リンネ誕生300年記念行事での基調講演

英国
平成19年5月29日(火)(ロンドン・リンネ協会)
リンネと日本の分類学 -生誕300年を記念して-(仮訳)

<原文(英文)>

リンネ生誕300年に当たり,ロンドン・リンネ協会からその祝賀行事に御招待をいただいたことに対し,深く感謝いたします。1980 年ロンドン・リンネ協会の外国会員に選ばれた時,それは私には過分のことに思われましたが,一方それは私が公務の間をぬって研究を続けていく上で大きな励 みともなりました。

今日はリンネの業績をしのび,リンネの弟子で日本のオランダ商館の医師として1年間日本に滞在し,「日本植物誌」を書いたツュンベ リーなどにふれつつ,欧州の学問がいかに日本で発展してきたかということをお話ししたいと思います。

1707年スウェーデンに生まれたカール・フォン・リンネは,1735年,28歳の時「自然の体系」第一版を著し,新しい分類体系の 概要を示しました。それによると,植物界は雄しべの数などによって24綱に,動物界は四足動物,鳥類,両生類,魚類,昆虫,蠕虫の6綱に,鉱物界は岩石, 鉱物,採掘物の3綱に分類され,それぞれの綱はいくつかの目に分けられ,更に目の中にはいくつかの属が例示されています。リンネは,自然が神によって秩序 正しく整然と造られていることを確信し,この自然の秩序を見出し,神によって造られたものを分類し,命名し,自然の体系を完成することを目指していまし た。しかし,雄しべの数によって植物の綱を分けるというリンネの分類体系では,例えば雄しべの数が違っているだけで,他の特徴が極めて類似した種の間でも 綱を異にすることになり,また,雄しべの数が同じというだけで,他の特徴が非常に相違している種が同じ綱に含まれることになります。このような観点から, あらゆる特徴を総合的に判断して分類しなければならないという主張が強くなり,リンネの分類体系は系統を重視した分類体系にとって代わられました。

しかし,リンネが創始した二名法の学名は,世界共通の動植物の名称として,今日,学界はもとより多くの人々によって使われています。 二名法の学名は,その種が属する属名とその種を指す種小名の結合によって成立っています。リンネが二名法を創出する以前の学名は,その種が属する属名と, その種を同属内の他種から区別する特徴の記述が結合して出来ていました。したがって,一属の中の種数が多くなれば,属内の他種と区別をするための記述が詳しく なり,語数が増え,不便なものになりました。リンネはこの不便を解消するために,学名には種の特徴を示す記述を含めず,学名は属名と種小名の結合した名称 だけのものとし,種の特徴を示す記載は別項に記すという扱いにこれを変更したのです。なお,国際植物命名規約と国際動物命名規約では,同じ種に複数の学名 が付けられている場合,その中で最も古い学名を採用することをそれぞれ規定しています。種子植物とシダ植物では1753年にリンネが著した「植物の種」第 一版,動物ではクモのモノグラフとしてクレックの著した「Aranei Svecici」とリンネが著した「自然の体系」第十版の二つを1758年1月1日に出版されたものとみなし,それぞれそこに収められた種の学名を最も古 い学名として認めることを規定しています。それ以前に発表された種の名称は,学名としては認められないことになっています。

リンネは,「植物の種」第一版やその後の著作の中で,多くの日本の植物に学名を付けて記載しています。Camellia japonica(ヤブツバキ)などは,リンネが「植物の種」第一版の中に記載したもので,今日もこの学名が使われています。これらの植物は,1690年 から2年間日本に駐在したオランダ商館のドイツ人医師ケンペルが,1712年にその著「廻国奇観」の中に図示した植物であります。当時,日本は鎖国をして おり,日本人の海外渡航は禁止され,外国人の来日も厳しく制限されていました。鎖国はキリスト教の禁止を徹底させるために行われたことから,キリスト教の 布教を行わず,通商のみの関係にあったオランダ人の来日は認められていました。しかし,来日したオランダ人は,長崎の海上に築かれ,橋で結ばれた人工の 島,出島に隔離され,許可なく出島を出ることは出来ませんでした。ただ,オランダ商館長は,医師などの随員と共に,1年に1度,江戸,今の東京に将軍を訪 問することになっており,ケンペルはこの間2回の江戸往復を,それぞれ80日以上かけて行っています。ケンペルは,日本滞在中植物の写生図を作り, 1712年に出版された「廻国奇観」に載せたのでした。ケンペルの写生図256枚は,現在,(英国の)自然史博物館に保存されています。

