第5回世界水フォ-ラムにおける皇太子殿下基調講演

平成21年3月17日(火)
トルコ・イスタンブール市
ストゥルジェ国際会議場

水とかかわる-人と水との密接なつながり-

1 はじめに

第5回世界水フォーラム「水と災害」ハイレベルパネルの開催に先立って,基調講演を行う機会を与えていただきましたことを大変うれしく思います。

今回の世界水フォーラムにおいては,現在の水問題に関し特に重要な5つのテーマについて,この会場を舞台に,4日間にわたるハイレベルパネルが開催されると伺っています。本日は,その皮切りとして,「水と災害」ハイレベルパネルが開催されますが,この問題は衛生の問題などと並んで,人類の持続可能な発展のため,今後とも真剣に取り組んでいかなければならない問題であると考えています。

国連「水と衛生に関する諮問委員会」が取りまとめた「橋本アクションプラン」でも,水と災害の問題は重要課題の一つとされています。ご存知の方も多いと思いますが,このアクションプランでは,二つの目標を掲げています(図1)。一つは,「水関連災害による死者及び被害の軽減のための明確な目標及び方向性を設定すること」(目標1),二つ目に,「災害時及び災害後に,被災者に十分な水供給と衛生設備を確保するための措置をとること」(目標2)です。

この目標の達成を図るため,2007年9月に,ハン・スンス大韓民国首相を創設議長とする「水関連災害に関する有識者委員会」が設けられ,1年半にわたる真剣な議論が続けられてきました。このあと開催されるハイレベルパネルでは,最終成果文書が公表されるとともに,文書に盛り込まれた提言の実現に向けた議論が行われると伺っています。

このような機会にお話をさせていただくに当たって,本日は,私も「水と災害」に焦点を当てて,主として自分の専門である歴史的な観点から,日本人が培ってきた水にかかわる様々な知恵や工夫を紹介したいと思います。いずれも,水と人との密接なつながりを教えてくれるはずです。

2 唐古・鍵遺跡

この写真をご覧ください(図2)。これは日本の古都・奈良で発見された「唐古・鍵遺跡」の環濠集落があった所です。環濠は,集落を幾重にも取り巻くように張り巡らされ,中には幅8m以上のものもありました。こちらは発掘調査に基づいて環濠集落を復原したものですが,最大時には約42ヘクタールもあったことが分かっています(図3)

日本では,遅くとも紀元前6世紀から紀元前4世紀には,発達した水田稲作が始まっていたと考えられます。大陸から伝えられた水田稲作が日本列島を北上するとともに,人々の生活は,やがてそれまでの採集・漁労を中心とする生活から農耕を中心とする生活へと変化していきます。こうして成立した農耕文化を弥生文化と呼んでいます。弥生土器を用い(図4),鉄器や青銅器など金属器の使用も始まります。この時代は弥生時代と呼ばれ,紀元3世紀まで続きました。

環濠集落は,大陸の長江中流域を起源とするようです。それが日本に伝わり,弥生時代に特徴的な集落として広い範囲で見つかっています。唐古・鍵遺跡の環濠集落は当時最大級の規模を持つもので,弥生時代のほぼ全期にわたって発展し続けたことが,発掘調査により確認されています。また,日本列島の広い地域との交易を示す数々の品が出土し(図5),「弥生都市」とも呼ぶべきこの時代を代表する中心地の一つとされるものです。

しかし,集落を取り囲む環濠が造られた目的はまだ明らかではありません。人々を外敵や害獣から防御する,たびたび起こる洪水から集落を守る,あるいは灌漑や運河として利用するといった目的が考えられています。その目的は,単一のものではなく,複数のものであったと考えるべきかも知れません。環濠集落によっても,その目的が異なっていたのかもしれません。

ただ,いずれにしても,この時代の人々が水に働きかけ,水と共に生きようとしたことは確かなようです。水田稲作には豊富な水が必要です。水を求めて低地に下りていけば,それだけ洪水の恐怖も増大し,否応なしに洪水に立ち向かわなければなりません。そのためには,多様な道具と組織化された労働力が必要となります。唐古・鍵遺跡からは,木や石を自在に使った様々な道具が出土し,更には鉄斧(てっぷ)(鉄の斧のことですが)も発掘されるなど,この集落の高い生産性が偲ばれます(図6)

土木工事に必要な道具を主として木器や石器に頼る時代には,軟弱な土質の土地が選ばれました。ここ唐古・鍵遺跡も,大和川が縦横に乱流して造り出した沖積土の上に立地しています。少し掘れば水が溜まり,環濠を張り巡らすには格好の土地です。

