主な式典におけるおことば(平成12年)

天皇陛下のおことば

第147回国会開会式
平成12年1月20日(木)(国会議事堂)

本日,第147回国会の開会式に臨み,全国民を代表する皆さんと一堂に会することは,私の大きな喜びであります。

国会が,永年にわたり,国民生活の安定と向上,世界の平和と繁栄のため,たゆみない努力を続けていることを,うれしく思います。

ここに,国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題に対処するに当たり,その使命を十分果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。

天皇陛下御在位10年記念・魚類の多様性に関する国際シンポジウム懇親会
平成12年2月24日(木)(国立科学博物館)

内外多数の参加者を迎え,私の在位10年を記念して「魚類の多様性に関する国際シンポジウム」が開催されましたことに対し,深く感謝いたします。この席でお集まりの多くの研究者の方々とお会いすることを誠にうれしく思います。

即位後の日々は私をすっかり研究から遠ざけ,私はこの10年間一つも論文を書かないで来てしまいました。皇太子の時に投稿した「シマハゼの再検討」という論文が1989年,平成元年に魚類学雑誌に載った私の最も新しい論文であります。私は1963年に「ハゼ科魚類の肩胛骨について」という論文を書いて以来,ハゼ類の形態や分類に関する論文を書き続けてまいりましたが,その間ハゼ類に関する研究は非常に進みました。そのことは日本に産するハゼ類の種類が年々増加していることにも示されています。1955年に出版された松原喜代松博士の「魚類の形態と検索」は当時魚の種類を調べる上で最も頼りになる本でした。この本の中には日本に生息するハゼ亜目魚類137種が載せられていますが,それから30年近く経(た)った1984年出版の「日本産魚類大図鑑」では292種に増加し,さらに1993年に出版された「日本産魚類検索」では342種に達しています。1984年から1993年というほぼ10年の間に日本産のハゼ亜目魚類は50種も増加したことになります。

私が研究を始めたころの日本では,ハゼ類について骨の形態をアリザリンで染色して調べたり,頭部の感覚管や孔器の配置を調べたりすることは,ハゼ亜目魚類の頭部感覚管系等に関する研究で学位を取られた,今日もここにおいでになっています高木和徳博士以外にはやっておられませんでした。私がハゼ科魚類の肩(こう)骨を調べるようになったのは,松原博士の「魚類の形態と検索」にカワアナゴ科には上烏喙(うこう)骨すなわち肩(こう)骨があるが,クモハゼ科にはその骨がないという1911年のReganの論文が引用されていたことと,高木博士からハゼ類の骨の種類による相違を調べたGosline博士の1955年の論文を見せていただいたことに始まります。今日の午前中シンポジウムで松原博士に触れられた発表を聞き,私は博士にお会いしたことはありませんでしたが,私の論文に対する励ましの言葉を頂き,また著書にその論文を引用されたことが思い起こされました。

これまでの研究を通して私は論文を書き上げることの厳しさと喜びを味わってきました。そうした過程で,1936年に日本産のハゼ科魚類の分類で学位を取られた故冨山一郎博士を始め内外の研究者から助言と励ましを頂いたことを深く感謝しております。

この度のシンポジウムは魚類の多様性に関するものでありますが,ハゼ類は渓流から海にまで分布し,中には陸上にはい上がってきたものもあります。底生生活を営むものがほとんどですが,遊泳生活を行うものもあり,種類数の多さと共にその生態も誠に多様性に富んでいます。このように尽きることない未知の研究領域のあるハゼ類を研究の対象としたことは私にとって非常に幸せなことであったと思います。日々の務めの傍らではありますが,私は今後とも研究を続け,少しでも学界に貢献できたらと願っています。

この度の国際シンポジウムが内外の参加者のきずなを強め,魚類学の今後の発展に資するならば誠にうれしいことであります。

終わりに当たりもうこの世におられない方々も含め,私のこれまでの研究に様々な形で携わられ,励ましと協力を頂いた内外の研究者に深く感謝し,お礼の言葉といたします。

国賓 ハンガリー大統領閣下及び同令夫人のための宮中晩餐
平成12年4月10日(月)(宮殿)

この度,ハンガリー共和国大統領ゲンツ閣下が,令夫人と共に国賓として我が国を御訪問になりましたことに対し,心から歓迎の意を表します。大統領閣下には大統領御就任後,日も浅い10年前,私の即位の礼に令夫人と共に御出席いただきましたが,ここに再び閣下並びに令夫人をお迎えし,今夕を共に過ごしますことを誠に喜ばしく思います。

