第6回世界水フォーラムにおける皇太子殿下ビデオメッセージ

第6回世界水フォーラムにおける皇太子殿下ビデオメッセージ(ビデオ)

第6回世界水フォーラムにおける皇太子殿下ビデオメッセージ

平成24年3月15日(木)
フランス・マルセイユ市

ここでは,第6回世界水フォーラムにおいて予定されていた皇太子殿下基調講演の内容を掲載しています。

水と災害-津波の歴史から学ぶ-

1 はじめに

フランス共和国の地中海に面する美しい都市マルセイユで開催される第6回世界水フォーラムで基調講演する機会を与えていただきましたが,都合により伺うことができなくなりました。このような形でお話をさせていただくことをお許しいただいた世界水フォーラムの関係者のお心遣いに感謝いたします。

皆さんも御存じのことと思いますが,ちょうど1年と4日前,昨年の3月11日に日本においては巨大地震が発生し,大津波が東日本を襲い,19,000人を超える死者・行方不明者を出すなど未曽有の大被害をもたらしました(図1)(図2)。ここに,改めて,亡くなられた方々の御冥福をお祈りするとともに,被災された方々に心からお見舞いを申し上げます。現在,その復旧・復興に向けて総力を挙げて取り組んでいるところですが,このフォーラムの開催地であるフランスを始め世界各国から温かいお見舞い及び御支援を頂いたことにこの場をお借りして心から御礼を申し上げたいと思います。

津波は地震が起因となり"水"が媒体となって発生する災害であり,"水関連災害(Water-related Disaster)"と呼ばれる,水が関連する災害の中でも最も甚大な被害をもたらす災害の一つです。今回もマグニチュード9.0という巨大地震には何とか耐えた沿岸域の構造物も,残念ながら大津波には持ちこたえることができませんでした。私たちは,"水"の力の恐ろしさを改めて思い知らされました。

ところでここマルセイユにおいても,今からちょうど200年前の1812年6月に地震が起こり,マルセイユの旧港(Vieux-Port)では引き波により大型船が被害を受けるなどの被災が記録されています。地中海沿岸では,これまでも津波被害が発生していると聞きました(図3)。これからお話しすることによって,水関連災害の中でも最も深刻な被害の一つである津波被害に対する共通の認識を形成するための一助となればと思います。

2 東日本大震災と大津波

我々が未来に向けて過去から学ぶために,今日は日本の歴史上の大きな津波災害を中心にお話ししたいと思います。直近の巨大津波である東日本大震災から話を始めます。

日本は太平洋プレートとユーラシアプレートの境界そばに位置しています。移動するプレートのエネルギーが境界付近で放出されるため,日本ではしばしば巨大な地震が発生します(図4)。今回の地震の震源域をみると,御覧いただくように南北約500km,東西約200kmに及んでおり(図5),三つの異なる震源域が同時に動いたとされます。このため,マグニチュード9.0という未曽有の規模の巨大地震となり,引き起こされた津波の規模が津波予報モデルを超える事態ともなりました。

2.1 仙台空港

まず今回の大津波の被災地の航空写真を御覧いただきたいと思います。これは,東北で主要な空港の一つ,宮城県の仙台空港です(図6)。私は6月4日,地元をお見舞いに訪れた折にこの空港に降り立ちました。飛行機が降下を開始するにつれて目の前に拡がる光景に私は思わず息をのみました。沖の防波堤は壊れ,海岸部の松並木はことごとく倒され,街や家があったと思われるところは更地になっていたのです。

2.2 陸前高田市

この写真は岩手県陸前高田市のものですが,見事な松林が完全に消滅している様子を御覧いただけるかと思います(図7)。この地は,ハン・スンス「水と災害高級専門家会合(HLEP)」議長の御提案で被災直後の昨年4月に急(きょ)開催された『HLEP東京会合』に先立ち,メンバー全員が現地調査に赴いたところです(図8)

私も昨年8月5日に大船渡市へお見舞いに伺うヘリコプターから町の被災状況を見ましたが,海に向かって開けた町はことごとく破壊され,その中にこの一本松が立っていた姿が目に焼き付いています。この一本松(図9)は,被災された陸前高田の方々のみならず被災地の復興に向けての希望であり,多くの人々を勇気付けてくれたのですが,残念ながら生き残らせることはできないようです。

2.3 大船渡市

これは大船渡市です(図10)。ここで雅子と私はヘリコプターを降り,避難生活をされている方々をお見舞いしました。住み慣れた家を離れた仮設住宅での暮らしには不自由なことも多いと思われますが,自治会などの組織を作り,住民の皆さんで力を合わせて困難なときを乗り越え,前に進んでいこうとされている姿に深い感銘を覚えました(図11)

2.4 相馬市松川浦

福島県相馬市の松川浦の状況です(図12)。海岸線に平行する松林と直行する松林では被害の程度に大きな差があり,被災の程度も違うようです。津波対策としての松林の効用と限界が見て取れそうです。

2.5 宮古市田老

最後に岩手県宮古市田老を御覧いただきたいと思います(図13)。田老町は,明治29年,昭和8年と壊滅的な津波被害を受けたものの,その都度たくましく立ち上がり,着実に津波対策を重ねてきた町です。正に「津波と共に生きる」を実践してきた町と言えましょう。

被災後の航空写真を見ると,左側の市街地の道路が高台まで真っすぐに伸び,格子状に配置されている様子を御覧いただけるかと思います。緊急避難に備えたもので,大堤防の構築というハード対策に併せてソフト対策も講じておりました。その結果,チリ地震津波に際しては人的被害を免れるという画期的な成果を得たのですが,残念ながら今回は甚大な被害を受けてしまいました。

3 日本の津波史から学ぶ

3.1 巨大災害を過去の事例から学ぶ

東日本大震災の発生以降,歴史上の大津波について活発な議論が交わされるようになりました。その中で今回の大震災と震源地や規模が似ている西暦869年に発生した『貞観(じょうがん)地震』に焦点が当たりました。東日本大震災のような発生頻度の低い巨大災害を論じる際には,長い歴史の中から同種の災害を拾い出し調べることが重要です。

プレート境界型地震は,それぞれの震源域ごとにほぼ同じ程度の期間を置いて繰り返すとされます。今回の規模の地震となると,少なくとも『貞観地震』以降には発生しておらず,1,000年程度の期間があります。

これに対し,地震の計測が始まったのは明治以降で,たかだか100年程度の歴史しかなく,今後は,1,000年を単位とする巨大地震に備えるためにも歴史地震の研究は欠かせません。

古い時代の地震については,(1)文献資料 (2)考古学の発掘資料 (3)地質等の調査資料を総合的に用いて検討するしかないのですが,年代によって得られる資料の精度と量には大きな差があります。

日本は古来より木造建築が多く,火事も大変多かったのですが,文献資料は比較的よく残っており,その収集,解析が地震研究に大きな役割を果たします。考古学や地質調査などから得られる調査結果が極めて重要なのは言うまでもありませんが,それのみでは十分情報が得られるとは限りません。そこで,ここでは,総合的なデータの残る貞観地震(869年),康安元年(1361年),明応7年(1498年),そして天正13年(1586年)の地震と津波についてそれぞれ御紹介しようと思います。

3.2 貞観地震(貞観11年(869年)発生)

貞観地震は,日本の正史である六国史の一つ『日本三代実録』に記されています。貞観地震は,三陸沿岸を襲った地震としては記録上最古のものであり,陸奥国を中心に甚大な津波被害をもたらしました(図14)

『日本三代実録』が伝える貞観地震と今回の地震津波を比較すると,地震動の影響範囲は,貞観地震では陸奥国全体,今回も青森から茨城に至る広い範囲に及んでおり共通であることがわかります(図15)。一方,地震動による被害は,貞観地震では数知れない家屋が倒壊して多数の圧死者を出したのに対し,今回は地震動による被害が限定的であり大きく異なります。また,津波に関しては,『日本三代実録』が伝える詳細な描写は,今回,世界に放映された沿岸域を襲う津波の映像とそのまま重なるほどよく似ています。この映像に『日本三代実録』の記述を重ねて御覧いただきたいと思います。

(東日本大震災の映像に重ねて)

(原文)

廿六日癸未。陸奧國地大震動。(中略)海口哮吼。聲似雷霆。驚濤涌潮。泝洄漲長。忽至城下。去海數十百里。浩々不弁其涯shi。原野道路。惣爲滄溟。乘船不遑。登山難及。溺死者千許。資産苗稼。殆無孑遺焉。

(現代語訳)

「陸奥国(むつのくに)の地が大きく震動した。(中略)港は咆えたてて,その声は雷鳴(いかづち)のようであった。波は激しくとどろき,潮は湧くように満ちて流れを遡(さかのぼ)り,みなぎりながら長くのび,たちまち多賀城の城下に至った。海をはなれること数十百里にして,浩々(こうこう)と広がるさまは,その果てをいうことができない。原野も道路もすべて大海原になってしまった。乗船する暇もなく,山に登ることもできず,溺死者は千ばかり(にものぼり),家や田畑(たはた)などの資産や田畠(でんばた)の作物は何ひとつとして残ることはなかった。」

この記述は貞観地震に関する唯一の記録ですが,地質学上の調査結果とも符合しています。産業技術総合研究所活断層・地震研究センターの報告書によれば,貞観地震による津波は,当時の推定海岸線に対して1.5km~4km内陸部に遡上したことが確認され,今回の大津波に匹敵するようです(図16)

3.3 康安元年(1361年)の地震津波

1361年,大きな地震津波が西日本を襲いました(図17)。この地震は史料価値は落ちるものの興味深い話を伝える軍記物『太平記』に描写されています。『太平記』では阿波の「雪ノ湊」で1,700戸を超える家々が津波に飲み込まれて海底に沈んだ様子が悲しい物語として語られています(図18)。昨年末に公表された資料によれば,この地域の巨大地震の震源域はこのような広大な範囲が推定されています(図19)。由岐湊は正にこの震源域の上にあり,南海トラフの巨大地震が引き起こした大津波となれば,繁栄した湊を根こそぎにした可能性も十分にあり得るのでしょう。

『太平記』は続けて摂津の難波浦における悲しい挿話も記しています。潮が引いた浜で無数の魚が跳ねる様子を見た数百の海人(あま)たちが浜に降り立ち魚を拾ううちに,にわかに大山のような津波が満ち来て全滅してしまったというのです。この挿話は次のような光景を思い出させます。1960年のチリ津波では,日本では地震が感じられなかったのに津波が襲い,多くの犠牲者が出ました。その時には,『太平記』の記述と同じように,大きく潮が引いたようです。そこで,「地震がなくとも,潮汐が異常に退いたら,津波が来るから早く高い所に避難せよ」との記念碑が被災地に建てられました。

ところが,その記念碑の隣には,1933年の昭和三陸地震津波の後に建てられた「大地震の後には津浪が来る」との記念碑もあったのです(図20)。この二つの記念碑は相矛盾することを言っているわけではないのですが,私たちは「地震の後には津波が来る」ということを「地震がなければ津波は来ない」と誤って解釈しがちです。

過去に学ぶときは,その事象が普遍性を持つかどうか,どういう条件で当てはまるかを慎重に判断する必要があります。安易に考えると,かえって間違った行動を起こさせる結果にもなりかねません。

なお,昨年の東日本大震災による大津波で,これらの記念碑のうちの一つは流されてしまいました。今回の津波がいかに大きかったかがお分かりいただけるかと思います。

3.4 明応7年(1498年)の津波被害

今までは地震の被害について述べてきました。それでは復旧・復興はどうでしょうか。

1498年の明応地震は浜名湖と伊勢で津波被害を引き起こしました(図21)。昔,浜名湖と太平洋を結んでいた浜名川に架けられた橋の周りは,交通要衝の宿・橋本として大いに栄えていました(図22)が,この地震津波によって壊滅的な被害を受けました。そしてこの地震後,浜名湖の地形などが大きく変わりました。この写真は浜名湖の河口の現在の姿です(図23)。河口は大きく広がり,太平洋と直接つながっています。明応地震津波によって河口部分が大きくえぐり取られて浜名湖は汽水湖に変わり,殷賑(いんしん)を極めた橋本は消滅してしまいましたが,その後,近接する今切・新居に場所を移して,湊自体は復興されたようです。

一方で,同じ1498年の地震で被災した後,違う歴史をたどった町もあります。伊勢神宮の神官が記録した史料には,伊勢・大湊では津波により家が1,000軒余り流され,人も5,000人が流亡したと記されています。この大湊は,津波の壊滅的な被害から見事に復興しています。『船々聚(せんせんしゅう)銭帳(せんちょう)』は永禄8年(1565年)に入港税を徴収した記録ですが(図24),これによれば,伊勢・大湊には約120(そう)もの回船が出入りしたことが記録されています。これをみると,大湊の交流範囲が遠江や坂東にまで及んでおり,復興した大湊がとても栄えていた様子がうかがえます。少なくとも明応地震津波から67年後には壊滅的な被害から立派に復興していたことが分かります。

なぜこの二つの町が津波の後,異なった歴史を歩むことになったのかを知るためには,今後の研究を待たねばなりません。とはいえ,過去の災害復興の歴史をたどることで,現在の被災地をより良く復興するヒントが見えてくるかもしれません。

3.5 天正13年(1586年)の地震津波

1586年に発生した天正地震は,日本人はもとより,その時居合わせた外国人によっても記録された珍しい地震です(図25)。海外の宣教師が比較的自由に日本国内への滞在と移動ができた1543年から1616年の間にこの地震は発生しました。ポルトガル人のイエズス会宣教師(ルイス・フロイス)は,当時のインド管区長(ヴァリニャーノ)に宛てた書簡で「たいへん大きな町の全体が大きな津波に覆われ,その引き際に家屋と男女をさらっていき,何も残らず全員が溺死した」と記しています。

同様の記述は,京都の吉田神社の神主である吉田兼見による記録にも見られ,「京都北方の地方(丹後・若狭・越州)を津波が襲い,家を押し流すと共に多くの人命を奪った」と記されています。

しかしながら,この天正地震は,地質地震調査の結果によれば,内陸で発生した地震とされており,海で津波が発生したということは地震学的にはありえないという謎も残しています。この歴史記録と地震学調査結果の矛盾の解決は今後の研究を待たねばなりません。

3.6 地震津波の歴史から学ぶ

これからの水と災害の議論に資するため,歴史上の大津波についてこれまでお話をしてきました。それでは,我々はこうした過去の災害から何が学べるのでしょうか。

過去の災害を調べることにより,将来災害が起こったときに,より良い行動をとり得るきっかけとなるということはその一つでしょう。将来起こり得る巨大災害の規模や被害の程度について,過去の災害から推し量ることができるかもしれません。過去の経験を注意深く調べ検証することにより,災害が起きたときにどう対処するか具体的な事例を得ることもできましょう。過去の災害について,私たちが期待するほど詳細に,正確に知ることができないかもしれないにしても,こうした経験は大変役に立つでしょう。私たちは来るべき災害に対処する意味でも,災害に遭った経験を忘れることなく,未来に語り継いでいくことが大切だと思います。

しかし,何よりも学ぶべきことは,私たちの祖先が災害によって私たちと同じような困難に直面し,立ち向かい,克服してきた事実そのもののように,私には思えます。先人たちが幾多の災害にかかわらず,たゆまない努力によってこの社会と街を作り上げてきたことが,私たちに多大な損害と困難,大きな悲しみを乗り越え,前へ進む勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

4 世界の水と災害問題解決に向けて

私たちが災害の経験を将来につなげるため,これからも時間を掛け努力を続ける必要がある一方で,水と災害に関して,今すぐに対処しなければならない問題も山積しています。

昨年(2011年),国連は地球の人口が70億人を超えたと発表しました。60億を超えたのは僅か13年前の1998年です(図26)。この地球規模での急激な人口増加は,水利用を限界近くまで推し進め,今までなら問題にならないような小さな降水量の変動が深刻な影響を与えるようになりました。また,今までなら洪水を恐れて見捨てられていた土地への定住を強いることとなり,洪水被害が世界中で頻発する事態を招いているのです。

これは,2010年・2011年に発生した水関連災害の一覧ですが,このように世界の各地で多様な災害が多発しています(図27)

昨秋になってタイ王国で発生した大水害は,世界の耳目を集めることとなりました(図28)。チャオプラヤ川の洪水は,首都バンコクを含む多くの地域を直撃して甚大な被害を与えました。このため,中下流域に建設された幾つもの工業団地が浸水,操業を停止し,その影響はタイ国内に留まらず世界に拡大,関係各国の経済成長が停滞する事態となりました。

一方,2006年・2007年に発生したオーストラリアの大渇水は,2009年・2010年になっても一部地域で継続し,農産物を中心に大きな被害が出ました(図29)。その結果,人口増大と持続可能な発展との関連が議論されるまでに深刻化する一方,農産物の国際価格を上昇させるなど世界に大きな影響を与えました。さらに,サブサハラのアフリカでも大干ばつが発生しており,何万人もの人々や子どもたちが危機に直面しています(図30)。食糧・エネルギー・環境などが複雑に絡み合う,現代社会の安定と持続可能性の方程式にとって,災害もまた重要な一要素になってきています。

未曽有の災害が発生するごとに,私たちは過去の災害経験をよりよく知る必要性を痛切に感じます。近年になり自然と社会の条件がより複雑化し相互に依存するにつけ,ますますその傾向は高まっています。「水災害と共に生きる」といったスローガンの下で災害に柔軟に対応できる社会が求められる今,過去の災害経験や教訓は,より有効性を増しているように見えます。

水と災害は,今や,世界の持続可能な発展のため国際社会が正面から議論すべき主要課題の一つです。皆さんと共に,私も災害の経験と教訓が世界に共有され,活用されるよう努力を続けていきたいと思います。

ありがとうございました。