しかし,当然ながら,低くて平らな沖積地では洪水の恐怖と常に隣り合わせです。集落の周辺に巡らされた環濠は,洪水が襲った時には洪水調整池として機能し,被害を軽減する役割を果たしたと考えられます。

また,環濠が回虫や鞭虫(べんちゅう)に汚染されていたことが分かっています。環濠が集落の汚水の受け皿となっていたことは確かでしょう。さらには,東南アジアに見られるラグーンと同様に,簡易な水質浄化機能を果たしていたと想像することも可能でしょう。

弥生時代の環濠集落には,既に,現代の水問題の重要なテーマである「水と災害」や「水と衛生」に関する問題が存在していたことになります。

このような環濠集落は,やがて農業生産に不可欠な「水」をめぐる争いを他の集落との間で繰り広げ,その結果,次第に力の強い集落が周辺の集落を統合し,より大きなまとまりを形成するようになったと考えられます。こうして水と土地に恵まれた各地に小国ができていきました。

国家意識は周辺の他者との境界領域を巡って発生するともいわれますが,古代の日本で「国」という意識が初めて芽生えた際,環濠集落という形で人と水とのかかわりが見られたことに興味を覚えます。そして何よりも,集落を維持発展させるために,水との共生の接点である環濠の維持保全に絶え間ない努力が払い続けられたことに注目したいと思います。

3 利根川における水との闘い

次に,時代は下って,日本の首都圏発展の基礎を築いた利根川における人と水との闘いの歴史を見てみましょう。

利根川は,日本で最大の流域面積を持つ川で,東京を含む首都圏の生活や産業を支える重要な水源となっています(図7)。しかし,近世以前の利根川は,現在とは全く違った顔を持っていました。

(1)古代の利根川

有史以前の利根川は,日本列島の中央部に聳える脊梁山脈から埼玉平野に達すると,後は思うがままに乱流しながら東京湾に注いでいました。また,現在,利根川の支流となっている鬼怒川は,当時は利根川とは独立した常陸川水系の川で,内海(現在の霞ヶ浦)を通じて太平洋に注いでいました(図8)

この地域の治水事業が歴史に登場するのは,8世紀中頃の鬼怒川の新河道の掘削事業,すなわち蛇行部をショートカットする工事が最初といわれます(図9)。空中写真を見ると,1250年が過ぎ去った今でも,事業が実施された様子が明瞭に分かります(図10)。土地に刻み込まれた水の記憶は,簡単には消えないようです。

(2)利根川の東遷

その後も利根川と常陸川では河川工事が実施されてきました。しかし,何といっても大きな事業は,近世になってからの「利根川の東遷」と呼ばれる事業です。

日本では,1590年,豊臣秀吉が100年以上続いた戦国時代に区切りをつけ,全国統一を果たします。これにより,徳川家康は関東に移封され,江戸(現在の東京)を拠点とすることになります。その江戸の治水上の安全性を根本的に向上させるために家康が実施した事業が,利根川の東遷です。それまで東京湾に注いでいた利根川を順次東側の常陸川筋に導き,最終的には太平洋に至るまで川の流れを切り替えていくという大構想です。1594年から1654年までの60年にわたり主要な工事が実施されました(図11)

この間に豊臣秀吉が亡くなり,1600年に関ヶ原での天下分け目の戦いに勝利した徳川家康は,1603年に征夷大将軍に任じられ,江戸幕府を開きます。当初,家康の居城の安全性を高めるための事業であった利根川の東遷は,これを機に,世界有数の大都市へと発展する江戸を支える国家的な事業へと転換することになります。

もっとも,東遷事業の当初の目的については諸説あり,江戸の洪水防御だけでなく,新田開発,舟運路の確保,軍事的防御,街道整備などといった様々な目的が指摘されています。とはいえ,利根川の東遷によって,これらすべてが実現し,江戸発展の基礎となったことは間違いありません。

しかし,利根川の東遷が完成した後も洪水被害がなくなったわけではありません。小さな洪水を含めると,江戸時代の265年間に173回もの洪水が発生しています。大洪水は,ほぼ40年ごとに発生していました。ひとたび上流で大洪水が発生すると,その水は旧河道跡を流下して江戸の街にまで及び,人々の暮らしに大きな被害を及ぼすのが常でした(図12)。利根川は,それほど治めることが難しい川だったのです。

