宮内庁宮内公文書館・文京区立森鷗外記念館 企画展「鷗外、最後の4年間―帝室博物館総長兼図書頭・森林太郎」の開催について


説明 画像
  • 1 展示会名
     鷗外、最後の4年間―帝室博物館総長兼図書頭・森林太郎
  • 2 主催
     宮内庁宮内公文書館・文京区立森鷗外記念館
  • 3 会期
     令和7年10月11日(土)~令和8年1月12日(月・祝)
  • 4 開館時間
     10時~18時(最終入館は17時30分)
     ※会期中の休館日 11月25日(火)、12月22日(月)・23日(火)、29日(月)~1月3日(土)
  • 5 観覧料
     一般600円(20名以上の団体:480円)
     ※中学生以下無料、障害者手帳ご提示の方と介護者1名まで無料
  • 6 会場
    文京区立森鷗外記念館展示室1・2(別ウインドウで外部サイトが開きます)
  •  住所:東京都文京区千駄木1-23-4
     アクセス:東京メトロ千代田線「千駄木」駅1番出口徒歩5分
     東京メトロ南北線「本駒込」駅1番出口徒歩10分
     都営三田線「白山」駅A3番出口徒歩15分
     JR線・京成線「日暮里」駅西口徒歩15分
     都営バス草63番系統「千駄木一丁目」下車徒歩1分
     都営バス上58番系統「団子坂下」下車徒歩5分
     B-ぐる千駄木・駒込ルート「19特養ホーム千駄木の郷」下車徒歩5分
  • 7 概要
     明治・大正の文学者として知られる森鷗外(本名・森林太郎、1862-1922)は、軍医の最高位である陸軍軍医総監まで務め、大正5年(1916)4月に退任します。ところが、退任から時を経ずして大正6年(1917)12月、鷗外は宮内省の帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)に任命されました。
     帝室博物館と図書寮の二つの組織の責任者となった鷗外は、上野の東京帝室博物館(現・東京国立博物館)と当時は三年町(現・千代田区霞が関)にあった宮内省図書寮に勤務しました。鷗外は、帝室博物館総長として展示品の時代別陳列、研究紀要の発刊など、同館の運営改善に精力的に取り組みます。また、毎年秋には正倉院の曝涼(虫干し)にも立ち会いました。同時に図書頭としては、皇統譜登録や『天皇皇族実録』の編修、図書寮で保管される古文書や公文書類の管理などに努めました。
     本展では、帝室博物館総長兼図書頭就任から大正11年(1922)7月に在任のまま没するまでの足跡を、宮内庁宮内公文書館が所蔵する宮内省の公文書類と、文京区立森鷗外記念館が所蔵する原稿・書簡・遺品などから紹介します。官僚そして文学者として生涯を歩んだ鷗外の最後の4年間をご覧ください。
  • 8 関連行事
  • (1)講演会
    • 日 時:第1回 令和7年10月25日(土)、第2回 令和7年11月22日(土)、第3回 令和7年12月13日(土)、いずれも14時~15時30分
    • 会 場:文京区立森鷗外記念館 2階講座室
    • 定 員:各回50名(事前申込制、応募者多数の場合は抽選)
    • 参加費:無料(参加票と本展観覧券(半券可)が必要)

    • ・第1回講演会
    • 講演「帝室博物館総長森鷗外と正倉院」
        講師:田良島 哲 氏(東京文化財研究所客員研究員)
    • ・第2回講演会
    • 講演「歴史を記録する鷗外」
        講師:村上 祐紀 氏(拓殖大学教授)
    • ・第3回講演会
    • 講演「一学徒としての帝室博物館総長兼図書頭・鷗外」
        講師:須田 喜代次 氏(大妻女子大学名誉教授、森鷗外記念館(津和野町)館長)

    (2)スライドトーク
    • 日 時:第1回 令和7年11月3日(月・祝)13時~13時45分
          第2回 令和7年12月6日(土)13時~13時45分
    • 会 場:文京区立森鷗外記念館 2階講座室
    • 参加費:無料(申込不要、当日の展示観覧券が必要)

    • ・第1回スライドトーク
    • 講演「森鷗外と外﨑覚」
        講師:毛利 拓臣(宮内庁宮内公文書館研究職)
    • ・第2回スライドトーク
    • 講演「森鷗外と旧津和野藩」
        講師:篠﨑 佑太(宮内庁宮内公文書館研究職)

    (3)展示解説
    • 日 時:①令和7年10月29日(水)、②11月12日(水)、③令和8年1月7日(水)、各回とも14時開始(30分程度)
    • 会 場:文京区立森鷗外記念館展示室
    • 参加費:無料(申込不要、当日の観覧券が必要)
    • 内 容:企画展の担当学芸員が展示品を解説します。
書陵部 書陵部
9 主な展示資料
(1)帝室博物館総長兼図書頭(ずしょのかみ)拝命(「進退録」のうち)
書陵部

大正6年(1917)12月25日、森鷗外は帝室博物館総長兼図書頭を拝命した。史料はその人事を決定した際の公文書である。帝室博物館総長兼図書頭の拝命について、大正7年1月24日付で、鷗外は親友の賀古鶴所へ「上野モ三年町モ活気ヲ生ゼシメ度」と送り、就任の意気込みを述べている。(宮内公文書館蔵)

