<英文>へ
ご訪問国:スウェーデン・エストニア・ラトビア・リトアニア・英国
ご訪問期間:平成19年5月21日~5月30日
会見年月日:平成19年5月14日
会見場所:宮殿 石橋の間
3年前,英国のロンドン・リンネ協会から,2007年にリンネ生誕300年を祝うこととなるので,ロンドンのリンネ協会の記念行事に参加できないかとの打診があり,その後,英国政府からの招待がありました。また,昨年に入ってスウェーデン政府からも,やはりリンネ生誕300年の記念行事が行われるとして招待があり,今回,これらの招待にこたえて,両国を訪れることになりました。
私は皇太子であった1980年にロンドン・リンネ協会から魚類学への貢献ということで,外国会員に選ばれました。外国会員の名簿を見ると,会員は50人で,日本人では植物学の原東京大学名誉教授がおられるだけでした。私にとっては誠に過分のこととは思いましたが,それを励みに研究に努力してきたつもりです。ロンドン・リンネ協会には,会員に選ばれた翌年,当時の皇太子妃と共に英国皇太子殿下の結婚式典参列の機会に訪れました。1986年名誉会員に選ばれ今日に至っています。この度,このような関係にあったロンドン・リンネ協会のリンネ生誕300年の記念行事に出席することをうれしく思っております。
リンネの今日に残る業績は二名法の学名を創始したことだと思います。学名は属名と種名の結合で成り立っていますが,二名法の学名が創設される以前の学名の種名は,属内の他種から区別される特徴を記述する部分でありました。したがって同一属内に数種があり,幾つかの特徴で他種から区別しなければならない場合には種名の語数が長くなりました。リンネはこのように属名と長短定まらない種名との結合の代わりに,属名と特徴を示すとは限らない一語の種名を結合した二名法の学名を創設しました。そして特徴を示す記述は別項にして,学名から切り離されました。この措置により学名は二語の簡便なものとなり,今日,世界共通の動植物の名称として,学界はもとより多くの人々によって使われています。二語であれば覚えやすく,動植物の話をするとき,学名を使って話をすることもできます。皇居の東御苑にはかなりの数の外国人が訪れています。外国人で植物を見て楽しむ人々のことを考え,和名のほかに学名を付けるようにしています。
スウェーデンでは,3月に国賓として日本にお迎えした国王王妃両陛下に再びお目にかかるのを楽しみにしております。また到着の翌々日にはリンネが教授であったウプサラ大学で行われるリンネ生誕300年の記念行事に国王王妃両陛下と参列し,リンネの業績をしのびたく思います。この前ウプサラ大学を訪問したのは20年以上前のことで,スウェーデン国王王妃両陛下の国賓としてのご訪日に対する昭和天皇の名代としての答訪で,皇太子妃と共にスウェーデンを訪問したときのことです。ここにはリンネの弟子で,長崎出島のオランダ商館の医師を務めていたツュンベリーも教授として務めていました。ツュンベリーは鎖国の日本へ足を踏み入れましたが,ツュンベリー来日の前年には杉田玄白らでオランダ語から訳した「解体新書」が刊行されるなど蘭学が盛んになり,欧州の医学への関心も高まっているときでした。「解体新書」の訳に加わった医師の中にはツュンベリー帰国後もツュンベリーあてに手紙を出した人もおり,ウプサラ大学でその手紙を見ることができたことはうれしいことでした。ツュンベリーの日本滞在記を読むと,異なった文化の中で育った人々を理解しようとするツュンベリーの温かい人柄が感じられます。
スウェーデンと英国で行われるリンネ生誕300年の記念行事の間に,エストニア,ラトビア,リトアニアの大統領閣下からのご招待により,この三か国を訪れます。帝政ロシア領であったこれら三か国は,ロシア革命を受けて1918年に独立を宣言しましたが,1940年にはソ連に併合されて独立を失い,第二次世界大戦中は独ソ戦の戦場となって多くの人命が失われました。1991年,ソ連邦の崩壊の過程で,ようやく独立を回復することとなりました。ソ連邦はその後15の独立国になりましたが,これら三か国はソ連邦内からの初めての独立で,当時私どもも大きな関心を持って見守ったことでした。リトアニアが厳しい状況下で独立を果たした翌年,ランズベルギス最高会議議長ご夫妻が日本をお訪ねになり,皇居で皇后と共にお会いしたことが思い起こされます。リトアニアの画家であり音楽家であるチュルリョーニスの展覧会が東京で開かれるに当たり,議長はチュルリョーニスの研究者である立場から訪日されたものでした。私どもも後にその展覧会を見に行きました。