本年は,貴国の初代国王イシュトヴァーン一世の戴冠から一千年という記念すべき年に当たっております。貴国の歴史には貴国民がハンガリーの地に定着し,様々な民族や国々と競い,苦難の道を歩みつつ,自由と独立を求めて闘ってきた気概が込められています。戦後の厳しい状況下,1956年に起こったハンガリー動乱は多くの犠牲者を生み,我が国の人々も深く心を痛めたものでありました。1989年の秋,貴国は東独の人々が,貴国から隣国オーストリアを経由して西独に出国する道を開きました。この勇気ある決断が,やがて,ベルリンの壁の崩壊をもたらし,欧州,ひいては世界における冷戦の終結への歴史的な流れを作るきっかけとなりました。今日民主主義と自由を享受しつつ発展している貴国の姿に接する時,大統領閣下を始め多くの人々の不屈の努力に深く思いを致すのであります。

貴国と我が国との間には,1869年に国交が結ばれて以来,学術,文化を始め,様々な分野での交流がありました。特に我が国の人々がリスト,バルトーク,コダーイ等貴国の音楽家に寄せる関心には深いものがあり,今日も多くの音楽家が貴国で学んでいると聞いております。両国民の間の交流は,近年,経済や人的往来を含めてますます深まっており,本年は,ハンガリー文化の諸側面を紹介する多彩な催し物が,我が国の各地で行われております。中でも,日本文学の翻訳もなさっている大統領閣下の作になる戯曲「鉄格子」が日本人の手によって上演されたことは,両国民の相互理解のために誠に意義深いことと考えます。

このハンガリー・フェスティバルの名誉総裁を務める高円宮は,6年前,同妃と共に貴国を訪れておりますが,その折,大統領閣下を始め,貴国の人々から受けた温かいおもてなしに深く感謝いたします。

大統領閣下の今回の御訪問により,両国民の相互理解と信頼が更に深まり,一世紀以上にわたって交流を深め,友好関係を築いてきた両国の関係が一層発展するよう切に希望いたします。

我が国は今桜の季節を迎えています。大統領閣下並びに令夫人が,各地で我が国の春の風物をお楽しみになり,御訪問が実り多いものとなるよう願っております。

ここに杯を挙げて,大統領閣下並びに令夫人の御健勝とハンガリー共和国国民の幸せを祈ります。

第51回全国植樹祭
平成12年4月23日(日)(大分県県民の森・平成森林公園)

第51回全国植樹祭に臨み,ここ大分県県民の森「平成森林公園」において,全国からの参加者と共に植樹を行うことを誠に喜ばしく思います。

第1回の全国植樹祭はちょうど50年前,昭和25年に植樹行事及び国土緑化大会として山梨県甲府市で開催されました。当時は,戦中戦後の多量の木材の需要に応じて,森林が伐採され,台風などにより,各地で大きな被害が生じているときでありました。このように荒廃した国土を救うことを目指して,この行事が行われるようになり,第1回のテーマはまさしく「荒廃地造林」でありました。その後も関係者のたゆみない植樹の努力が続けられ,植林地は著しく増加していきましたが,同時に,これに伴い植樹された森林を間伐などして健全に育成していくことが新たな課題として注目されるようになってきました。このような状況下,森林の手入れに関心を深めることを目的として,昭和52年以来全国育樹祭が開催されるようになり,私共も各地で行われる全国育樹祭にかかわってきました。この全国育樹祭が初めて行われたのは,かつて第9回植樹行事及び国土緑化大会の開催された大分県別府市志高(しだか)湖畔の森の中でありました。

今日,我が国の国土の三分の二は森林に覆われています。これは山と水に恵まれた美しくも厳しい自然環境と古くから営々と森林を育ててきた人々の力に大きく負っています。森林は木材の生産や水源(かん)養等様々な役割を担っていますが,なかんずく,森林が台風や集中豪雨のもたらす災害の防止や軽減に大きく貢献してきていることは,我が国の厳しい自然環境を考えるとき誠に重要なことと思います。今後,国民全体で考えていかなければならない大きな課題は,山村地域の過疎化や林業に携わる人々の高齢化が進む中で,いかにして豊かで手入れの行き届いた,活力のある森林を維持していくかであることを強く感じています。

この機会に皆さんが50年にわたる国土緑化運動の歩みを振り返り,国土緑化に尽くした人々の功に思いを致し,この大会を今後の森林の在り方を多くの人々と共に考える契機とされることを心から希望いたします。

2000年(第16回)日本国際賞授賞式
平成12年4月28日(金)(国立劇場)

