江戸時代の日本絵画
嵯峨美術大学名誉教授
佐々木正子
( 研究について )
私は日本絵画史における、絵画の描法・描写・技法の解析研究を行っております。その解析を通して、流派や個人の描写の特色や絵師が目指したこと、制作の背景となる絵画思想、また当時の社会現象と芸術の在り方の関係性などを解明することを研究テーマとしてまいりました。
絵画はその時代、時代の社会のニーズに合わせて、例えば社会の中心に宗教があった時代には様々な仏画が描かれるなど、画題や描写表現は社会変化に対応して発展、展開していきますので、絵画は正に時代を映す鏡でもあります。
本日は我が国の絵画史の中で、特に豊かで多様性のあった江戸時代の画壇の状況と、当時の社会現象としてみられた海外からの知識吸収熱や、広まっていた思想との影響関係についてお話しさせていただきます。
( 江戸時代の特性と社会現象 )
我が国は古くより積極的に海外の文物を取り入れる姿勢を見せ、海外からの知識流入の大きい時代は芸術も発展しました。16世紀、安土桃山時代には南回りの海路による貿易が盛んになり、この交易ルートを通して様々な異国の文化が「南蛮文化」として国内に伝わりました。やがて西洋列強の侵略を危惧した徳川幕府は国を閉じることを選択しますが、こうして安土桃山時代に大量に入った海外の知識が鎖国により蓋をされる形になったことが、江戸時代の文化へ大きな影響を与えたと考えております。
江戸幕府は海外からの知識や文化芸術の流入を拒否したわけではなく、長崎の出島を通して絵画や中国の画伝書も取り入れられており、それが唯一の細いルートであったために、希少な海外からの情報への注目はさらに高まり、吸収され、江戸時代に我が国の中でそれらは独自に熟成し、発展を遂げ、変化を生み出していきました。
異国の文化を知ったことで、新しい知識を得ようとする好奇心の強い社会状況が生まれ、人々を学問に目覚めさせ、中国から入った朱子学の中にある「格物究理」という思想が全国に浸透していきました。
「格物究理」の思想は物の実態、本質、構造など「真実」を解明する志向が強く、絵画の世界でも新しいものを求め、真実を描き出そうとする動きが生まれていきます。西洋の解剖学書『ファブリカ』の輸入によって、写実的な指図の描写法や人体の骨格や筋肉の構造を理解し、西洋の遠近法である一点透視図法を取り入れ、また中国画の写実的描法など、こうした知識の取得に向けられた好奇心は絵画の表現を変えていき、写生派を生む背景ともなっていきました。
( 西洋からの吸収 )
西洋からの影響を見てみますと、誰しもが我が国の伝統的なものと考える御用絵師狩野派や土佐派の描く金地極彩色の襖絵で、例えば「松に鶴図」などのようなものがありますが、これは実は西洋の金地テンペラの技法を取り入れたものであることを、研究の結果、解明することができました。
西洋の聖母子などの聖像画では、石膏を塗った板絵に金箔を張り付ける技法が12世紀から発達しますが、この技法が16世紀安土桃山時代に我が国へ流入し、宗教画担当の宣教師からセミナリオで御用絵師に伝えられました。西洋で使われていた下地の石膏や赤とのこや、作品表面に塗ったニスなどは我が国では使われなくなり、板ではなく紙の上で成立する技法へと展開していきます。
江戸時代にかけてこの技法は高度になり、西洋から入った技法であるにもかかわらず、中国の画題や花鳥図などで用いられ、数々の城郭などの襖絵が描かれました。西洋の小さな聖像画の技法を、襖絵の大画面へと展開させたことは、絵師たちの大いなる努力のたまものと言えます。
また、安土桃山時代に流入した西洋の「都市図」は信長などの為政者の関心を引き、同じく金地極彩色で描かれる日本の都市図である「洛中洛外図」を生み出し、江戸中期まで盛んに描かれました。
( 中国からの影響 )
