皇后陛下お誕生日に際し(平成26年)

宮内記者会の質問に対する文書ご回答

皇后陛下のお写真
皇后陛下お誕生日に際してのご近影
問1 このたび傘寿を迎えられたご感想とともに,これまでの80年の歳月を振り返られてのお気持ちをお聞かせください。

皇后陛下

ものごころ付いてから,戦況が悪化する10歳頃までは,毎日をただただ日向で遊んでいたような記憶のみ強く,とりわけ兄や年上のいとこ達のあとについて行った夏の海辺のことや,その人達が雑木林で夢中になっていた昆虫採集を倦きることなく眺めていたことなど,よく思い出します。また一人でいた時も,ぼんやりと見ていた庭の棕梠しゆろの木から急にとび立った玉虫の鮮やかな色に驚いたり,ある日洗濯場に迷い込んできたオオミズアオの美しさに息をのんだことなど,その頃私に強い印象を残したものは,何かしら自然界の生き物につながるものが多かったように思います。

その後に来た疎開先での日々は,それまでののどかな暮らしからは想像も出来なかったものでしたが,この時期,都会から急に移って来た子どもたちを受け入れ,保護して下さった地方の先生方のご苦労もどんなに大きなものであったかと思います。

戦後の日本は,小学生の子どもにもさまざまな姿を見せ,少なからぬ感情の試練を受けました。終戦後もしばらく田舎にとどまり,6年生の3学期に東京に戻りましたが,疎開中と戦後の3年近くの間に5度の転校を経験し,その都度進度の違う教科についていくことがなかなか難しく,そうしたことから,私は何か自分が基礎になる学力を欠いているような不安をその後も長く持ち続けて来ました。ずっと後になり,もう結婚後のことでしたが,やはり戦時下に育たれたのでしょうか,一女性の「知らぬこと多し母となりても」という下の句のある歌を新聞で見,ああ私だけではなかったのだと少しほっとし,作者を親しい人に感じました。

皇室に上がってからは,昭和天皇と香淳皇后にお見守り頂く中,今上陛下にさまざまにお導き頂き今日までまいりました。長い昭和の時代を,多くの経験と共にお過ごしになられた昭和の両陛下からは,おそばに出ます度に多くの御教えを頂きました。那須の夕方提灯に灯を入れ,子どもたちと共に,当時まだ東宮殿下でいらした陛下にお伴して附属邸前の坂を降り,山百合の一杯咲く御用邸に伺った時のことを,この夏も同じ道を陛下と御一緒に歩き,懐かしみました。

いつまでも一緒にいられるように思っていた子どもたちも,一人ひとり配偶者を得,独立していきました。それぞれ個性の違う子どもたちで,どの子どもも本当にいとしく,大切に育てましたが,私の力の足りなかったところも多く,それでもそれぞれが,自分たちの努力でそれを補い,成長してくれたことは有難いことでした。子育てを含め,家庭を守る立場と,自分に課された務めを果たす立場を両立させていくために,これまで多くの職員の協力を得て来ています。社会の人々にも見守られ,支えられてまいりました。御手術後の陛下と,朝,葉山の町を歩いておりました時,うしろから来て気付かれたのでしょう,お勤めに出る途中らしい男性が少し先で車を止めて道を横切って来られ,「陛下よろしかったですね」と明るく云い,また車に走っていかれました。しみじみとした幸せを味わいました。

多くの人々の祈りの中で,昨年陛下がお健やかに傘寿をお迎えになり,うれしゅうございました。50年以上にわたる御一緒の生活の中で,陛下は常に謙虚な方でいらっしゃり,また子どもたちや私を,時に厳しく,しかしどのような時にも寛容に導いて下さり,私が今日まで来られたのは,このお蔭であったと思います。

80年前,私に生を与えてくれた両親は既に世を去り,私は母の生きたとしを越えました。嫁ぐ朝の母の無言の抱擁の思い出と共に,同じ朝「陛下と殿下の御心に添って生きるように」と諭してくれた父の言葉は,私にとり常に励ましであり指針でした。これからもそうあり続けることと思います。