今回の訪問に当たっては,それぞれの国の苦難の歴史に思いを致し,それぞれの文化に対する理解を深め,我が国とこれら三国との相互理解と友好関係の増進に尽くしたいと思っています。
研究を通じてリンネの業績から学んだことについての質問ですが,お答えが適切ではないかもしれませんが,分類学の研究を通じて標本を保管することの重要性を学んだということがあります。動植物それぞれの命名規約に,同一種に複数の学名が付けられている場合,古い方の学名を採用することが規定されています。その関係から古い学名を調べるに当たり,1828年に採集された標本を調べましたが,そのように長く保管された古い標本でも色彩の特徴が確認できました。これはリンネの標本がロンドン・リンネ協会に大切に保管されているように,欧米の博物館が研究に役立てるために,標本を大切に保管してきたからです。今日,日本の博物館も標本の保管に関して十分な配慮がなされるようになりましたが,かつては博物館は教育機関としての役割のみが強調され,標本は展示のために利用されていました。国立科学博物館も明治10年に教育博物館として建てられ,標本を含む教育機材が展示されていました。当時,産業の振興は国にとって大変大切なことでしたが,もう少し自然史や分類学に関心が寄せられていれば,例えば田沢湖のクニマスのような絶滅を防げた動物もいたのではないかと残念に思っています。
カール・フォン・リンネの生誕300年に当たり,リンネ協会の所在する英国と,リンネの母国であるスウェーデンの両国からご招待を頂きました。陛下の長年にわたる生物学ご研究と深くかかわるこの度のご訪問であり,うれしく同行させていただきます。
また,この度,この二か国と共に,バルト海に面する三つの共和国,エストニア,ラトビア,リトアニアからも招待を頂き,訪問いたすこととなりました。平成3年(1991年),この三か国の独立回復の報に接したときのことは今も記憶に新しく,この度の訪問により,それぞれの国の人々と接する機会を持つことを心より楽しみにしております。
スウェーデンの博物学者リンネにつき,私は深い知識を持つ者ではございませんが,分類学をご研究の陛下との生活の中で,リンネは全く無縁の人ではありませんでした。まだ婚約したばかりのころ,陛下は時々私にご専門の魚類につきお話しをしてくださいましたが,そのようなとき,ティラピア・モサンビカ,オクシエレオトリス・マルモラータというように,いつも正確に個体の名を二名法でおっしゃっており,私はびっくりし,大変なところにお嫁に来ることになったと少し心配いたしました。
ここ5,6年,皇居東御苑の木や草には,庭園課の人たちの手で名札が付けられるようになりましたが,外国の来園者も多いことと,その一つ一つに陛下のご希望で日本名に加え学名も付されています。リンネの考案を基にしてできた命名規約により,世界中の人が共通の名前で自然界のものを名指せることを,すばらしいことと思います。
エストニア,ラトビア,リトアニアについての知識は,長いこと,この地域の幾つかの地名を,ハンザ同盟と関連して知るという程のものでしたが,昭和60年(1985年)に「バルト海のほとりにて」という一冊の書籍を贈られ,一口にバルト三国と呼ばれながら,それぞれ固有の民族から成り,固有の言語を持つこれらの国々が,二つの大戦の
これら三か国の独立は,平成3年(1991年)のことでしたから,私がこの本を読んでから,約6年後のことになります。独立後程なく,リトアニアのランズベルギス最高会議議長が来日され,かつて本の中で知るようになったこれらの国々が,そのとき急に現実味を帯びて感じられたことを記憶いたします。この度,短時日とはいえ,この三か国を訪問することができますことは大きな喜びであり,この機会にこれらの国の人々が,過去に味わった多くの苦しみを少しでも理解するよう努めるとともに,苦しみ多い時代にも,人々が決して捨てることの無かった民族の誇りと,それを支えたであろうこの地域の伝承文化への理解を深めたいと思います。
今回最後の訪問地英国では,リンネ協会の行事に臨むほか,思いがけず世界最初の小児ホスピスであるへレン・ハウスの創立25周年の行事にお招きを頂き,参列することとなりました。2年前,このハウスの数名の患者方が,両親やスタッフに付き添われて来日された折にお会いしておりました。ちょうど施設の25周年の年に,陛下とご一緒に英国におりますという偶然があって,お招きに応じることが可能となりました。2年前に出会った子どもたちや付添いの方たち,そしてこのホスピスの創立者であるシスター・フランセスのお顔を懐かしく思い出しつつ,再会の日を待っております。