ケンペルの離日から83年後,1775年にオランダ商館の医師としてスウェーデン人ツュンベリーが赴任してきました。ツュンベリーは リンネの弟子で,後にリンネと同じくウプサラ大学の植物学と医学の正教授になった人です。ケンペルもツュンベリーも鎖国下の日本に来たオランダ商館の医師 でありましたが,ケンペル来日の時代と異なり,ツュンベリー来日の時代は日本の医師の間で欧州医学に対する認識が深まっている時でありました。このような 変化は,将軍徳川吉宗が1720年,かつてキリスト教思想の流入を阻むために設けられた禁書令を緩和し,キリスト教の教義とは無関係な漢籍の西洋科学書の 輸入を認めたことから,西洋科学の研究が活発になり,オランダ語の医学書に関心が払われるようになったからです。従来の中国由来の医学を学んできた山脇東 洋も,オランダからの輸入医書の図がそれまで学んできたこととあまりに違うことに注目し,真疑を確かめるため,1754年,官許を得て人体解剖を行い,そ の結果を「臓志」として刊行しました。以後解剖はしばしば行われるようになりました。ツュンベリー来日の前年,1774年には,杉田玄白を始めとする江戸 の医師が集ってオランダ語から訳した「解体新書」が刊行されました。解剖を実見して,オランダ語の解剖書の正確さを確認したことが,この訳を始めるきっか けとなったのです。集った人々の中にはオランダ語の出来る人もいましたが,訳出作業の中心になった玄白は,それまでアルファベットも習っていませんでし た。訳出作業は困難を極めましたが,玄白の,1日も早く訳書を世に送り出し,医学に貢献したいという熱意により,3年間で「解体新書」は刊行の運びとなり ました。

ケンペルの没後出版された「日本誌」には,2度の江戸訪問中1回だけ,一人の医師がケンペルに病気について医学上の見解を聞きに来た ことが記されていますが,ツュンベリーの「江戸参府随行記」には,江戸到着後すぐに医師五人と天文学者二人が彼を訪ね,更に官医桂川甫周とその友人中川淳 庵は,毎日のようにツュンベリーを訪ねて,時には夜おそくまで様々な科学につき,ツュンベリーから教えを受けたことが記されています。両人は「解体新書」 の訳に参加した人で,「解体新書」には,杉田玄白訳,中川淳庵校,桂川甫周閲と名をつらねています。二人とも,とくに淳庵は,かなりオランダ語を話し, ツュンベリーは彼らが持ってきた生の植物の和名を聞き,ラテン名とオランダ名を彼らに教えたと書いています。

ツュンベリーと二人の医師との交流はツュンベリーの帰国後も続き,ツュンベリー宛ての日本人二人の医師の書簡は,ウプサラ大学に保管 されています。私は皇太子であった1985年,皇太子妃と共にウプサラ大学を訪問し,スウェーデン国王,王妃両陛下とそれらの書簡を見,そのことは私ども の心に深く残るものでした。

リンネが創始した学名がいつ日本人に伝えられたかということはわかりません。先にお話したように,ツュンベリーの「江戸参府随行記」 の中には桂川甫周と中川淳庵に植物のラテン名を教えたという記述があります。しかし,この「江戸参府随行記」の記述をもって学名が日本に伝えられたと言い 切ることには,やや疑問が残ると私は思っています。

学名が日本で使用されるようになるのは,1823年,オランダ商館にドイツ人医師シーボルトが赴任してから後のことになります。シー ボルトが日本に来た頃には,日本人の中にオランダ語を解する人も多くなり,長崎の郊外にシーボルトの塾がつくられ,診療も行われていました。また,シーボ ルトは病人の往診や薬草の採集に出島を出ることが出来るようになりました。

このような状況下,1829年,日本で初めて学名を用いた本が伊藤圭介により著わされました。圭介は,シーボルトが日本にもたらした ツュンベリーの「日本植物誌」の学名をアルファベット順に記し,これに和名を付し,「附録」にはリンネの分類体系を「二十四綱解」として紹介しています。 圭介はシーボルトの教えを長崎で半年間受け,出身地の名古屋にもどる時に,ツュンベリーの著書を贈られました。そして「泰西本草名疏」の草稿を長崎に送 り,シーボルトの校閲を受けています。

米国艦隊の来航により,200年以上続いた鎖国政策に終止符が打たれ,1854年日米和親条約が結ばれました。引続いて,日本は各国 と国交を開くようになりました。1867年,徳川慶喜が将軍職を辞し,明治天皇の下に新しい政府がつくられると,政府は留学生を外国に送り,外国人教師を 招聘し,人々は欧米の学問を懸命に学びました。この時,日本に招聘された外国人教師の貢献は誠に大きく,また,留学生もその後の日本の発展に様々に寄与し ました。

19世紀における日本人の学問上の業績としてあげられるのは,1896年の平瀬作五郎によるイチョウの精子の発見であります。平瀬作 五郎は東京大学植物学教室に画工として勤め,後に助手となった人ですが,イチョウの精子が泳ぎ出すことを観察し,論文にして植物学雑誌に発表しました。こ の一月後,平瀬作五郎の研究に協力した東京大学農科大学助教授池野成一郎がソテツの精子発見を同じく植物学雑誌に報じています。シダ植物に精子があること は知られていましたが,裸子植物に精子があることが見出されたのは世界で初めてのことです。この発見は当初は信じられず,翌年の1897年アメリカで同じ ソテツ科のザミアで精子が見出されてからこの事実が信じられるようになりました。この業績により,二人は1912年,学士院恩賜賞を受けました。イチョウ は中生代ジュラ紀に最も栄えましたが,その後中国だけに残った一目一科一属一種の,系統上独特の裸子植物です。古く中国から日本に移され,リンネによって ケンペルの図を元に学名がつけられました。平瀬作五郎の研究したイチョウは今も東京大学の小石川植物園にあり,昨年小石川植物園を皇后と訪れ,当時の研究 に思いをいたし,そのイチョウを見て来ました。

