国連水と災害に関する特別会合における皇太子殿下基調講演

平成25年3月6日
アメリカ・ニューヨーク
国連

人と水災害の歴史を辿る
-災害に強い社会の構築のための手掛かりを求めて-

はじめに

多様な社会・文化が交差するここニューヨークの国連会場で開催される「水と災害に関する特別セッション」で基調講演をする機会を得たことは大きな喜びであります。本会合は「水と災害」に関して世界で初めて国連で開催される会合と承知しており,その成果に世界の注目が集まっております。

昨年10月,ハリケーン Sandy の来襲により,カリブ海諸国やアメリカ合衆国の大西洋北部の沿岸域は大被害を蒙りました。ここニューヨークでも高潮と強風により地下鉄の浸水,大規模な停電など大都市型災害により激甚な被害が発生したとのこと,被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます(図1)

我々の祖先の壮大な旅

本会合の準備は,ケニアで開催された UNSGAB のナイロビ会合から始まったと承知しております。残念ながら私は出席できませんでしたが,ナイロビというと2010年3月にケニアを訪問した際に訪れたケニア歴史博物館(National Museum of Kenya)が思い出されます。その際に初めて目にした人類誕生に繋がる原人の数体の頭蓋骨が,現在の私達のものよりは小振りでしたが,強く印象に残っております(図2)

東アフリカで誕生した人類の中の一握りの人々が,約5万年~10万年前に世界を巡る“人類の壮大な旅(Great Human Journey)”に出発し,その結果として現在のように人類が世界全体に広まったとの説は,多彩にみえる地球上の私達が同じ先祖を持つという点で実に魅力的です。

この“壮大な旅”はしかし,日々の『水と食料』を求めて人類が大地をさまよう旅でもありました。人々が水を求めて旅する一方で,その水は,渇水や洪水,感染症などに形を変えて脅威となり,彼らを襲いました。この水に関わる困難と闘いが,やがては水と人類とのより良い関係を形作り,文明へと繋がっていきました(図3)

その後裔である私たちが,今でも続くこの壮大な旅の参加者としてここニューヨークに集うことを嬉しく思っています。この特別会合は人類と水のより良い関係を創る何万年にも渡る歴史の中での意義ある一コマであり,それが社会の持続可能な発展につながっていくものと確信しています。関係者の今までの尽力に敬意を表したいと思います。

東日本大震災

この特別な会合で,私は人と自然災害の関係に焦点を当て,災害に備えた社会づくりへのヒントを探りたいと思います。お話は私自身の国で発生した災害から始まります。

2011年3月11日に発生した『東日本大震災』は,死者・行方不明者を合わせて18,574名(2013・2・27警察庁)という激甚な被害をもたらしました。ここに,改めて,亡くなられた方々の御冥福をお祈りするとともに,被災された方々に心から御見舞いを申し上げます(図4)(図5)

今日から5日後に発災から2周年を迎えようとしています。この写真は私が災害から5ヶ月後に現地の仮設住宅を訪れた際のものです(図6)。未だに31万5千人の人々が故郷を遠く離れて暮らしているというように極めて厳しい状況が現在も続いております。他方,現在でも約2,700人に及ぶ行方不明者の捜索という地道な作業に加え,集団移転地の確保など復興にむけての取り組みも進められております。復興計画の策定に際しては,高地への移転という安全性と海岸への容易なアクセスという利便性の調整といった各地共通の課題に苦心しながらも,地域の特性に応じた最適案を求めて懸命の努力が続けられております。

まさに国を挙げて全力で取り組んでいるところでありますが,この間に世界から寄せられた物心両面の温かい援助に対して,この機会をお借りして心より御礼を申し述べたいと思います。

東日本大震災では大津波による被害が際立ちました。激震にはかろうじて耐えた建造物も大津波には力不足でした。それだけ水の破壊力が凄まじいのです。

その状況を災害前後に撮影された航空写真を比較しながらご覧いただきたいと思います。このように津波の被害は,津波が襲ったところは壊滅的な被害,免れたところは全く無傷というようにその対比が際立ちます(図7)。また,同じ松林でも海岸に沿った松林がなぎ倒される一方で,内陸部に伸びる松林は被害が少ないなど地形など自然条件によっても災害の様相は異なります。それだけに復興に向けての取り組みには難しい面も出てまいります。

わが国では過去においても大津波災害を繰り返し受け,そのたびに復興に向けて粘り強く立ち上がってきました。そうした被災と復興の記録は史実にも記載され,現代の人々が災害から復興し,次なる災害に備える貴重な手がかりとなってきました。

本日はそうした歴史書を紐解いて,そこから読み取れる人間と災害の関係を辿り,未来へのヒントを探っていきたいと思います。

貞観地震

東日本大津波に匹敵するような激甚な災害が過去に発生していた様子を,わが国の正史である《日本三代実録》が伝えております。貞観十一年(869年)に,今回の被災地にほぼ匹敵する陸奥国を大津波が襲ったのです(図8)

