皇后陛下お誕生日に際し(平成17年)

宮内記者会の質問に対する文書ご回答

天皇皇后両陛下,清子内親王殿下のお写真
皇后陛下お誕生日に際してのご近影
問1 戦後60年の節目にあたる今年,両陛下は激戦地サイパンを慰霊訪問されました。今後,戦争の記憶とどのように向き合い,継承していきたいとお考えですか。
皇后陛下

陛下は戦後49年の年に硫黄島で,50年に広島,長崎,沖縄,東京で,戦没者の慰霊を行われましたが,その当時から,南太平洋の島々で戦時下に亡くなられた人々のことを,深くお心になさっていらっしゃいました。外地のことであり,なかなか実現に至りませんでしたが,戦後60年の今年,サイパン訪問への道が開かれ,年来の希望をお果たしになりました。

サイパン陥落は,陛下が初等科5年生の時であり,その翌年に戦争が終りました。私は陛下の1年下で,この頃の1歳の違いは大きく,陛下がかなり詳しく当時の南方の様子を記憶していらっしゃるのに対し,私はラバウル,パラオ,ペリリュウ等の地名や,南洋庁,制空権,玉砕等,わずかな言葉を覚えているに過ぎません。それでもサイパンが落ちた時の,周囲の大人たちの動揺は今も記憶にあり,恐らく陛下や私の世代が,当時戦争の報道に触れていた者の中で,最年少の層に当たるのではないかと思います。そのようなことから,私にとり戦争の記憶は,真向かわぬまでも消し去ることの出来ないものであり,戦争をより深く体験した年上の方々が次第に少なくなられるにつれ,続く私どもの世代が,戦争と平和につき,更に考えを深めていかなければいけないとの思いを深くしています。

戦没者の両親の世代の方が皆年をとられ,今年8月15日の終戦記念日の式典は,この世代の出席のない初めての式典になったと聞きました。靖国神社や千鳥ヶ淵に詣でる遺族も,一年一年年を加え,兄弟姉妹の世代ですら,もうかなりの高齢に達しておられるのではないでしょうか。対馬丸の撃沈で亡くなった沖縄の学童疎開の児童たちも,無事であったなら,今は古希を迎えた頃でしょう。遺族にとり,長く,重い年月であったと思います。

経験の継承ということについては,戦争のことに限らず,だれもが自分の経験を身近な人に伝え,また,家族や社会にとって大切と思われる記憶についても,これを次世代に譲り渡していくことが大事だと考えています。今年の夏,陛下と清子と共に,満蒙開拓の引揚者が戦後那須の原野を開いて作った千振開拓地を訪ねた時には,ちょうど那須御用邸に秋篠宮と長女の眞子も来ており,戦中戦後のことに少しでも触れてほしく,同道いたしました。眞子は中学2年生で,まだ少し早いかと思いましたが,これ以前に母方の祖母で,自身,幼時に引揚げを経験した川嶋和代さんから,藤原ていさんの「流れる星は生きている」を頂いて読んでいたことを知り,誘いました。初期に入植した方たちが,穏やかに遠い日々の経験を語って下さり,眞子がやや緊張して耳を傾けていた様子が,今も目に残っています。

問2 両陛下はご病気を抱えながら公務に励まれ,皇太子妃雅子さまは療養からまもなく丸2年が経ちます。昨年5月には皇太子さまの「人格否定発言」があり,以後皇室についてのさまざまな報道がなされ,両陛下や皇太子さま,秋篠宮さま,紀宮さまはそれぞれ記者会見や文書で考えを示されました。公務のあり方や世代間の考え方の違いといった問題や,現在進められている皇位継承をめぐる議論に国民は注目しています。ご一家のご様子についてとともに,皇后さまは皇室の現状とその将来についてどう感じ,どう願っておられるかをお聞かせください。
皇后陛下

陛下は,引き続き月一度ホルモン療法を受けていらっしゃいます。少し副作用があり,以前よりお疲れになりやすく,また,発汗がおありになります。また,この療法を始めるにあたり,担当医から筋肉が次第に弱まる可能性も示唆されており,陛下はご手術前と変わらず,今も早朝の散策に加え,ご公務で宮殿にいかれる時もできるだけお歩きになっていらっしゃいます。宮殿で行われる認証式は夜分になることが多いのですが,そのような時も,暗い池端の道を,大抵は徒歩でお帰りになります。

先々週には,東宮が一家して葉山の御用邸に訪ねて来てくれ,うれしく,一緒によい時を過ごしました。雨がちで気の毒でしたが,晴れ間を見て浜にも出,敬宮は楽しそうに砂で遊びました。東宮妃が段々と元気になっている様子で,本当にうれしく思います。

現在のもつ皇室の問題については,陛下が昨年のお誕生日の会見で詳しくお話しになっており,新たに私がつけ加えることはありません。できるだけ静かな環境をつくり,東宮妃の回復を見守っていきたいと思います。

問3 紀宮さまの嫁がれる日が近づきました。初めて女のお子様を授かった喜びの日から,今日までの36年の歩みを振り返り,心に浮かぶことや紀宮さまへの思いを,とっておきのエピソードを交えてお聞かせください。そして皇族の立場を離れられる紀宮さまに対して,どのような言葉を贈られますか。
皇后陛下

清子は昭和44年4月18日の夜分,予定より2週間程早く生まれてまいりました。その日の朝,目に映った窓外の若葉が透き通るように美しく,今日は何か特別によいことがあるのかしら,と不思議な気持ちで見入っていたことを思い出します。

自然のお好きな陛下のお傍で,二人の兄同様,清子も東宮御所の庭で自然に親しみ,その恵みの中で育ちました。小さな蟻や油虫の動きを飽きることなく眺めていたり,ある朝突然庭に出現した,白いフェアリー・リング(妖精の輪と呼ばれるきのこの環状の群生)に喜び,その周りを楽しそうにスキップでまわっていたり,その時々の幼く可愛い姿を懐かしく思います。

内親王としての生活には,多くの恩恵と共に,相応の困難もあり,清子はその一つ一つに,いつも真面目に対応しておりました。制約をまぬがれぬ生活ではありましたが,自分でこれは可能かもしれないと判断した事には,慎重に,しかしかなり果敢に挑戦し,控え目ながら,闊達に自分独自の生き方を築いてきたように思います。穏やかで,辛抱強く,何事も自分の責任において行い,人をそしることの少ない性格でした。

今ふり返り,清子が内親王としての役割を果たし終えることの出来た陰に,公務を持つ私を補い,その不在の折には親代りとなり,又は若い姉のようにして清子を支えてくれた,大勢の人々の存在があったことを思わずにはいられません。私にとっても,その一人一人が懐かしい御用掛(ごようがかり)や出仕の人々,更に清子の成長を見守り,力を貸して下さった多くの方々に心からお礼を申し上げたいと思います。

清子の嫁ぐ日が近づくこの頃,子どもたちでにぎやかだった東宮御所の過去の日々が,さまざまに思い起こされます。

浩宮(東宮)は優しく,よく励ましの言葉をかけてくれました。礼宮(秋篠宮)は,繊細に心配りをしてくれる子どもでしたが,同時に私が真実を見誤ることのないよう,心配して見張っていたらしい節(ふし)もあります。年齢の割に若く見える,と浩宮が言ってくれた夜,「本当は年相応だからね」と礼宮が真顔で訂正に来た時のおかしさを忘れません。そして清子は,私が何か失敗したり,思いがけないことが起こってがっかりしている時に,まずそばに来て「ドンマーイン」とのどかに言ってくれる子どもでした。これは現在も変わらず,陛下は清子のことをお話になる時,「うちのドンマインさんは・・・」などとおっしゃることもあります。あののどかな「ドンマーイン」を,これからどれ程懐かしく思うことでしょう。質問にあった「贈る言葉」は特に考えていません。その日の朝,心に浮かぶことを清子に告げたいと思いますが,私の母がそうであったように,私も何も言えないかもしれません。

皇后陛下のお誕生日に際してのご近影

この1年のご動静

昨年古希をお迎えになった皇后さまは,この1年も皇居内外の行事,式典へのご臨席,福祉,文化施設へのお出まし,国賓を始めとする賓客のご接待など様々なご公務に携わられ,皇后さまが公的なお立場でお務めになったお仕事は371件に上りました。このほかに宮中祭祀14回,献穀者や賢所奉仕者,皇居勤労奉仕団等,奉仕関係者への拝謁やご会釈55回がありました。

皇后さまは多くのご公務を陛下のお側でお務めになりましたが,単独では恒例の全国赤十字大会,フローレンス・ナイチンゲール記章授与式にご臨席になり,お言葉を述べられたほか,社会貢献活動や文化,芸術に携わっている人々を励まされるため,チャリティ―・コンサートを始め各種公演,展覧会などにお出かけになりました。

御所では,恒例の肢体不自由児関係の「ねむの木賞」受賞者のご接見があり,また,日本赤十字社名誉総裁として,例年のように日本赤十字社社長及び副社長より同社の活動状況につき報告をお受けになったほか,新潟県中越地震の救援活動について報告を聴取され,さらに,スマトラ沖大地震及びインド洋津波災害に対する救護活動について現地派遣者から説明をお聞きになりました。血液問題についても日本赤十字社参与から説明をお聞きになり,2年半あまりかけた検証事業「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書の出た後には,座長を招き話を聞かれました。

昨年10月以降,この1年間の公的な地方行幸啓としては,新潟県中越地震災害に伴う被災地お見舞いのため,昨年11月に新潟県をご訪問になったほか,国民体育大会,全国植樹祭,2005年日本国際博覧会,国際会議開会式ご臨席等のため,埼玉県,兵庫県,京都府,大阪府,愛知県(2回),茨城県をご訪問になりました。行幸啓の折には,多数の市町村を回られ,各地で文化,福祉施設を始めとする諸施設をご訪問になり,大勢の人々の歓迎におこたえになりました。8月及び9月には,長野県野辺山地区及び栃木県那須町千振地区で戦後入植の行われた開拓地を訪ねられ,初期の入植者に会われ,労をおねぎらいになりました。

本年5月7日より14日まで,皇后さまは天皇陛下とご一緒にアイルランド国にお立ち寄りになった上で,ノルウェー国を国賓としてご訪問になりました。ノルウェー王室,アイルランドの文化人など,両陛下の培ってこられた長年のご親交に基づく思い出に残るご訪問でした。また,両陛下は6月27日及び28日には,戦後60年に当たり,戦争により亡くなられた人々を慰霊し,平和を祈念するため,アメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島サイパン島をご訪問になりました。両陛下は心を込めて慰霊を行われ,多くの人々の心に残るご訪問を果たされました。

宮中祭祀は恒例の祭祀のほか,香淳皇后五年式年祭及び龜山天皇七百年式年祭に列せられ,また,本年は履中天皇の千六百年の式年にあたることから,8月に,両陛下にて,大阪府にある履中天皇陵(百舌鳥耳原南陵)をご参拝になりました。

皇后さまは,本年3月口唇ヘルペスをご発症になり,3日間を安静に過ごされました。また,3月20日の春季皇霊祭も,長時間にわたる重い儀式であるため,大事をとりお休みいただくことにしましたが,皇后さまのご神事ご欠席は非常にまれなことであり,平成に入り昨年までの16年間,御身内の喪及びご発熱により取りやめられた2回のほかは例を見ません。また,6月頃から,頸椎症のためお痛みが生じ,頸部安定のため,暑中,頸椎カラーをお付けになり,7月30日の明治天皇例祭の儀は,結髪などによる頸部への過度のご負担を避けるため,お出ましをお取りやめいただきました。現在もまだ完治には至りませんが,かなり回復され,御所でもカラーはお付けになっておりません。

昨年12月18日,宣仁親王妃殿下が薨去されました。皇后さまは常に妃殿下のご健康を心遣っておられ,妃殿下ご生前に何度も病院や御殿にお見舞いにお出ましになり,又宮家の職員をいたわってこられました。薨去後は5日間の喪を服されました。

今年のご養蚕は5月より始められ,桑の葉摘み,ご給桑,回転蔟の組み立て,わら蔟づくり,上蔟,収繭作業,毛羽取り作業,蚕の卵の採取作業など,定例の行事のほかにも幾度か桑園や御養蚕所においでになり,蚕の飼育に当たられました。今年は繭163キロの収穫があり,このうち40キロの小石丸生繭が絵巻表紙裂復元のため三の丸尚蔵館に下賜されました。これまで皇后さまが10年にわたり宝物復元に協力してこられた正倉院からも,更にその製作を継続するための小石丸ご下賜の願い出があり,今年も生繭のご下賜を続けられました。

昨年12月30日,紀宮殿下と黒田慶樹氏とのご婚約内定の発表があり,本年3月19日には,納采の儀が,また,10月5日には告期の儀が宮殿において執り行われました。両陛下は内親王殿下のご婚約をお喜びで,残されたご家族ご一緒の日々を大切にお過ごしですが,皇后さまは,御母君として,ご結婚の準備に細やかにお心を砕いていらっしゃいます。

皇后さまは,週日のご公務に加え,土日や祝日にも多くの公的な行事や祭祀をお務めになっておられます。陛下のご健康を案じられ,早朝の散策やご公務のない週末のテニスを努めて陛下と共になさるように心掛けておられます。わずかな時間を使ってピアノの練習を続けておられ,陛下のチェロや皇太子殿下のヴィオラの伴奏をなさるほか,内外の音楽家のお誘いがある時には,感謝なさりつつ,お楽しそうにアンサンブルに加わっていらっしゃいます。

10月20日,皇后さまは71回目のお誕生日をお迎えになります。当日は,皇族,元皇族,ご親族,内閣総理大臣始め三権の長,奉仕者や旧奉仕者等のお祝いをお受けになるなど,終日お誕生日祝賀の行事がありますが,翌日からは第60回国民体育大会ご臨席と地方事情ご視察のため,4日間のご日程で岡山県へお出ましになります。