一方、中国からの描法で我が国の画壇に大きな影響を与えたのは清の画家・沈南蘋でした。沈南蘋は、長崎の出島に滞在し、通訳でもあった唐絵目利き職に画技を教えました。この役職は輸入された物品を視覚的資料として記録に残す役目を持ち、細密な写生描写を学ぶ必要があったのです。そこから描法は国内に広がっていきました。
沈南蘋は中国に渡ったイタリア人宣教師カスティリオーネが中国の画院に伝えた西洋の陰影法を習得していましたので、東洋画では珍しい立体感のある表現を得意としていました。沈南蘋の描法は長崎派という流れになり、我が国の伝統的な描法と混合されていきます。こうして西洋と東洋から流入した表現と我が国の伝統的表現が融合していき、鎖国下の中で独自の新しい表現へと展開していきました。
( 指導者の存在 )
また、この時代の絵画レベルが高くなった要因の一つに、画伝書などだけでなく、思想的指導者がいたということが挙げられます。相国寺にいた大典禅師は朝鮮との外交文書を取り扱う朝鮮修文職でもあったため、より広い海外の知識も保持していた人物で、臨済禅の思想を広く人々に説いていました。
教えを受けた一人、伊藤若冲は大典の説く「草木国土悉皆成仏」という思想、この世のすべての生き物、草木に至るまで魂を持った尊い存在で仏性が宿るということを深く理解し、従来はモチーフとしては扱われることのなかった毛虫や蜘蛛、爬虫類等にまで光を当て、生き物たちの命の輝きを鮮やかに生き生きと表現していきました。
写生派の円山応挙も同じく大典禅師の教えを受けており、自然の姿を大切にしようという思いから、客観的な品格ある写生画を生み出しました。
また大阪の博物学者・木村兼葭堂は膨大な貝などの博物学資料のコレクションを持ち、多くの絵師が実物を見に訪れています。海外からの写実的絵画の流入と共に、「格物究理」の思想、更に禅の教え、博物学の知識などを背景として、自然物の真の姿を写す写生派が画壇の中心となっていったと考えられます。
( 写生の種類 )
こうした社会的背景から、当時画壇の中心となった写生画ですが、それまでの絵画は記憶や師のお手本を基に描くことが主流で、ものを見てその形を写すという考え方ではありませんでした。
写生派を興した円山応挙の思想で注目すべきは「写生」を3種類に分けて考えていたことです。まず、生きるに写すと書いて「生写」は、対象物を見ながら描くラフ・スケッチで、現代で言う「写生」に当たり、実物を目で見て確認している行為が重要で、必ずしもそれ自体が作品になる訳ではなく、対象物の形の把握や構造の理解のための資料として描かれました。その「生写」をもとにして整えた作品として描かれるのが、正しく写すと書いて「正写」と言い、美的鑑賞用の写生画を意味しました。
更にもう一つは真に写すと書いて「真写」と言い、現代では「写真」としてカメラを使いますが、当時は絵師が担当し、外界を見えたとおり、省略することなく描き写すことを意味しました。この「真写」は芸術という目的よりは、当時学問として流行していた博物学辞典の指図などとして学術的目的で用いられました。また「真写」は、この世に真に存在するものを描いたという意味を持ち、「真人図」は描かれた人物が実在していること、「真景図」は実景であることを意味しています。このような写生の表現にも真実追究の姿勢が感じられます。
( 「写形」と「写意」の思想 )
このように社会に真実の追及、写生の姿勢が広まると、一方、それと対比して、絵画に求めるものを目に見える形ではなく、自らの心に写し出されるものこそを絵画化すべきだという、内的な世界を重視する動きも出てきます。
形を写すことを目的とする姿勢を「写形」思想、自らの心の内、意識を写そうとする姿勢を「写意」思想と言いますが、この二つは当時、絵画の在り方を問う論争にもなりました。
写形の代表と言えるのが写生派の円山応挙ですが、写意の代表は文人画家の与謝蕪村や池大雅などと言えるでしょう。「写意」である文人画は絵画思想の方に重きが置かれ、描写の正確さよりも表現の自由性を求め、ニュアンスのある作風を展開しました。
