主な式典におけるおことば(平成11年)

皇后陛下のおことば

CWAJ創立50周年祝賀会
平成11年4月21日(水)(ホテルオークラ)

フォリー大使,藤井理事長,井上会長,CWAJの会員及び関係者の皆様

CWAJ(カレジ・ウィーメンス・アソシエイション・オブ・ジャパン)創立50周年の記念すべきこのお席にお招きを頂き、皆様とこのお祝いのひと時を共に出来ますことを、心より嬉しく思います。

この会の活動は1949年,かつてマウント・ホリョーク校に学んだ4人の米国婦人と,2人の日本婦人の友情と善意から始められたと伺っております。戦後の貧しかった時代に,米国の大学で学ぶ奨学金を得たにもかかわらず,渡航費の工面がままならぬ日本の若者たちに,資金援助を行うべく発足したこの会が,その後着実にその活動を定着,発展させ,会員700名,参加国30という、国際色豊かな立派な会に成長して今日を迎えました。これまでにこの会を育てて来られた全ての方々,そして現在もこの会のため,日々尽くしていらっしゃる皆様方に,心をこめて会の50周年のお祝いを申し上げます。「日々お尽くしの方々」と申し上げましたが,この会には夕刻にお仕事をなさる「ナイト・アウルス」と呼ばれる会員の方々もおいでになりますので,お祝いは「日夜お尽くしの方々に」,と申し上げた方がよろしいかもしれません。

私が初めてCWAJの行事に出席させて頂きましたのは,1980年,今から19年前の現代版画展の開会の時でした。会に出席するに先立ち,当時の文化担当副会長でいらした交野さんに会の活動につきお話を伺い,、概要を教えて頂きました。奨学金制度と教育文化活動を二本の柱としたCWAJの活動に私は大きな共感を覚え,また,奨学金援助の資金作りとして,版画即売展を催すという着想にうれしい驚きを感じました。会員はお互いに強い信頼関係で結ばれており,またお一人お一人が,背後で自分を支えて下さっている御家族に,強い感謝の念を抱いておられることを知りました。

その時の版画展開会式の思い出は,私がテープカットのテープを上手に切れなかったことを除き,素晴らしいものでした。展示された美しい版画の数々を楽しみつつ,この様な形で永年CWAJに御協力下さる芸術家の方達の好意を,大層有難く思いました。当日も今日と同じく,会員の方々は活々としてそれぞれの役割を果たしておられ,あの日,会員の方々の間に流れていた,何か喜ばしさに溢れた空気は,今も鮮明に記憶に残っております。

あれから19年の歳月が経ちました。去る2月,今回の50周年式典に先立ち,現会長の井上さんを始め数名のCWAJの役員の方から,この19年間の会の発展の経過を伺っておりました私は、その時私共のおります部屋の空気が,19年前に私が印象づけられたと全く同じ喜ばしさに満ちていることに,快い驚きを禁じることが出来ませんでした。この「喜ばしさ」は,どこから来るのでしょう。私にはそれがCWAJの創立者の方々が,学ぶ志を持ちつつその志を果たせずにいる人々を援助するという,一つの確かな目標をもってこの会を組織されたことと,決して無縁なものではないと思われました。しかもこの目標は、その後に続く方々により,絶えず新しい時代の光の中で吟味検討され,それぞれの時代にふさわしく更新され,より充実した豊かなものにされて来ています。この活々とした組織の中で,必要は常に新しい企画を生み,企画は会員にやりがいのある仕事を提供し,仕事はその過程において,友情と文化交流の芽を育んで来ているように思われます。どうかこの活力と喜びとが,これからもずっとこの会と共にありますように。

今日は会員の方々の作られた,シャンペンの瓶を型どった美しい入場券をもって,楽しみにこの会に伺いました。今回はテープカットがないので安心です。

創立50周年のこのよき日に当たり,CWAJがこれまで果たして来たお仕事の成果に対し,心からのお祝いを申し上げますと共に,会員の方々を始め,今日ここにお集まりになった関係の方々の御多幸と,CWAJのよき未来を祈念し,私の祝辞とさせて頂きます。

日米婦人クラブ50周年を祝う会
平成11年6月9日(水)(ホテルオークラ)

