第1回アジア・太平洋水サミット開会式における皇太子殿下記念講演

平成19年12月3日(月)
大分県別府市
ビーコンプラザフィルハーモニアホール

人と水-日本からアジア太平洋地域へ-

1 はじめに

今日は,「第1回アジア・太平洋水サミット」において記念講演を行う機会を与えていただいたことを大変うれしく思います。

まずはじめに,この写真をご覧ください(図1)。これは,私が1987年にネパールのポカラを訪れた際,サランコットの丘付近で撮影したものです。水を求めて甕を手に,女性や子どもが集っています。ご覧いただくように,水は細々としか流れ出ていません。「水くみをするのにいったいどのくらいの時間が掛かるのだろうか。女性や子どもが多いな。本当に大変だな」と,素朴な感想を抱いたことを記憶しています。

その後,開発途上国では,多くの女性が水を得るための家事労働から解放されずに地位向上を阻まれており,子どもが水くみに時間を取られて学校へ行けないという現実があることを知りました。また,地球温暖化問題の多くが,水循環への影響を通じて生態系や人間社会に多大な影響を及ぼすことも知りました。このようにして,私は,水が,従来自分が研究してきた水運だけでなく,水供給や洪水対策,更には環境,衛生,教育など様々な面で人間の社会や生活と密接につながっているのだという認識を持ち,関心を深めていったのです。

水問題に対するこのような関心の下で,2003年に京都・滋賀・大阪を舞台に開催された「第3回世界水フォーラム」の名誉総裁を務めさせていただきました。その際,「京都と地方を結ぶ水の道」と題して,日本のかつての都であった京都を支えた水運についてお話をいたしました。また,昨年メキシコ市で開催された「第4回世界水フォーラム」では,東京がかつて江戸と呼ばれていたころ,その発展に水がいかに密接にかかわっていたかについてお話をさせていただきました。

今回は,ここ大分にも関連する瀬戸内海の水運の話を皮切りに,日本人と水とのかかわりの歴史や世界の水問題についても触れながら,私の水に対する思いを述べてみたいと思います。

2 交流を支える水

(1)古代・中世の瀬戸内海水運

今日と明日,このサミットが開催される大分は,北部九州に属しています。古代から中世にかけては,都の置かれた畿内(現在の近畿地方)と北部九州が日本の二大拠点でした。陸路ではその間を山陽道が結んでいましたが(図2),畿内から全国へ延びる七道のうち,この山陽道とそこから続く大宰府までの道だけが唯一「大路」と定められていたのです。大宰府は,北部九州の行政府であるばかりでなく,外交上,対外軍事上の拠点でもありました。大和朝廷は,常に大宰府の重要性を意識していたのです。

この二大拠点をつなぐ水上の道として,人や物資の交流を担ったのが,瀬戸内海の水運です。ここ大分でも,国埼津(くにさきのつ)(現在の国東市)と坂門津(さかとのつ)(現在の大分市)の二箇所が,古代からの水運の拠点として有名です。

瀬戸内海の水運については面白い史料が残されています。1445年に作成された「兵庫北関入船納帳」(ひょうごきたせきいりふねのうちょう)という帳簿です。これは,当時東大寺が領有していた兵庫北関(現在の神戸港)に入港した船から徴収した関税を記録した台帳で,14世紀中ごろの北ドイツのリューベック港の関税記録と並んで世界史的にも貴重な史料として評価されています。

これを見ると,どのような物資がどこの港から積み出され,どのくらいの関税がかけられていたのかが分かります。また,年間入港船数は約1,960隻と,その繁栄の様子が読み取れます。主要な流通物資は,塩,米,木材で,それぞれ,およそ10万8,000石,3万3,000石,3万6,000石となっています。

塩が圧倒的に多いのは,この地域の特色を反映したものです。すなわち,晴天が多く降水量が少ないなど,瀬戸内地方がいかに製塩に適した場所であったか,また,当時塩が食料保存のためにいかに多く使用されていたか,更には,塩の消費地として京都及びその周辺地域にいかに多くの人口が集積していたかがうかがえます。米に関しては,「赤米」(あかごめ)が少量ではありますが記載されているのが目を引きます。船籍から見て讃岐産と推定されますが,讃岐(現在の香川県)は古来水不足に苦しんできたところです。その讃岐で東南アジア原産の日照りに強い赤米が栽培されていたことに水運を通じた交流がもたらす恵みを感じます。

