講書始におけるご進講の内容(令和7年)
古代の衣服と社会・国家・国際関係
大阪大学名誉教授
武田佐知子
日本古代史を専攻する私は、衣服の形や素材などの歴史的変遷を追うのではなく、人間が着ている状態の衣服を素材に、着用する人間を考察の対象として、相互の社会的位置関係や、社会構造、国家の成立、国際関係を考える手法をとってきました。
古代東アジアの中国周辺諸民族は、いずれも中国の圧倒的影響の元で、国家形成を果たしてきましたが、中国は支配・統治技術・国家機構・法体系等の継受などの政治的側面だけでなく、儒教・仏教・道教の受容、漢字の習得その他、幾多の文化的影響を周辺諸民族に及ぼしました。こうした影響を享受しうる地理的位置関係にあったことで、東アジア世界は一元的に捉えうる要素を持っていますが、このような環境の下で形成された国家は、決して一様ではなく、各民族の存在形態の相違、発展段階の差異がありました。中国王朝と周辺諸民族との間の現実的力関係を、政治的な機構に具体化する方式として用いられた冊封体制には、中華と夷狄(いてき)を区別する華夷思想と、夷狄を王者の徳によって再結合させる王化思想の、二つの相反する論理があり、それは礼の体得の有無を指標としていました。礼とはつまるところ、人間の社会的位置関係を、儀式・儀礼における衣服や行動様式として、目に見える形にすることを本質とすると言えましょう。
『日本書紀』には、斉明6年3月(660年)に、阿部比羅夫が日本海沿岸を船で北上して北方遠征に出かけ、北方周辺諸民族の粛慎(みしはせ)を討った記載があります。開戦に先立って征討軍側が、見晴らしの良い浜辺に、粛慎の世界では手に入らない彩色の絹などを置くと、粛慎の船団から老翁が二人、海岸に漕ぎ寄せ、積み上げた品々を物色して、その中にあった単衫を身に着け、布を持って船に戻りました。しかし、やがて引き返してきて単衫や布を元に戻し、戦闘が開始されたとあります。ここで粛慎の老翁が倭の衣服を着用したという事実は、和平・恭順の意志の表出でもあり、沖で待つ粛慎の仲間の賛同を得られなかったのでしょう。このやり取りは、文化人類学上、あつれきを避けるために言語の通じない民族の間で行われた沈黙貿易・無言貿易の例と考えられています。こうした双方から見通せる民族間の交通の場として設定された建築物は、縄文時代以来、日本海沿岸の随所で建てられたようです。阿倍比羅夫の一行も、各地でその土地の神に幣帛を捧げ、沿岸の民族の斎(いつ)き祀る神に敬意を示すことで、彼らとの和平を獲得していったのです。
朝鮮半島での事情を見ますと、魏は3世紀、南部の韓の地域に直轄地として帯方・樂浪二郡を置き、村落首長らに魏の身分を表す標識である印綬と衣幘(いさく)(=衣服と被り物)を与えました。すると韓の村落首長層はこぞって郡に朝謁し、印綬よりも衣幘を欲しがったと「魏志韓伝」は記しています。村落首長層が、中国の冊封体制下、個々に中国の臣下となり、他の共同体成員に優越する身分を衣服で視覚的に表現し、権力集中を模索する様子がうかがえます。
一方で、漢の武帝は玄菟郡を置いて高句麗を支配し、中国の朝服・衣幘を授与していましたが、その名簿は、高句麗王が握っていました。漢から魏に変わり、官僚制的身分が整序され、衣服の制度を整えると、次第に驕って、魏への臣属の礼を伴う「朝謁」を拒み始めたので、魏は境界に「幘溝漊(さくこうろう)」という城を作って取りに来させたといいます。韓の中国の衣服に対する対応は、国家形成途上では、視覚的に村落首長達の権力集中を促す具として有効でしたが、国家としての体制が整いつつあった高句麗では、中国の衣服はもはや必要でなく、それにも関わらず中国側は衣服を与えることにこだわり続けたのは、中国の衣服を着用する人々の存在が、視覚的に版図(=領土)の拡大を意味するからに他なりません。
この「幘溝漊」も、実は高句麗が漢の文物を輸入し、漢人が高句麗の文物を取り込んだ、沈黙貿易の場であったという指摘があります。
