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アクセス:東京メトロ千代田線「千駄木」駅1番出口徒歩5分 東京メトロ南北線「本駒込」駅1番出口徒歩10分 都営三田線「白山」駅A3番出口徒歩15分 JR線・京成線「日暮里」駅西口徒歩15分 都営バス草63番系統「千駄木一丁目」下車徒歩1分 都営バス上58番系統「団子坂下」下車徒歩5分 B-ぐる千駄木・駒込ルート「19特養ホーム千駄木の郷」下車徒歩5分 (2)スライドトーク (3)展示解説 | ![]() ![]() |
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9 主な展示資料 (1)帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)拝命(「進退録」のうち) ![]() 大正6年(1917)12月25日、森鷗外は帝室博物館総長兼図書頭を拝命した。史料はその人事を決定した際の公文書である。帝室博物館総長兼図書頭の拝命について、大正7年1月24日付で、鷗外は親友の賀古鶴所へ「上野モ三年町モ活気ヲ生ゼシメ度」と送り、就任の意気込みを述べている。(宮内公文書館蔵) ![]() 軍医総監の退任から1年8か月後、森鷗外は56歳で帝室博物館総長兼図書頭に就任した。大正6年12月25日の「鷗外日記」には「午前十時往宮内省。任帝室博物館総長兼図書頭。」とある。本書簡は、就任後の年末に親友・賀古鶴所に宛てたもの。「老ぬれと馬に鞭うち千里をも走らむとおもふ年立ちにけり」と心に思うことを詠んでいる。(文京区立森鷗外記念館蔵) ![]() 大正7年(1918)1月1日から同10年3月17日までの森鷗外自筆の日記。一日も欠かさず、漢文体で記す。「参館」「参寮」の記述から、月・水・金曜日は帝室博物館へ、火・木・土曜日は図書寮に出勤する様子が確認できる。(文京区立森鷗外記念館蔵) ![]() 森鷗外旧蔵品。宮内高等官(勅任官)用の大礼服。宮中の儀礼で着用した。所蔵館以外で展示されるのは、本展が初めてとなる。(森鷗外記念館(津和野町)蔵) ![]() 図書寮が、宮内省で作成、保管される公文書類の保存期限の区別および編纂簿冊名に関する規程を改正するため、各部局に照会した際の記録。掲出の史料は、そのうち「図書頭・森林太郎」より「帝室博物館総長・森林太郎」に宛てられた照会の回答である。帝室博物館総長兼図書頭としての森鷗外の姿がうかがい知れる。(宮内公文書館蔵) ![]() 森鷗外が、図書頭として歴代天皇の代数や院号について調査した記録に寄せた序文。「図書頭医学博士文学博士森林太郎」の署名がある。調査記録自体は、図書寮において大正6年(1917)に作成され、宮内次官に提出のうえ、皇統譜の調査に関する参照資料として活用された。(宮内公文書館蔵) ![]() ![]() 森鷗外は、帝室博物館総長兼図書頭就任後、毎年秋に正倉院曝涼の立ち会いで奈良に出張した。約1か月の滞在中、子どもたちに毎日手紙を送っている。(右)鷗外筆森杏奴宛葉書 大正7年(1918)11月5日:次女・杏奴(当時9歳)に鹿を描いて送った。(左)鷗外筆森茂、森杏奴宛葉書 大正9年11月2日:妻・志げ(茂)と杏奴に正倉院曝涼(ばくりょう)立ち会いの様子を伝える。(いずれも文京区立森鷗外記念館蔵) ![]() 正倉院御物拝観の許可証控え(和文・英文の表裏)。帝室博物館総長として森鷗外は、大正8年(1919)11月の正倉院宝庫曝涼(ばくりょう)より「学芸技芸ニ関シ相当ノ経歴」を有する者にも拝観資格を拡大した。(宮内公文書館蔵) ![]() 大正10年(1921)3月に宮内省図書寮より百部限定で発行(非売品)された『帝謚考』の原稿。『帝謚考』とは、神武天皇以降明治天皇までの天皇の謚(おくりな)の出典考証をまとめたもの。森鷗外は、図書頭の職務の過程で、この編纂に取り組んだ。『帝謚考』は、上篇で謚の分類と沿革を考証し、下篇で出典を詳覧する。本原稿は上篇の13枚のみ。(文京区立森鷗外記念館蔵) ![]() 森鷗外は高等官として在職34年を務めたため、大正5年(1916)に正三位に叙された。その後、帝室博物館総長兼図書頭に任じられ、大正11年に在任中に危篤となったため特旨をもって1級進められ従二位に叙されている。史料は、その際の裁可文書。右上には天皇が裁可したことを示す「可」の裁可印が押されている。(宮内公文書館蔵) |
【森鷗外とは】
文久2年(1862)~大正11年(1922)。陸軍軍医、小説家、翻訳家、医学博士。本名・森林太郎(りんたろう)。 現在の島根県鹿足郡津和野町に、津和野藩主・亀井家の典医を代々務めた森家の長男として生まれる。明治5年(1872)に10歳で上京。東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となる。明治17年(1884)、ドイツ留学。帰国後の明治22年(1889)に共訳詩集『於母影(おもかげ)』を、翌年に小説『舞姫』を発表し文壇で名声を高めた。明治40年(1907)、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長に就任。公務の傍ら、『青年』『雁』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』などを執筆した。大正5年(1916)4月、陸軍軍医総監を退任。翌年12月、帝室博物館総長兼図書頭に就任した。 | ![]() |
*森鷗外は公文書上本名の森林太郎を用いているが、本展においては便宜上、文学者としての呼称として知られる鷗外の号を用いる。 *「図書頭」の読みは、宮内省でも公定されておらず「ずしょのかみ」「としょのかみ」「としょとう」等、明治・大正・昭和と時代が下るなかで、いずれの呼称も用いられていた。本展では「ずしょのかみ」で統一する。 |