問2 皇后さまは天皇陛下とともに国内外で慰霊の旅を続けて来られました。戦争を知らない世代が増えているなかで,来年戦後70年を迎えることについて今のお気持ちをお聞かせ下さい。

皇后陛下

今年8月に欧州では第一次大戦開戦から100年の式典が行われました。第一次,第二次と2度の大戦を敵味方として戦った国々の首脳が同じ場所に集い,共に未来の平和構築への思いを分かち合っている姿には胸を打たれるものがありました。

私は,今も終戦後のある日,ラジオを通し,A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることが出来ません。まだ中学生で,戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく,従ってその時の感情は,戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく,恐らくは国と国民という,個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する,身の震うような怖れであったのだと思います。

戦後の日々,私が常に戦争や平和につき考えていたとは申せませんが,戦中戦後の記憶は,消し去るには強く,たしか以前にもお話ししておりますが,私はその後,自分がある区切りの年齢に達する都度,戦時下をその同じ年齢で過ごした人々がどんなであったろうか,と思いを巡らすことがよくありました。

まだ若い東宮妃であった頃,当時の東宮大夫から,著者が私にも目を通して欲しいと送って来られたという一冊の本を見せられました。長くシベリアに抑留されていた人の歌集で,中でも,帰国への期待をつのらせる中,今年も早蕨さわらび羊歯しだになって春が過ぎていくという一首が特に悲しく,この時以来,抑留者や外地で終戦を迎えた開拓民のこと,その人たちの引き揚げ後も続いた苦労等に,心を向けるようになりました。

最近新聞で,自らもハバロフスクで抑留生活を送った人が,十余年を費やしてシベリア抑留中の死者の名前,死亡場所等,出来る限り正確な名簿を作り終えて亡くなった記事を読み,心を打たれました。戦争を経験した人や遺族それぞれの上に,長い戦後の日々があったことを改めて思います。

第二次大戦では,島々を含む日本本土でも100万に近い人が亡くなりました。又,信じられない数の民間の船が徴用され,6万に及ぶ民間人の船員が,軍人や軍属,物資を運ぶ途上で船を沈められ亡くなっていることを,昭和46年に観音崎で行われた慰霊祭で知り,その後陛下とご一緒に何度かその場所を訪ねました。戦後70年の来年は,大勢の人たちの戦中戦後に思いを致す年になろうと思います。

世界のいさかいの多くが,何らかの報復という形をとってくり返し行われて来た中で,わが国の遺族会が,一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けて来たことを尊く思っています。遺族の人たちの,自らの辛い体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも,今,平和の恩恵に与っている私たち皆が,絶えず平和を志向し,国内外を問わず,争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています。

問3 皇后さまは音楽,絵画,詩など様々な芸術・文化に親しんで来られました。皇后さまにとって芸術・文化はどのような意味を持ち,これまでどのようなお気持ちで触れて来られたのでしょうか。

皇后陛下

芸術―質問にある音楽や絵画,詩等―が自分にとりどのような意味を持つか,これまであまり考えたことがありませんでした。「それに接したことにより,喜びや,驚きを与えられ,その後の自分の物の感じ方や考え方に,何らかの影響を与えられてきたもの」と申せるでしょうか。子どもの頃,両親が自分たちの暮らしの許す範囲で芸術に親しみ,それを楽しんでいる姿を見,私も少しずつ文学や芸術に触れたいという気持ちになったよう記憶いたします。戦後,どちらかの親につれられ,限られた回数でも行くことの出来た日比谷公会堂での音楽会,丸善の売り場で,手にとっては見入っていた美しい画集類,父の日当たりのよい書斎にあった本などが,私の芸術に対する関心のささやかな出発点になっていたかと思います。