平安時代の貴族の子女の教育書だった「口遊」に、東大寺の大仏殿、平安京の大極殿と並んで、日本一の巨大建築の筆頭に挙がっている出雲大社は、海から寄り来る民のために、本殿から「引き橋一町」(=100メートル余)の階段が、日本海に続く潟湖に向かって、伸びていたと言います。近年、太い3本柱を鉄の輪で束ねて1本にした、巨大神殿を支えた鎌倉初期の本殿の棟持ち柱が、出雲大社の境内で発掘されました。出雲国造家に伝わる金輪造営図には、境内遺跡と同じ平面図が描かれています。海側に向かった階段を上って、どこからでも見通せるこの高殿の上で行われたことこそ、衣服の交換を伴い、土地の民の斎き祀る神への敬意を表現した、沈黙貿易に欠かせない営為だったのではないでしょうか。
出雲大社の近く、米子市淀江町の稲吉(いなよし)角田(すみだ)遺跡からは、高さ150センチメートル(残存高33センチメートル)、口径約50センチメートルの弥生時代中期の大型壺形土器の頸部に描かれた線刻画が出土しています。長い梯子が架かった高い建物へ漕ぎ寄せる、頭に鳥の羽をつけて盛装した二人の人物が描かれ、ここにも日本海を通じて交通する民族の営為が見て取れます。
遺跡の近くには、上淀廃寺という飛鳥時代の寺跡があり、法隆寺の金堂壁画より古い仏教壁画の断片が出土して、日本海交通の所産の、高度な文化状況を想定させます。こうした建物は、古代の世界貿易センタービルではなかったかと想像を逞しくしてみます。
古代東アジアの国家は、中国の冊封体制の内側に小中華世界の核として、いかに独自の国家であることを演出するかに腐心しました。相対(あいたい)する人間同士が、互いの社会的位置関係を認識し、相応の礼を行うためには、相互の関係を即座に見定められる衣服を、身に着けている必要があります。
聖徳太子が冠位十二階を案出し、儒教的礼教観念に根ざした中国の価値観から逸脱しないよう、中国の朝服の衣裳の制に擬しながら、冠と衣服の色の組み合わせで、日本的独自性を強調しようとしたのは、このためでした。
白雉2年(651年)、唐服を着用して筑紫に来朝した新羅の使者を、固有の衣服を中国服に改めたと責めて、追い返すという事件が起きます。時の左大臣らは、すぐに筑紫へ大船団を送って新羅使を威嚇しなければ、悔いを残すと朝廷に迫ります。新羅使の唐服の着用は、そこまで責めを問われるべき重大事と認識されたのです。新羅の唐服への転向の事実は、『三国史記』や『新唐書』にも記されており、新羅は唐に百済討伐の援軍を得るため、唐服を着ることによって唐の属国になったことを、視覚的に示し、ついには新羅への倭軍出兵、そして敗退の経過を辿る、白村江の戦い(663年)に至ったのでした。
律令国家は、外国使節が来朝した際の儀式において、異民族を従えていることを視覚的に示すために、南九州の隼人(はやと)に民族固有の衣服をまとわせたり、逆に国家の軍隊の一翼を担っていることの表現として位階を与え、戦いを担わせたりしました。また新羅の使節が来日した時、上陸前に難波津の海上で、我が国の朝服を着用させ、平城宮での儀式に参列させました。『内裏式』には、正月の儀式の際、位階と対応する朝服を蕃客(ばんきゃく)に授けて本国服と着替えさせ、位階に準じた位置に並ぶという決まりを設定しました。何よりも衣服は、身分の可視的標識であり、民族の表象であり、政治的意志の表明でもあったからです。
さて「魏志倭人伝」は、3世紀の倭人が「貫頭衣」を着ていたと記していますが、中国正史の蕃夷伝中に数多く確認できる「貫頭衣」の用例を分類し、比較検討すると、倭人の「貫頭衣」は、「横幅衣」とも呼ばれ、背中を太陽光から保護し、膝丈で、水中に脚を浸しても着物が濡れないよう工夫された、水田稲作の労働着でした。袖なし・膝丈の、現在の小袖に通じるワンピース型のこの衣服が「魏志倭人伝」以来、日本列島では基本的衣服になっていて、しかも8世紀には、律令制下の庶民にも着用されていたと推定できます。
正倉院には、8世紀の東大寺の下級官人、写経生が着た、麻で出来た袍と袴(上着とズボン)の実物が残っています。汗と汚れにまみれた彼らの衣服は、1年以上も着たきりで、臭くて仕方がないけれど、着替えがなく、洗濯もままならず、とうとうみんなで交換要求を出したという史料まで確認されています。では彼らは勤務先以外では、どんな衣服を着ていたのでしょうか?