ヘレン・ハウスと,その後に加えられたダグラス・ハウスを訪問し,力を尽くして今を生きる子どもたちと,その子らに寄り添う方たちにお会いするこの日は,私にとっても生きるということ,友として人が人に寄り添うということにつき,深く考える一日になるのではないかと思っております。
皇后は,長年にわたって様々な苦労を乗り越え,私を支え,国内外の多くの公務を果たしてきました。4年前の私の手術のときには病院に泊まって看病を手伝い,入院中も毎日のように見舞いに訪れ,記帳簿を私に見せて国民の快癒を願う気持ちを伝えてくれました。私の健康面での心配に加え,皇太子妃の健康や,前置胎盤で懐妊中の秋篠宮妃のことを気遣うなど,今思うと,随分心配の多い日々を送ってきたのだと思います。この度の病気は,予兆無しに突然に起こり,心配しましたが,幸い病気は週末や祝日も含めて2回にわたる短期間の休養で,公務を休むことなく,健康を回復したことを喜んでいます。
今回の外国訪問は,それぞれの国での滞在が短く,日程も忙しいものになっていますが,二人とも健康に気を付けながら,訪問の目的を果たしたいと思っています。
体の変調を公表することには,常にためらいを感じますが,理由を伏せて休むことで実際以上に悪いような憶測を呼ぶようではいけないと思い,この度も発表に同意いたしました。
心配をおかけいたしましたが,良い経過をたどり,今は元気にしております。医師が発表いたしましたように,この度の病気は痛みや苦痛を伴うものではなく,休養と投薬により軽快するとのことで,3月末の9日間ほどを静養に充てさせていただきました。
過去に体験したことのない病気で,症状のとれるまで少し不安もありましたが,十分な静養のときを頂き,元の健康に戻ることができました。この間,大勢の方々からお見舞いと励ましを頂きましたことに対し,厚くお礼を申し上げます。
今回の外国訪問は,五か国を回る忙しいものとなりそうですが,何よりも陛下がご旅行の全行程にわたり,お元気でいらっしゃいますよう念じております。私も陛下のお
私どもが結婚したころはまだ国事行為の臨時代行に関する法律が無く,天皇が皇太子に国事行為を委任して,外国を訪問することはできませんでした。そのようなわけで,元首である国賓を我が国にお迎えすると,しばらく後に,私が昭和天皇の名代として,それぞれの国を皇太子妃と共に答訪することになっていました。
私どもの結婚の翌年,昭和35年9月の日米修好条約100周年に当たっての米国訪問は,皇太子の立場で皇太子妃と共にこれを行いましたが,2か月後の11月に,皇太子妃と共にイラン,エチオピア,インド,ネパールを,それぞれの元首の我が国訪問への答礼として行ったときは,昭和天皇の名代として,これを行いました。この4か国訪問が昭和の時代に私が昭和天皇の名代として皇太子妃と共に各国を訪問した始まりでした。この名代としての外国訪問は,国事行為の臨時代行に関する法律が昭和39年に施行された後も続けられ,昭和46年になってようやく昭和天皇,香淳皇后のヨーロッパ諸国御訪問が実現する運びになりました。このご訪問は昭和天皇,香淳皇后にとってもお喜びだったと思いますが,私どもにとっても喜ばしいことでした。天皇の名代ということは,相手国にそれに準ずる接遇を求めることになり,私には相手国に礼を欠くように思われ,心の重いことでした。各国とも寛容に日本政府の申出を受け入れ,私どもを温かく迎えてくれたことに,深く感謝しています。
昭和50年の昭和天皇,香淳皇后の米国ご訪問以降は,ご高齢の関係で,再び私が名代として皇太子妃と共に外国を訪問するようになりました。その後国際間の交流が盛んになるにつれ,国賓の数も増え,極力答礼に努めたものの,そのすべてに答礼を果たすことが不可能な状態の中で昭和の終わりを迎えました。
平成に入ってからは,私どもの外国訪問は国賓に対する答訪という形ではなく,政府が訪問国を検討し,決定するということになっています。
私どもの外国訪問を振り返ってみますと,国賓に対する名代としての答訪という立場から多くの国々を訪問する機会に恵まれたことは,国内の行事も同時に行い,特に皇后は三人の子どもの育児も行いながらのことで,大変なことであったと思いますが,私どもにとっては,多くの経験を得る機会となり,幸せなことであったと思います。それと同時に名代という立場が各国から受け入れられるように,自分自身を厳しく律してきたつもりで,このような理由から,私どもが私的に外国を訪問したことは一度もありません。