それと同じように写生や真実から離れた自由性のある奇抜な表現をみせる奇想派と呼ばれる絵師たちも登場し、この他にも意匠性を見せる琳派や庶民生活を描く浮世絵など、江戸時代は我が国の絵画史の中でも、描法や絵画思想の違いなど、様々に幅広く展開し、絵画に人々の関心が高まった時代でもありました。
( 京都御所に残る絵画 )
戦乱の時代が終わり、社会が平和になったこと、また一般市民もが向学心を持つ時代であったことや、直前の安土桃山時代に流入してきた海外の文化が閉ざされた鎖国の環境下で熟成し、我が国独自の芸術へと昇華していったことなど、様々な要因が重なり合ったことが江戸絵画を豊かにしていったと考えられます。
この後、明治時代になると開国に伴い西洋の文物が一気に入ってくるようになり、我が国の芸術への自己評価が急激に低下し、文明開化の動きや廃仏毀釈の嵐の中、多くの絵画や貴重な文化財が破壊され、海外へ流れて行ってしまいました。また明治になると、我が国の伝統流派は残念なことに、写生派以外はすべて消滅していってしまいます。
こうした社会情勢だけでなく、火災で京都御所天皇御常御殿に円山応挙が描いた群青を多用した見事な山水図は下図を残すのみで焼失してしまうなど、数々の作品が時代の流れの中で失われていきました。
しかし、様々な時代の荒波を乗り越えて、今もなお、京都御所の1800面を超える襖絵が、当時の宮中の生活の分かる建築環境の中で守られてきました。安政度造営の現在の御殿は、御用絵師だけでなく、江戸後期における画壇の中心的な絵師97人が携わっており、その大半の作品は今も残され、当時の画壇の姿を知ることのできる、貴重な文化遺産となっております。
現在、私は清涼殿襖絵の原本を保存するために、復元模写の監修をさせていただいておりますが、京都御所の作品群が我が国の江戸時代の絵画の有様をタイムカプセルのように後世に伝えていってくれることを願っております。
オーラル・ヒストリーとは何か
東京大学名誉教授
東京都立大学名誉教授
御厨 貴
オーラル・ヒストリーとは何でしょうか。実は、「聞き書き」というものが、日本でのオーラル・ヒストリーの先駆として考えられます。明治時代にすでに「聞き書き」は存在していました。福沢諭吉の『福翁自伝』、あるいは勝海舟の自伝などは、聞き書きを文章化した好例です。明治維新後の急速な近代化の跡を特定の農村社会や城下町に即してまとめた「座談筆記録」も存在します。
一方、政治や経済という社会科学の分野では、語られた言葉を紡いでいくというやり方は帝国議会に即して進んでいきます。1890年の帝国議会の創設以後、様々な政治家が登場します。彼らの生き様、主義主張を記録に残すことが次第に重要になってきます。1940年がちょうど議会制度50年にあたります。皮肉なものですが、その記念すべき年に、日本の政治は議会制度を否定するような軍事一色の政治体制になっていくわけです。その中で衆議院及び貴族院は各々の編纂部局が、政治家の体験談を記録し保存したのです。
戦後80年といいますが、聞き書きの伝統は戦後はどうなったのでしょうか。戦後20年、戦後復興が一段落した1960年代から、政治家や官僚への聞き書きが、東京大学を中心とする二つの研究会によって「談話速記録」という形で世に出ていきます。復興から高度成長へと向かう節目の20年を過ぎ、戦前の政治体制にコミットメントした人々が、次々に「実は」ということで口を開くようになったからです。
第二次世界大戦という戦争が契機になり、内務官僚・軍人・近衛側近などが、ヴィヴィッドに当時の様子を語っています。ただし、この頃は今日と異なり、録音や文字起こしの技術や方法の効率が極めて悪く、また、記録の起こし方もまちまちで、「談話速記録」の作成に時間がかかる上、使い勝手が極めて良くないという欠点を拭えませんでした。同じ時期に、政治学・政治史の分野以外の学問領域でも話し言葉をきちんと記録して使うという営みがありましたが、相互交流にはほど遠い状態でした。