(2)アジアや世界との交流

畿内は北部九州と結ばれていただけでなく,瀬戸内海を通じてアジアや世界と結ばれていました。古代には遣唐使が瀬戸内海を通って派遣され(図3),室町幕府の時代には兵庫の港が中国貿易の拠点となり,遣明船が17回ほど派遣されています。また,この時代には,中国と並んで李氏朝鮮との貿易も盛んとなり,木綿が初めて日本に持ち込まれました。木綿は,それまで絹と麻しか知らなかった日本人の衣服生活に大きな変化をもたらしただけでなく,藍の生産という木綿を染めるのに適した新たな産業を興すことにもなりました。特に,瀬戸内地方に位置する徳島は,後にその生産地として全国に名を馳せることになります。

また,時代が下って16世紀には,フランシスコ・ザビエルらイエズス会の宣教師が瀬戸内海を通って堺や京都まで布教活動に赴いたことが知られています。大友氏の時代には,大分はキリスト教布教活動の拠点の一つでした。ザビエルもこの地を訪れたことが知られています(図4)

現代は,飛行機,鉄道,自動車による移動が当たり前になり,ともすれば海や川は国や地域を隔てるものと考えがちですが,歴史的には,むしろ,海や川は水運を通じて国や地域を,そして人と人とを結び付ける大切な役割を担ってきたと言えるのではないでしょうか。

3 水の多様な性格と役割

(1)水の恩恵

水には水運以外にも様々な役割があります。人は水なしでは生きていくことができず,その歴史が水と共に発展してきたことは,今更言うまでもありません。

この写真をご覧ください(図5)。モンゴルの首都ウランバートルの衛星写真です。南を流れるトーラ川の支流沿いに都市が発達しているのが分かります。こちらは今年の7月にモンゴルを訪れた際,古都カラコルム(ハラホリン)近辺で撮影したものです(図6)。この町もオルホン川沿いに形づくられています。通常ですと,もう少し緑が広がっているようですが,今年は雨が少ないため,このような景色になっているとのことです。草原と砂漠の国と思われているモンゴルでも,アジアの他の地域と同様に,川の豊かな恵みを受けて都市が建設されていることを知り,深い共感の念を抱いたところです。

古代の四大文明を見るまでもなく,人類は水の恩恵を受けて発展してきました。しかし,いずれの時代においても,また,どのような地域であっても,その恵みだけを享受することはできなかったのです。すなわち,人類の歴史は「足りない水」と「多すぎる水」という水の持つ二つの顔との闘いの歴史でした。

(2)「足りない水」と「多すぎる水」

再び瀬戸内地方を例に取って,人と水との闘いの歴史を振り返ってみたいと思います。

まず「足りない水」について見てみましょう。これは,かつて宇佐神宮の重要な荘園であった田染荘(たしぶのしょう)の田園風景です(図7)。この水田地帯は,何世代にもわたる人々の努力によって造られたものなのです。雨引神社(あまびきじんじゃ)の湧き水を地形を利用しながら緩やかな曲線を描いて導水し,上の田から下の田へと行き渡らせています。その結果生まれたのがこの棚田です。この美しい景色は長年にわたる人々の知恵と汗の結晶とも言えるでしょう。

幸いなことに,当時の荘園村落の姿が今に残されています。また,付近には,富貴寺や真木大堂,熊野磨崖仏といった国東半島を代表する文化財が残されているなど,歴史的魅力に富んだ場所となっています(図8)

とはいえ,人々はこの地を美しく見せようとして棚田を造り上げたわけではありません。そこに存在する土地を,その自然条件の中で最も理にかなった形で利用しようと努力した結果なのです。このような厳しい地形条件の下で,こうした棚田を維持していくことは,決して容易なことではありません。しかし,良好に管理された棚田は,作物の豊かな実りをもたらすだけでなく,大雨の際にはため池としての役割を果たし,下流に広がる平野の洪水を軽減してくれることにもなるのです。また,田に引かれた水の一部は地下に浸透し,地下水となって下流部を潤します。小さいながらも,人々の手によって新たな水循環が作られることになるのです。

次に,この図をご覧ください(図9)。これは瀬戸内地方のため池の分布状況です。瀬戸内地方には,日本のため池の約60%が集中しています。この写真は,弘法大師空海も修築に携わったことが伝えられる讃岐平野の満濃池です(図10)。8世紀初頭とされる築造以来,何度もの修築を繰り返しながら,現在も水の確保に苦しむ讃岐平野の貴重な水源となっています。