史料の上では確認できない8世紀の庶民の衣服を復元するにあたり、私は8世紀を確かに生きた人々の人名と、身体の特徴が、個別に記されている正倉院の「計帳」を使いました。身体の部位は、首から上の頭部、肩から先、膝から下の四肢に限られるので、それより内側の身体が衣服に覆われていたらしいのですが、そうした形の衣服は、8世紀の衣服には同定できるものがありません。この衣服こそ、「貫頭衣」だったのではないかと、私は思っております。
さて「魏志倭人伝」では、3世紀、30数か国を統べる邪馬台国の女王卑弥呼が、魏に使いを送り、皇帝から「親魏倭王」の金印と衣服を、もらっています。後の時代に、足利義満も豊臣秀吉も、「日本国王」の衣服と冠を賜与されて、秀吉のものは現存さえしています。卑弥呼が魏からもらったのは、中国官僚の衣服で、しかも男性用だったと考えています。なぜなら中国は女性の王を認めておらず、「女王」の呼称は、周辺諸民族以外にはなかったからです。したがって女性の王の衣服は中国には存在しなかったので、恐らく男性用の中国官僚の衣服を賜与された卑弥呼は、当然自らの権威の表象とするべくそれを着ても、男女同形の衣服を着用する邪馬台国の人々は、違和感なくこれを受け入れたのではないかと想像します。
奈良時代には、中国の衣服制に倣って天皇や皇太子の礼服が作られましたが、東大寺の大仏開眼会に臨席した聖武太上天皇・光明皇太后・そして娘の孝謙天皇の礼服は、性別を超えて、三方とも同じ白の礼服でした。そして天皇の冠である冕冠(べんかん)は、ひとり孝謙女帝の頭上にありました。古代に六人・八代の女性の天皇が現れたのは、この男女同形の礼服の存在が大きいと私は思っております。
9世紀初めの嵯峨天皇の時、男性天皇の礼服だけが中国と同じ形式に改められましたが、女帝の礼服の規定は旧態のままとし、以後天皇礼服は、男女別形態になりました。以後近・現代に至る経緯については、残念ながら時間の関係で説明を割愛させていただきます。
衣服に性差がない我が国の衣服の基層文化は、男女の相対的位置関係や行動様式、ひいては男女の理想像、美意識までも規定した事実があります。男女の境界が曖昧な美意識は、アマテラスの男装、日本武尊の女装、神功皇后の男装等の、神話伝承を生み出したのではないでしょうか。平安貴族社会において、例えば『源氏物語』などに登場する理想の男性像が女性像と重なる描写で表現され、『とりかへばや』・『有明の別れ』など、異性装の男女の「入れ替わり」を主題に、男子は位人臣を極め、女子は帝に嫁ぎ、国母となるシリアスなサクセスストーリーが、西洋とは異なり、日本では成立しえた環境がありました。このことは現代日本社会においても、美意識に性差が少ないことにまで引き継がれているのではないでしょうか。
最後に、古代日本における衣服制度の中央と地方の差異に対処した国家の政策が、日本独自の世界観・空間認識を生んだのではないかとする見解を付け加えておきます。
冊封体制下での小中華世界を表現すべく、国家はまずは朝廷に代表される空間に限定して、儀礼と衣服を整えました。そしてこれを列島に敷衍(ふえん)するために、儀式空間として官道を位置付けたのです。まずは中央の朝廷と地方の国・郡の政庁を結ぶ、人工的構築物としての官道の造作に注力し、国家が採用した朝服や制服の着用は、朝廷と地方の国・郡庁院の場に限定されていました。結果として京から地方の国を結ぶ官道が、放射状に結ばれた儀式空間として機能することになりました。これは中国で特徴的な、中華と夷狄を区別した同心円的世界観と異なり、都からの道を媒介に、放射状に拡大する日本独自の世界観・空間認識を生むことになりました。古式を伝えるという「行基図」の形態はそれを反映したものとも言えましょう。
産業革命サイクルと市場の質
京都大学名誉教授
日本学士院会員
矢野 誠
私は大学を出てすぐにアメリカに留学し、国際経済学と経済動学の研究で博士号を取得したあと、アメリカのコーネル大学などで5年ほど教えてから日本に帰国しました。そのころに始まったバブルを観察しているうちに、市場も千差万別で、質の良い市場も悪い市場もあるということに気付きました。それ以来、国際経済学や経済動学で学んだ手法を用いて、市場の質というテーマを中心に研究を進めています。