さて、1990年前後、昭和から平成に代わる時代に、我々の関心は戦前から戦後に移っていました。しかし、ほんの10年前のことを聞くのに苦労しました。戦後は切れ目なく続いたため、日本の官僚は「沈黙は金」とばかり、自らの過去をあえて語ろうとはしませんでした。同じ頃、アメリカではハーバード大学で、なぜベトナム戦争を起こしたのかという観点から現代のオーラル・ヒストリー研究が進んでいました。やはり戦争が人の口を開かせる契機となったのです。
日本は戦後が積み重なっていくだけです。しかし好機到来、日本でも1990年代の平成期には、政権交代が実現し、安定した政治秩序が変容を来し始めます。官僚たちは自らの存在の証しを求めて、自分の過去を振り返るようになりました。さらに戦後50年ということもあり、政治家もまた自らの来し方を語ることに積極的になります。
オーラル・ヒストリーでは、人が口を開きやすい環境づくりが大切です。1か月に1回2時間、それを1年続けます。聞き手は二人か三人で、年長者と若い人、専門の異なる人などに分かれます。聞き手と話し手との間に適度な緊張感を維持するため、1か月に1回はちょうどよい間合いですし、また、オーラル続行中は酒食を共にする場は可能な限り設けません。親しくなると、なあなあになる恐れがあるからです。今はテープ起こし者が素早く打ち込みますから、話し手は自らの喋りに早く再会し、手入れをすることになります。その際、削除を求める声もありますが、意外に少ないものです。人は自らの口から発せられた言葉が、きちんとプリントされているのを見た時、自らの発言に素直になるものなのでしょう。それらはやがて研究プロジェクトの報告書として製本され、研究者の用に供されることになります。人によっては商業出版として世に問うことも、最近では多く見られます。
今述べたように、最近ではICレコーダーを始め、オーラル・ヒストリーの機材が昔とは比較にならないほど良くなり、支障を来すことが少なくなりました。
1990年代から四半世紀近く、我々は様々なオーラル・ヒストリーに挑戦してきました。それを官僚組織に即して整理すると、当事者を通して各省庁の在り方や組織文化が浮かんできます。まず最初に我々が取り組んだのは、当時最も不明瞭であった内閣官房です。最も優れた官房長官・副長官経験者と、最も多くの総理に仕えた官房副長官、この二人のオーラル・ヒストリーを同時に始められたことが我々にとって幸いでした。一方は慎重に言葉を選びながら、他方は水滝が流れる如く、自らの体験を語っていただき、内閣官房の姿がおぼろげながら分かってきたのです。二人とも、それをしばらく寝かせておくことなく、即時の商業出版を望まれました。その結果、片や20万部のベストセラー、こなた教科書のように使われるロングセラーとなりました。政治とは何か、官僚とは何かが、具体的事例をもって迫ってくる、オーラル・ヒストリーの良きテキストになりました。今では古典と言っても過言ではありません。同時に、オーラル・ヒストリーが社会現象化し、新語辞典に取り上げられたり、東京大学の入試問題に使われるまでになったのです。
かくてオーラル・ヒストリーという言葉はあっという間に人口に膾炙し、聞き手、話し手ともに大した説明を試みることなく、理解者が増大する結果ともなりました。この間、我々のプロジェクトでは、外務省、内閣法制局及び最高裁判所への歩みを進めていきます。外交官は意外にも多くの方が次から次へとオーラル・ヒストリーに応じてくださり、今では退職後にオーラル・ヒストリーを出すことが当たり前になってきました。例えば、「外務審議官」というポストに就いた方が何代かにわたってオーラルに応じてくださると、そのポストの意義と変遷が、極めて明確に伝わってきます。組織は生きているという実感をもつのは、まさにこのような出会いのある時です。
