打毬(だきゅう)

打毬(だきゅう)について

   1.沿革

打毬は、馬術競技の「ポロ」とその起源を同じくし、中央アジアの一角に発したものであろうといわれています。

西に流れたものがヨーロッパに伝えられて「ポロ」となり、一方、東に流れたものが中国で打毬となり、やがて朝鮮半島を経て、8~9世紀頃我が国に伝わったようです。

その後、奈良・平安時代には、端午の節会の際に行われる宮中の年中行事となりました。鎌倉時代以降は衰微していましたが、江戸時代に至り、八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨したため、新しい競技方法も編み出され、諸藩においても盛んに行われるようになりました。

明治以降、日本古来の馬術は西洋馬術に圧倒され、打毬もまた洋鞍を用いる現代式打毬に転化されましたが、宮内庁主馬班には、現在、江戸時代(中期頃)最盛期における様式の打毬が保存されています。

打毬
(写真:宮内庁)

   2.競技方法

打毬は、白・赤2組(各4騎~10騎)の間で行われる団体戦で、各組の競技者が、乗馬して、地上に置かれた自組の色のたまを、先に網の付いた棒(毬杖きゅうじょう)ですくい、競い合いつつ、ゴール(毬門きゅうもん)に投げ入れる競技です。

打毬馬場は長方形に仕切られ、一方の短辺に毬門が一つ置かれ、反対側の短辺付近に、白・赤の毬が置かれています。毬には、平毬ひらだま揚毬あげだまの2種類があり、規定の数の平毬の投入に成功すると、決勝の毬である揚毬を投入することができるようになります。自分の組の色の揚毬の毬門への投入に成功すると、その組の勝利となります。

競技開始時、各組の競技者は、馬上で毬杖に1個ずつ毬を保持して、毬門の対極端付近に横隊で列立し、鐘と太鼓の連打を合図に毬門に向かって馬を馳せ、投入が成功すると白の時は鐘、赤の時は太鼓が鳴らされます。

競技者は、適宜、毬を毬門に投げ入れる者、敵の投入を妨害する者に分かれ行動しますが、妨害は、白・赤それぞれの最初の1個の毬が共に毬門に入るまでは禁じられています。

どちらかの色の平毬が規定の数だけ毬門に入り、その色の揚毬が場内に置かれると、この1個の揚毬をめぐり白・赤両組の激しい争奪戦が始まり、一方の組はこの揚毬を毬門に投入して勝利を決しようとし、他方の組はそれを妨害しようとします。平毬投入に手間取っていた組も、相手の組の揚毬投入を妨害している間に自組の色の平毬を規定の数だけ毬門に投入できれば、その組の揚毬も場内に置かれます。そうなると、いずれか早く揚毬投入に成功した組が勝利を得ることとなりますので、揚毬の争奪と投入がますます激しく展開されます。

勝負が決着し、白が勝利した場合は鐘、赤が勝利した場合は太鼓が連打されます。

打毬
競技者は、陣笠、陣羽織、袴、草履などを着用します。
(写真:宮内庁)
毬杖(きゅうじょう)
打毬
毬を掬う部分は、絹糸で編み上げています。
(写真:宮内庁)
毬(たま)
打毬
平毬と揚毬の2種類があります。
決勝のための揚毬には十文字がつけられています。
(写真:宮内庁)

打毬の由来について

  1.    「神亀4年(727年)、王子諸臣が春日野で打毬楽云々」の記述が万葉集第6巻にありますが、乗馬打毬かどうか判然としていません。むしろ、徒歩で打毬をしながら舞を舞ったものと推定されています。
  2.    「弘仁13年(822年)正月、渤海国の国使が豊楽殿で打毬を行い、その賭として嵯峨天皇から棉200屯を賜った云々」の記述が類集国史巻第72巻にあり、この記録や渤海国との国交関係から推察して、唐で盛んに行われていた打毬が渤海国を通じて弘仁年間に日本に伝わったとする説が有力です。
  3.    「承和元年(834年)、仁明天皇が武徳殿の庭で四衛府の武者に打毬を行わせらる云々」の記述が続日本後紀に見られ、上記1、2の記録を含めて推察すると、打毬のわが国への伝来は8から9世紀頃と考えられています。
  4.    「奈良・平安両朝を通じ主として五月端午の節会の後に行われたことが多く、天覧の宮中行事ともなる云々」(資料「打毬ノ由来」主馬寮編)
  5.    「鎌倉時代以降、打ち続く戦乱のため、また、経済的理由により、年中公事は簡略となり、ついには中止される云々」(資料「打毬ノ由来」主馬寮編)
  6.    「徳川八代将軍吉宗の奨励により、馬上武技の演練として幕府直臣はじめ諸侯の間にも行われるようになった。競技法も平安朝期の再現でなく、文化、文政、天保年間頃のものが現在の競技法の原型と見られる。十一代将軍家斉、十二代将軍家慶の時代は打毬の黄金時代であった。」(資料「打毬ノ由来」主馬寮編、「日本馬術史」日本乗馬協会編)