皇后陛下お誕生日に際し(平成13年)

宮内記者会の質問に対する文書ご回答

問1 米国での未曾有のテロ事件をはじめ,国内外で悲惨な事件や事故,災害が続いています。国内の景気も回復せず社会的な不安が募っていますが,この一年を振り返り印象に残る出来事やご感想についてお聞かせ下さい。
皇后陛下

米国で連続テロが行われ,日本人24名を含む五千数百名がその犠牲となりました。家族を失い,また,いまだ家族の消息を得られぬ人々の悲しみを思い,心が痛みます。

日本をめぐっても,この一年は,えひめ丸の惨事に始まり,一つの出来事の場に居合わせた人々が,予期せぬ犠牲となる傷ましい事件がいくつかあり,犠牲者の中には,いたいけな児童も含まれました。そうした中で,人,一人一人の安全が,その住む社会や国全体の,そして恐らくは世界の国々の安全や安定ということと,決して無関係ではないことを改めて感じさせられています。

今年は阪神,淡路の大震災から6年を経,4月には陛下とご一緒に被災の各地を訪れました。復興を(たた)えるとともに,ここまでの道のりで,どれ程に人々が忍耐を重ね,悲しみや苦しみを越えて来たかを思い,胸がつまる思いでした。

有珠山の噴火からは一年半が過ぎましたが,今も仮設住宅に千人余の人々が住み,地域の活気の戻らぬ様子を心配しています。三宅の人々も全員島を離れたままで,辛く寂しいことでしょう。テロのような大きな出来事の陰で,これらの人々の苦しみが,社会から忘れられていくことのないよう願っています。

平成8年に,らい予防法は廃止されましたが,今年は元患者の人々と国との間の裁判をめぐり,広く社会の関心がこの病に向けられました。療養所で,入所後の長い日々,実名を捨てて暮らして来た人々が,人間回復の証として,次々と本名を名のった姿を忘れることが出来ません。今後入居者の数が徐々に減少へと向かう各地の療養所が,入所者にとり寂しいものとならないよう,関係者とともに見守っていきたいと思います。

昨年11月,エロイーズ・カニンガムさんが亡くなりました。戦前の昭和14年以来,戦争による中断はありましたが,約60年にわたり,「ミュージック・フォア・ユース」として,日本の青少年のために音楽会を催して来られました。また今年9月には,長年にわたり日本の若い音楽家を育て,近年は毎年宮崎の音楽祭で日本やアジアの音楽家を指導して来られたアイザック・スターン氏も亡くなりました。共に,日本の若者たちに美しい音の世界を贈って下さった方々として,その死を悼んでいます。

テロを始めとし,悲しい出来事の多い中で,人々の地道な努力が花開くのを見る喜びもありました。昨年の白川名誉教授に引き続き,今年もノーベル化学賞を日本の野依良治教授が受けられることは,素晴らしいニュースでした。また,いまだ楽観は許されませんが,ここ数年心配されていた結核の罹患率も,4年ぶりに減少に転じ,関係者の努力をしのんでいます。

野茂投手を始めとし,日本の野球選手たちが,大リーグでそれぞれ個性的に活躍していることもうれしく,ニュースで見て,驚いたり喜んだりしています。

問2 皇太子ご夫妻のお子さまは,両陛下にとりまして3人目の皇孫となります。目前に迫ったご誕生を控え,国民に向けてその喜びのお気持ちをお聞かせください。
皇后陛下

今はその時期ではなく,この回答は控えます。

問3a 皇后という公的な立場から,皇太子ご夫妻に誕生する皇孫についてこう育ってほしいという願いはありますか。
皇后陛下

時がくれば,東宮や東宮妃が,まず両親としての願いを語るでしょう。それで十分だと思います。私自身は,きっと秋篠宮家の二人の子どもたちの誕生の時と同じく,「よく来てくれて」と迎えるだけで,胸が一杯になると思います。