市場の質という考え方は既存の経済学には存在しません。そのため、専門家に私の考えを理解してもらうためには、市場の質とは何かを定義しなくてはなりません。さらに、市場の質という視点がどう役立つかを示す必要もあります。既存の経済理論を批判したり、否定したりするのではなく、発展させる形で市場の質を理論化したいというのが、研究を始めたときの思いでした。
本日は、まず、私が考える市場の質の定義について簡単に紹介します。そのあとで、今、私がもっとも興味を持っているイノベーションや産業革命と市場の質との関係について、お話しします。
20世紀の初め以来、多くの経済学者が重視してきたのは効率性という考え方です。これは、簡単に言うと、無駄が存在しないということです。無駄なく資源を利用するには、市場競争に任せるのがよいと経済学は教えます。この教えは経済学の父と呼ばれる18世紀の経済学者アダム・スミスまでさかのぼることができます。しかし、現実の市場を見ていると、市場機能をより正確に評価するためには、効率性とは別の基準も取り入れる必要があるように感じます。法学では、法外な価格や、公正な取引といった考え方があります。同じような考え方はアダム・スミスにも見て取れます。そうだとすれば、何が公正か、何が法外なのかということを経済学的に明らかにすれば、私が考える市場の質も定式化できるはずです。
そう考えているうちに、昔から市場競争は無差別性という原則に律されてきたのではないかということに思い至りました。私が言う無差別性原則とは、「経済的な動機に基づいて市場に参加しようとする人間は、どんな取引相手でも、どんな取引条件でも、自由に取引する機会が保証される」というものです。「買う気がない、値段が高すぎるといった経済的理由なしには、取引を拒否することはできない」というルールと言い換えてもよいでしょう。よそ者には売らないというのは無差別性原則に反します。また、単に女性だから、外国人だからといった理由で雇用条件を変えるのも無差別性原則を満たしません。
市場の質とは、どの程度まで無差別性原則が守られているかということだと定義できます。無差別性原則が守られた取引は公正だと言ってもよいでしょう。
歴史を見ると、マグナカルタや織田信長の楽市楽座令など、無差別性原則を反映したルールが採用されたことが分かります。この原則は、時と共に、より広い範囲で受け入れられつつあります。しかし、それが市場にとって本質的な役割を果たすことは、既存の経済学では知られていません。無差別性原則に律された市場では、効率的な資源の利用だけでなく、取引が生む利益がより均等に市場参加者に分配されるということを示すのが、現在の私の研究テーマです。
ここまで、市場の質という概念の大枠をお話ししました。次に、市場の質とイノベーションや産業革命との関係について、私の研究を紹介します。
イノベーションとは、広く人々に受け入れられ、生活や組織の在り方を一新するような大きな発明や新しいアイディアを指します。単に大きな発明やアイディアというだけではありません。
現代経済は産業革命と呼ばれる巨大なイノベーションの時期を3次にわたって経験してきました。第1次産業革命は、1760年代にジェームズ・ワットによって発明された蒸気機関と共に語られます。また、第2次産業革命は、1850年代にヘンリー・ベッセマーによって発明された鋼鉄用溶鉱炉や1910年代にヘンリー・フォードによって開発されたベルトコンベアに代表されます。さらに、第3次産業革命を代表する技術としては、パソコンやインターネット商取引などがあります。現代の研究者の間では、1回の産業革命が数十年にわたり続くと考えるのが普通です。これはこれからの研究テーマとも思いますが、画期的な技術が開発され、社会に定着するまでには、長い年月がかかることを反映しているのだと考えられます。
長期的に見れば、言うまでもなく、産業革命は社会にとって望ましいものです。しかし、気を付けなくてはいけないのが、産業革命のきっかけとなるような急激な技術革新のあとに大きな社会的危機が起きたという事実です。