こちらは,ほぼ同時代に行基僧正が造ったと言われてきた大阪の狭山池です(図11)。この池も今なお現役として使われているもので,最近では1980年から2001年にかけて,約20年にわたる修築工事が行われました。その際の発掘調査で,最初の堤の築造が少なくとも616年にまで遡ることが確認されました。行基の時代より100年以上も前のことになります。その後,堤が何度も嵩上げ(かさあげ)されて現在の姿になった様子が明らかとなりました(図12)。行基もそのいずれかの修築にかかわったものと考えられています。

この狭山池の築造や修築には古代中国や朝鮮で数多く見られる「敷葉工法」と呼ばれる盛土工法が用いられています。これらの技術も海を渡ってやって来たもので,ここにも海が結びつける交流の豊かさを見ることができます。

このように私たちは,先人たちが遺した努力の結果を最大限に利用しながら,それに改善・改良を加え続けることにより,それぞれの地域に見合った形で「足りない水」の問題に対処してきたのです。

次に「多すぎる水」について見てみたいと思います。

このことについての最も古い日本の歴史における記述は,8世紀の『日本書紀』に見られます。そこでは,仁徳天皇の時代に,淀川の氾濫を防いで大阪平野北部を開発するために堀江を掘り,茨田堤(まんだのつつみ)を築いたと記されています(図13)。古代の治水や利水に関する研究を踏まえると,5世紀初頭にはこれらの土木事業が行われたと考えることもできそうです。現在でも堀江は旧淀川(大川)として大阪の中心部を流れ,茨田堤と伝えられる堤も大阪市近郊の寝屋川市や門真市付近にその姿を残しています。放水路と築堤という全く異なった事業,それも10キロメートルも離れた二つの大事業を同時に実施した先人たちの構想力の大きさに驚かされます。

土地は,生活や生産の基盤として,私たち人間にとって欠くことのできないものですが,それは,ただそこにあるだけでは利用できません。必要な水を供給し,過剰な水を排除して初めて利用可能になるのです。古来,中国でも日本でも「水を治めるものは国を治める」と言われています。ここで言う「水を治める」とは,単に水供給とか洪水対策というような単一の事業を指すのではなく,「国づくり」というもっと広い視野でとらえられるべきものだと思います。「Water Governance」という言葉がありますが,私たちの先人たちは,まさに総合的な水管理への努力を続けながら国土を開発し,その恵みを享受してきたのだと思います。

(3)日本人と水の様々なかかわり

日本の他の地方に目を転じると,瀬戸内地方とはまた違った形で,人と水とのかかわりを見ることができます。とりわけ,国土の5分の4を占める山々は,各地域の水循環に大きな影響を及ぼしています。

これは東北地方に位置する鳥海山です(図14-114-214-3)。昨年この山に登った際,案内の方から鳥海山に積もった雪の雪解け水がブナ林を涵養し,伏流水となって山麓の田畑を潤し,やがて日本海に注いで岩牡蠣をはぐくんでいると伺いました。日本海に面してそびえ立つ2,236メートルのこの山の稜線はそのまま海に入り込み,海中まで山麓が広がっています。山に降った雨や雪が川の水となり,また,地下に潜るなどとその姿を変えながら,自然を育て,農業や漁業を営む人々の生活を支える。そして,それを大切に守っていこうとする人々がいる。水循環と人間とのかかわりを改めて感じ取った次第です。

また,大分県の西に位置する熊本県では,県土の約6割を占める森林が良質で豊富な地下水をはぐくんでおり,上水道の約8割が地下水で賄われています。特に,古くから「水の都」と呼ばれる熊本市では,阿蘇山の火砕流堆積物などでできた地層に蓄えられる地下水でそのすべてを賄っているということです(図15-115-2)。このように,日本では,人々がその多様な自然条件に合わせて水との付き合いを続けてきたのです。

水は人の心とも深くかかわっています。日本の古い都である奈良の東大寺には「修二会」と呼ばれる行事があります(図16)。「お水取り」はその中で執り行われるもので,毎年3月12日の深夜に,遠く離れた若狭の国(現在の福井県)から送られてくるという伝説のある水を若狭井からくみ取る神秘的な行事です。これは,来るべき春に向けて,この水をくむことにより邪気を払う習俗とかかわるものと言われています。修二会は,大松明(おおたいまつ)が堂内を駆け巡り,激しく床に叩きつけられるなど,勇壮な火の祭りでもあります。水と火という人間にとって最も根源的なものを組み合わせながら,1250年もの長い間,一度も絶えることなく続いているのです。人々の心の奥底に水への敬虔な思いが潜んでいるからこそでありましょう。

