苦労と努力の積み重ねがありました。私どもはそのことに思いを致し,古くから両国の人々がたどってきた歴史を,常に真実を求めて理解しようと努め,その上に立って,両国国民間の(きずな)を揺るぎないものにしていかなければならないと思います。

大統領閣下には,御就任以来,多忙な日々をお過ごしのこととお察ししております。今回の御滞在も短く,お忙しい日程ではありますが,我が国各界の人々との相互理解をお深めになり,御訪日が今後の日韓関係の更なる発展に意義あるものとなるよう願ってやみません。

ここに,杯を挙げて,大統領閣下並びに令夫人の御健勝と,大韓民国国民の幸せを祈ります。

国賓 インドネシア大統領閣下及び同夫君のための宮中晩餐
平成15年6月23日(月)(宮殿)

この度,インドネシア共和国大統領メガワティ・スカルノプトゥリ閣下が,御夫君と共に,国賓として我が国を御訪問になりましたことに対し,心から歓迎の意を表します。ここに,今夕を共に過ごしますことを,誠に喜ばしく思います。

大統領閣下には御就任後間もない一昨年の9月に,御夫君と我が国を御訪問になり,皇后と共に皇居にお迎えいたしました。これは閣下と私どもにとり,39年振りの再会でありました。私は皇太子であった1962年,父君のスカルノ大統領が国賓として我が国を御訪問になったことに対する答礼のため,昭和天皇の名代として,当時皇太子妃であった皇后と貴国を訪問いたしました。その時閣下は父君と共に,空港で私どもを迎えられ,皇后に花束を渡してくださいました。閣下は十代,私どもは二十代の時のことであります。父君にはジャカルタにおいて丁重なおもてなしを頂き,またボゴールからバリ島への旅に御同行いただきました。そのお気持ちは私どもの心に残るものでありました。その折,貴国の多くの人々に温かく迎えられ,貴国の風物や文化に接したことも忘れられません。

即位後の1991年,私どもは再び貴国を訪問し,前回の訪問から時を経て大きく発展したジャカルタの今日の姿に接しました。この時には,ジャカルタに加え,ジョグジャカルタやボロブドゥールの遺跡も訪れました。

私どもの若き日,大統領でいらした父君を貴国に訪問し,閣下にもお会いしてから,41年を経,今夕ここに,閣下を国賓として,御夫君と共に,お迎えすることに,深い感慨を覚えます。閣下には大統領御就任以来2年近く,公務に忙しい日々を過ごしていらっしゃいました。国内の民主化や各種の改革の推進に努め,政治的な安定や経済の回復などのための様々な課題に取り組んでいらっしゃる閣下の御努力に,改めて深く敬意を表します。

一万七千余の島々から成り立つ広大な国土を持つ貴国は,多様性に富み,資源に恵まれ,我が国との間には,経済,文化,人々の往来など,幅広い分野にわたって交流が続けられてきました。このような両国の関係が,今後ますます緊密なものとなっていくことは,誠に喜ばしいことであります。この度の御訪問が,両国間の相互理解と友好関係の増進に資する実り多いものとなることを,心から念願いたします。

ここに杯を挙げて,大統領閣下並びに御夫君の御健勝とインドネシア国民の幸せを祈ります。

第23回国際測地学・地球物理学連合2003年総会歓迎式典
平成15年7月2日(水)(札幌コンベンションセンター)

第23回国際測地学・地球物理学連合2003年総会が,国の内外から多数の参加者を得て,ここ札幌市において開催されることを誠に喜ばしく思います。太陽から地球の中心まで,地球科学の全ての領域を対象とする,この大きな学会の開催に力を尽くされた関係者の努力に,深く敬意を表します。