このため,利根川中流部に暮らす人々は,「水塚」(みづか)(洪水の際に避難するため,屋敷内に築き上げられた盛土(もりつち)や,その上に設けられた建物のことを,この辺りでは水塚と呼んでいます)や水害防備林を設けて自らの暮らしを守ってきました(図13)。特に水塚は,家族や財産を守るだけでなく,水塚を持たない隣近所の人々や牛馬を助けるためのものでもあったようです。ひとたび洪水が起こると,長期にわたって水塚に避難しなければならないこともあります。そのため,避難生活に必要な食料や生活道具も収納されていました。母屋には揚舟(あげぶね)と呼ばれる小船が用意されており,洪水時にはこの舟を浮かべて人々を救出したり,物資を運搬したりしていたのです。

(3)中条堤

先日,私も利根川中流部を訪れ,当時の人々の努力の一端に触れてきました。

これは,中条堤(ちゅうじょうてい)と呼ばれる堤防です(図14)。この堤防がいつ築かれたのか,はっきりとは分かっていません。しかし,少なくとも400年前には存在していたと考えられています。

中条堤の付近は利根川の勾配がゆるやかになるところです。また,そのすぐ下流は川幅が狭くなっているため洪水が流れにくく,上流側に水が滞留しやすい地形となっていました。ひとたび洪水が起これば川は意のままに乱流します。大洪水が起これば,周辺地域はもちろん,埼玉平野から東京湾沿岸地域に至るまで水浸しとなる,古くからの治水の難所でした。

中条堤は,利根川左岸の文禄堤や下流の狭窄部と一体となって河道をロート状に形づくっています。これにより,大洪水の流下を阻んで,利根川右岸の善ヶ島堤との間で水を逆流させながら滞留させ,下流部への洪水負担を軽くするという機能を有していました。善ヶ島堤では,あえて堤防の一部を低くし,洪水発生時にはこうした部分から水を積極的に取り込みました。埼玉平野や江戸は,これらの堤防により発揮された遊水機能により,洪水被害から守られていたのです(図15)

しかし,この中条堤をめぐっては,洪水時に利害が対立する上流部と下流部の紛争が絶えず,江戸当時から「論所堤」(ろんじょてい)と呼ばれるほどでした。そして,1910年の大洪水による破堤(つまり,堤防が決壊することですが,その破堤)の後で,その修復をめぐって大論争が起こり,ついに中条堤は全面修復されることなく,利根川治水の要としての役割を終えることになったのです。とはいえ,中条堤には,現在も,利根川の堤防が決壊した時の備えとしての機能を持つ「控堤」(ひかえてい)としての機能が期待されています。古い時代の知恵が現在にまで引き継がれて活用されている例といえるでしょう。

中条堤の本来の役割の停止は,当然のことながら利根川全体の洪水対策に大きな影響を及ぼしました。その後,幾多の議論が重ねられた上で,流域全体の安全性を高めるための事業が実施されてきました。そして,現在では,連続堤の整備によって洪水を速やかに排除することを基本としながら,大規模洪水時には上流のダム群や中下流の遊水地を使って水を遊ばせ,河川の洪水処理能力の不足を補うといった治水対策がとられています。

(4)川の怖さ

このように,利根川は長い年月をかけてその姿を人の手よって変えられてきました。現在の利根川の姿を見ると,人はつい,かつての暴れ川も自分たちの手でコントロールできるのだという錯覚にとらわれるかもしれません。しかし,それは誤りでしょう。川は時には凶暴な姿を見せるものです。

近年では,1947年のカスリーン台風の洪水被害が人々の心に深く刻まれています。この台風では,東遷事業の生命線ともいうべき栗橋地点で右岸側が決壊し,第二次世界大戦の惨禍に苦しむ人々の生活に壊滅的な打撃を与えました(図16)。利根川がひとたび氾濫すると,水は東遷以前の流れに戻ろうとします。仮に,現在,カスリーン台風並みの雨がこの地域を襲った場合,最大6300人が死亡し,孤立する人は110万人に達するとの被害想定もなされています。

私たちには,川の怖さに立ち向かい,最悪の事態に備える努力を絶えず継続するほか道はなさそうです。利根川では,この規模の台風が来ても破堤による壊滅的被害から首都圏を守れるように,現在でも堤防拡幅や遊水地整備などの事業が続けられています。