第1次産業革命の時代には、カール・マルクスも取り上げた労働者の搾取が大きな社会問題となりました。また、第2次産業革命の時代には、1929年の大恐慌を引き金として、大規模倒産と失業の嵐が吹き荒れました。それが第2次世界大戦の遠因となったとも考えられます。さらに、第3次産業革命が続く現代は、2008年の世界金融危機やその後の貧富の差の拡大といった問題を経験しています。労働者の搾取も、大恐慌や倒産も、金融危機や貧富の差の拡大も市場の質の低下を示します。第2次世界大戦後の世界がグローバリズムによって支えられてきたことは言うまでもありません。それが最近になって大きな危機に直面しているのも、市場の質の低下に原因があると感じます。
このような社会経済的危機は、長い時間をかけて培われた市場制度が急激な技術革新に追いつけないことに起因していると考えられます。したがって、危機を乗り越えるには、その時々の技術に見合った制度設計が必要です。そうした制度に支えられ、市場の質が向上し、イノベーションが活性化し、次の産業革命につながります。
こうした歴史を見て分かるのは、産業革命と呼ばれる現象が、市場の質の変動と共に100年に一度程度の周期で繰り返してきたことです。私と私の共同研究者である中央大学の古川雄一教授は、この現象を産業革命サイクルと呼んで、その経済的メカニズムの解明に挑んでいます。2023年の1月に米国科学アカデミー紀要に掲載された古川教授との共同論文に基づいて、今、私が考える産業革命サイクルのメカニズムをお話しします。
産業革命はジェームズ・ワットのような発明家個人の資質と共に語られるのが普通です。ワットのような偉人の登場を偶然の産物と見れば、産業革命も偶然のように思えても不思議ではありません。私どもの研究はそういう見方を転換しようとするものです。そのために、産業革命の時代には、
『多くの無名の発明家が発明に従事した』
という事実に着目しています。
この見方は、第1次産業革命時代のイギリスの特許数の分析に立脚しています。17世紀初頭から19世紀中庸にかけてイギリスで取得された1万6千件の特許データがウッドクロフトという人の1854年の書籍にまとめられています。このデータによれば、特許数は年に約3.6%で成長しました。また、その間、急激に特許数が増加した時期が2回あったことが分かります。その1回目の時期が、ちょうど、第1次産業革命が始まったとされる1760年代です。また、2回目は1835年ごろからの10年ほどの期間です。これは第2次産業革命の開始前夜の時期に相当します。このことからも、実は産業革命という巨大なイノベーションの時代が無数の発明家の活動によって支えられてきたことが読み取れます。
私どものモデルには、
『発明にはそれなりの手間と時間がかかり』
人々が発明に従事するのは、
『発明した技術の独占的利用が許され、先導者利益の獲得を目指す』
からだという一般的事実が組み込まれています。さらに、人々は、
『経験の蓄積を通じて、継続的に生産性を向上させ』
『より多様な財の消費を求め』
『労働者として働くか、発明家となるかの職業選択の自由を持つ』
と想定されます。
こうした世界では、経済に存在する技術の希少性と市場の質の変動という二つの要因で産業革命サイクルが説明できるというのが私どもの結論です。その経済的メカニズムは次のように説明できます。
技術の希少性は、人々の生産性と既存技術の数の比率で測ることができます。人々は、高い生産性を持てば持つほど、様々な技術に対応できるようになります。その結果、多くの技術の利用を求めるようになり、技術の希少性が高まるという関係があるからです。
技術の希少性が高いということは、技術開発で作り出される新しい製品を人々がより多く需要することを意味します。その結果、技術開発の意欲が高まり、産業革命のような技術革新の時代が実現します。しかし、これには良い面と悪い面があります。
言うまでもなく、良い面は生産力が向上することです。他方、悪い面として考えられるのは、多数の独占が生まれることです。これは、技術の開発者には独占が認められるので、技術開発が活発になると、独占の数が増えるからです。独占力の行使を通じて、様々な弊害が経済に生まれるというのは、近代から現代にかけての経済では、よく知られています。そのため、市場の質は低下します。
同時に、新しい技術の導入は技術の希少性を低め、将来の技術革新を停滞させます。これは技術開発セクターの独占力を削ぐことを意味し、高質な市場の形成につながります。
人々が高質な市場の恩恵を受け、よい生活を楽しんでいる間も、技術革新に使える資源は減少します。それが技術革新の停滞につながります。しかし、その間も人間は経験の蓄積を通じて、生産性を向上させます。それが既存の技術の希少性を高め、次の産業革命期へとつながるわけです。