フォリー夫人,清野夫人,日米婦人クラブの皆様,

今日は,この昼食会にお招きを頂き,有難うございました。日米婦人クラブの創立50周年を皆様と共にお祝いし,ひと時を御一緒に過ごすことを心より嬉しく存じます。

日米婦人クラブ設立の構想は,戦後まだ日の浅い1948年,当時日米協会の会長でいらした樺山伯爵のお考えの中で誕生いたしました。平和条約の成立に数年も先立つその頃,男性のみならず,日本の女性たちにも,来たるべき時代を迎える心の準備が必要ではないかとの伯のお考えは,戦前より婦人運動を導いていらした門野夫人に伝えられ,クラブの最初の火種となったのでした。最近頂いたクラブの年鑑─1998年から1999年─には,「日米婦人クラブの初期の歴史」と題し,門野夫人と共にクラブの創設に尽くされた真木夫人の,簡潔で心打たれる一文がのせられております。二国間の新しい関係の始まりに当たり,婦人の手に多くを託された樺山伯,クラブの誕生から一人立ちまでを見守り,真木夫人が文中婦人クラブの「養い親」と表現されている当時の日米協会の会員方,自分に与えられた課題を真剣に受け止め,疎開と戦災で個々人の住所が非常に入手しにくい中,真木夫人と共に一人々々友人を探し当て,参加を求め,組織の基礎を築かれた門野夫人,そしてこの日本の婦人方に,しっかりとした助力の手をさしのべられた在日米国人ブラットン夫人,ダウンズ夫人,ダージン夫人等,こうした方々の洞察と英知,情熱,そして何よりも,来たるべき未来の二国間の平和な関係を築いていくために,お互いがまず知り会い,学び合っていこうという真摯な願いの中から,このクラブが生まれて来たことを,この小さな年鑑に載せられた記事は活き活きと伝えています。

50年前の東京は,まだ戦後の荒廃の中にありました。やがて設立されるクラブの核となられる日米の婦人方が,準備の会合を重ねられたのは,焼け跡に残った建物の中にある日米協会の事務所の一室でした。冬の間,この部屋で暖をとれるのは,室内に置かれたただ一つの火鉢によってであり,この火鉢を囲んで持たれた幾度かの会合につき,真木夫人は,「この初期の会合程に,喜びと友愛に満ちた楽しい会合は,そうめったにあるものではない」と書かれ,この部屋で1949年の6月に,クラブの創立を祝いブラットン夫人が持参され,日本の夫人方にとっては,何年か振りに戦後始めて口にされたレア・ケーキの思い出を書き加えておられます。

あの貧しかった日々,乏しい火で身を温めながら,数年前までお互いに敵味方の関係にあった両国の婦人方が,友情を交し,信頼を培い,共に力を合わせて働かれたこのクラブの創設の歴史を,会員の皆様はどんなに誇りとされていらっしゃることでしょう。この方たちが,一つの組織を誕生させる過程に示された思慮深さ,忍耐強さ,快活さを,きっと皆様はクラブの伝統としてひき継がれ,その同じ精神の元,今日までこのクラブを守り育てていらしたのではないかと想像しております。

その後日米婦人クラブは,日米協会からも独立し,独自の組織となって活動を続けて来ました。清野会長の御説明によりますと,その会員の巾は水平にだけではなく垂直にも広がり,今日ここにいらっしゃる方々の中にも,お母様,もしかしたらおばあ様を,このクラブの会員や旧会員にお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。もう10年以上も前に他界いたしました私の母も、1956年から30余年にわたり,このクラブに連ならせて頂いておりました。

日米の両国は,これまでに深い親密な関係を築いてまいりました。日本の永年の友,マイク・マンスフィールド元駐日大使が,この二国間の交りの深さを語る時,常に「他に比類のない」(バー・ナン)という言葉を附されていたことを思い出します。

両国間には,しかし現在も決して問題がないわけではなく,又関係が深まる上での,これは当然の過程であると考えられます。政治的に,経済的に,両国がむずかしい関係にたちいたった時,双方が寛容と忍耐をもってひと時の試練に耐え,友好の気持ちを保ち合っていくためには,双方の国の巾広い層の国民に,相手国への理解と,善意が貯えられていることが重要に思われます。

創立50周年を迎えた日米婦人クラブが,両国の友好のためこれまでに果たしてこられた役割を高く評価し,クラブの一層の発展を衷心より祈念いたします。どうかこれからも,両国の国民が,お互いの上によきことを願い合い,よき友情を育て,日米間の平和が末永く保たれていきますように。