天皇陛下お誕生日に際し(平成12年)

天皇陛下の記者会見

会見年月日:平成12年12月20日

会見場所:宮殿 石橋の間

記者会見をなさる天皇陛下
記者会見をなさる天皇陛下
(写真:宮内庁)

宮内記者会代表質問

問1 この一年と今世紀を振り返って,印象に残られた出来事と,それぞれに対する感想をお聞かせください。
天皇陛下

考えてきたことが十分に言い表せないといけないと思いましたので,原稿を見ながら答えさせていただきます。

今年一年を振り返ると,いろいろなことがありましたが,自然災害の面では北海道の有珠山,三宅島の雄山の噴火による災害が挙げられると思います。噴火は今日まで続いており,見通しも立たず,避難生活を続けている人々のことを考えると,心が痛みます。三宅島では島民全員が避難していますが,島民が島で築いてきたものが,泥流や火山灰に埋もれていく厳しい状況を見ている島民の気持ちはいかばかりかと察せられます。噴火が収まり,少しでも良い兆しが見えてくることを願っています。なお,このような状況の中で,島の電力施設や火山性ガスの観測に携わっている人々の安全や健康の面が気遣われます。本当にご苦労のことと思います。

そのほかに,新島・神津島の近海地震,鳥取県西部地震,それに愛知県を中心とした大雨の災害がありました。地震で神津島で1人,また,大雨で10人の死者が生じたことは本当に残念なことでありますが,有珠山,三宅島を含め,それ以外の災害で亡くなった人がいなかったことは,本当に幸いでした。これまでの災害に対する教訓をいかし,県や市町村の関係者の対応よろしきを得たこと,また自衛隊・消防・警察・気象庁などの関係者の対応が良く行われ,また,多くのボランティアが活躍したことも,心に残るものでありました。

今年はシドニーオリンピックとパラリンピックが行われた年で,多くの日本選手が活躍し,大変喜ばしいことでした。皇后と私は,オリンピックが東京で開かれた時の後のパラリンピック東京大会と,それに続く全国身体障害者スポーツ大会に25回までかかわってきましたので,この度のパラリンピックに対して多くの日本の人々が深い関心を示し,障害者に対して理解を深めたことをうれしく思っています。かつて,身体障害者のスポーツは,リハビリテーションの一環として考えられていたことを考えると,この度のパラリンピックを見る人がスポーツとして見ていることに深い感慨を覚えます。

私自身のこととしましては,5月にオランダとスウェーデンを国賓として訪問したことが挙げられます。オランダ女王陛下,スウェーデン国王陛下が多くの行事にご一緒してくださり,また,多くの人々から歓迎を受けたことを深く感謝しています。なお,この機会に,時差調節の意味を兼ねてスイスのジュネーヴと,週末を過ごすためにフィンランドのヘルシンキに立ち寄りましたが,両国の大統領閣下始め人々から温かい気持ちで迎えてくれたことが深く心に残っています。オランダと日本は400年という交流の長い歴史がありますが,さきの大戦では戦火を交え,オランダ人の対日感情には非常に厳しいものがあります。女王陛下も私どもも,共に20代のころから度々お会いして,両国間の友好を念願してきましたが,両国の人々の努力によって,近年,友好関係が深まってきていることは,この度の訪問でも感じられ,うれしく思っています。両国民が400年に及ぶ交流の歴史を正しく顧み,友好関係の更なる増進のために力を合わせていくことを期待しています。

香淳皇后の崩御は,この訪問から帰国して間もない時でした。私どもの帰国の時には葉山にいらっしゃり,帰国後もお元気にお見受けしました。このような日々がずっと続くように思っていましたが,突然の崩御は私どもにとって大きな驚きでした。そして,隣の吹上大宮御所には,もういらっしゃらないのだという寂しさを深く感じました。

今世紀の印象に残る出来事としては,まず,2度にわたって世界大戦が戦われたということが挙げられると思います。特に第二次世界大戦は,軍人のほかに非常に多くの一般の人々が犠牲になった痛ましい戦いでした。前世紀と異なり人類の大量殺戮(さつりく)が行われることになったことは,今世紀の科学技術の進歩と決して無縁ではないと思います。しかし,一方で科学技術の進歩は,人々の生活を豊かにし,数々の恩恵を人々にもたらしていることも事実です。科学技術を,人類に不幸をもたらすことなく,人類全体のために役立てるよう発展させていくことが,今後,科学技術に携わる人々に対して切に求められるところだと思います。