私どものモデルでは、現実のデータに合致する範囲にモデルのパラメターを設定すると、技術革新のスピードが非常に高まる時期がほぼ100年に一度の割合で訪れます。この結果は、今期の経済の状態によって次期の経済の状態が完全に記述できるという決定論的動学モデルに基づきます。したがって、今期の状態が定まれば、将来のすべての期の状態が順に決定されます。それにも関わらず、一定の条件のもとでは、決定された状態があたかも確率的な変動をするという驚くべき事実が、今から100年ほど前、ジョン・フォン・ノイマンという20世紀を代表する数学者・物理学者とジョージ・バーコフという高名な数学者によって、証明されました。この結果はエルゴード定理と呼ばれています。それを拡張し、100年に一度の割合で産業革命が起きる可能性を示したのが私どもの研究です。
現代社会にとって、ここ数年で持ち上がった国際紛争の解決は大きな課題です。これは個人的な考えですが、この国際紛争の根底には世界的な市場の質の低下があると思います。また、もう一つの大きな課題は、太陽光発電など、再生可能エネルギーの開発です。巨大イノベーションを生み出すには、多数の発明を総合しなくてはなりません。そのためには高質な市場に支えられた活力の高い経済が必要だ、というのが私どもの研究の示すところです。こうした課題解決に向けて、いかに市場の質を高めていくかという問題を真剣に考えることが、現代社会にとっての急務だと考えます。
サイトカインによる免疫応答の概要と科学・技術のこれから
東京大学名誉教授
谷口 維紹
本日は私が長年にわたって研究してきたサイトカインと呼ばれる液性因子の研究についてご説明します。そして私の今までの研究・教育の歴史を振り返り、これからの科学・技術が抱える課題について現状を踏まえながら私の考えを述べたいと思います。
我々の身体は何十兆にも及ぶ細胞から成り立っていますが、これらの細胞には身体を維持する細胞もあれば、感染やがんなどの「敵」に対して身体を防御する細胞もあり、それらの働きは多様です。すなわち、これらの細胞はお互いにコミュニケーションを取りながら働くことが必須であることが想像されます。実際、コミュニケーションの取り方には細胞同士が直接接触して行う場合もありますが、液性の分子を介して間接的に行う場合もあります。液性分子の中でもサイトカインと総称される分子群は最も良く知られており、特に免疫応答の調節に必須の役割を果たしています。
サイトカインの種類はインターフェロン、インターロイキン、ケモカインなどに分類されていますが、その数は800にものぼると言われており、今でも発見が続いています。
サイトカインは主にタンパク質からできており、細胞が感染などで刺激を受けると、それぞれのサイトカイン遺伝子が発現するようになって、サイトカインが生産され、細胞外に放出されます。放出されたサイトカインは標的細胞に情報を伝達します。免疫系においては、免疫担当細胞を活性化させたり抑制したりする働きを持っていることから、免疫機能のバランスを保つための重要な役割を担っています。つまり、サイトカインの遺伝子は恒常的に発現するのではなく、ウイルス感染などの外からの刺激によって一過性に発現することが免疫のバランスを保つために重要です。
免疫応答といえば、我々のような脊椎動物は、自然免疫系とリンパ球が関与する適応免疫系の二つを持っています。これらの視点から、ここでは私が研究してきたサイトカインであるインターフェロンとインターロイキン2(IL-2)の働きの仕組みについて、ウイルス感染に対する自然免疫系と適応免疫系の連携を説明します。