問3b ご自身の経験を踏まえ,ご夫妻にはどのようなアドバイスやお心遣いをされ,また誕生に向けてどのような具体的な準備をされていますか。
皇后陛下

東宮妃の心身の健康を願って今日までまいりました。アドバイスに関しては,私の子どもたちが生まれた頃から時代も大きく変わっており,助言という程のことはできませんが,私が何か役に立つことがあればうれしく思います。子どもたちがまだ小さく,私があちらに住んでおりました頃,東宮御所の庭には夏でも涼しい風の通り道があって,よく乳母車を押してまいりました。これからは,そうした懐かしい思い出も少しずつ話していきたいと思います。

準備については,これまでのしきたり通り,新宮(しんみや)初着(うぶぎ)や陛下から賜るお守り刀等,一つずつ整えてもらっています。

問4 両陛下が若いころから積極的にかかわってこられた福祉の分野では,例えばパラリンピックなど障害者スポーツが隆盛を迎えております。皇室が新たなメンバーを迎えようとしている今,皇后さまご自身の取り組みを振り返りながら,両陛下が築き上げてこられた皇室の役割が若い世代にどのように引き継がれていくことを望んでいらっしゃいますか。
皇后陛下

私が御所に上がりましたのは昭和34年で,今から40年以上も前になります。当時,三宮家 ー 秩父宮家,高松宮家,三笠宮家 ー の殿下や妃殿下方が,さまざまな福祉活動を熱心に支援していらっしゃり,皆様から多くのことを学ばせて頂きました。

結婚後間もなく,皇后陛下が名誉総裁をお務めになる日本赤十字社に名誉副総裁として迎えて頂きましたが,こうして20代の若い日に赤十字活動に触れたことは,私をその後,福祉に関する多くの人々との出会いに導いてくれたように思います。

昭和36年に,日本で初めての重症心身障害児施設「島田療育園」が民間人の手によって興されました。私が出産後初めて公務として日赤の乳児院を訪れた時,小児科医として障害児を診ておられた小林堤樹教授が初代の園長となられ,その後も長く困難な道を,園と共に歩まれました。日本ではこれに引き続き,昭和37年に「秋津療育園」が,38年には「びわこ学園」が,同じ目標をもって誕生しています。私が3人の子どもの母として過ごした時期が,これらの施設の揺籃期と重なっており,無関心であることは出来ませんでした。

昭和39年には,陛下を名誉総裁に,日本で初めての障害者スポーツ大会,パラリンピックが開かれ,以後各県で年毎に行われる身障者スポーツ大会に,陛下とご一緒に出席するようになりました。

重度障害者自身が自立を目ざして経営し,働く,日本で初めての福祉工場「太陽の家」が別府で発足したのは,東京パラリンピックの翌年のことです。昭和40年代に入ると,海外で行われるスポーツの国際大会に日本の障害者が参加する機会も次第に増え,帰国した人々が,新しい経験を目を輝かせて話してくれるのを聞くのが楽しみでした。福祉の分野も含む青年海外協力隊が誕生したのは昭和49年,陛下も私も,この頃に40になりました。

ふり返りますと,社会の中で沢山の新しいことが,手探りのようにして始められていた時代であったように思われます。私自身は,こうした様々な社会の新しい動きの中で,先駆者達の姿に目を見張り,その言葉に聞き入り,常に導かれる側にあって歩いてまいりました。

新しい活動が始められる段階は,常に危うさを伴い,どこか不安定な感じもあるのですが,初期にしかない熱気や迫力もあり,わずかずつでもそうした活力に触れることの出来たことは,得難い経験であったと思います。

時代は常に移り変わっており,それぞれの時代にその時々の社会の要請があります。陛下も私も,そうした要請の中で,何度も戸惑い,恐れ,時に喜びつつ,若い日々を過ごしてまいりました。若い世代の人々は,私たちの,また,私たち世代の力の足りなかった部分も含めて,より多く過去から学ぶことが出来るでしょう。皇室の伝統から学ぶとともに,常に社会の新しい要請を受け止め,人々と困難をともにしつつ,新しい時代を築いていって欲しいと願っています。