第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下記念講演

平成15年3月16日
京都国際会館メインホール

京都と地方を結ぶ水の道
-古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として-

はじめに

今日は,今私たちがおります京都の町と水運との関係を主に,京都が都になった8世紀末から15世紀あたりまでを視野に入れてお話ししていこうと思います。

京都が都になる以前には,都は京都の南にあります奈良にありました(地図1)。奈良は大仏で有名な東大寺や世界遺産に指定された法隆寺があるところです。京都が平安京として都になったのは794年で,それ以降1868年の明治維新により東京に都がうつるまで,1000年余りのあいだ京都は日本の都でありました。

京都は内陸部の都市ですから,日本に於ける水運の要だったといえば,不思議に思われるかもしれません。まず,(地図1)により,京都の地理的な位置を,水運という観点から確認したいと思います。

京都の西には,隣接する大阪府から西に瀬戸内海が広がっています。瀬戸内海は,本州,四国,九州という日本列島を構成する島々に囲まれて,波も比較的穏やかで,製塩地,森林地帯,農産地をその後ろに控え,古来より物資流通の大動脈として機能してきました。

現在の京都には,大阪湾に注ぐ淀川の支流,桂川,鴨川,宇治川が流れています。つまり,瀬戸内海と京都とは,河川によって結びついております。

また,京都市の東には,滋賀県の中央部に日本一大きい琵琶湖という湖があります。琵琶湖は南北に約50キロメートルあり,琵琶湖の北端から日本海へは直線で約20キロメートルであります。琵琶湖の東には,古代から東日本へ通じる主要な街道が通っておりました。この点だけを見ていただいても,京都が西は淀川を通じて瀬戸内海へとつながり,西日本の各地と結びついており,東は琵琶湖を通じて日本海や東日本の地域へ,比較的アクセスしやすい地理的条件を備えていることが,お分かりいただけると思います。

ところで,今回の水フォーラムでは,琵琶湖の水運,淀川の水運も議題の一つとうかがっていますが,今までお話ししてきたことからも,京都という場所を考える上で,琵琶湖と淀川の水運が,大きな役割を果たしてきたことがご想像いただけるかと思います。

では,琵琶湖および淀川の水運についてもう少し細かく見ていきたいと思います。

琵琶湖の水運について

まず,琵琶湖についてですが,琵琶湖の面積は673.9平方キロメートルで,日本で一番大きい湖で,水上交通にも大きな役割を果たしてきました。

ここから,水運の話を進めるのにあたり,京都が都となった頃の物資の流通について少しお話しする必要があると思います。

1.国家貢納物の輸送と琵琶湖水運

京都が都になる以前,奈良が平城京として都であった時代から,中央の政府は,国家の維持や財源確保の目的で,国内の各地域から国家貢納物を徴収していました。国家貢納物の種類は,おおざっぱにいって(地図1),日本海側や西日本の地域からは米などの重い物資が多かったのに対し,東日本の太平洋側は絹や綿といった比較的軽い物資が多いのが特徴であります。これは,日本海や瀬戸内海が航海に適していたこと,さらに琵琶湖の水運が利用できたことがあげられますが,一方,東日本の太平洋側は波も荒く,航海に適さず,物資は陸上輸送されたためと言われています。都が京都にうつった後,10世紀初めに『延喜式』という法令集が編纂されましたが,そこには,その当時の国家貢納物の輸送の実態もよく記されております。ここには,都に集まってくる国家貢納物の内容や運賃,さらには輸送ルートまで,明確に記されています。

(地図2)をご覧下さい。『延喜式』によりますと,北陸地方の貢納物については,敦賀(現在の福井県敦賀市)へ海路輸送され,そこから琵琶湖の北岸の町である塩津へ陸送され,琵琶湖の水運を利用して大津へ運ばれ,後は陸路で京都へ運ばれました。ちなみに,塩津と大津の間は,航路にして約60キロあります。また,琵琶湖の北西に位置する現在の福井県西部に当たる若狭国からの貢納物については,陸路琵琶湖の西岸の勝野津(現在の高島町)と呼ばれる場所へ陸送され,そこから琵琶湖水運を利用して大津へ回漕されております。

また,東日本から運ばれる貢納物は,主として「東山道」という東日本から来る主要な街道を通りまして,琵琶湖の東の朝妻(現在の米原町)に集められ,そこから大津へ回漕されました。

このように見てきますと,琵琶湖においては大津が物資の集散地として重要な役割を果たしていたように見えます。ちなみに,大津は,平安京を造った桓武天皇の曾祖父にあたる天智天皇が大津京として,667年に都と定めたところで,672年に大津京が廃絶してからは古い港を意味する「古津」と地名を変えていましたが,京都が都となったことで大津がいわば京都の外港の役割を果たすことになり,再び大津と改称されました。