この度の日本国際賞の授賞式に当たり,「都市計画」の分野において,イアン・L・マクハーグ教授が生態学的都市計画プロセスの確立と土地利用の評価手法の提案という業績により,また,「生体防御」の分野において,石坂公成博士が免疫グロブリンEの発見とアレルギー発症機序の解明という業績により,それぞれ受賞されたことを心からお祝いいたします。

マクハーグ教授の御研究は自然環境と土地利用の関係がいかにあるべきかということを様々な分野の学問を総合して考察を重ねられたものであり,人々がそれぞれの地域を良好な環境の下で持続的に利用していく上に大きく貢献していくものと思います。特に我が国のように地形が急(しゅん)で人口が密集し,地震の多い地域では,このような研究は極めて意義のあることと考えられます。

また,石坂博士の御研究は人の血清一ミリリットル中に百万分の一グラムしか含まれていない免疫グロブリンEをその抗体を用いて見いだすなど,今日多くの人々を苦しめているアレルギー疾患の解明に大きく貢献し,その成果は直ちに診断や治療に応用されるようになりました。この博士の御研究に大きく寄与された令夫人が,ご病気のため,この席で喜びを共になされないことを誠に残念に思います。かつて文化勲章受章に当たって帰国されたとき,お二人に御研究のことを伺ったことが懐かしく思い起こされ,博士のお気持ちを深くお察しいたします。

マクハーグ教授,石坂博士の御研究はそれぞれ環境と健康という今日人々が深い関心を抱いている問題に貴重な貢献をもたらしたものであり,両受賞者の優れた業績に対し,また,それに協力した多くの人々の努力に対し,深く敬意を表します。

科学技術が,今後とも,人類に真の幸せをもたらすものとして発展していくことを願い,授賞式に寄せる言葉といたします。

第30回戦没殉職船員追悼式
平成12年5月15日(月)(神奈川県立観音崎公園・戦没船員の碑)

本日第30回戦没殉職船員追悼式に臨み,さきの戦争の戦没船員を始め,船員としての職務に殉じた人々の上を思い,深い感慨を覚えます。

昭和12年から8年間にわたった戦争の間に,祖国のために海上輸送などの業務に従事しながら,戦火により尊い命を失った我が国船員は,6万人余に上ります。これらの人々の()霊を慰めるために,関係者の努力によってこの戦没船員の碑が建てられ,今日では,戦後,海上で職務の遂行中殉職した1,700人を超える船員の()霊も併せ(まつ)られています。

第1回戦没船員追悼式が行われたのは昭和46年,降りしきる雨の中でした。その後私どもは二度ここを訪れていますが,ここに(まつ)られた船員が,碑の前に広がる果てしない海に抱いたであろうあこがれと,その海が不幸にもその人々が痛ましい最後を遂げた場所となったことを思う時,かけがえのない肉親を失った遺族や亡くなった船員と共に航海をした同僚の人々が抱き続けてきた深い悲しみが察せられます。

戦後50年余を経て,当時の戦争のことが人々の心から次第に遠いものとなっていく今日,私どもは我が国の人々が戦後に築き上げた平和と繁栄が戦没船員を始めとする数しれない人々の尊い犠牲の上に達成されたものであることを決して忘れてはならないと思います。

第2次世界大戦後,局地的戦争はありましたが,多くの海域に平和が戻り,戦後の我が国が発展する上で海運や水産に携わる船員の果たした役割は誠に大きなものがありました。これからもこの海の平和を守るために皆で努めていくことが大切であり,それが亡くなられた人々に報い,遺族の意にそう道でもあると思います。

ここに()霊の安らかならんことを祈り,併せて遺族の幸せを願って追悼式に寄せる言葉といたします。

世界科学アカデミー会議開会式
平成12年5月15日(月)(東京国際フォーラム)

世界科学アカデミー会議が,世界各地からアカデミーの代表を迎えて,ここ東京において開催されることを誠に喜ばしく思います。

学術団体としてのアカデミーは,ルネッサンスの時代に始まり,古典的学問の復活と自然科学の(ぼっ)興を受けて,欧州の諸国で次々に結成され,学術の進歩と普及に大きく貢献してきました。

今日,80を越えるアカデミーが,世界のすべての大陸に結成され,インターアカデミーパネルなどを通じて,互いに協力していることは,人類の未来にとって大きな意義があると思います。

人類の歴史を振り返る時,科学の発達がいかに人々の幸せに寄与してきたかということに思いを深くします。

科学とそれに結び付いた技術は,工業,農業,交通などの進歩を促し,生活を豊かにし,便利なものにしてきました。また,医学の進歩により,様々な病気の診断や治療が改善され,人々の寿命が延び,健康な高齢者が多くなりました。20世紀最後の年に当たり,この100年間の科学の進歩を顧み,科学の進歩に尽くした人々の功に思いを致すことは意義深いことと考えます。