内閣官房でも内閣法制局でも、場の再現が重要です。会議や打合せの時に、どのような部屋でどのような座り方で行うのか、話し手にとっては当たり前のことですが、聞き手は根掘り葉掘りそれを立体化していきます。小さな部屋を想定していたのが、出入り自由の大部屋だと分かった時は、決定の在り方が全く異なることが判明し、改めてオーラル・ヒストリーの意味を再確認しました。最高裁判所における一日の人の動線の在り方も、重要な発見でした。
こうして官僚組織を生き抜いた方のオーラル・ヒストリーを重ねていくと、話し手の喋り方の中に、各組織に特有のものがあると気付かされます。公文書の整理の仕方などもオーラルを通して見ると、組織ごとの特色が浮かんできます。つまり、オーラル・ヒストリーの体験が、「官庁文学」と言われる各組織特有の文書作成の在り方を読み解く重要なキーになるわけです。さらに言えば、明治・大正期の文書の中で、どうしても理解できなかった箇所が、現代のオーラル・ヒストリーの応酬の中で、それこそ時空を超えて理解できる瞬間に出会った時、「やった感」は半端なものではありません。
テーマごとのオーラル・ヒストリーも試みました。それは、「国鉄民営化」であり、「道路公団民営化」でありました。まだ生々しい素材であり、結果も判然とはしない、ややアブナイ事例でしたが、それぞれの組織の立役者と直談判をして、オーラル・ヒストリーに臨みました。ある意味でそれは勝者のオーラル・ヒストリーに他ならないのですが、どちらも検証可能性のある形で広く一般向けに出版しました。今読んでも緊迫感が伝わってきます。
河川協会を主体として、土木のオーラル・ヒストリーを現場の技官を中心に行ったこともありました。技官は事務官とはまた異なる組織文化の中で育まれていました。ただし、回を重ねるにつれて事務官よりは胸襟を開く度合いが高かったように思います。
もう一つ、日本銀行に触れておきましょう。バブル経済の解明のために、オーラル・ヒストリーを行いたいという申し出があったのです。最も秘密を守り抜くとされた日本銀行がどのような形で口を開くのかに興味がありました。日本銀行としては、今後の政策の作成と決定に資する資料収集の一環として、オーラル・ヒストリーを行うとの位置付けでした。日本銀行内部の方だけを聞き手とするのではなく、必ず一人は部外者を入れるという方針にしました。なあなあを防ぐこと、内部常識で聞かず仕舞いになる事項をなくすようにすることが大事だったからです。ここではまた、官庁組織とは異なる日本銀行気質のようなものを知ることができて有意義でした。入行した方のライフヒストリーを比較すると、国内派や国際派に分かれていく様を伺うことができるからです。
オーラル・ヒストリーを行っていくうちに、対比列伝の試みが可能となります。私が試みた同時代を生き抜いた二人の総理へのオーラル・ヒストリーを用いて比較分析をするのです。頭の切れの良さでは政界ナンバーワンの総理と、面倒見の良さでは右に出る者がいない総理との戦後政界での出会いは、互いに互いを全く理解できないところから出発します。会っても会話が交わせない微妙な心理的葛藤の末に、二人がようやく相互了解の域に達するのは、二人共に不本意ながら総理を退いたあとのことでした。当時なお長老として存在した二人は、そこはかとなく相互協力が可能となり、政治という世界でこその老いて分かる人間関係の面白さを十分に味わわせてくれました。それこそがオーラル対比列伝の醍醐味でありましょう。
かくてオーラル・ヒストリーの世界は、この四半世紀で多様性を帯びてきました。そして文書資料とは異なった趣の方法と資料の在り方を豊富にしたと言えます。数が多くなれば、クロスチェックも可能になり、言いっ放しの放談扱いはされなくなります。それでもなお文書資料に迫れるような検証可能性を高める自己努力が、オーラル・ヒストリーの関係者には求められ続けることでありましょう。