日本は,急(しゅん)な山々に覆われた島国であり,プレートの接点に位置し,火山活動や地震がしげく,またしばしば台風の通り道となります。日本の自然には非常に厳しいものがあると思います。近年に至るまで,自然災害による1年間の死者の数が,大きな災害の無かった年にも100人を下回ることはほとんどなかったということも,この状況を表しています。しかし,多くの人々の長年にわたる治山治水の努力に加え,危険情報が速やかに伝達されるようになったことにより,台風や集中豪雨による死者の数は今日明らかに減少してきています。火山の噴火に関しても,1991年の火砕流によって43人の命が失われた長崎県雲仙普賢岳の噴火以降は,火山学者の努力が実り,2000年に起こった北海道の有珠山の噴火でも,東京都の三宅島の噴火でも,避難に対する判断が誠に適切に行われ,幸いにも死者を出すことはありませんでした。ただ三宅島では有毒火山ガスのため,全島民の避難がいまだに続いています。

地震については,まだ,予知が困難な状態です。近年では,1993年に北海道の奥尻島を中心に「平成5年北海道南西沖地震」が起こり,地震と津波により,200人以上の命が失われ,2年後の1995年には,「阪神・淡路大震災」が起こり,地震により,6400人以上の人々が亡くなりました。地震は古くから今日に至るまで日本の人々を悩ましてきた災害であり,その災害の最初の記録は,720年に完成された歴史書,日本書紀の推古天皇7年,599年の,「地震があり,家屋がこととく壊れた」という記述であります。それからほぼ90年後に,現在では南海道地震と呼ばれる巨大地震の一つであったことを伺わせる地震の記録が日本書紀に見られます。

日本で地震に関する研究が始まったのは,日本が200年以上にわたって続けられた鎖国を解き,欧米諸国と国交を結び,それらの国々の科学者を招聘(へい)し,科学技術を学び始めてからのことであります。それらの人々の中に,英国人のジョン・ミルンやジェイムス・アルフレッド・ユーイングがあり,1880年,地震学会が創立されました。これは他国に先駆けて創設された世界最初の地震学会であります。

国際測地学・地球物理学連合が創立されたのは,1919年,その第1回総会は1922年ローマで開催されました。そして,国際極年,国際地球観測年,国際南極観測事業などを契機として,国際的な研究協力が一層進められるようになりました。その後も,人工衛星,深海底探査技術など多くの新しい観測技術や高速計算機の実用化によって,国際的な共同研究は,ますます盛んになってきております。

今日,科学技術は著しい発展を遂げ,それを利用した人類の活動が地球に大きな影響を与えるようになりました。地球環境を良好な状態に保ち,人々の生活の安全を確保するために地球科学が果たす役割は,ますます重要なものとなってきております。

この度開催される総会が,参加者の間の国境を越えた研究協力の更なる進展をもたらし,地球科学の進歩に貢献する実り多いものとなることを願い,式典に寄せる言葉といたします。

全国戦没者追悼式
平成15年8月15日 (金)(日本武道館)

本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来既に58年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は今なお尽きることがありません。

ここに歴史を顧み,戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

第157回国会開会式
平成15年9月26日 (金)(国会議事堂)

本日,第157回国会の開会式に臨み,全国民を代表する皆さんと一堂に会することは,私の大きな喜びとするところであります。

ここに,国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題に対処するに当たり,その使命を十分に果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。

社会福祉法人日本盲人社会福祉施設協議会創立50周年記念式典
平成15年9月29日(月)(グランドヒル市ヶ谷)

日本盲人社会福祉施設協議会が創立50周年を迎え,ここに,その記念式典に臨むことを,誠に喜ばしく思います。

日本赤十字社の講堂で,日本盲人社会福祉施設協議会が創立されたのは今からちょうど50年前の昭和28年9月29日のことでありました。この協議会の初代委員長となった岩橋武夫は,協議会の目的を,「盲人文化の向上と盲人福祉の達成に貢献する」との一点にあるとし,この協議会が,既に5年前に設立されていた日本盲人会連合と,車の両輪のごとく相互に助け合いつつ発展し,視覚障害者全体の幸福のために役立たねばならないとの期待を表明しております。