ご覧いただくように(図9),日本三代実録が伝える記述は,1100年以上も前の災害というのに,地震動から始まり,海面の急上昇,うずの発生,急速な内陸部への侵入,被害の状況などを的確に伝えており,津波災害の実態を正確に言い表しているのに驚かされます。

この9世紀の大災害では地震そのものの実態解明すら難しいなか,日本三代実録が唯一の文献史料といっても過言ではなく,地質調査による解析などと組み合わせた総合的な調査によって実態に迫る努力が続けられています。このように手がかりが少ない中でも私たちが災害の歴史をたどるのは,過去の災害経験が次なる災害に備えるための最善の教訓を示唆してくれるからに他なりません。

明応地震と災害復興

復興の問題を考えるとなると,災害という自然現象にいかに人間が対応したかという社会的な要素が大きくかかわるだけに,文献資料がより重要になります。

わが国では,15世紀末になると都に暮らす貴族の日記に加え,僧尼や神官などの身辺記録など幅広い文献資料が使えるようになります。

ここでは多方面の文献資料が伝来する中世において最大級の津波被害を引き起こした明応地震を例にとり,大津波災害からの復興についてお話ししたいと思います。

明応7年の津波(1498年)は伊勢及び浜名湖地域にも大きな被害をもたらしました(図10)。浜名湖と太平洋を結んでいた浜名川に架けられた橋の周りは,交通要衝の宿・橋本として大いに栄えていましたが,この地震津波によって壊滅的な被害を受けました(図11)。そしてこの地震後,浜名湖は海側が大きく切り込まれ塩水が侵入しました。湊は今切・新居に場所を移して復興したものの,往時の賑わいは取り戻せなかったようです。

一方,伊勢・大湊は日本を代表する神社である伊勢神宮に近い湊町で,現在の宮川と五十鈴川に挟まれた河口に開け,大いに賑わっていました(図12)。その伊勢・大湊の中心市街地は同じ明応地震の津波により1000軒余りの家が流され,5000人ほどが流亡したとされています。しかしこの港は大津波による壊滅的な被害から立派に復興しています。

この伊勢・大湊に関する徴税史料『船々聚銭帳』(図13)によれば,永禄八年(1565年)十一月十日から翌年の六月までに約120艘の回船が大湊に入港しており,その一部は遠江にまで到達しています。

このように,同じ災害を受けても地形や社会状況などによって被災後の復興には大きな違いが生じています。同時代に書かれた文献は,被災の実態だけでなく,災害と復旧の関係を解き明かすうえでおおいに役立ち,ひいては今回の東日本大津波からの復興を考えるうえでも貴重な資料を提供してくれているのです。

方丈記-災害を綴った隠遁記-

災害を記録することとなると神官で,世に知られた歌人・随筆家でもある鴨長明の『方丈記』が思い出されます(図14)。昨年が執筆されてから丁度800年の節目の年に当たりました。

「ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは,かつ消えかつ結びて,久しくとゞまりたるためしなし。」で始まる随筆集は,人の世のはかなさ,無常を説く文学の代表としてわが国では広く知られております。ここで日本語の「はかなさ」という言葉について説明させて下さい。日本のシンボルと考えられている桜の花が良い例です。桜の花は美しいですが,数日で風によって散ってしまいます。日本人はその中にある種の悲しみを見出し,人生と同じようにはかないものと感じます。

本書は単に隠遁の書にとどまらず,優れた災害文学,災害レポートとしての性格を持っています。方丈記の災害描写を見てみましょう。

安元の大火(1177)では,当時の都である平安京(京都)左京の三分の一が烈風に煽られた火災で一夜のうちに塵灰に帰した様子が生々しく描写されております(図15)。その一節を見てみましょう「安元三年(一一七七)四月二十八日のことだったかと思う。…都の東南の方から火が出て,西北の方に向かって広がっていった。しまいには朱雀門,大極殿,大学寮,民部省などにまで火が燃え移り,一夜のうちにすべてが灰となってしまった。…末広の形となっていった。遠い所の家は煙にむせび苦しみ,火に近いあたりでは,炎は激しく地面にふきつけている。空へは灰を吹き上げているので,火の光を反射して,あたり一面,紅色にそまっている。風に押されて,吹きちぎられた炎は,飛んでいくかのように,一,二町の町を飛び越え,飛び越えしながら移ってゆく。」

この詳細な記述によって現在では安元の大火の再現がなされています。火は地形に沿って吹き付ける風で燃え広がったようです。800年前の災害記録が現在の災害対策に活かされることも可能なのです。

更に鴨長明は続けます。

治承の辻風(1180)では,竜巻が家中の資財さえ空中に巻き上げる恐ろしい光景を,地獄の業風ですらこれほどではないのではと述べています。

治承の福原遷都も大きな社会不安を巻き起こしました。自然だけでなく,社会的な要因も災害と同様の苦難をもたらしたのです。

養和の飢渇(1181~1182)がさらに追い打ちをかけました。春・夏のひでりと秋の大風・洪水が繰り返して襲い深刻な被害を生みました。まさに水災害,それも対照的な旱害と水害が打ち続いたわけで,「稲や麦などの五穀はすべて実らない。…諸国の民は…ある者は我が家のことを忘れて,山に住む。さまざまのお祈りが始まり,特別な修法なども行われるのであるが,全くその効果はない。…たまたま交換する者は金を軽く扱い,粟を重く扱う。乞食は道路のはしに大勢集まり,憂え悲しむ声は耳にあふれる」

「明くる年はもとのように立ち直るだろうかと思っているうちに,去年の惨状の上に,疫病さえが加わり,ますます事態は悪化していき,あとかたもとどめないくらいになってしまった。土塀の表側,道の端で飢え死にした者の類は数もわからない。…臭いにおいはこの世のすべてに満ち満ちている。腐って,変わりはててゆく形とありさまは,目もあてられないことが多い。」という有様でした(図16)。さらには,「母の命つきたるを不知して,いとけなき子の,なほ乳をすひつゝ臥せるなどもありけり」という悲惨な状況を具体的に記録しています。

洪水と渇水が連続することでこれほどまでの惨状が社会に起こり得るということを,この記録は明らかにしています。私達の心に留めておくべきことではないかと思います。

元暦の大地震(1185)がそれに続きます。「山は崩れ,河を埋め,海は傾いて,陸地を水びたしにしてしまった。大地は裂け,水が噴き出し,岩は割れ砕けて谷底にころげ入る。」

こうした表現は,東日本大震災などの大規模地震で起こった事象に全く当てはまることに驚かされます。

このように鴨長明が生きた時代には災害が打ち続きました。「あらゆるものは流転してやまず,人生にも常は無い」という無常観の根底に,打ち続く災害があることを暗示しています。このような中「すなはちは,人みなあぢきなき事を述べて,いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしかど,月日重なり,年経にし後は,ことばにかけて言ひ出づる人だになし」との一節が心にしみます。

「災害は忘れたころにやってくる」という近代の警句がありますが,鴨長明は八百年前,すでにそのことを知っていたように見えます。だからこそ彼は災害の現場に自ら足を運び,起こったことを詳細に記述したのではないでしょうか。方丈記は彼が生きた時代の災害と社会の関係を知る端緒を与えてくれます。鴨長明は八百年前,災害を観察し,記録し,報告することの大切さを教えてくれたように思います。そのメッセージは何世紀もの時を超えて,被災し同じような境遇にある私たちの心を打つのです。

最近の世界の水災害

現代に戻ってみると,近年今までにない速さで世界の水災害が起こっているように見えます(図17)。災害の影響は国境を越え,予期しなかったところで市民を襲い,驚かせます。水災害とはどの大陸・地域も無縁ではありません。洪水,干ばつはアジア,アフリカ,中近東,ヨーロッパ,南北米,オセアニアや島嶼国と各地で発生しています。

アメリカ合衆国では昨年の6月以降に記録的な乾燥が続き,アイオワ,イリノイの両州を中心に干害が発生する一方,10月にはハリケーン・サンディがニュージャージー州に上陸し,NYを始めとする沿岸域が高潮・強風被害に見舞われました。

またオーストラリアでは2006年から2010年にかけてクイーンズランド州で厳しい渇水が続きましたが,10年末から11年にかけて同州で発生した洪水は渇水を収束させる一方で大きな水害被害を引き起こしました(図18)。サブサハラアフリカでは2010年以降渇水による飢饉が発生する一方で洪水も各国で頻発しています(図19)

水災害に備えることは,今や国際社会が緊急に議論するべき世界の最重要な課題であるといえます。

タイでは2011年に首都バンコクを含む広範囲な地域が浸水し(図20),インドネシアでは今年1月に首都ジャカルタで豪雨災害が発生,周辺国を含む広い地域の社会経済に大きな影響を与えました(図21)

経済や社会の活動が今後ますますグローバル化するなかで,災害影響者の数が全災害の90%超を占める水災害の影響は世界の持続可能な発展を脅かしかねない状況です。更には気候変動の問題が事態をより深刻にするおそれがあります。

災害悪影響の連鎖から,備えと回復の連鎖へ

こうした災害の増大が懸念される一方で,鴨長明の時代に比べて私たちはより多くの対応の方法も手に入れています。様々な構造物による対策や早期予警報,防災教育,より良い防災体制など,数えれば限りがないほどです。こうした有効な手段や歴史から学んだ知恵を組み合わせることによって,私たちはより良く災害に備えられた社会を創っていくことができます。しかし,そのためには災害に強い社会を創っていこうという私たち自身の強い意志がなによりも必要なのです。

終わりに

私達の祖先がアフリカから始めた,全ての人が安全で豊かな水と食料を手に入れる旅は,その夢が実現されるまで続いていきます。水と災害の問題を解決することで私たちはその夢に一歩近づくことが出来ます。

その旅に参加した私の30分は今,終ろうとしています。人類と水のより良い関係を築くために,この特別会合で,そしてその先へと,皆さんと一緒に旅を続けることを心から願って私の話を終えたいと思います。

なお,方丈記の原文と現代語訳は下記文献によっている。
原文「新訂方丈記」市古貞次校注 岩波文庫
現代語訳「方丈記」鴨長明 浅見和彦校訂・訳 ちくま学芸文庫