20世紀はこのような科学の進歩をもたらした時代でありましたが,科学は人類に幸せだけをもたらしたわけではありません。高度な科学を利用した殺傷力の強い兵器が開発され,戦争の被害は飛躍的に増大しました。原子力は,医療,産業などの面で人々の生活を豊かにするために大きく貢献してきましたが,同時に放射能が人体に及ぼし得る悪影響を忘れることはできません。また,様々な産業活動から有害物質が派生し,公害などの原因となり,人々の健康に大きな影響を与えるようになるとともに,地球環境への影響も心配されています。しかし科学の発達が,当初予測し得なかった悪影響をもたらした場合に,その悪影響を取り除くことができるのも更に究められた科学によってであります。光と陰の部分を持つ科学の進歩において,いかに速やかに陰の部分に対応するか,また,いかにその陰の部分を予測するかが人々の幸せに大きく影響することになるのではないかと思われます。

真実を追求する科学の世界に国境はなく,科学者間の協力が人類の幸せのために,また,地球環境を良好に保つために切に求められています。

この会議では,人口と健康,食糧,水,エネルギー,消費,知識と教育などの問題について,人類の持続可能な発展を目指して様々な討議が行われると聞いております。

世界科学アカデミー会議が科学者の世界的な連携を強め,参加者の一人一人にとって実り多いものとなることを願い,開会式に寄せる言葉といたします。

身体障害者福祉法施行50周年記念第45回日本身体障害者福祉大会
平成12年6月7日(水)(東京体育館)

身体障害者福祉法の施行50周年を記念して,第45回日本身体障害者福祉大会が全国から多数の参加者を得て開催されることを誠に喜ばしく思います。

近年,国内各地で訪れる公共施設などで,障害を持つ人々に対する配慮の行き届いたものが多くなり,また,障害者のための福祉施設も次第に充実してきているように見受けられます。身体障害者のスポーツも,スポーツ自体として盛んになり,一昨年の長野パラリンピック冬季競技大会は,テレビで全国に放映され,大勢の人々に感動を呼び起こしました。このことは今から36年前,オリンピック東京大会に引き続き行われた東京パラリンピックの時の状況を考えると感慨深いものがあります。

このように,いまだ十分とは言えぬまでも,障害を持つ人々に対する国民の理解が深まり,障害者が自立し,社会に参加することができる環境が整ってきていることは,非常に喜ばしいことであります。ここに至るまでには,障害者自身による自立と相互扶助のためのたゆみない努力があり,また,日本身体障害者団体連合会を始めとする多くの関係者のこれに対する力強い支援がありました。ここに,深く敬意を表したいと思います。

身体障害者福祉法が施行された昭和25年当時,我が国は,戦争の荒廃からようやく立ち直ろうとしており,現在とは全く異なる経済,社会の状況にありました。そのような時代から五十年にわたり関係者が積み重ねてきた計り知れない苦労の歴史が今日を築いたものであり,この機会に先人の努力の跡を顧みることは大切なことと思います。

我が国は,現在,社会の急速な高齢化という大きな問題に直面していますが,このことは,障害者の福祉に対しても,様々な面で大きな影響を及ぼすものと考えられます。その中にあって,国際障害者年のテーマ「完全参加と平等」の理念の下に,障害を持つ人々が安心して社会に参加できる環境を更に改善していくためには,すべての関係者が力を合わせて一層の努力を重ねていくことが必要であると思います。

将来に向かって,障害を持つ人々が幸せな生活を送ることができる真に豊かな社会が築かれていくことを心から願って,大会に寄せる言葉といたします。

日本学士院第90回授賞式
平成12年6月12日(月)(日本学士院会館)

本日,日本学士院が第90回授賞式を迎えたことを誠に喜ばしく思います。ここに受賞された皆さんの業績に対し深く敬意を表し,心からお祝いいたします。

日本学士院は明治12年,福沢諭吉を会長とする東京学士会院として創立されました。その後身としての帝国学士院により明治44年から恩賜賞,その翌年から恩賜賞と帝国学士院賞,後の日本学士院賞が授与されることとなり,今日に至っています。第1回の恩賜賞受賞者は「地軸変動の研究特に(Z)項の発見」により受賞された木村栄博士であり,最初の帝国学士院賞受賞者は「アドレナリンの発見」により受賞された高峰譲吉博士でありました。

木村博士は国際共同緯度観測事業に携わり,観測結果に対する外国からの批判に答えてZ項を発見したことで国際的に知られた人であります。諸外国と国交を開いたことにより当時の先端的な学問に触れ,徐々に国内においても立派な業績をあげる学者が育ってきたのがこのころであります。当時の人々にとって,このような業績をあげることには,今日の人々には想像もできない苦労があったことと察せられます。

授賞式は明治44年以来毎年行われ,戦争の最中にあっても中断されることはありませんでした。戦争,空襲という厳しい状況下にあっても学問の(ともしび)を消さなかった人々の熱意には心を打たれるものがあります。戦後の荒廃の中で学問の復興が成し遂げられたのも,このような人々の努力に負うところが極めて大きかったと思います。

今日,世界の多くの地域で人々が平和を享受し,学問の自由が保障され,国境を越えた協力や学際的協力が行われるようになりました。学問を進める環境は良好なものとなり,学問の諸分野において著しい進展が見られます。我が国の研究者が,いかなる時代においても,真理を追究する厳しい道を避けることなく,ますます創造性豊かな研究業績を積み重ねていくことを心から期待しています。

第90回の授賞式を迎えた日本学士院が今後とも(せき)学の府として世界の学界と相携えながら,我が国における学問の更なる振興と後進の指導育成に力を尽くし,もって我が国と世界の人々のために寄与するよう願ってお祝いの言葉といたします。

第148回国会開会式
平成12年7月6日(木)(国会議事堂)

本日,第148回国会の開会式に臨み,衆議院議員総選挙による新議員を迎え,全国民を代表する両議院議員の皆さんと一堂に会することは,私の大きな喜びであります。

ここに,国会が,国権の最高機関として,国民生活の安定と向上,世界の平和と繁栄のため,その使命を十分果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。

第149回国会開会式
平成12年7月28日(金)(国会議事堂)

本日,第149回国会の開会式に臨み,全国民を代表する皆さんと一堂に会することは,私の大きな喜びであります。

ここに,国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題に対処するに当たり,その使命を十分果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。

全国戦没者追悼式
平成12年8月15日(火)(日本武道館)

本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,尊い命を失った数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

終戦以来既に55年,国民のたゆみない努力により,今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨は尽きることがありません。

ここに歴史を顧み,戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い,全国民と共に,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

第150回国会開会式
平成12年9月21日(木)(国会議事堂)

本日,第150回国会の開会式に臨み,全国民を代表する皆さんと一堂に会することは,私の大きな喜びであります。

ここに,国会が,国権の最高機関として,当面する内外の諸問題を審議するに当たり,その使命を十分果たし,国民の信託にこたえることを切に希望します。

第20回全国豊かな海づくり大会
平成12年10月1日(日)(網野町八丁浜(京都府))

第20回全国豊かな海づくり大会が,日本海に面した,ここ京都府網野町において,多くの関係者の参加を得て開催されることを,誠に喜ばしく思います。

昭和56年,初めて全国豊かな海づくり大会が大分県で開かれて以来,大会は毎年県を異にして催され,今回で20回を数えるに至りました。その間に栽培漁業は著しく進歩普及し,様々な魚種が栽培漁業の対象となり,それぞれの地域にふさわしい漁業の発展に寄与するようになりました。また海の環境を良好に保つことについての関心が深まり,近年は山と海を結ぶ水系の保全を目指した漁業者による山への植樹も行われるようになりました。本大会が様々な面でこれらの水産業の推進並びに海の環境の改善に果たしてきた役割と意義に改めて思いを致し,大会に携わってきた多くの関係者の努力に深く敬意を表します。

3年前の1月,網野町始め,日本海に面した広い範囲の海岸に,沈没したタンカーから流出した重油が流れ着き,地域の水産業などに大きな被害をもたらしました。この重油の除去には地元の人々を始め各地からボランティアが集まり,厳しい寒さの中で作業が行われました。このように多くの人々が海に関心を寄せ,海の環境を守ろうと努力していることを誠に心強く思います。

京都府においては,ズワイガニの生態研究に基づいた資源管理や,本日皆で放流するマダイやヒラメなどの栽培漁業を積極的に推進し,成果をあげていると聞いております。このような科学的管理や,栽培漁業の発展が水産資源の持続的活用に大きく貢献していくことを期待しております。

この大会が,海に対する関心と理解を更に深め,人々が協力し合って豊かな海をつくっていくための契機となることを願い,大会に寄せる言葉といたします。

第55回国民体育大会秋季大会開会式
平成12年10月14日(土)(富山県総合運動公園富山県陸上競技場)

第55回国民体育大会秋季大会が,冬季,夏季に引き続き,富山県で開催されるに当たり,全国から参加された選手,役員,並びに,多くの県民と共に,開会式に臨むことを誠に喜ばしく思います。