細胞がウイルスに感染した場合、その細胞ではインターフェロンの遺伝子発現が誘導され、インターフェロンを生産し分泌するようになります。分泌されたインターフェロンは周辺の細胞に働きかけてウイルスの増殖を防ぐ遺伝子を誘導し、いわば細胞の「戸締まり」を誘導します。やがて感染が終息すると、これらの遺伝子はまた「休眠状態」になります。一方で、感染が終息しない場合は適応免疫系が働きます。すなわち、ウイルスに感染した細胞はTリンパ球などによって認識され、殺傷されます。この時に重要なのは、感染細胞を察知したTリンパ球のみが増殖する、ということです。この働きを促すのがIL-2と呼ばれるサイトカインです。Tリンパ球は抗原受容体と呼ばれる、ウイルスが持つタンパク質に由来するペプチドなどを認識する受容体をそれぞれ独自に持っています。マウスの実験によりますと、ある特定のペプチドを認識する受容体を持つTリンパ球の数は100個程度ですが、ウイルスに感染させるとその細胞数は1万倍を超えるほどに増殖します。このようにして、特定のウイルスを攻撃できるTリンパ球のみが全体の数十%を占めるようになり、これらがウイルス感染細胞を認識して殺傷することによってウイルスを排除します。ここではTリンパ球の増殖が必須ですが、それを担うのがIL-2です。すなわち、IL-2はTリンパ球の増殖因子なのです。ウイルス感染細胞を認識して活性化されたTリンパ球においてIL-2の遺伝子が活性化されるのです。ちなみに、一連の反応は一過性であり、感染が終息するとほとんどのTリンパ球は死滅していきます。なお、補足になりますが、このようなTリンパ球に加えて適応免疫系を担うもう一つのリンパ球であるBリンパ球も増殖し、ウイルスに結合する抗体を産生しますが、IL-2はこのプロセスに重要と言われています。また、これらの免疫の仕組みが何らかの理由で速やかにウイルスを排除できなかった場合は、新型コロナに代表されるような感染症を発症します。
以上、サイトカインの働きについて例を挙げてご紹介しましたが、前述のように数百種類にも及ぶサイトカインはどうやって見いだされたのでしょうか?また、その臨床医学への応用はどのようにして進展したのでしょうか?
実際、サイトカインの生産量は極めて少量であり、1900年代の後半までその実態解明は不可能とも言える状況でした。そのころ、私たちは遺伝子組み換えの技術を活用してサイトカインの遺伝子の探索とその応用に取り組みました。そして、1979年にはヒトインターフェロンの遺伝子を発見し、その配列を明らかにしました。遺伝子の配列からはタンパク質を構成するアミノ酸配列がおのずと判明することから、サイトカインとしての構造が初めて明らかになったわけです。私たちは更に単離した遺伝子をバクテリア内に導入することによってヒトインターフェロンを作るバクテリアの作成に成功しました。バクテリアは培養が簡単で大量に増やすことができ、そこで作られるヒトのサイトカインは1種類だけのため、この方法で単一分子のインターフェロンを生産することが可能になりました。実際、私たちの研究によって作られた遺伝子組み換え型インターフェロンはウイルス性疾患や多発性硬化症と呼ばれる神経疾患の治療に使われてきました。そして1983年にはヒトIL-2遺伝子の発見に成功し、今や数十種類に及ぶインターロイキンとしては初めてIL-2の構造を解明することができました。また、組み換え型IL-2の生産にも成功し、現在ではがんの免疫療法などにおいて、がんを攻撃するTリンパ球の増殖に必須のサイトカインとして広く臨床に応用されています。
先に述べたように、インターフェロンをはじめ、多くのサイトカインの遺伝子は通常はいわば「休眠状態」にあり、ウイルス感染など外からの細胞刺激によって発現するようになります。私たちはこの遺伝子のスイッチがオンになる仕組みの解明を進め、インターフェロンを代表例として取り上げました。そして、ウイルスに感染した細胞内でリン酸化されることによって遺伝子発現を誘導するようになる新たな転写因子群を発見し、それらが重要であることを転写因子の遺伝子が欠損したマウスの作成などによって明らかにしました。つまり、転写因子を持たなくなったマウスでは、インターフェロンの遺伝子発現が起きなくなってしまうのです。
以上、我々の体内で必須の免疫応答におけるサイトカインの研究の概要を、私たちの研究成果を例にとって述べさせていただきました。
これからは、科学・技術が抱える課題について述べさせていただきます。