現在,皇太子夫妻は名代の立場で外国を訪問することはありませんから,皇太子夫妻の立場で,本人,政府,そして国民が望ましいと考える在り方で,外国訪問を含めた国際交流に携わっていくことができると思います。選択肢が広いだけに,一層的確な判断が求められてくると思われますが,国際交流に関心と意欲を持っていることを聞いていますので,関係者の意見を徴し,二人でよく考えて進めていくことを願っています。
私が御所に上がりましたのは,昭和34年(1959年)のことで,そのころには既に戦後の国交回復により日本に各国の大公使が滞在されており,結婚後そうした方たちとの接触のあろうことは知らされておりましたが,海外の訪問については何も伺っておらず,嫁いで数か月後,急に翌年5月訪米の案がもたらされたときには,本当に驚き,困惑いたしました。そのとき私は皇太子を身ごもっており,出産は3月初旬と言われておりました。私も同行を求められており,もし5月の旅行となりますと,母乳保育は2か月足らずで打ち切らねばならず,またホノルルを含め,米国の8都市を2週間で訪問ということで,産後間もない体がこれに耐えられず,皆様にご迷惑をかけることにならないか不安でもございました。自分の申出が勝手なものではないかと随分思案いたしましたが,当時の東宮大夫と参与に話し理解を求め,米国側も寛容に訪問時期を9月に延ばしてくれ,ほっといたしました。
このときに始まり,これまで陛下とご一緒に52か国を公式に訪問してまいりましたが,そのうち16か国を訪問するころまでは,出産があったり,子どもが小さかったりで,国内の公務の間を縫うようにして執り行われるこのような旅は,もう自分には続けられないのではないかと心細く思ったこともありました。ともあれ,陛下とご一緒に一回一回経験を重ね,その都度経験したことに思いを巡らせ,また心を込めて次の旅に臨むということを繰り返してまいりました。これらの訪問を通じ,私の自国への認識と,言葉では表し得ない日本への愛情が深まり,この気持ちを基盤として,他の国の人々の母国に対する愛情を推し測っていくようになったと思います。今,どの旅も,させていただけたことを本当に幸せであったと思っております。
外国訪問を含む今後の国際交流につき,皇太子夫妻に何を期待するかという質問ですが,この問題については,きっと皇太子や皇太子妃にこのようにしたいという希望や思い描いている交流の形があると思いますので,それが一番大切なことであり,それに先んじて私の期待や希望を述べることは控えます。
今は皇太子と皇太子妃が,これまでに積んだ経験をいかし,二人して様々な面で皇室の良い未来を築いていってくれることを信じ,期待しているとのみ申すにとどめ,これからの二人を見守っていきたいと思います。
振り返ると,即位の時期が最も厳しい時期であったかと思います。日本国憲法の下で行われた初めての即位にかかわる諸行事で,様々な議論が行われました。即位の礼は,皇居で各国元首を始めとする多くの賓客の参列の下に行われ,大嘗祭も皇居の東御苑で滞りなく行われました。これらの諸行事に携わった多くの人々に深く感謝しています。また皇后が,この時期にいつも明るく私を支えてくれたことはうれしいことでした。
私は,国民の幸せを願ってきた昭和天皇を始め歴代天皇の伝統や,天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるという憲法の規定を念頭に置きながら,国や国民のために尽くすことが,国民の期待にこたえる道であると思っています。
今日,大勢の人々に励まされながら,このような天皇の務めを果たしていることを,幸せなことと思っています。
まだ学生であった一時期,セリエ博士のストレス学説が日本でも盛んに取り上げられていた記憶がありますが,私の若いころ,「プレッシャー」という言葉が社会で語られるのを聞くことはまだ余りありませんでした。戦争で多くを失った日本が,復興への道をいちずに歩んでいたころであり,もしかすると当時の日本人全体が強いプレッシャーの下で生きていたのかもしれず,ある意味で社会がプレッシャーを共有し,これを当たり前に感じていた時代であったのかもしれません。
このような時代の続きであったためか,結婚後新しい生活に入り,多くの要求や期待の中で,一つの立場にある厳しさをことごとく感じる日々にあっても,私がそれをプレッシャーという一つの言葉で認識したことは無かったように思います。ただ人々の期待や要求になかなかこたえきれない自分を,悲しく申し訳なく思う気持ちはいつも私の中にあり,それは当時ばかりでなく,現在も変わることはありません。