以来,日本盲人社会福祉施設協議会は,全国の視覚障害者の福祉の向上と,社会への完全参加を目指して,様々な視覚障害者施設の充実,発展のため,積極的な活動を続けてきました。設立当初,26施設であった協議会の会員も,現在では,200施設を超えるまでになっております。本日表彰を受けた人々を始め,この協議会の結成と発展のために,様々な苦労を重ねてきた関係者のたゆみない努力に深く敬意を表します。

我が国において,視覚障害者に対する国民の関心と理解が次第に深まっていることは心強いことであります。今後,日本盲人社会福祉施設協議会を中心とする全国の視覚障害者施設の関係者が,広く様々な分野の人々の協力を得つつ視覚障害者の生活を一層充実したものとするため,力を尽くしていかれることを切に念願いたします。

第23回全国豊かな海づくり大会
平成15年10月5日(日)(浜田漁港(島根県))

第23回全国豊かな海づくり大会が,日本海に面するここ島根県浜田市において,多数の関係者の参加を得て開催されることを,誠に喜ばしく思います。

我が国の人々は,古くから海と深く関わり,海からの豊かな恵みを受けてきました。しかし,戦後の科学技術の進歩に伴う産業の発展は,人々の生活を豊かにしながらも,一方で環境の悪化を招き,海の姿を大きく変(ぼう)させました。海岸の埋め立て,海砂利の採取,汚水の海への流入などにより,生物の生息水域に大きな変化がもたらされ,また生物の生育に重要な役割を果たす藻場も少なくなってきています。このような状況の下,水産資源も過剰の漁獲とあいまって各地で減少してきております。今日,海の環境を改善し,水産資源を正しく管理していくことは我が国にとって非常に重要なことであります。海の環境と水産に対する正しい認識を多くの人々が共有する上で,豊かな海づくり大会の持つ意味は大きいことと思います。

限りある水産資源を保護活用していくためには,国際的な協力もまた極めて大切なことであります。この大会に,近隣諸国の漁業者の代表が招かれていることは,これらの諸国との交流と協力を更に進めるために意義深いことと思います。

日本海の冷水域の上を対馬暖流が流れる島根県の海域は,様々な生物を宿し,豊かな漁場に恵まれております。これらの漁場を持続的に利用していくため,マダイ,ヒラメなどの放流を各地区で行うほか,近年では新たにオニオコゼの放流に取り組むなど,栽培漁業に力が注がれております。また,海の環境が,沿岸の陸地や,川の流域の森の環境と一体のものであることに対する県民の理解が深まり,多くの人々によって植林活動や海浜清掃が行われていると聞いております。こうした県民の努力が実を結び,海がより豊かになっていくことを期待しております。

この大会が,人々の海を慈しむ心を育て,豊かな海づくりを目指して,国の内外の関係者が互いに協力し合う契機となることを願い,大会に寄せる言葉といたします。

国賓 メキシコ大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐
平成15年10月15日(水)(宮殿)

この度,メキシコ合衆国フォックス大統領閣下が,令夫人と共に,国賓として我が国を御訪問になりましたことに対し,心から歓迎の意を表します。ここに,今夕を共に過ごしますことを,誠に喜ばしく思います。

貴国と我が国の間に国交が樹立されたのは1888年のことであります。当時,我が国は,国際社会において,主権国家として諸外国と対等の立場に立つべく努力を重ねておりましたが,この時締結された日墨修好通商条約において,初めて相互主義に基づく対等な取扱いが合意されたことは,画期的なことでありました。