(5)川との共存

もちろん,河川の管理は,管理の責任者である政府などが,最新の施設を整備して,きちんと管理するだけで十分というわけにはいきません。それぞれの川が置かれた地理的・社会的条件を踏まえ,人と水との長いかかわりの歴史に思いを馳せながら,流域に住む人々自身が地域全体の視野に立って川とのかかわりを考えていかなければなりません。利根川でも,上流と下流,左岸と右岸で長い対立がありました。複数の国をまたぐ国際河川ともなれば,なおさらのことでしょう。

私も,今年の2月にベトナムを訪れ,滔々と流れるメコン河を見てきました(図17)。このアジアを代表する国際河川では,下流4カ国からなるメコン河委員会の活動を始めとして,流域全体の様々な課題を総合的に解決するために,関係国間の協力が積極的に進められていると伺いました。この流域でより一層緊密な連携が進展するよう願うとともに,その前提として,流域の人たちが自分たちの川をより良く知ることの大切さを感じた次第です。

その意味で,利根川中流部の関宿(千葉県野田市)にある関宿城博物館をここで紹介させていただきたいと思います(図18)。関宿は,古来,利根川治水の要であり,また,かつての利根川舟運の要衝でした。さらに,近代に入ってからは,オランダを始めとする海外の河川改修技術が活用された地でもありました。その関宿につくられたのが関宿城博物館です。この博物館では,利根川流域における洪水・治水の歴史や,利根川によって育まれた文化や産業が展示されるとともに,「自然災害をのり越えて~利根川中流域の土木遺産から見える歴史~」といった企画展が開催されるなど,利根川と共に生きた人々の歴史が意欲的に紹介されており,流域の人々が利根川を学ぶのに格好の場所となっています。

水問題の解決には,人々の水への認識の深まりが重要です。キャパシティー・ビルディングが国際的な合い言葉になるほど,広い意味での教育が重みを増してきています。世界水フォーラムのような国際会議が水問題の解決に向けて大きな意味を持つことはいうまでもありませんが,一方で,今ご紹介した関宿城博物館のように,人と水とのかかわりの歴史を今に伝える地道な取組も決して忘れるわけにはいきません。

4 おわりに

水は,人類の生存に不可欠で,他に代わるもののない資源です。しかし,水は,時には人々に対して猛威をふるいます。平地の少ない日本では,時には猛威をふるう河川を流域全体で適切に管理することが,国民生活の持続可能な発展に必須の条件でした。そのための努力が日本では継続的に続けられてきたのです。

一方,世界に目を向けると,気候変動に伴う水災害の激化や大規模な水不足,海面上昇に伴う太平洋島嶼国の海岸侵食や飲料水の不足,ヒマラヤ山脈の氷河の融解による洪水や雪崩の増加など,これまでとは違った形の水問題も顕在化しています。

こうした問題に対して,これまでの日本の経験をどの程度適用できるかは分かりません。水の管理のあり方は,地域や流域ごとに異なるはずだからです。それぞれの地域や流域に最も適した手法を見つけ出す努力が求められています。しかし,長い時間をかけて積み重ねてきた努力は,その失敗の経験も含めて,きっと何らかの示唆を与えてくれると思います。

水関連災害については,災害直後には盛んに議論されますが,しばらく経つと忘れ去られがちです。日本には,「災害は忘れたころにやってくる」ということわざがありますが,災害が起こってからでは遅すぎます。災害を起こさないような備えこそが求められているのです。そのためには,昔も今も変わることなく,絶え間ない努力によって,一歩一歩,地道に歩みを進めていくしかないのでしょう。

ここイスタンブールは,奈良とシルクロードで結ばれています。その証拠に,奈良の正倉院には,現在のトルコを含むササン朝ペルシャで作られた白瑠璃碗(はくるりのわん)や白瑠璃瓶(はくるりのへい)を始め,8世紀の天皇や皇后が身に付けた冠に付けられた珊瑚のビーズ(これはおそらく地中海産のもので,トルコを通って日本にもたらされたと考えられますが,こうした数々の品物)が千数百年の時を越えて大切に保管されています。こうした交流の歴史を思うとき,今日,私が,ここイスタンブールでこのような機会を得ましたことに深い感慨を覚えます(図19)

最後になりますが,今回の世界水フォーラムにおいて,世界の人々が抱える多様な問題についての議論が行われ,安全な飲料水と基本的な衛生施設を持続的に利用できる環境づくりや,水関連災害に強い地域づくりの実現に向けた新たな提言と行動が生み出されることを願いながら,私の話を終わらせていただきます(図20)

ご静聴ありがとうございました。