ベルリンの壁の崩壊と,それに続くソビエト連邦諸国の独立も,今世紀における印象深い出来事であったと思います。この出来事により,戦後から長く続いた冷戦が終焉(しゅうえん)し,それまで秘密に覆われ,他からうかがい知ることのできなかった世界の大きな部分が外に開かれました。世界の多くの国々が,互いに理解し,交流し合える基盤がこのようにして作られたことは,極めて意義深いことであったと思います。平和な国際関係も良好な地球環境も,このような基盤があって達成されていくものと考えます。

日本に関することでは,今世紀の前半は,その初期に日露戦争が戦われ,末期に第二次世界大戦が終わるという(しげ)く戦争の行われた時代でした。私の記憶がはっきりしてくるのは,第二次世界大戦に日本が加わってからのことです。平和条約の発効は,私にとって喜びとともに深く心に残るものでありました。ちょうどこの時に私は18才に達していましたので,成年皇族としての最初の務めがここから始まったからです。それは,新たに着任した大使と会う行事でした。日本が独立して国際社会に加わったことを実感しました。

沖縄返還も印象深い出来事でした。日本への復帰を願いつつ,20年間もその実現を待たなければならなかった沖縄県の人々の気持ちを,忘れてはならないと思います。深夜に行われた返還式の映像が,このことを思うと思い起こされてきます。

関東大震災が起こったのは私が生まれる以前のことでしたが,今世紀後半には,まだ,記憶に新しい阪神・淡路大震災があり,6,400人を超す犠牲者が生じ,本当に痛ましい災害でした。この災害は,コンクリート建造物の安全性など震災に対する様々な教訓を与えました。この災害でのボランティアの活躍は目覚ましく,全国に連帯の輪が広がったことは心強いことでした。

20世紀もあとわずかになりました。今世紀に人類が成し遂げたこと,そして,その結果として起こったことを顧み,これを来世紀の糧として,人々がより確かな歩みを進めていくことを願っています。

問2 この秋,皇后様が体調を崩されて検査を受けられました。ご公務の負担軽減はなかなか難しいようにも拝見いたします。健康面について,皇后様に対して,また陛下ご自身で気を付けていらっしゃることなどがありますでしょうか。
天皇陛下

今年は5月に外国公式訪問があり,帰国後十分に休養する間もなく,香淳皇后が崩御になりました。崩御後は斂葬(れんそう)始め大喪儀関係の行事,また,それに関連する様々な仕事やしん殿(しんでん)殯宮(ひんきゅう)への祗候(しこう)などが続きました。忙しく心の重い日々でありました。皇后が一連の行事を心を込めて務め,共に静かに香淳皇后をお見送りしたことは寂しさの中にあった私にとって大きな支えとなりました。このような心身の疲労が重なったことと思いますが,百日祭の日に目の発作が起こり,また(せき)もこのころからひどくなりました。百日祭を始めそれをやめるということのできない様々な行事が続き,したがって両眼の緑内障予防の切開術や様々な健康検査も公務の合間を縫ってあるいは週末に行われました。特に目の手術の前後は皇后にとっても厳しいものがあったと思っています。この手術の後で,「これからは離島や遠隔地にも安心してお供できます。」とうれしそうに言っていました。十数年前からこの心配は知らされていたようですが,口には出していませんでしたが,やはりずっと目のことは気に掛かっていたんだと思います。

公務については,私も皇后も務めであればするのが当然だと思って過ごしてきました。終戦後数年ほどの間に様々な制度ができ,ちょうどここ数年はそれらの制度の50周年を迎えています。そのための忙しさが今年などは普通の年よりも多くなってきていると思います。

健康については運動を勧められていますが,このように忙しいとなかなかテニスなどをする暇もありません。私もテニスは好きですが,この秋はほとんどテニスをしませんでした。早朝の散歩と御所と宮殿の往復を歩くことが今は運動になっています。

