天皇陛下お誕生日に際し(平成5年)

天皇陛下の記者会見

会見年月日:平成5年12月20日

会見場所:宮殿 石橋の間

記者会見をなさる天皇陛下
記者会見をなさる天皇陛下
(写真:宮内庁)

宮内記者会代表質問

問1 60歳,還暦を迎えられますが,戦争のあった昭和から平成の時代を振り返っての感慨と,最も印象に残ったできごとをお聞かせください。
天皇陛下

60年にわたる期間には多くの出来事があり,振り返ってみますと,様々な感慨が浮かびます。中でも戦争の痛手から立ち上がり,国民一人一人が豊かになり,国際社会において,国として,また,個人として,貢献する立場になったことに最も深い感慨を覚えます。

戦後,日光の疎開先から焼野原の中にトタンの家の建つ東京に戻ってみた状況は,現在の東京からは,とても考えられないものでした。日本がこのように発展することは,当時,誰しも想像できなかったことと思います。国民が互いに協力し合い,たゆまぬ努力を重ねてきたことを忘れることはできません。

産業の発展する過程において,公害問題が深刻化しましたが,多くの人々の協力により,それが改善されてきたことも印象深いものでした。環境問題は人口が過密化している日本では,特に真剣に取り上げなければならない問題であり,今後とも努力が必要です。ここで研究された技術は,今後ますます重要視されてくる世界の環境問題に貢献し得るものになることと思います。

平和条約の発効は,私が18歳で成年に達した数か月後のことであり,私の公務は,戦後新たに着任した外国の大公使に会うことから始まったことからも印象深いものです。

その翌年,英国の女王陛下の戴冠式への参列と欧米諸国への訪問は,私に世界の中における日本を考えさせる契機となりました。最初にお話した感慨もその時の印象が基になっています。

沖縄の返還も印象深いものでした。返還から3年後,沖縄を訪問,海洋博覧会名誉総裁として沖縄を訪問し,多くの人命が失われた戦跡を訪れ,また,沖縄の歴史や風土に触れたことは深く心に残っています。沖縄県が多くの困難を抱えながらも,県民の努力により,状況が改善されてきていることを,今年の春の沖縄訪問で見聞し,嬉しく思っています。

大喪の礼,即位の礼も私の60年にとって忘れることのできないものとして挙げなければならないと思います。歴代天皇の伝統を受け継ぎ,象徴として務めを果たしていく立場に深く思いをいたしました。

国外の問題として最も印象に残るものとしては,ベルリンの壁の取り壊しからソヴィエト連邦の解体に至る動きが挙げられます。これは,お互いに理解し合うことの出来る平和な世界が,今後に築かれていくことを感じさせる動きです。

また,私自身のことに関しましては,結婚が挙げられます。温かみのある日々の生活により,幸せを得たばかりでなく,結婚を通して自分を高めたように感じています。

問2 最近,皇室について様々な論議がされていますが,陛下は平成の皇室について,どう考えられていますか。
天皇陛下

日本国憲法に,天皇は日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴であると規定されています。この象徴の望ましい在り方を常に求めていかなければならないものと思います。

私は長い天皇の歴史を振り返り,国民の幸せを念頭に置きながら自分を省みつつ,国や国民のために務めを果たしていきたいと思っています。

皇室全体としては和の精神をもって,お互いに助け合い,国や国民のために尽くす皇室であって欲しいと願っています。

問3 皇后様は,まだ完全にはお言葉を話せない状態が続いています。医師は病気の原因について,所見で「長期にわたり心に大きな傷を受けておられた」と述べています。陛下は皇后様の病気について,どうお考えでしょうか。
また,皇后様にはどのように接しられているでしょうか。
天皇陛下

結婚して34年,その間,皇太子妃として,また,皇后として,国や国民のこと,また,私につながる人々のことを念頭に置きながら,心を尽くしてくれていましたが,誕生日以来,話すことが出来なくなったことに深く心を痛めています。

金澤教授の心のこもった診察を受け,良い方向に向かっていることは嬉しいことです。ゆっくり見守っていきたいと思っています。

その間,多くの国民から,また,世界の各地から寄せられたお見舞に深く感謝しています。

言葉が話せないということは,計り知れない苦労であると思いますが,そういう状況の中で穏やかに過ごしていますので,私も普段と変わらず接し,公務にも,また,日常の生活にも,明るく過ごすことができました。