20世紀になると日本の分類学も進み,新種の発表もだんだん行われるようになりました。しかし,それ以前には,日本の動植物は欧州の 研究者によって学名を付され,当然のこととしてそれらの命名の際使われた基準標本は欧州の博物館に保管されました。このため,日本の研究者が日本の動植物 を新種として記載するにあたり,それら外国に所在する基準標本を一つ一つ調べねばならず,その苦労は決して小さいものではありませんでした。多くの人々の 努力により,今日,日本産の種子植物,シダ植物,魚類を除く脊椎動物には皆学名が付けられています。しかし,魚類については学名の付いていないものがまだ まだあります。特にハゼ亜目魚類には,これから学名を付けていかなければならないものが多くあります。私が研究を始めた頃,日本産の魚類を調べるのに常に 用いていたのが1955年に出版された松原喜代松博士の「魚類の形態と検索」でありました。日本産の魚類を網羅したもので,検索で調べられるようになって いました。その中には亜種を含め,ハゼ亜目魚類134種類が載せられていました。最近2002年に出版された「日本産魚類検索」では,亜種を含めハゼ亜目 魚類は412種類に増加しており,この中,45種には和名が付けられてはいますが,まだ学名は付けられていません。

私がハゼ亜目魚類を研究しようとした時,私が関心を持った二つの文献があります。一つはゴスライン博士の1955年に発表された 「The osteology and relationships of certain gobioid fishes,with particular reference to the genera Kraemeria and Microdesmus」であり,もう一つは未公刊の高木和徳博士の学位論文である「日本水域におけるハゼ亜目魚類の比較形態,系統,分類,分布および生 態に関する研究」です。私はこれらの論文を参考にしつつ,一方で多数のハゼ亜目魚類の種類の骨をアリザリン・レッドで染色して類縁関係を調べ,また他方で 頭部感覚管と孔器列の配列によって,種の違いを調べて,分類学的研究を進めました。

振り返って見ますと,1960年代は日本ではまだ頭部孔器の配列によってハゼ亜目魚類を分類するということは行われていませんでし た。したがって,私が1967年孔器の配列によって日本産のカワアナゴ属四種の分類を日本魚類学雑誌に発表した時には,その分類にかなり疑問を持った人も いたようです。しかし現在,孔器の配列はハゼ亜目魚類の分類の重要な要素になっており,この分野で何がしかの貢献が出来たことをうれしく思います。

リンネが創始した二名法は世界の分類学に普遍的な基準を与え,世界の分類学者が共通の言葉をもって自然界に存在するものを語り合うこ とができるという,計り知れない恩恵をもたらし,その後の分類学は,この二名法を基盤として今日までその発展を続けてきました。始めにも述べましたよう に,その後の分類学の発展の中で,雄しべの数により綱を分けていくという彼の分類法は,雄しべのみでなく,もっと総合的特徴により,これを判断するという 説にとって代わられました。この時代,まだ系統を分類の基盤に置くという発想がなかったことは当然のことで,ここリンネ協会においてダーウィン,ウォーレ スの進化論が初めて世に問われ,系統という観念が,新たに学問の世界に取り入れられるようになったのは,リンネから約100年の後のことになります。

今日,学問の世界では,進化を基盤とする分子生物学という更に新しい分野がめざましい発展をみせ,これにより系統を重視し,分類学に おいてもこれを反映させていく分類学が,より確実なものとして主流を占めてきています。

若い日から形態による分類になじみ,小さな形態的特徴にも気付かせてくれる電子顕微鏡の出現を経て,更なる微小の世界,即ちDNA分 析による分子レベルで分類をきめていく世界との遭遇は,研究生活の上でも実に大きな経験でありました。今後ミトコンドリアDNAの分析により,形態的には 区別されないが,分子生物学的には的確に区別されうる種類が見出される可能性は,非常に大きくなるのではないかと思われます。私自身としては,この新しく 開かれた分野の理解につとめ,これを十分に視野に入れると共に,リンネの時代から引き継いできた形態への注目と関心からも離れることなく,分類学の分野で 形態のもつ重要性は今後どのように位置づけられていくかを考えつつ,研究を続けていきたいと考えています。

リンネ生誕300年を迎え,形態上の相違によって分類されてきた分類学は,新たな時期を迎えたことを感じています。

終わりに当たり,リンネ協会のこの度の御招待に対して改めて感謝の意を表し,リンネ協会の一層の発展をお祈りします。