また事に当たっての自分の判断になかなか自信が持てず,これで良いのかしらと迷うことも多く,ある時のある事件が自分にとり大きな挑戦であったという以上に,自分の心の中にある悲しみや不安と折り合って生きていく毎日毎日が,私にとってはかなり大きな挑戦であったと言えるかもしれません。
心が悲しんでいたり不安がっているときには,対応のしようもなく,祈ったり,時に子どもっぽいおまじないの言葉をつぶやいてみたりすることもあります。不思議に悲しみと不安の中で,多くの人々と無言のうちにつながっているような感覚を持つこともあります。この連帯の感覚は,本当に漠然としたもので,錯覚にすぎないのかもしれませんが,私には生きてきたことのご褒美のように思え,慰めと励ましを感じています。
シェークスピアの「ヘンリー五世」については,昔,映画で見た記憶があります。まだ平和条約が発効する前のことで,英国の対日連絡事務所の大使に当たるガスコイン政治顧問の招きで,この映画を見ました。フランス国王がヘンリー五世にテニスボールをおくる場面や,重武装のフランスの騎士が体を釣り上げられて馬に乗り,一団となって
平和条約が発効した翌年英国女王陛下の
身分を隠して何かをするということで,今,私の頭に浮かんでくることはありません。
私は自然に触れたり,研究をしたりすることに楽しみを覚えていますので,そうした時間がもう少しあれば非常にうれしいと思っています。今度の外国訪問でも,もう少し時間があれば,田園地帯を専門家の人と動植物を見ながら歩いてみたいと思いますが,忙しい日程の旅行ですし,帰るとすぐ東京で行事がありますので,そのような計画はしていません。皇后は東京に戻った翌日,国際看護師協会のレセプションがあり,週明けには皇后と私の出席する原子核物理学国際会議の開会式とレセプションがあります。
その後葉山で数日休養を取るつもりです。葉山では浜辺をよく歩くのですが,地元の人やたまたまその日に遠出して来た他の地域の人々など,様々な人々と出会います。今年の冬に訪れた葉山でのことでしたが,夕日が富士山に映えて美しく,その美しさを大勢の人々と分け合うように見ていたときの皇后は本当に楽しそうでした。私どもはまた浜とは反対の,川に沿った山道もしばしば訪ねますが,その道にはサンコウチョウが巣をつくっているところがあり,それを見に来る鳥の好きな人々とよく出会います。巣から尾だけ出しているサンコウチョウ,杉林の間を長い尾を引いて飛ぶサンコウチョウなどを眺め,見に来た人々と楽しい一時を過ごしたこともありました。
皇后も私も身分を隠すのではなく,私たち自身として人々に受け入れられているときに,最も幸せを感じているのではないかと感じています。
記憶に誤りがあってはと思い,大学の図書館から本をお借りして久しぶりに読みました。
ヘンリー五世が英軍の陣営内で,身分を明かさずに,通りすがる兵士たちと話を交わし,そこから人々が彼らの王に対して持っている気持ちを知ろうとする場面が質問の導入部のところだと思います。
質問の本体である,身分を隠し好きな所で一日を過ごすとしたらどこで何をしたいか,ということに対しては,意外と想像がわきません。以前,都内のある美術館で良い展覧会があり,是非見たいと思ったのですが,大きな駅の構内を横切ってエレベーターの所まで行くため,かなりの交通整理をしなくてはならないと聞き,大勢の人の足を止めてはとあきらめたことがありました。このときは,そこを歩く間だけ透明人間のようになれたらなあ,と思いましたが,これは質問にあった「身分を隠して」ということとも少し違うことかもしれません。
そこで思い出したのですが,以前東京子ども図書館の会合にお招き頂いたときに,当日の出席者を代表して,館長さんから「かくれみの」を頂きました。日本の物語に時々出てくるもので,いったんこれを着ると他人から自分が見えなくなる便利なコートのようなもので,これでしたら変装したり,偽名を考えたりする面倒もなく,楽しく使えそうです。皇宮警察や警視庁の人たちも,少し心配するかもしれませんが,まあ気を付けていっていらっしゃいと言ってくれるのではないでしょうか。まず次の展覧会に備え,混雑する駅の構内をスイスイと歩く練習をし,その後,学生のころよく通った神田や神保町の古本屋さんに行き,もう一度長い時間をかけて本の立ち読みをしてみたいと思います。