2.荘園年貢輸送と琵琶湖水運

この『延喜式』という法令集が編纂された10世紀以降,それまでは国の土地であった場所を,有力な社寺や貴族が私的に領有するようになり,荘園制度が発展してきます。荘園制度のもとでは京都在住の貴族や有力社寺が,日本各地に領有している荘園から,財源としての年貢を徴収するようになりました。荘園年貢は,米が主体でしたが,ところによっては,塩,絹,綿,鉄等もあり,年に一回の割合で送られてきました。

ここにおいて,輸送物資は国家貢納物から荘園年貢へと転換いたします。

では次に,荘園年貢の輸送と琵琶湖水運の関わりについて紹介します(地図1)

日本海側の越後,能登,加賀,越前(今でいう新潟県,石川県,福井県にあたります)からの荘園年貢は,海路敦賀または小浜へ輸送されまして(地図2をご覧下さい),今度は琵琶湖の北の塩津・海津・今津などの港に陸送され,琵琶湖を船で大津,坂本に着け,更に馬や車で京都に運んだと言われています。なお,当時の車は,牛や人が引いたものが多く,日本に馬車が導入されるのは都が東京にうつる19世紀半ば過ぎの明治時代になってからでありました。

例えば,京都の東寺が領有していました現在の小浜市にある若狭国太良荘からの年貢は米でしたが,太良荘から陸路を琵琶湖の北西の今津に送られた後,琵琶湖水運を利用して大津へ運ばれ,再び陸路で京都の東寺へ送られました。

また,比叡山にある延暦寺のお膝元坂本(現在は大津市内)は,延暦寺領の荘園年貢が集まる場所として賑わいました。延暦寺は8世紀末に開かれた天台宗の密教寺院ですが,全国に多くの荘園を持っていました。

このように琵琶湖の水運が活発になってきますと,航行する船から,関税を意味する関料を徴収する目的で,税関に当たる関所が作られるようになります。関所の多くは延暦寺が領有し,徴収された関料は延暦寺の建物の造営費に充てられました。ちなみに,15世紀には,延暦寺の領有する関所が琵琶湖の湖岸に11箇所存在したといわれており,徴収された関料は積み荷に対し,おおよそ100分の1が徴収されたといいます。

また,これも今は大津市内になっていますが(地図2),堅田と呼ばれる場所は,琵琶湖のもっとも狭くなっている場所に位置しておりまして,11世紀頃から船の渡し場となるなど,古代より交通の要所でありました。この堅田では,「堅田衆」と呼ばれて,琵琶湖を航行する船の安全を保証するみかえりに,警護料を徴収しているような人々も存在しました。それゆえに,「堅田衆」は琵琶湖の水上交通における大きな特権を持っていました。

ちなみに,ヨーロッパなどですと,周囲に水を廻らした中世の環濠都市が今でも残っておりますが,中世の堅田も,琵琶湖の水を引き込んだ環濠都市的な景観を有していたといわれております。

淀川の水運について

次に,淀川の水運についてお話しします。京都から目を西に向けますと,淀川は京都と瀬戸内海を結ぶ重要な役割を果たしております。

1.日本の河川の特色

淀川の話をする前に,ここで少し,水運との関係から日本の河川の特色について紹介します。

まず(表)をご覧下さい。これは,河状係数により,世界の川と日本の主要河川とを比較したものです。

河状係数というのは,河川の流量が最大になる時と最小になる時との比率を示す数値で,これにより,河川の流れが,どれくらい安定しているかが分かります。係数が小さいほど年間を通しての流量が一定していることになります。例えば,ケルン市で測定したライン川の河状係数は16,ロンドン郊外のテディントンで測定したテムズ川の河状係数は8。それに対して,日本の河川は,年間の水量の変化が大きく,河状係数も高くなっています。今日お話しする淀川についても大阪府の枚方市で測定した数値は104であります。これにより,日本の河川がいかに年間の流量の変化が大きいかが分かりますが,このことは日本の河川には氾濫原としての河川敷があるのに対し,ヨーロッパの川などにはあまり見られないことなどにもあらわれております。そして,この河川の水量の変化は,水運にも必ずしも良い条件ではないことがご想像いただけるかと思います。

2.国家貢納物の輸送と淀川

しかしながら,淀川は古来より航行可能な河川として,人あるいは物の流通に大きな役割を果たしておりました。

平安京の頃の淀川流域を示した(地図3)をご覧下さい。まず,国家貢納物の輸送について,先程もご紹介しました『延喜式』によりますと,西日本の各地からは,瀬戸内海を航行し,淀川を遡りまして,現在の京都市伏見区にあります淀の付近で陸揚げされていました。この淀は現在の淀川の起点にあたり,桂川,琵琶湖を源流とする宇治川,そして木津川が合流する地点に位置しております。地図を御覧いただければお分かりのようにこの3つの川の合流点には,今はありませんが,巨椋池という大きな池がありました。淀はその中州にありまして,平安京の外港としての役割を果たしていました。中州からは通常,渡し船で行き来していたようです。

