打毬(だきゅう)

打毬(写真:宮内庁)

打毬は,中央アジアの一角に発したといわれ,西に流れたものがヨーロッパに伝えられて「ポロ」となり,一方,東に流れたものが中国で打毬となり,やがて朝鮮半島を経て8~9世紀頃我が国に伝わったようです。

その後,奈良・平安時代には,端午の節会の際に行われる宮中の年中行事となりました。鎌倉時代以降は衰微していましたが,江戸時代に至り,八代将軍吉宗が騎戦を練習する武技としてこれを推奨したため,新しい競技方法も編み出され,諸藩においても盛んに行われるようになりました。

明治以降,日本古来の馬術は実用に適した西洋馬術に圧倒され,打毬もまた洋鞍を用いる現代式打毬に転化されましたが,宮内庁主馬班には,現在,江戸時代(中期頃)最盛期における様式の打毬が保存されています。

打毬の由来について

  1.    「神亀4年(727年),王子諸臣が春日野で打毬楽云々」の記述が万葉集第6巻にありますが,乗馬打毬かどうか判然としていません。むしろ,徒歩で打毬をしながら舞を舞ったものと推定されています。
  2.    「弘仁13年(822年)正月,渤海国の国使が豊徳殿で打毬を行い,その賭として嵯峨天皇から棉200屯を賜った云々」の記述が類集国史巻第72巻にあり,この記録や渤海国との国交関係から推察して,唐で盛んに行われていた打毬が渤海国を通じて弘仁年間に日本に伝わったとする説が有力です。
  3.    「承和元年(834年),仁明天皇が武徳殿の庭で四近衛府の武者に打毬を行わせらる云々」の記述が続日本後紀に見られ,上記1,2の記録を含めて推察すると,打毬のわが国への伝来は8から9世紀頃と考えられています。
  4.    「奈良・平安両朝を通じ主として五月端午の節会の後に行われたことが多く,天覧の宮中行事ともなる云々」(資料「打毬の由来」主馬寮編)
  5.    「鎌倉時代以降,打ち続く戦乱のため,また,経済的理由により,年中公事は簡略となり,ついには中止される云々」(資料「打毬の由来」主馬寮編)
  6.    「徳川八代将軍吉宗の奨励により,馬上武技の演練として幕府直臣はじめ諸侯の間にも行われるようになった。競技法も平安朝期の再現でなく,文化,文政,天保年間頃のものが現在の競技法の原型と見られる。十一代将軍家斉,十二代将軍家慶の時代は打毬の黄金時代であった。」(資料「打毬の由来」主馬寮編,日本馬術史)