国民体育大会は,スポーツを愛する多くの人々の熱意により,戦争の終わった翌年,様々な厳しい状況を乗り越えて始められました。以来55回,国民体育大会は各地のスポーツの普及と振興に大きな役割を果たしてきました。ここに大会関係者のたゆみない努力に対し深く敬意を表します。

国民体育大会の秋季大会が富山県で開催されるのは,第13回以来,42年振りのことであります。ここに集う選手の一人一人が,日ごろ鍛えた力と技を十分に発揮されるよう,そしてお互いの間に友情をはぐくみ,富山県民との交流を深められるよう願っています。

豊かで自然に恵まれた富山県で,多くの県民に支えられて開催される「2000年とやま国体」が,長く心に残る,実り多い大会となることを期待し,開会式に寄せる言葉といたします。

拓殖大学創立百周年記念式典
平成12年10月24日(火)(ホテルニューオータニ)

拓殖大学創立百周年に当たり,海外からの参列者を含む大勢の関係者と共に,この記念式典に臨むことを,誠に喜ばしく思います。

拓殖大学は,前世紀最後の年に当たる明治33年,台湾の開発と殖産興業の発展に貢献できる人材の育成を目指し,桂太郎校長の下に台湾協会学校として設立されました。

校名が拓殖大学となるのは,第1次世界大戦が終わって間もない大正7年のことでありますが,そのころ作られた校歌には青年の海外雄飛の志と共に「人種の色と地の境 我が立つ前に差別なし」とうたわれています。当時多くの学生がこの思いを胸に未知の世界へと大学を後にしたことと思われます。

第2次世界大戦後,日本と日本を取り巻く環境は大きく変わりました。しかし,「積極進取の気概とあらゆる民族から敬慕されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成」という建学の精神は今日に生きるものであり,日本が今後ますます国際社会の平和と繁栄に貢献していくためにも,この大学から,国内においてはもとより,開発協力を始めとする様々な分野で世界を舞台に活躍する人々が数多く送り出されていくことを期待しております。

この百周年の機会に,拓殖大学の関係者が過去に学び,良き未来を目指して,大学を更に発展させていくことを願い,お祝いの言葉といたします。

短期大学教育50周年記念式典
平成12年10月25日(水)(ホテルグランドパレス)

全国から参加された皆さんと共に,短期大学教育50周年の記念式典に臨むことを,誠に喜ばしく思います。

戦後,新たな教育制度がつくられていく中で,昭和25年,短期大学は,当初,暫定的な制度として発足しました。当時は大学へ進む人の割合も少なく,しかもそれ以前の社会にあっては,女子が大学教育を受けることは極めて困難な状況にあったことから,短期大学の設立は,特に女子教育の場として非常に意義深いものであったと思います。

その後,短期大学は私学を中心に年々発展を続け,昭和39年には恒久的な制度として確立され,女子の高等教育の普及や専門的な職業教育の実施など,我が国の高等教育において,極めて重要な役割を果たしてきました。ここに,永年にわたり短期大学の教育や運営に携わった関係者の努力に対し,深く敬意を表します。

近年,技術革新や社会の情報化,国際化が急速に進み,その中で,短期大学の果たすべき役割もますます重要なものとなってくると思われます。

今後,全国の短期大学関係者が,教育内容の充実に努めるとともに,地域社会あるいは4年制大学との連携を図るなど,互いに協力し合いつつ,短期大学教育の一層の発展のために力を尽くされるよう願い,お祝いの言葉といたします。

文化財保護法50年記念式典
平成12年10月30日(月)(国立劇場)

文化財保護法50周年に当たり,多くの関係者と共にこの記念式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。

我が国は古来外国の文化を取り入れる一方,自国の文化を大切に守ってきました。法隆寺や東大寺には,1,200年以上の歳月を経てきた建物があり,また,当時東大寺に献納された聖武天皇,光明皇后ゆかりの品々は厳密な管理の下に正倉院に保管されてきました。

こうした個々の分野における文化保存への努力に加え,明治4年には行政的にも文化遺産を保護しようという目的をもった太政官布告が発せられています。当時我が国は文明開化の波と廃仏()釈の嵐を受け,貴重な文化遺産の散逸を防ぐことが緊急の課題でありました。以来,文化遺産の保護は,先人の努力により,充実し,国宝の制度も制定されました。

第2次世界大戦による戦災は,国宝を含む文化遺産に取り返しのつかない影響をもたらしました。特に,戦場となった沖縄県では,国宝首里城を始めとする文化遺産が多く失われました。今日,首里城は人々の努力により復元されましたが,琉球国王の王宮として使われていた首里城をもはや見ることはできず,非常に残念なことに思います。