1893年外務大臣の職を辞した榎本武揚は,海外移住を推進するため,殖民協会を創設し,1897年コーヒー栽培を目的として,移住者をチアパス州に入植させました。その後貴国への移民が盛んになり,第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)により移住の途が絶たれるまでに,1万5千人近くの人々が我が国から移住しております。移住者たちは様々な苦労を重ねましたが,多くの貴国国民に親身に支えられてきました。1997年,秋篠宮同妃を迎えて日本人移住百周年記念式典がメキシコ市とチアパス州で行われ,秋篠宮はセディージョ大統領御夫妻も出席された式典において,メキシコ政府とメキシコ国民が日本からの移住者を温かく迎え入れたことに対する深い感謝の気持ちを伝えております。

1964年,当時皇太子であった私は,ロペス・マテオス大統領御夫妻の国賓としての御訪日に対し,昭和天皇の名代として,皇太子妃と共に,貴国を訪問いたしました。その時のロペス・マテオス大統領御夫妻を始め,貴国国民から寄せられた厚情は深く心に残っております。この訪問の機会に,テオティワカンの遺跡や政庁にあるフアレス大統領の居室を訪れ,貴国の歴史を目の当たりにし,また貴国の絵画や音楽への理解も深めることができました。もう40年近く前のことになりますが,今でも懐かしく思い起こされます。

貴国と我が国との交流は,今日,政治,経済,文化など,多くの分野で,ますます緊密なものとなってきております。様々な人的交流が頻繁に行われ,我が国の人々は,メキシコの豊かな歴史的遺産や,変化に富んだ独特の風物,さらには,絵画や音楽,文学など多彩な芸術に親しんでまいりました。

貴国は,民主主義と自由な経済活動を基礎として,大きな発展を遂げ,現在では世界有数の経済規模を持つに至っております。大統領閣下が,御就任以来,貴国の政治に新しい風を入れ,貴国の更なる発展を図るべく力を尽くしておられることに深く敬意を表します。

閣下は,また,我が国との友好関係の増進にも意を用いられ,2年前にも公式実務訪問賓客として我が国を御訪問になりました。この度の御滞在は短期間ではありますが,日墨両国関係の進展に資する実り多いものとなることを願っております。

ここに杯を挙げて,大統領閣下並びに令夫人の御健勝とメキシコ合衆国国民の幸せを祈ります。

第58回国民体育大会秋季大会開会式
平成15年10月25日(土)(エコパスタジアム(静岡県))

第58回国民体育大会秋季大会が静岡県で開催されるに当たり,全国から参加した選手,役員並びに多くの県民と共に,開会式に臨むことを喜ばしく思います。

国民体育大会は終戦の翌年,戦後の厳しい状況の中で第1回大会が開催されて以来,スポーツを愛する人々に支えられ,各地のスポーツの普及と振興に大きな役割を果たしてきました。この50有余年の間には,我が国の社会もスポーツも変わりましたが,スポーツ界関係者が,これらの変化に対応しつつ,よりよい国民体育大会を目指して努力してこられたことに対し,深く敬意を表します。

静岡県で国民体育大会秋季大会が開催されるのは昭和32年の第12回大会以来,46年振りのことになります。この第12回大会で,静岡県の選手は,多くの種目で目覚ましい活躍を遂げました。当時は,東京都が常に優位を保っていた時代でありましたが,この静岡県選手団の活躍は地方のスポーツ関係者に大きな励ましを与えたことと思います。

今日ここに集う選手の皆さんには,日ごろ鍛えた力と技を十分に発揮されるとともにお互いの友情をはぐくみ,静岡県民との交流を深められるよう願っています。

豊かな自然と文化に恵まれたここ静岡県で,多くの県民に支えられて開催されるこの大会が長く心に残る,実り多いものとなることを期待し,開会式に寄せる言葉といたします。

戦傷病者特別援護法制定40周年並びに財団法人日本傷痍軍人会創立50周年記念式典
平成15年11月7日 (金)(日本武道館)

本日,戦傷病者特別援護法制定40周年並びに日本傷痍軍人会創立50周年記念式典が行われるに当たり,全国から集まられた皆さんと一堂に会し,感慨誠に深いものがあります。