最近、オーラル・ヒストリーの作品としての成熟度の高まりを感じることがありました。政治にも関与した二人の知識人で、一人は経営者にして文化人、一人は劇作家にして文化人という、この二人のオーラル・ヒストリーを15年ほど担当してきました。二人とも文化人らしく時に張り切り、時に逡巡し、成果物への道は当初よりはるかに難航しました。何度絶望の淵に立たされたことかしれません。しかし、二人とも長きオーラル人生にようやくピリオドを打ち、自らの生き様を知らしめた成熟度の高い作品として、数年前に商業出版されました。その時嬉しかったことは、多くの新聞雑誌に、オーラル・ヒストリーならではの作品として、また、オーラル・ヒストリーだからこそ残せた作品として、批評されたことでした。単なる歴史資料の方法を超えたものとして評価を得たことでありました。
オーラル・ヒストリーは、今や政治史学の一つの方法から、その領域も他の学問分野と比較考察可能にもなり、また、対象となる人物も広がりを見せるようになりました。我々はこれからも一歩一歩、オーラル・ヒストリー研究の歩みを進めたいと思っています。
観測天文学最前線と日本の活躍
国立天文台名誉教授
総合研究大学院大学名誉教授
日本学士院会員
家 正則
本日は、近年の観測天文学の発展について日本のすばる望遠鏡などの活躍を軸に、お話しします。
古代より人類は地平線のかなたと夜空の拡がりに想いを馳せてきました。どの文明も独自の宇宙観を伝承し、人々の心の拠り所としてきました。
[宇宙観の変遷]
近代の天文学は、1600年初頭にケプラーが惑星の観測データから三つの法則を発見し、ニュートンが万有引力の法則で、これらを説明したことから始まりました。同じ頃、ガリレオは自作の望遠鏡を用いて、天の川が無数の星の集まりであることを見抜き、地球は太陽を回る惑星の一つであると説いて、宗教裁判にかけられました。1785年には、天の川の存在こそ、「目玉焼き」のような平たい円盤型の宇宙の中に我々が居る証拠なのだという「銀河系宇宙像」をハーシェルが唱えました。
そして、約100年前の1924年には、ハッブルが、アンドロメダ大星雲は私たちの銀河系の外にある別の渦巻銀河であり、宇宙はもっと大きいということを発見しました。観測した24個の渦巻銀河が全て遠ざかっていることから、ハッブルはさらに、1929年には宇宙が膨張していることを示しました。当時天文学はノーベル賞の対象ではありませんでしたが、ハッブルの発見はノーベル賞二つに値するほどのもので、人類の宇宙観を大きく変えたのです。
ハッブルが発見した膨張する宇宙の過去の姿を考えたガモフは、1947年に、宇宙は火の玉状態のビッグバンで始まったという考えに至りました。灼熱のビッグバン宇宙は膨張とともに急激に冷えますが、現在でもその火照りを、マイクロ波という電波で観測することができるはずであるとガモフは予言しました。実際、1960年代にペンジャスらにより発見された「宇宙背景放射」と呼ばれるこの火照りには、その空間分布に微かなムラがあることが1992年に確認されました。現在では、その微かな凸凹のムラがその後増幅されて、今日の銀河分布などの宇宙の構造ができたものと考えられています。
[すばる望遠鏡]
このように20世紀に天文学が発展した中、日本では1960年、東京大学東京天文台が岡山県に直径188センチメートルの望遠鏡を完成させました。この望遠鏡は当時世界第5位の規模で、萩原雄祐東京天文台長が昭和天皇への講書始の儀で、その意義を訴えたことが記録されています。その建設は5年がかりとなるため、予算化には5年度にわたる国庫債務負担行為が初めて適用されたと聴いています。
私は大学院に進学後、銀河に渦巻構造ができる原因の理論的研究を行いましたが、理論研究と並行して、この望遠鏡で渦巻銀河の観測を行いました。当時の観測は、望遠鏡の先端に取り付けたガラス乾板の位置を、1時間露出の間、毎分手で微調整するというものでした。露出を終え暗室で現像すると、渦巻銀河が浮かびあがってきます。大きな望遠鏡を使えることに大変感動しました。ですが、暗い夜空が無くなった国内での観測では、海外の最先端望遠鏡には太刀打ちできませんでした。