問3 今年6月に,香淳皇后がお亡くなりになりました。お別れの時のお気持ちや,印象に残っている出来事,お言葉などがありましたらお聞かせください。
天皇陛下

吹上大宮御所は,私どもの住んでいる御所からすぐの所にあります。週末には大抵皇后や紀宮,時には秋篠宮一家を交えて吹上大宮御所をお訪ねしていました。皇后は,香淳皇后がお元気であったころと変わりなく心を込めてお尽くししていました。また,秋篠宮の子供たちが一緒の時には,いつも子供たちを香淳皇后のおそばに連れて行き,二人が皇后に倣いお手を一生懸命さすったりしているのが印象に残っています。香淳皇后が崩御された時に,秋篠宮家の子供たちが,お見舞いしたいということを言ったことを,秋篠宮が話していますが,このようなことから香淳皇后に親しみを感じていたことと思います。香淳皇后がもう御生存ではいらっしゃらないのだということをしみじみと感じたのは,崩御の夜,祗候(しこう)のために吹上大宮御所を訪れた時のことでした。帰り道,空を仰ぐと月がこうこうと照っていました。昭和天皇崩御から11年,吹上大宮御所に勤める職員が皆誠意を持って勤めてくれたことを感謝しています。香淳皇后は,早くから高齢化の兆しがおありになり,香淳皇后とお話らしいお話ができたのは随分前のことになります。その分を昭和天皇がお心を遣われ,私どもの子供たちとの話も務めてくださったことを感謝とともに思い出します。香淳皇后について印象に残っていることは多々ありますが,戦後親子兄弟が,一緒に過ごす機会が多くなったころの香淳皇后の朗らかな印象は,私の記憶に深く残っています。

問4 紀宮様は欧州訪問など,多忙なご公務をこなされています。紀宮様のご様子と将来について,希望されることがありましたら,お聞かせください。
天皇陛下

紀宮は今年の10月,スロバキア,スロベニア,アイルランドを訪問し,それぞれ交流を深めていったことをうれしく思っています。また,与えられた国内の行事も一生懸命務めています。このような皇族としての公的な面ばかりでなく,私的な様々な面で私どもの力になってくれており,皇后の健康にもいつも非常に優しく心を配っています。この先も,紀宮が幸せで実り多い人生を歩むことを願っています。

問5 最近,ご訪問先での通行人に対する過度な規制や,度重なるリハーサルに伴う車の渋滞など,行幸啓の際の警備が過剰になり,市民生活に影響が出ているケースが見られます。両陛下の警備について,陛下がふだんお考えになっていることや,最近お感じになったことがあればお聞かせください。
天皇陛下

私の皇太子のころは警備が非常に厳しく,対向車も止めるという時代でした。私どもが各地を訪問する時,どうしても規制による影響が出ることは常に心苦しく思うことですが,近年は対向車を通すなど,警察も工夫や努力を重ねてくれていることをうれしく思っていました。この度の質問にある,度重なるリハーサルということは初めて耳にすることですが,このような質問に対しては私はお答えを控えたいと思います。できるだけ市民生活を妨げない警備ということは,警察も心掛けていると考えられますので,宮内庁が警察と十分に話し合い,良い道を求めていくことが大切と思います。

関連質問

問 今世紀を振り返るというお答えがございました。いろんな出来事を挙げられましたけれども,同時にこの100年というのは,皇室にとっても大きな変化,動きがございました。この100年の皇室の動き・変化をどのようにご覧になっていらっしゃるか,また同時に,21世紀に向けての皇室の在り方についてお考えをお聞かせいただきたいと存じます。陛下はこれまでも,折に触れて,そのようなお考えを述べていらっしゃいますけれども,世紀末ということで改めてここでお考えをお聞かせいただければと存じます。
天皇陛下

ちょうど今世紀の始まりというと,明治34年になると思います。ちょうど昭和天皇のお生まれになった年です。この時には,もう大日本帝国憲法はできていますし,それに沿って,皇室の在り方は規定されていたことと考えます。また,外国との交際も非常に皇室としては,重視しておりましたし,明治天皇の御製にも「とつくに(外国)とむつみかわす」というのがよくありますが,そのような明治天皇のお気持ちであったと思います。そして,翌年には,日英同盟が成立しています。このようなことから考えて,昭和の初めまでは,各国との親善関係を結んでいき,そして,国内的には憲法を守っていくということが皇室の在り方であったと考えます。その後,日本の方向は,その方向とは離れたものになっていき,昭和天皇の非常にご苦労の多かった時代が続くわけです。本当に先ほども言いましたように,今世紀の前半は,戦争の多い時でしたし,昭和の初めはずっと戦争で明け暮れていた時代になります。戦後は,新しい憲法の下で,皇室の在り方も象徴ということで違ってはきてましたが,国民に対する気持ちとしては変わらないものであったと思います。これは古くからの歴代天皇の国民に対する気持ちと同じことではないかと思っています。

皇室の在り方としては,この象徴ということを常に心にとどめ,どうあれば象徴としてふさわしいかということを求めていくということだと思っています。したがって,今後ともその点においては変わらないことだと考えています。