昭和25年に制定された文化財保護法は,戦後の厳しい状況下,文化財の散逸,荒廃を救うことを目指し,昭和24年の法隆寺金堂壁画の焼失を契機として生まれました。なお,金堂壁画焼失の翌年には金閣寺も焼失しましたが,その少し前に解体修理中の金堂と金閣寺を訪れた私には,このように続いて掛け替えのない国宝が火災に遭ったことが深く心に残っています。

新たに制定された法律には,無形文化財,民俗文化財,埋蔵文化財も加わり,我が国の人々が昔から今日まで守り伝えてきた文化が広く保護されるようになりました。

我が国は自然災害が多く,また文化財も木造建築など保存の容易でないものが多いにもかかわらず,立派に守られてきていることは誠に心強いことであります。このことは,今日表彰を受けられた文化財保護功労者を始めとする多くの人々の努力と協力の成果によるものと深く敬意を表します。

人類が作り出してきた文化を現代に伝える文化財を保護することは,世界の多くの人々に共通した願いであります。今日,我が国を始め世界の人々が各地の文化財を世界の共有する貴重な人類の財産として,その保護に協力していることをうれしく思います。

文化財保護法50周年を契機として,関係者が文化財保護の歴史を顧みつつ,文化財の在り方や役割の重要性を思い,文化財保護制度の一層の充実を図ることを願い,式典に寄せる言葉といたします。

全国私立学校審議会連合会創立50周年記念式典
平成12年11月10日(金)(椿山荘)

全国私立学校審議会連合会創立50周年に当たり,各都道府県から集まられた審議会委員と共にこの式典に臨むことを誠に喜ばしく思います。

明治以来,私立学校はそれぞれの建学の精神に基づいた教育を行うことによって,我が国の学校教育の重要な一翼を担ってきました。特にこの連合会創立以来の50年にわたる歴史を振り返るとき,戦後の厳しい状況の中で私立学校教育に携わり,様々な苦労を重ねつつ,人々を育て,社会に送り出してきた先人の努力がしのばれます。ここに,永年,私立学校教育の充実に力を尽くしてきた関係者に深く敬意を表します。

近年,我が国の社会は,少子高齢化,国際化,情報化など,大きな変化が起こっており,こうした社会状況が学校教育にも大きな影響を与えていることと思います。その中で,私立学校がそれぞれの特徴をいかし,理想をもって人々を育てることは,日本の明日の社会を健全に,志高く築いていく上で非常に大切なことであると思います。

私立学校審議会委員が,50年にわたる経験を基に,今後とも私立学校教育のために力を尽くしていかれることを願い,式典に寄せる言葉といたします。

第16回国際生物学賞授賞式
平成12年11月27日(月)(日本学士院会館)

シーモア・ベンザー博士が第16回国際生物学賞を受賞されたことを心からお祝いいたします。

今回の授賞分野は発生生物学でありますが,博士は発生生物学の研究に携わる前に既に他の分野で研究業績をあげておられます。最初は物理学の分野でフォトトランジスターの研究により学位を得,さらに分子遺伝学の分野でその発展に大きく寄与されました。発生生物学の分野の研究としてはキイロショウジョウバエの様々な神経系突然変異体を材料として神経系の発生遺伝学的研究の推進に多大な貢献を果たされました。博士の御研究の中には我が国の堀田凱樹(よしき)博士との共同研究もあり,その研究を通して新しい分野としての分子行動学が確立されたことを知り,うれしく思いました。

ベンザー博士の行動異常突然変異体に基づく神経系の発生遺伝学的研究がショウジョウバエの研究にとどまらず,あらゆる脊椎(せきつい)動物やヒトの神経発生の分子機構の研究へと発展し,発生生物学の分野の進歩に大きな役割を果たされたことに対し,深く敬意を表します。

博士の御研究とそれに関連する様々な研究が今後更に大きな成果をもたらし,生物学の発展に寄与することを期待し,授賞式に寄せる言葉といたします。

議会開設百十年記念式典
平成12年11月29日(水)(国会議事堂)

本日,議会開設百十年記念式典に臨み,皆さんと一堂に会することは,私の大きな喜びとするところであります。

国会が,110年の歳月にわたり,議会政治の確立に努め,国運の進展と国民の福祉に大きく貢献してきたことは,深く多とするところであります。

現下の内外の複雑な諸情勢に思いを致すとき,国会が,国権の最高機関として,我が国の繁栄と世界の平和のため果たすべき責務は,いよいよ重きを加えていると思います。

ここに,関係者一同は,先人の努力をしのび,決意を新たにして,国会の使命達成のため,一層尽力されることを切に希望します。

東京女子医科大学創立百周年記念式典
平成12年12月5日(火)(ホテルオークラ)