(2)森鷗外筆 賀古鶴所宛書簡 大正6年(1917)12月30日
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軍医総監の退任から1年8か月後、森鷗外は56歳で帝室博物館総長兼図書頭に就任した。大正6年12月25日の「鷗外日記」には「午前十時往宮内省。任帝室博物館総長兼図書頭。」とある。本書簡は、就任後の年末に親友・賀古鶴所に宛てたもの。「老ぬれと馬に鞭うち千里をも走らむとおもふ年立ちにけり」と心に思うことを詠んでいる。(文京区立森鷗外記念館蔵)

(3)「委蛇録(いだろく)」
書陵部

大正7年(1918)1月1日から同10年3月17日までの森鷗外自筆の日記。一日も欠かさず、漢文体で記す。「参館」「参寮」の記述から、月・水・金曜日は帝室博物館へ、火・木・土曜日は図書寮に出勤する様子が確認できる。(文京区立森鷗外記念館蔵)

(4)大礼服
書陵部

森鷗外旧蔵品。宮内高等官(勅任官)用の大礼服。宮中の儀礼で着用した。所蔵館以外で展示されるのは、本展が初めてとなる。(森鷗外記念館(津和野町)蔵)

(5)図書頭森林太郎より帝室博物館総長森林太郎宛て照会の回答(「例規録1大正8年」のうち)
書陵部

図書寮が、宮内省で作成、保管される公文書類の保存期限の区別および編纂簿冊名に関する規程を改正するため、各部局に照会した際の記録。掲出の史料は、そのうち「図書頭・森林太郎」より「帝室博物館総長・森林太郎」に宛てられた照会の回答である。帝室博物館総長兼図書頭としての森鷗外の姿がうかがい知れる。(宮内公文書館蔵)

(6)御歴代の代数年紀および院号に関する調査沿革序文(「御歴代ノ代数年紀及院号ニ関スル調査ノ沿革 定稿本 附同資料1」のうち)
書陵部

森鷗外が、図書頭として歴代天皇の代数や院号について調査した記録に寄せた序文。「図書頭医学博士文学博士森林太郎」の署名がある。調査記録自体は、図書寮において大正6年(1917)に作成され、宮内次官に提出のうえ、皇統譜の調査に関する参照資料として活用された。(宮内公文書館蔵)

(7)森鷗外が奈良から送った家族宛の手紙
書陵部書陵部

森鷗外は、帝室博物館総長兼図書頭就任後、毎年秋に正倉院曝涼の立ち会いで奈良に出張した。約1か月の滞在中、子どもたちに毎日手紙を送っている。(右)鷗外筆森杏奴宛葉書 大正7年(1918)11月5日:次女・杏奴(当時9歳)に鹿を描いて送った。(左)鷗外筆森茂、森杏奴宛葉書 大正9年11月2日:妻・志げ(茂)と杏奴に正倉院曝涼(ばくりょう)立ち会いの様子を伝える。(いずれも文京区立森鷗外記念館蔵)

(8)正倉院御物拝観許可証(「正倉院御物拝観録」のうち)
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正倉院御物拝観の許可証控え(和文・英文の表裏)。帝室博物館総長として森鷗外は、大正8年(1919)11月の正倉院宝庫曝涼(ばくりょう)より「学芸技芸ニ関シ相当ノ経歴」を有する者にも拝観資格を拡大した。(宮内公文書館蔵)

(9)森鷗外自筆原稿『帝謚考(ていしこう)(上篇)』
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大正10年(1921)3月に宮内省図書寮より百部限定で発行(非売品)された『帝謚考』の原稿。『帝謚考』とは、神武天皇以降明治天皇までの天皇の謚(おくりな)の出典考証をまとめたもの。森鷗外は、図書頭の職務の過程で、この編纂に取り組んだ。『帝謚考』は、上篇で謚の分類と沿革を考証し、下篇で出典を詳覧する。本原稿は上篇の13枚のみ。(文京区立森鷗外記念館蔵)

(10)従二位に叙する旨の裁可文書(「位階録」より)
書陵部

森鷗外は高等官として在職34年を務めたため、大正5年(1916)に正三位に叙された。その後、帝室博物館総長兼図書頭に任じられ、大正11年に在任中に危篤となったため特旨をもって1級進められ従二位に叙されている。史料は、その際の裁可文書。右上には天皇が裁可したことを示す「可」の裁可印が押されている。(宮内公文書館蔵)

10 参考
【森鷗外とは】

文久2年(1862)~大正11年(1922)。陸軍軍医、小説家、翻訳家、医学博士。本名・森林太郎(りんたろう)。

現在の島根県鹿足郡津和野町に、津和野藩主・亀井家の典医を代々務めた森家の長男として生まれる。明治5年(1872)に10歳で上京。東京大学医学部を卒業後、陸軍軍医となる。明治17年(1884)、ドイツ留学。帰国後の明治22年(1889)に共訳詩集『於母影(おもかげ)』を、翌年に小説『舞姫』を発表し文壇で名声を高めた。明治40年(1907)、陸軍軍医総監、陸軍省医務局長に就任。公務の傍ら、『青年』『雁』『山椒大夫』『高瀬舟』『渋江抽斎』などを執筆した。大正5年(1916)4月、陸軍軍医総監を退任。翌年12月、帝室博物館総長兼図書頭に就任した。

写真:鷗外55歳 大正6年 文京区立森鷗外記念館蔵

*森鷗外は公文書上本名の森林太郎を用いているが、本展においては便宜上、文学者としての呼称として知られる鷗外の号を用いる。

*「図書頭」の読みは、宮内省でも公定されておらず「ずしょのかみ」「としょのかみ」「としょとう」等、明治・大正・昭和と時代が下るなかで、いずれの呼称も用いられていた。本展では「ずしょのかみ」で統一する。