問4 この1年間で最も心に残ったことをお聞かせください。
天皇陛下

今年,最も心に残ったこととしては,経済情勢の厳しい上に,地震,津波,集中豪雨,台風,さらに冷夏という大きな被害を受けたことです。北海道南西沖地震では200人以上,また,鹿児島県の集中豪雨では70人以上の人々が亡くなり,今年一年で400人以上の死者,行方不明者が出ました。遺族や災害を受けた人々の悲しみや苦しみは,いかばかりかと思います。立ち直られる日の一日も早いことを念願しております。

皇太子の結婚が決まり,国民の祝福の中で結婚の儀を挙げることができたことを嬉しく思っています。

また,大喪の礼,即位の礼にも来てくださり,初めてベルギーを訪問して以来,40年にわたって親しくお付き合いしてきたボードワン国王陛下が突然お亡くなりになったことは深く心に残ることでありました。

今年の秋,イタリア,ベルギー,ドイツを訪問し,それぞれ心のこもったおもてなしを受けたことも心に残っております。

問5 ご公務の量が多すぎるのではないかと懸念する声も出ています。陛下ご自身の考えをお聞かせください。
天皇陛下

私は公務の量が多いとは考えていません。公務は国や国民のために行うものであり,それが望ましいものである以上,一つ一つを大切に務めていきたいと思っています。ただ,昔に比べ,公務の量が非常に増加していることは事実です。国々の数が増加し,外国との交流も盛んになってきていることをみても,当然のことで,信任状捧呈の数や外国の元首や首相の訪日も非常に多くなってきています。

この前の金曜日には2か国の大使の信任状と2か国の大使の離任のあいさつを受けましたが,新任の大使の一人は初代の大使であり,離任の二人の大使はいずれも初代の日本常駐の大使でした。

問6 新しい御所に移られての感想をお聞かせください。赤坂御所と比べて,機能面や生活様式に変化はありましたでしょうか。
天皇陛下

移転は,私にとり大きな生活の変化でした。皇居に住むことを願う国民の期待に応えて,気持ちを新たにして,御所の生活を始めたいと思っています。設計者を始め工事関係者が,一生懸命,尽力してくれたことを感謝しています。赤坂御所に比べると小さく,生活空間がまとまっています。

33年間住んだ赤坂御所を去り,皇居に移るには,様々な思いがありましたが,御所の周辺は美しく私の部屋から見えるもみじの紅葉(こうよう)が印象的でした。まだ新しい生活が始まったばかりですので,吹上の中もまだ散策していません。

赤坂と皇居の往復がなくなり,街の様子や街を行く人の姿を目にすることが少なくなったことを感じています。

問7 今年,皇太子様が結婚されましたが,これまでのお二人の様子についての感想と今後,希望されることをお聞かせください。
天皇陛下

結婚後,二人が幸せに過ごしている様子をうれしく思っています。国民の祝福を受けて結婚したことを,心にとどめ,今後の務めを果たしていくよう願っています。

問8 紀宮様の結婚の見通しはいかがですか。また,どのような家庭を築くことを希望されますか。
天皇陛下

結婚については,本人はまだ少し先のことのような考えを持っているように見受けます。皇后の病気に際しては,行き届いた配慮で尽くしてくれたことは本当にうれしいことでした。私にとりまして,結婚はまだ少し先にして欲しいような気持ちもあります。もちろん,そのような気持ちが本人に動いてきたならば,それを引き止めるようなことは毛頭しないつもりです。

結婚の問題に関しては,今後,やはり皇太子の時と同じく,発言を控えていきたいと思います。

関連質問

問1 この機会に昭和天皇について,お伺いしたいと思います。昭和の歴史を通じて昭和天皇がなされた数々の事蹟,あるいは,その折々の心境等について陛下ご自身が還暦を迎えられた今日改めて理解を深くされたり,あるいは,感慨を抱かれたりした部分がありましたらお聞かせください。
天皇陛下

昭和天皇のことに関しては,いつも様々に思い起こしております。その一つ一つを取り上げていくことは,難しいと思いますが,やはり,昭和の初めの平和を願いつつも,そのような方向に進まなかったことは,非常に深い痛みとして心に残っていることと察しております。

昔,ヴェルダンの古戦場を訪れたときに,平和というものが非常に大切だということを感じた,ということを言ってらしたのが思い起こされます。

昭和天皇は,来年は平成6年ですが,昭和6年には柳條溝事件が起こっています。本当にご苦労が多かったこととお察ししております。

問2 陛下もご還暦を迎えられてお孫さんもいらっしゃるということで,普通ならおじいちゃんと呼ばれているでしょうけれども,秋篠宮家の眞子ちゃんからはどのように呼ばれていらっしゃいますか。
天皇陛下

今は確か,「おじじさま」と呼ばれているように思います。