東京女子医科大学が創立百周年を迎えるに当たり,皆さんと共に,この記念式典に臨むことを,誠に喜ばしく思います。

東京女子医科大学は,当時低かった婦人の社会的地位の向上を願う女医吉岡彌生により明治33年東京女医学校として創立されました。医院の一室を教室にした生徒4人のささやかな学校の門出でありました。開校8年目にして生徒の一人,竹内茂代が医術開業の国家試験に合格し,初めて学校の卒業式が行われました。この医術開業試験の合格は学校中を喜びに浸らせるものでありましたが,卒業式に招かれた来賓の祝辞は女医の進出を祝福する発言とそれに反対する発言に分かれ,決して祝賀としてのみの行事とはなりませんでした。女性が生きる上において今日では考えられないような厳しい時代であったことが察せられます。東京女子医科大学の100年の歴史を振り返るとき,幾度も人々の無理解に傷つきつつ,本人の強い意志をもって様々な困難を乗り越え,その後の女医の道を切り開いていった吉岡彌生始め当時の女医の苦労がしのばれます。

東京女医学校は,吉岡校長始め,多くの人々の努力により,東京女子医学専門学校,東京女子医科大学と名称を変えつつ発展し,今日に至っています。その間,多くの医学,医療に携わる人々を世に送り,我が国の医学,医療に貢献した功績は大きく,ここに深く敬意を表します。

この100年の間に,吉岡彌生の女医学校創立の動機となった婦人の社会的地位も次第に変化を遂げてきました。昭和21年,戦後に行われた最初の衆議院総選挙で婦人参政権が初めて認められ,竹内茂代議員が誕生したことは,少年時代の私の記憶にもはっきり残っています。婦人参政権が認められたことは,戦後に行われた大きな改革の一つでありました。

今日,医学,医療は関連諸科学の発展とあいまって,非常な進歩を遂げています。この進歩により,人々の受ける恩恵は計り知れないものがありますが,一方進歩していく医学,医療に携わる人々の仕事に対する厳しい姿勢や人間性が,より深く問われるようになってきていることも事実であると思います。

東京女子医科大学が,そこに流れている至誠と愛の精神の上に立って,医学,医療を志す女性のために,また,医療を求める人々のために,今後とも大きな支えとなっていくことを願い,式典に寄せるお祝いの言葉といたします。

西暦2000年酸性雨国際学会開会式
平成12年12月11日(月)(つくば国際会議場(茨城県))

西暦2000年酸性雨国際学会が,世界の国々から多数の専門家を迎え,ここつくば市において開催されることを誠に喜ばしく思います。

第1回の学会が1975年に米国で開かれて以来,これに続く4回の学会は欧米で催されてきましたが,6回目の今回は欧米から遠く離れた日本で行われ,日本や近隣の国々の専門家も多数加わって,欧米とは異なる状況下にある酸性雨の問題も論じられることは誠に意義深いことと思われます。

酸性雨という言葉は1845年に薬剤師ダクロスによって,そして,1872年に英国の科学者スミスによって使われていることが知られていますが,早くから工業が発達し,石炭が大量に消費された英国では,18世紀後半から酸性雨による被害が深刻化していました。当時の工場の周辺では森林は一面に枯れている状態だったと伝えられています。

一方,日本では工業化が比較的遅く始まったことに加え,自然の条件が酸性雨の被害を軽減するような働きをしてきたので,このことが専門家の間では注目されてはいても,深刻な問題として人々の意識に上るようになったのは,近年になってのことであったと思います。したがって私が酸性雨について知りましたのは,日本の事例によってではなく,酸性雨によりドイツの森林が大きな被害を受けたり,ノルウェーの湖の魚が死滅したという,外国の事例によってでありました。しかし近年,日本においても各地で森林の枯死が現れており,その原因はいまだ確定されてはおりませんが,酸性雨の影響が強く考えられています。日本は急(しゅん)な地形のために,活力ある森林を保持することによって災害から守られている面が強く,山が荒れることは,人々に大きな災害をもたらす危険性を意味しています。

酸性雨の問題は,今日世界中に広がっている問題として考えられなければならないものと思います。この問題に国境はなく,世界の異なる国々の専門家が一致協力して取り組むことが極めて必要なことでありましょう。

今回の会議が実り多い討論を通して地球環境と人類の未来を守るため,大きな成果を収めることを期待するとともに,酸性雨対策の緊急性と重要性に対する人々の理解を深める一つの契機となることを願って開会式に寄せる言葉といたします。