先の大戦が終わってから58年の歳月がたちました。国のために尽くし,戦火に傷つき,あるいは病に冒された戦傷病者が歩んできた道のりには計り知れない苦労があったことと察しております。戦中戦後の厳しい状況からその後の変わりゆく社会を通して家族と手を携え,幾多の困難を乗り越えながら,我が国の安寧と繁栄のために貢献してきたことを,心からねぎらいたく思います。戦傷病者とその家族の苦難の歴史が決して忘れられることなく,皆さんの平和を願う思いが将来に語り継がれていくよう切に希望してやみません。

また,この機会に,戦傷病者と苦楽を共にし,援護のための努力をたゆみなく続けてきた関係者に対し,深く感謝の意を表します。

どうか,皆一人一人体を大切にし,励まし助け合って,今後とも元気に過ごされるよう願っております。

奄美群島日本復帰50周年記念式典
平成15年11月16日(日)(奄美振興会館)

本日,ここ名瀬市において,多くの関係者と共に,奄美群島日本復帰50周年記念式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。

奄美群島は,先の大戦の後,昭和21年に日本本土から分離され,米国の施政下に置かれました。昭和27年4月,日本と連合国との平和条約が発効しましたが,この状況に変わりはありませんでした。群島挙げての復帰運動がようやく実を結び,ついに日本に返還されたのは,それから1年半以上経った昭和28年12月25日のことでありました。復帰運動に携わった多くの人々の労苦はいかばかりのものであったかとしのばれます。日本人の多くが,この復帰を平和条約に続くうれしいことと喜びをもって迎えたことが思い起こされます。

私どもは,復帰から15年を経た昭和43年,鹿児島市で行われた明治百年記念式典に出席した機会に,奄美大島を訪れ,また,それから4年後,昭和47年鹿児島県で行われた第27回国民体育大会夏季大会出席の機会には,徳之島を訪れました。これらの島々への訪問は,懐かしい思い出として私どもの心に残りました。それとともに,島の生活の厳しい状況にも理解を深めることができました。ハブが島民に及ぼす影響の実例について聞いたことも思い起こされます。

私どもが奄美大島を訪問してから35年の月日が経ちました。今日,島は,当時に比べ,社会基盤が良く整備され,生活が向上してきていると聞いております。永年にわたり,奄美群島の発展に力を尽くした多くの人々に対し,ここに深く敬意を表します。

奄美群島はアマミノクロウサギやルリカケスを始めとして,群島にのみ生息する生物が多くいることで特徴づけられます。しかし,島の生物は個体数が限られ,環境の変化にも決して強いものではなく絶滅が心配されます。特にオオトラツグミは百羽程度しかおらず,極めて厳しい状況にあると言われております。島の人々の生活に配慮しながらこれらの貴重な生物を守っていくことは極めて大切なことと思います。

奄美群島日本復帰50周年の機会に,島民皆が,復帰運動に取り組み,これを成し遂げた先達の努力に思いをいたし,島の特性を生かして,様々な面で島を豊かにしていくよう願っています。

終わりに,奄美群島の一層の発展と島の人々の幸せを祈り,お祝いの言葉といたします。

自治体消防55周年記念大会
平成15年11月20日(木)(東京ドーム)

本日ここに,自治体消防55周年記念大会に臨み,全国から参加した消防関係者と一堂に会することを誠に喜ばしく思います。

自治体消防は,昭和23年の発足以来,国民の生命,身体,財産を様々な災害から守るために,極めて大きな役割を果たしてきました。長年にわたる関係者の身を(てい)しての努力に,深く感謝の意を表します。また,厳しい任務を遂行する中で,負傷し,病を得た人々に思いを致すとともに,殉職した人々に心から哀悼の意を表します。