そこで、1984年から、我々はハワイ島の海抜4200メートルのマウナケア山頂に、直径8メートルの世界最大の望遠鏡を建設するという野心的な構想を練り始めました。建設費が400億円に及ぶ大計画になりましたが、日本学術会議などからも実現の決議をいただきました。東京天文台は1988年に東京大学から独立し、国立天文台として全国の大学共同利用機関となり、1991年から望遠鏡の建設が始まりました。ハワイ観測所は外国に設置される初めての国有研究施設となるため、法的な位置づけの整備も必要でした。この望遠鏡は「枕草紙」の「星はすばる」にちなんですばる望遠鏡と名付けられました。
私はこの計画の技術面を分担し、望遠鏡を世界一の性能にする方法を考えました。直径8メートルの鏡をできるだけ薄く柔軟な構造にし、261本のロボットアームで支えるその力配分加減を1秒ごとに調節して、鏡を常に理想的な形に保つというアイデアです。前例のない計画でしたが、日本企業の高い技術力を結集して建設されたすばる望遠鏡は、1999年に完成し、完成式典には清子内親王殿下に山頂までお越しいただきました。すばる望遠鏡での本格的な観測は2000年から始まり、実に様々な科学的成果を挙げています。
[最果ての銀河を観て、宇宙史を探る]
天文学では、光の速さでも1年かかるとてつもない距離を1光年と定義します。ハッブルが見た20億光年の世界をはるかに越える130億光年かなたの銀河を、我々はすばる望遠鏡で2006年に発見し、世界記録を5年間保持しました。100億光年かなたの銀河からの光は地球に届くまでに100億年かかります。古い地層の化石から地球の歴史を探る考古学者のように、天文学者はより遠くを見ることで宇宙の過去を探求します。我々の記録は2011年に破られましたが、その後も日本の研究者が世界記録を次々に更新しています。
天文学の世界では、優れた提案を世界中から募集することが通例となっています。最近では、日本、アメリカ及び欧州が、アンデス山脈のアタカマ高原に共同で建設したアルマ電波望遠鏡や、NASAが2021年に打ち上げた宇宙望遠鏡を使う観測でも、すばる望遠鏡での成果を基に、日本の研究者が宇宙の歴史を探る分野などで目を見張るような成果を挙げています。
現在確認された最も遠い銀河は134億光年のかなたにあります。これは、宇宙誕生から約4億年後の世界を見ていることになります。「宇宙の一番星」に当たる星や銀河の誕生の様子は随分と分かってきました。
[暗黒物質・暗黒エネルギー]
ビッグバンから38万年後の宇宙背景放射の観測結果と、すばる望遠鏡などで調べたビッグバンから100億年後の銀河の分布の観測結果の両方を矛盾なく説明できる宇宙モデルは、標準モデルとして、研究者に広く受け入れられています。しかし、この標準宇宙モデルは、宇宙膨張が約70億年前からは重力を振り切って加速したことを示唆しています。もし、そうであれば、宇宙のエネルギー密度の3分の2はこの宇宙膨張を加速する未知の暗黒エネルギーであることになります。更に、宇宙の4分の1は、重力を及ぼすが光らず見えない暗黒物質からなっていることになり、私たちが知っている通常の物質の総量は全体のわずか5%でしかないということになります。
21世紀の宇宙論における最大の宿題は、この暗黒物質と暗黒エネルギーの解明です。その正体はいまだ全く不明ですが、すばる望遠鏡の性能を活かして、暗黒物質の重力作用からその分布を調べる研究が進められています。
[太陽系以外の惑星]
このような宇宙全体の研究の進展と並んで、最新研究のもう一つのハイライトとなっているのは惑星探査の研究です。
太陽系の土星や木星、それらの衛星の観測については、日本のJAXAからも多数の宇宙探査機を送り出しています。はやぶさ2のように小惑星から砂粒を持ち帰る計画も進められ、太陽系の詳しい姿が日々明らかになってきています。新聞やテレビでその映像を目にする機会も多いと思います。