戦後長いこと,私の家では家族旅行の機会がなく,大学在学中か卒業後かに初めて,両親と妹,弟と共に京都に旅をする機会に恵まれました。しかし残念なことに,私は結婚まで奈良を知る機会を持ちません。結婚後,長いことあこがれていた飛鳥,奈良の文化の跡を訪ねることが出来,古代歌謡や万葉の歌のふるさとに出会い,歌に「山」と詠まれている,むしろ丘のような三山に驚いたり,背後のお山そのものが御神体である大神おおみわ神社の深い静けさや,御神社に所縁ゆかりのある花鎮はなしずめの祭りに心引かれたりいたしました。学生時代に,思いがけず奈良国立文化財研究所長の小林剛氏から,創元選書の「日本彫刻」を贈って頂き,「弥勒菩薩」や「阿修羅」,「日光菩薩」等の像や,東大寺燈篭の装飾「楽天」等の写真を感動をもって見たことも,私がこの時代の文化に漠然とした親しみとあこがれを持った一因であったかもしれません。

建造物や絵画,彫刻のように目に見える文化がある一方,ふとした折にこれは文化だ,と思わされる現象のようなものにも興味をひかれます。昭和42年の初めての訪伯の折,それより約60年前,ブラジルのサントス港に着いた日本移民の秩序ある行動と,その後に見えて来た勤勉,正直といった資質が,かの地の人々に,日本人の持つ文化の表れとし,驚きをもって受けとめられていたことを度々耳にしました。当時,遠く海を渡ったこれらの人々への敬意と感謝を覚えるとともに,異国からの移住者を受け入れ,直ちにその資質に着目し,これを評価する文化をすでに有していた大らかなブラジル国民に対しても,深い敬愛の念を抱いたことでした。

それぞれの国が持つ文化の特徴は,自ずとその国を旅する者に感じられるものではないでしょうか。これまで訪れた国々で,いずれも心はずむ文化との遭遇がありましたが,私は特に,ニエレレ大統領時代のタンザニアで,大統領は元より,ザンジバルやアルーシャで出会った何人かの人から「私たちはまだ貧しいが,国民の間に格差が生じるより,皆して少しずつ豊かになっていきたい」という言葉を聞いた時の,胸が熱くなるような感動を忘れません。少なからぬ数の国民が信念として持つ思いも,文化の一つの形ではないかと感じます。

東日本大震災の発生する何年も前から,釜石の中学校で津波に対する教育が継続して行われており,3年前,現実に津波がこの市を襲った時,校庭にいた中学生が即座に山に向かって走り,全校の生徒がこれに従い,自らの生命を守りました。将来一人でも多くの人を災害から守るために,胸の痛むことですが,日本はこれまでの災害の経験一つ一つに学び,しっかりとした防災の文化を築いていかなくてはならないと思います。

歓び事も多くありましたが,今年も又,集中豪雨や火山の噴火等,多くの痛ましい出来事がありました。犠牲者の冥福を祈り,遺族の方々の深い悲しみと,未だ,行方の分からぬ犠牲者の身内の方々の心労をお察しいたします。又この同じ山で,限りない困難に立ち向かい,救援や捜索に当たられた各県の関係者始め自衛隊,消防,警察,医療関係者,捜索の結果を待つ遺族に終始寄り添われた保健師の方々に,感謝をこめ敬意を表します。

皇后陛下のお誕生日に際してのご近影

この1年のご動静

皇后さまには,本日,満80歳の傘寿をお迎えになりました。

この1年も,陛下のご様子を注意深くお見守りになりながら,数多くのお務めを果たされました。5月には頸椎けいつい症性神経根症による左肩から左腕にかけての強いお痛みのため,出席を予定していた文楽公演のご鑑賞をお控えになりましたが,それ以外に御不例によるお務めのお取りやめはありませんでした。

この1年間,皇后さまとしてのお立場でお務めになったお仕事は314件,この他に新嘗祭のための献穀や,祭祀に当たりお務めする賢所奉仕団及び通常の勤労奉仕団に対するおねぎらいのお出ましが61件ありました。また,御神事では,春季及び秋季の皇霊祭及び神殿祭の折に皇霊殿及び神殿に,また,昭憲皇太后百年式年祭の折には皇霊殿に参られています。

東日本大震災の関係では,両陛下で今年3月に開催された3周年追悼式にご臨席。7月には宮城県南三陸町,気仙沼市をご訪問になり,知事等から復興状況等についてのご説明をお聴きになったほか,南三陸町の商店街や気仙沼市の魚市場をご視察になりました。また,この折に,登米市の国立療養所東北新生園をご訪問になり,霊安堂にご供花の後,入所者とご懇談になりました。ハンセン病療養所は全国14か所ありますが,両陛下は,このご訪問により,昭和43年の国立療養所奄美和光園(鹿児島県奄美市)のご訪問に始まり,すべての療養所の入所者とお会いになったことになります。東日本大震災に関しては,上記の他,被災した歴史文化資料の再生に取り組む活動を紹介する特別展や,復興を支援するチャリティーコンサート,映画試写会等にも度々お出ましになりました。

地方へのお出ましは,すべて両陛下の行幸啓として,昨年10月,全国豊かな海づくり大会ご臨席のため熊本県をご訪問,その折に国立のハンセン病療養所・菊池恵楓園で納骨堂にご供花なさり,入所者とご懇談になったほか,水俣病慰霊碑にご供花なさり,水俣病資料館をご視察,水俣病の語り部から話をお聴きになりました。今年3月には,昨年式年遷宮を終えた伊勢神宮をご参拝。5月には,全国植樹祭ご臨場のため新潟県にお出ましになり,平成16年に発生した新潟県中越地震の被害とその後の復興を伝える小千谷市のおぢや震災ミュージアムそなえ館をご視察,また,見附市の葛巻地区ふるさとセンターで平成16年7月に発生した新潟・福島豪雨災害の復旧状況をお聴きになり,刈谷田川防災公園で水害復旧状況をご視察になりました。6月には神奈川県横浜市で開催の世界作業療法士連盟大会・日本作業療法学会の開会式及びレセプションにご臨席になり,展示をご覧。また,学童疎開船対馬丸の犠牲者を慰霊されるため,沈没から今年で70年を迎える沖縄県を訪問され,慰霊碑・小桜の塔にご供花,ご拝礼後,対馬丸記念館をご視察,遺族や生存者とご懇談。10月には国民体育大会ご臨場のため陛下と長崎県をご訪問になり,その折に,来年戦後70年を迎えることから平和公園でご供花なさり,恵の丘長崎原爆ホームをお訪ねになりました。長崎県行幸啓は当初は2泊3日のご予定でしたが,大型で強い台風19号が接近したため,関係者がその備えに専念できるようにとの両陛下のお考えから,2日目の開会式ご臨席の後のご予定をお取りやめになり,還幸啓になりました。

都内の行幸啓としては,全国戦没者追悼式等の式典,国際生物学賞等の授賞式等に陛下と共に42回お出ましになり,お一方では,全国赤十字大会,特別支援学校・旭出学園工芸展,東日本大震災復興支援関連行事等25回の行啓がありました。

昨年からお始めになった両陛下の私的ご旅行としては,5月に栃木県の渡良瀬遊水地と足尾銅山跡地をご訪問,鉱毒水の下流域対策や鉱毒ガス,乱伐等による山林荒廃を再生するための植樹活動の様子等をお聴きになり,わたらせ渓谷鐵道沿いの新緑を列車からお楽しみになりました。また,9月には青森県をご訪問。東日本大震災により被害を受けた八戸港をご視察,復興状況につきご聴取になった後,種差海岸をご散策,翌日は黒石市のリンゴ生産農家と青森県産業技術センターりんご研究所をご訪問になりました。

私的ご旅行を含む地方へのお出ましは,ご静養のための御用邸へのお出ましを除き,12府県25市4町1村でした。

また,宮殿や御所では,陛下と共に,文化勲章受章者及び文化功労者,各種大臣表彰受賞者,農林水産祭天皇杯受賞者,人事院総裁賞受賞者,昭和34年の両陛下のご成婚を記念してハワイ在住日系人等が中心となって創設した皇太子明仁親王奨学金の奨学生,シニア海外ボランティア及び日系社会シニアボランティア,日本学士院会員,日本芸術院会員,ソチ冬季オリンピック・パラリンピック入賞選手及び役員等々,文化,福祉,産業,国際協力,学術,芸術,スポーツ等の分野でその発展に貢献した数多くの人々にお会いになりました。皇后さまお一方では,例年どおり,日本赤十字社の名誉総裁として,社長からその活動状況等についてお聴きになったほか,皇后さまが高校時代に作詞された「ねむの木の子守歌」の著作権を基に創設され,肢体不自由・重症心身障害児/者の世話に当たる人を対象とする「ねむの木賞」の受賞者とお会いになりました。こうしたご接見等は47回,このほか陛下とご一緒に御所でお受けになったご説明やご進講は54回でした。

外国との関係では,昨年11月から12月にかけ,陛下に随伴され一昨年に国交樹立60周年を迎えたインド国を国賓としてご訪問になりました。昭和35年に訪問されて以来53年ぶりのご再訪でした。デリー市では,歓迎式典,ムカジー大統領閣下とのご会見,同大統領閣下主催の晩餐会に臨まれたほか,既に知り合われていたシン首相夫妻のお招きで,御四方での親しい午餐会に臨まれました。このほか,市内のロディー庭園では,お迎えに出た地元市民や在留邦人大勢とお会いになり,ネルー大学で日本語学科の授業をご視察,図書館で蔵書をご覧になり,学生や教授たちとお話しになりました。インド国際センターでは、日印関係の友好親善に功労のあったインド関係者とお会いになりました。その中には、インドの政治的立場の問題から、ご訪問が取りやめとなった平成10年のIBBY(国際児童図書評議会)ニューデリー大会での基調講演をお願いした当時の関係者も含まれておりました。(因みに,このニューデリー大会には「子供時代の読書の思い出」と題する基調講演をビデオに収録して現地に送られ,責任をお果たしになりました。)次いで,日本人学校では,児童による和太鼓演奏やよさこいソーラン踊りをご覧になり,大使公邸では,53年前のご訪問時に植樹された菩提樹を大使館員や現地職員等とご覧になった後,在留邦人代表とのご接見や大使夫妻主催のレセプションに臨まれました。

初めてのご訪問となった南部タミル・ナド州の州都チェンナイでは,ロサイア州知事及びジャヤラリタ州首相とお会いになり,同知事主催の午餐会に臨まれました。また,カラクシェトラ芸術学院では南インドの伝統的な舞踊と音楽に触れられ,タミル・ナド障害者協会では,障害のある子供たちのリハビリと職業訓練の様子をご覧になりました。ギンディー国立公園内の児童公園では多くの地元市民とお会いになり,その後,ご宿舎で在留邦人との茶会に臨まれました。

国賓の接遇としては,陛下と共に,3月にベトナム国主席閣下及び令夫人,4月には米国大統領閣下をお迎えになり,歓迎行事,ご会見,宮中晩餐,お別れのご挨拶にお出ましになりました。また,スイス国大統領閣下及び令夫人,マーシャル国大統領閣下及び令夫人,エストニア国大統領閣下及び令夫人と会見されたほか,ハンガリー国首相夫妻,トルコ国首相夫妻,イスラエル国首相夫妻をご引見になりました。さらに,タイ国王女チュラポン殿下,ルクセンブルク国皇太子同妃両殿下を御所でのご昼餐に,カタール国前首長妃モーザ殿下,ベルギー国王女マリア・ローラ殿下を御所でのお茶に,日本・アセアン特別首脳会議に出席する各国首脳夫妻14名を宮殿での茶会にお招きになりました。

在京の外交団との関係では,陛下とご一緒に着任後間もない15か国の大使夫妻をお茶に,着任後3年を経過した16か国の大使夫妻を午餐にお招きになり,離任する13か国の大使夫妻をご引見になりました。日本から赴任する45か国の全大使夫妻にも出発前にお会いになり,同様に帰国した51か国の大使夫妻をお茶に招いて任地の話をお聴きになりました。

今年6月8日に宜仁親王殿下がこう去され,両陛下はお悲しみのうちに5日間の喪に服され,ご遺族と悲しみを共にされました。薨去の直後4回にわたり桂宮仮寓所及び赤坂東邸を訪問されたほか,斂葬の儀及び百日祭の儀の後に拝礼のため豊島岡墓地に行幸啓になりました。

