平安時代から室町時代にかけての記録では,母衣,保侶,母廬等の語が見られ,語源上単一ではなく,また,その形状や使用方法も必ずしも明確ではありませんが,当時,「ほろ」は戦場で矢を防ぐための武具あるいは戦袍として用いられたものであろうといわれています。
やがて,戦いのなくなった江戸時代(中期)に移ると,様式美を伝える馬術として母衣を引くことが行われ,諸大名の馬の催しの際に供覧されるようになりました。現在,宮内庁主馬班が伝承している母衣引は,この時代のものです。
母衣引の由来について
- 「貞観12年(870年)12月,対馬の国司小野の朝臣春風の奏言に甲冑が薄くとも保侶をかければその薄さを補うから,保侶千領を造って用意して置きたい云々」の記述が,三代実録に見られ,この保侶の用法については「かぶとの上からかぶって矢を防ぐ道具」と解する説(故実叢書),必ずしも矢を防ぐに限ったものではなく,風雨や寒さを防ぐ戦袍(マント)」と解する説(資料考古学雑誌VOL.17,NO.6)などがあります。
- 平安末期には武者が馬上で数幅の布を背後に長く引く懸保呂で流れ矢を防ぐようになったと伝えられます。(資料 地方競馬VOL.13,NO.14)
- 「建仁3年(1203年)9月9日,実朝公が初めて鎧を着し給わりし時,甲冑は母廬等を着する次第故事をさづけ奉った」の記述が,吾妻鑑第十八巻に見られます。
- 室町時代には布でかごを包んで負う保呂差し物が登場します。
(資料 地方競馬VOL.13,NO.14,故実叢書)
- 江戸中期以後,諸大名の馬の催しの際に母衣引が供覧されるようになります。(資料 馬術読本)
江戸時代以降,「母衣をかける」が「母衣を引く」にかわり,様式化された行事となったのではないか,といわれています。
(資料 地方競馬VOL.13,NO.14)