ここでお話ししたいのは、太陽系以外の惑星の研究です。1995年に太陽系以外の惑星の存在が初めて確認されてから30年の間に、6000個を越える惑星が確認されています。この広い宇宙の中で、地球にだけ生命が発生し、文明が発展したとは、ほとんどの天文学者は考えていません。宇宙にはきっと生命を宿す惑星が数多く存在するはずです。
具体的な発見を可能にするため、我々はすばる望遠鏡に賢い眼鏡を開発しました。見え味の良いすばる望遠鏡自体、毎秒鏡の形を調節する賢い鏡なのですが、上空の空気のゆらぎの影響を被るため、理論的な解像度と比べると、そのままでは10倍ほどぼやけた写真になってしまいます。そこで、小型で素早い調節のできる別の賢い眼鏡を付けて、毎秒1000回の速さで調節すると、星の光のチラチラを止めて、10倍高い視力を実現できるのです。この賢い眼鏡の実用化で、すばる望遠鏡は太陽系以外の惑星をいくつか撮影することに成功しています。そのような惑星の光をプリズムで虹色に分けて分析すると、その惑星の大気中に酸素やメタンなどの生命存在の証拠となる分子があるかどうかを確認できるはずです。
しかし、微かな光をさらに虹に分けて測定するのは、すばる望遠鏡でも力不足です。このため、日本・アメリカ・カナダ・インドの4か国はすばる望遠鏡の隣に、直径30メートルの鏡を持つ超大型望遠鏡TMTを建設する計画を進めています。まだ10年以上先になりますが、TMTなど次世代の望遠鏡が活躍すれば、生命の存在する惑星の発見や、宇宙の加速膨張を直接検証することもできるはずで、本日お話しした謎のいくつかに答えが得られるかもしれません。
[人類文明]
最後になりますが、宇宙観と人類文明についての考察をお話しします。
ビッグバン宇宙論によると、宇宙の最初の3分間に水素とヘリウムができました。しかし、急速に冷えた宇宙の中ではそれより重い元素を作る時間はありませんでした。炭素や酸素や鉄など、水素以外の全ての原子は、その後に産まれた無数の星の内部で起こった核融合反応の産物です。
もしも、私たちの髪の毛のタンパク質の中の炭素原子にインタビューすることができたとして「あなたはどこから来ましたか」と聞くと、その炭素原子は「実は80億年前に近くにあった星の中で私は生まれました。その星が一生を終えてばらばらになり、縁あって今はこうしてあなたの髪の毛の一部としてお仕えしています。」と答えるかもしれません。つまり、星がなければ私たちは生まれていなかったのです。その意味で、私たちはいわば「星の子」「宇宙人」なのです。
「人類文明」はこの100年で飛躍的に発展しました。1902年の飛行機の発明、1920年の最初のラジオ放送、1929年の宇宙膨張の発見は、どれも約100年前の出来事です。日本人の平均寿命はこの100年で2倍になりました。未来は予測できませんが、民族紛争や覇権争いが深刻化する現代の人類は、核戦争や環境破壊のリスクを乗り越え、持続できる成熟した文明になれるのでしょうか?
観測天文学の発展の勢いからは、近い将来に生命の存在の兆候を示す惑星が発見されるでしょう。もしかすると、自然現象では説明できない信号を発する文明の兆候をもつ惑星が見つかるかもしれません。私たちはそんな時代に入ろうとしているのです。
銀河系の中に地球文明以上の文明が仮に10万個あったとしても、隣の文明までの平均距離は約1000光年となります。光の速さでも1000年かかるほど遠いのです。現代の人類文明の安定な持続時間が1000年以下だとしたら、隣の文明を見つけても交流はおろか、こんにちはというメッセージへの返事が戻るまでに、人類文明は自滅していることになります。宇宙はそれほどに広く大きいのです。
138億年の宇宙史、46億年の地球史、1万年の人類文明史、地球環境を壊す力をもったこの100年の現代文明を大きな視点で捉えて分断や対立を乗り越え、100年、1000年というスケールで持続していける未来を私たち皆で心掛けることが大切なのだろうと考えています。