お年を召された三笠宮同妃両殿下,御歩行がややご不自由におなりになった常陸宮殿下のお上にいつもお気を配られ,宮殿行事の折などにも細やかにご便宜を図っておられます。

今年のご養蚕は4月から始められ,恒例の行事を含め17回にわたり桑畑,野蚕室,御養蚕所等にお出でになり,野蚕の山つけや収穫,桑つみ,ご給桑,わら蔟作り,上蔟,繭掻き,毛羽取り等の作業に当たられました。特に,今年は文化庁等の行事として,2月19日から4月5日まで,フランス国パリ日本文化会館で「蚕―皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」展が開催され,皇后さまのご養蚕のご様子と皇室の伝統文化が広く紹介されました。DVDの映像で皇后さまが蚕に直に触れてご養蚕に携われるお姿に驚きの声が聞かれました。

皇后さまは,今も時に発症する頸椎けいつい症性神経根症による痛みやしびれ,おみ足の不具合などに辛抱強く対応されつつ,日々のお務めを果たしておられます。陛下のご様子を案じられながら,ご自身の健康管理にも侍医の意見を聴かれつつ注意を払っておられます。両陛下とも,毎日6時にはご起床になり,ニュースをご覧になってから吹上御苑内を歩かれ,7時に朝食をお取りになることを日課とされています。お仕事の合間に短時間でも読書をしたり,ピアノを弾かれたりされています。8月には例年どおり軽井沢と草津にお出でになって,草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルに参加されるご予定でしたが,広島県で大雨により多数の死者や行方不明者が出る災害が発生したことをお知りになり,お取りやめになりました。お具合の良いときには,時折,陛下と短時間ですがテニスをご一緒にされます。御用邸へは,葉山御用邸に3回,那須御用邸に1回お出ましになりました。

10月20日のお誕生日当日は,午前10時半から12時までは皇族方始め内閣総理大臣,衆参両院議長,最高裁判所長官,閣僚,宮内庁職員等による祝賀を6回にわたりお受けになります。正午からは皇族方始めとのご祝宴,午後からは旧奉仕者による祝賀,元側近奉仕者等との茶会,母校の先生方やご進講者等との茶会が催されます。夕刻には敬宮さま始め未成年の内親王,親王殿下方のご挨拶をお受けになり,夜にはお子さま方ご夫妻とお祝御膳を囲まれます。

皇后陛下お誕生日行事

平成26年10月20日(月)
時刻 出御 行事 事項 場所
午前10:30 両陛下 祝賀及びお祝酒 侍従長始め侍従職職員 御所
同 11:00 天皇陛下 祝賀 長官,次長(職員総代),参与 鳳凰の間
同 11:10 皇后陛下 祝賀 長官始め課長相当以上の者,参与及び御用掛 鳳凰の間
同 11:20 皇后陛下 祝賀 宮内庁職員及び皇宮警察本部職員 北溜
同 11:40 皇后陛下 祝賀 内閣総理大臣,国務大臣,内閣官房副長官及び内閣法制局長官,
衆議院・参議院の議長及び副議長,
最高裁判所の長官及び判事(長官代行),
会計検査院長,人事院総裁,検事総長,公正取引委員会委員長及び原子力規制委員会委員長
並びに以上の者の配偶者
梅の間
同 11:50 両陛下 祝賀 皇太子同妃両殿下お始め皇族各殿下 梅の間
正午 両陛下 ご祝宴 皇太子同妃両殿下お始め皇族各殿下,元皇族,御親族 連翠
午後 1:20 皇后陛下 祝賀 旧奉仕者会会員
(元宮内庁職員及び元皇宮警察本部職員)
北溜
同 1:40 両陛下 茶会 元長官等,元参与,元側近奉仕者,元御用掛,松栄会会員 連翠南
同 4:30 両陛下 茶会 御進講者等御関係者 御所
同 6:30 両陛下 祝賀 愛子内親王殿下
佳子内親王殿下,悠仁親王殿下
御所
同 7:00 両陛下 お祝御膳 皇太子同妃両殿下
秋篠宮同妃両殿下
黒田様御夫妻
御所
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