地殻のプレートの接点にあり,急(しゅん)な地形の多い我が国は地震,集中豪雨,台風などの災害を受ける危険に常にさらされております。更に近年,各地において高齢化や過疎化が進み,また都市には高層建築が立ち並び,消防活動には様々な困難が伴うようになりました。そのような状況に対応し,安全性に配慮しながら,消防職員や団員が十分に活動できるよう技術を開発し,訓練を重ねていく消防関係者の苦労が深く察せられます。

今後とも,全国各地の消防関係者が,協力して設備の向上と訓練に努め,困難を乗り越え,それぞれの地域社会の安全のために力を尽くしていくことを願ってやみません。

第158回国会開会式
平成15年11月21日 (金)(国会議事堂)

本日,第158回国会の開会式に臨み,衆議院議員総選挙による新議員を迎え,全国民を代表する皆さんと一堂に会することは,私の深く喜びとするところであります。

ここに,国会が,国民生活の安定と向上,世界の平和と繁栄のため,国権の最高機関として,国民の信託にこたえ,その使命を十分に果たされることを切に希望します。

日本歯科医師会創立100周年記念式典
平成15年11月27日(木)(帝国ホテル)

日本歯科医師会創立100周年記念式典が開催されるに当たり,会員と一堂に会することを誠に喜ばしく思います。

今から100年前のちょうど今日,全国から114名の歯科医師が東京に集まり,日本歯科医師会の前身,大日本歯科医会の発会式が行われました。

()来100年,医学及びその関連する学術の発展と共に,歯科医学,歯科医療は,著しい進歩を遂げました。今日,広く国民がこの進歩の恩恵に浴しており,以前は治療を受けることに困難のあった障害者に対する治療にも,十分な配慮がなされていると聞いております。我が国の歯科医療に携わり,人々の健康増進に貢献してきた歯科医師の努力に深い敬意を表します。

今後,社会の高齢化に伴い,口腔(くう)の疾患と全身の健康との関わりがますます重視され,高齢者が健やかな生活を送るために,歯科医療が果たす役割は非常に重要になってきております。その意味で,十数年前に始められた,80歳になっても自分の歯を20本以上持つようになることを目指す八〇二〇(はちまるにいまる)運動が推進されてきていることは喜ばしいことであります。

これからも,日本歯科医師会の会員が,国民の健康と幸せを念頭に置いて研究を進め,技術を磨き,あらゆる地域に住む人々が充実した歯科医療を受けられるよう力を尽くしていかれることを切に願い,お祝いの言葉といたします。

第19回国際生物学賞授賞式
平成15年12月1日(月)(日本学士院会館)

井上信也博士が第19回国際生物学賞を受賞されたことを心からお祝いいたします。

今回の授賞分野は細胞生物学でありますが,博士は細胞が如何(いか)にして分裂するかを理解するため,画期的な光学顕微鏡技術を次々と開発して,生きた細胞を観察し,その分裂に伴う超分子構造の動的変化を直接観察することに成功し,細胞分裂,細胞骨格,細胞運動などの研究の発展に多大な貢献をされました。特に,偏光顕微鏡を用いて紡錘体が実在の構造であることを証明するとともに,紡錘体微小管が生成と消滅の動的な平衡にある構造体であることを明らかにし,細胞に対するイメージを静的なものから動的なものへと大きく変えられました。

博士は自ら様々な工夫を凝らした顕微鏡を用いて,大きな業績を収められましたが,顕微鏡への関わりは先の大戦直後の厳しい状況の中で,捨てられた銃の台座やお茶の缶を用いて顕微鏡を自ら作られたことに始まると聞いております。若き日,物のない時代に苦労を重ねつつ代用品で顕微鏡を作って観察された博士が,今日もなお新たな顕微鏡を開発して研究に(いそ)しんでおられる姿に深い感銘を受けます。

博士の御研究の成果は,多くの研究者に活用され,生物学の進展に大きく寄与しておりますが,今後とも博士がお元気に研究生活を送られ,更なる成果をもたらされるよう願ってやみません。