前世紀からの急速な自然科学の進展における特徴は、科学が振興すれば何らかの形で社会に貢献する、いわゆる科学が社会の進歩の原動力となる、という考え方から、社会的な諸課題の解決に科学が貢献することが求められるようになったことと考えられます。すなわち、20世紀初頭に科学技術が国力の源泉と捉えられたことが原動力となり、それが大きな慣性をもって走り続けたと言えます。このような流れの中で、近代以降、科学と技術とが互いに進歩を早め高め合い、今日の繁栄をもたらしたのは確かです。しかしその一方では、自然環境問題をはじめとした地球規模での様々な「科学技術が生み出した問題」が露呈しはじめています。科学・技術のベクトル軸が物質文明の繁栄といった方向のみに強く傾くことによって、地球システムの人為的な歪曲が進めば、人類社会の持続的発展にとって深刻な脅威となる可能性が指摘されています。
このような中、2009年にプラネタリー・バウンダリーという概念が提唱されました。日本語では「地球の限界」と訳されますが、地球で安全に活動できる範囲を科学的に定義し、その限界点を表した新たな概念です。ここでは九つの項目があります。すなわち、(1)気候変動(2)生物多様性の損失(3)成層圏オゾンの破壊(4)海洋酸性化(5)淡水変化(6)土地利用変化(7)大気エアロゾルの負荷(8)窒素・リンの生物地球化学的循環(9)新規化学物質です。これらの中には、既に地球の限界を超えたと言われる項目が生物種の絶滅率をはじめ幾つか存在します。この概念はSDGs、すなわち「持続可能な開発目標」の基礎ともなっています。
これについては国内の企業も含め、世界の産業界での認識が進み、対策が検討されています。つまり、 “成長の限界”ではなく、 “限界の中の成長”を目指す、という考え方です。さらに、より最近ではプラネタリーヘルスという概念も提唱されています。ここでは、地球環境と人間の健康とが相互に影響し合う仕組みを探求する方向性が示されています。すなわち、地球環境の変化が我々の健康に与える影響を解明するとともに、特にヘルスケアセクターが担うべき役割を捉え直すことが重要、という考えに基づいています。要点は「地球が健康でなければヒトの健康もない」ということです。
私見ですが、この課題の核心には近代科学が生み出してきたパラダイムを基盤とする物質主義を追求するあまり、我々の精神的豊かさや我々が生きる環境、そして科学と社会のつながりなどの課題を置き去りにしてきた側面があるのではないでしょうか。そうであれば、これからの新しい時代に向けた方策は、現代の物質文明の礎となっている価値観や価値体系を改めて検証し、人類の生き方とそれを育んできた地球自然との共生を基本とした新しい知軸を形成するものでなければならないと思います。
おそらくは、その先頭に立つべきは大学ではないかと思います。そのために大学は、世界的視野、すなわち人類全体の福祉を希求するという立場から、新たな学術・科学技術を統合的に創成・推進し、次世代を担う国際的人材を輩出していかねばならないでしょう。また、現代のような世界的に「混迷の時代」において、このような活動を通じた大学の国際社会への貢献が国力の証となるものではないでしょうか。
我が国では「学術」という言葉が、人文学、社会科学等を包含したより広い概念として捉えながら、いわば「統合的な知の科学」として大学等において支援され、育まれてきた経緯があります。言うまでもなく、国や世界の将来にとって人類文化の原資ともいえる学術とその体制、そしてそれを担う人材の育成ほど大切なものはないことから、高い長期的な視野に立った推進体制が望まれます。さらに重要なのは科学と社会の関係です。もとより、科学は社会から離れて存在し得るものではありません。世界科学者会議ブダペスト宣言は、「社会の中における科学」と「社会のための科学」を提起し、現代社会における学術の在り方を示していると考えられますが、これも大学の大切な使命であると思います。そのためにも、科学がもつ意義を社会にも広く発信していかねばなりません。そこでは、科学者と一般社会とが同じ立場で議論し、共通の価値を見いだしていく、という姿勢が重要と考えます。人文学・社会科学と自然科学を統合的に発展させるという文脈のもと、既存の固定観念にとらわれることなく、異分野の融合や新しい学術領域を生み出し、知の創出と、それを社会に還元することこそが現代社会や将来の人類の発展を支える真の原動力となるでしょう。
人類が英知を結集し、地球全体が抱える問題の解決方策を考えていくことの重要性が今ほど問われていることはないのではないかと思います。長らく大学で働いてきた立場として、今までの経験を活かしながら、日本と世界、そして人類と地球の未来に少しでも貢献して参りたいと思います。