淀に集められた国家貢納物は,さらに陸路,馬や車などを利用して平安京にある大蔵省の倉に収められました。

淀に近い山崎も,淀と並んで物資の集積地となっておりました。琵琶湖の大津,淀川の淀・山崎が平安京の外港となっていたといえます。

この点に関して言いますと,当時,公定米価を定めるのにあたって,この大津・淀・山崎の米価が参照されていたといわれ,これらの場所は,米の集積地であるのみならず,都や国家の経済に直結する米の取引が行われる場でもありました。

3.荘園年貢輸送・旅と淀川水運

また,時代が下って荘園が発達してきますと,淀には荘園年貢が陸揚げされる重要な港となります。例えば,(地図1)瀬戸内海に浮かぶ弓削島という島には,京都の東寺が領有する塩を年貢に出す荘園がありましたが,年貢の塩は,瀬戸内海から淀川を遡り,淀で陸揚げされた後,東寺へ陸送されていました。また,淀には13世紀頃から塩と魚介のみを取り扱う卸売り市場ができ,ここでは,淀川を遡ってそれら商売用の塩や塩引きの魚介類を積んできた船を,強制的に着岸させていました。ちなみに,淀川の河口から淀まで船で遡るのには丸一日かかったといいます。

ここまでは淀川をさかのぼってくる年貢や商品についてお話しいたしましたが,淀川は人々の往来にも利用されました。(地図1)例えば,平安時代以降,紀伊半島の南に位置しています熊野や高野山が人々の巡礼の場所となります。この巡礼には,淀や山崎などから船で淀川を下って海に出て,海路を最寄りの港まで航行していました。当時の記録を見てみますと,淀川の水量が少ない時期には,浅瀬を掘り,水路に標識を立てたり,ことに航行が難しい場所では,葦を束ねたり小さい木を積んで,堰を作って川の流れを移すなどの工夫をしていたことが分かります。

船が航行する場合,下流に向かう場合は問題がありませんが,遡る場合は,人が集団で綱で船を引いたことが記録に残っています。中世のヨーロッパですと,川を航行する船は綱をつけて馬で引き,そのためのフットパスと呼ばれる道も川の両側に整備されていたようですが,日本の中世では,私の知る限り馬で川船を引いた例は見あたりません。

また,15世紀半ばに,淀川下流域を航行する帆かけ船を描いた指図があることから,淀川においては,風力も推進力として利用されていたことが分かります。

4.水路関と淀川

ところで,琵琶湖の水運のところでも述べましたが,淀川においても,交通量の増大に伴って川岸に関所が設置されていきます。

琵琶湖では,多くの関所が延暦寺の造営費を捻出する目的で作られたことはお話ししましたが,淀川では,京都に住む公家や奈良の寺社により,15世紀末には400近い関所が設けられていたといいます。淀川の長さは,河口まで約50キロともいわれていますので,その間に400の関所とは相当の数ではないでしょうか。ただし,全ての船が400近い関所に逐一立ち寄って関料を払ったとは考えにくく,船の積み荷などによって立ち寄るべき関所が決まっていたとも考えられております。

そうはいいましても,こういった関所の濫設は,当時の交通の大きな阻害要因となっていました。こういう動きに対して,時の政治権力を握っていた幕府は,関所の数を減らそうと努力をしましたし,また輸送業者の中には,関所に対して破壊行為を行うものもありました。しかし,関所が全て撤廃されるのには,16世紀末の豊臣秀吉の出現を待たなければなりませんでした。

結び

以上,琵琶湖,そして淀川の水運について,平安京ができる8世紀末から15世紀頃までの様子を概観してまいりました。京都という町が,東は琵琶湖を通じて,日本海地域や東日本と結びつき,西は淀川を通じて日本の西の地域と結びついていたことが,ある程度お分かりいただけたかと思います。

陸上交通が発達した現代では,湖上の交通,あるいは,河川の交通は,ともすれば忘れられがちなものとなっているかもしれません。しかし,水路は,物資や人を大量に,しかも安い運賃で運べる最良の手段だったものだと思います。また,私自身,イギリスのオックスフォード大学へ留学していた間に,テムズ川の船旅を何回か経験したことから,川に対する親しみを覚えております。川から眺める景色は,陸上からのそれとはまた違った広がりをもつ良いものです。日本でも,人々が水に親しみ,水上交通が改めて見直されることを願うとともに,日本に限らず,世界の川や湖がその美しさを今後とも保っていかれることを願って,私の話を終わらせていただきます。