4 水をめぐる世界の状況と今後の取組

(1)ミレニアム開発目標

ここで世界の水問題について考えてみたいと思います。

国際社会が2015年までに達成すべき8つの目標を掲げた「ミレニアム開発目標」を見ると,そのすべてに水問題が深くかかわっていると言っても過言ではありません。例えば,女性の地位向上や初等教育の完全普及といった目標の達成のためには,女性や子どもたちを水くみ労働から解放し,また,コレラや腸チフスなど非衛生的な水に起因する病気を減らしていかなければなりません。水にかかわる病気のために約10秒から20秒に一人,子どもの命が失われているという事実には胸が痛みます。

しかし,安全な飲み水と基本的な衛生施設に関する目標について見ると,水供給の分野は比較的順調であるものの,衛生の分野では立ち遅れが見られ,特に,地方部では深刻な問題となっています。アジア太平洋地域においてもこの傾向が顕著です(図17) (図18) (図19)

(2)国際衛生年

皆さんご承知のとおり,来年は「国際衛生年」です。立ち遅れの目立つ水と衛生の問題への取組と啓発が一層推進されることが望まれます。そして,こうした取組を進めるためには,国家間の協力だけでなく,水供給や衛生施設の供給を担う地方自治体や,実際に現地で活動している市民団体の間のネットワークの構築が何よりも重要です。こうした動きは既に始まっており,「国際衛生年」をきっかけに,今後大きな流れとなっていくことが期待されます。

また,こうしたネットワークの構築だけでなく,衛生施設の整備そのものについても今までとは異なる発想が求められているのかも知れません。例えば,近年,水の消費を抑え,屎尿を肥料として再利用する「自己処理型トイレ」に注目が集まり始めていると聞いています。これは富士山の山小屋に設置されている自己処理型のバイオ・トイレです(図20)。この会場にもこのようなトイレが置かれ,参加者が試すことができるようになっています。開発途上国での普及を図るためには,大幅なコスト削減などまだ多くの課題を抱えているようですが,こうした新たな技術の今後の進展に期待したいと思います。

(3)地球温暖化問題

水問題は,気候変動との関係でも大きな問題となっています。地球温暖化の結果,海面上昇や異常気象の頻発はもとより,災害の激化や大規模な水不足など,人類の諸活動に様々な悪影響が生じる可能性が危惧されています。近年は,世界的に大雨が増加する一方,干ばつの影響を受ける地域も一部で拡大しており,アジア太平洋地域で頻発する水関連災害による大きな被害に私も心を痛めています。

今年公表されたIPCCの第4次評価報告書においても,ヒマラヤ山脈の氷河の融解による洪水や雪崩の増加など,アジア太平洋地域への深刻な影響が予測されています(図21)。また,この場にも多くの太平洋地域の首脳がお集まりですが,特に島嶼部では,海面上昇による浸水,高潮,侵食などの沿岸災害の増加と利用可能な淡水量の減少が強く懸念されているところです(図22)。いずれも,このサミットでの重要な検討テーマだと伺っており,その解決に向けて建設的な議論が行われることを期待しております。

5 おわりに

以上,交流を支える水,水の多様な性格と役割,そして水をめぐる世界の状況と今後の取組についてお話をしてまいりました。日本においても,地域の置かれた自然条件や地理的条件を踏まえつつ,海外の知識と経験も活かしながら,人と水との豊かなつながりを築く努力を積み重ねてきた歴史があるということを少しでもご説明できたらと思う次第であります。

水問題はすべてが相互に関連しています。水供給,衛生,洪水対策などと,それぞれが独立して存在するものではありません。その解決のためには,水が有する多様な性格をできるだけ幅広く認識し,総合的・統合的な観点を持ちながらも,関係者の創意工夫と連携の下で,地域の実情に合った取組を一つ一つ着実に進めていくことが重要かと思います。

このサミットにおいてアジア太平洋地域の抱える多様な背景を踏まえた議論が行われ,地域共通の課題の解決に向けた具体的提言が発信されるとともに,それが世界全体の水問題の解決にも資するものとなるよう心から願って,私の話を終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました。